コジェーヴによるヘーゲル読解。ヘーゲルの「死の観念」について。
「ヘーゲルはみずから考えるところ自己の哲学の本質的にして斬新な内容がどこにあるのか、この点を指摘することから出発する。彼は次のように語る。──†私の見解はただ《体系》そのものの叙述によってのみ正当化せられざるをえないものであるが、その見解によると、一切を左右する要点は、《真なるもの》をただ〔単に〕《実体》として把握し表現するだけではなく、また同様に《主体》としても把握し表現するということにある。†──この一文は、まずシェリング及び彼の『《実体》』としての『《絶対者》』の捉え方に向けられている。だがこのシェリングの捉え方はスピノザの捉え方を甦らせたにすぎず、他方そのスピノザの捉え方は伝統的存在論、すなわちギリシャ的或いは非キリスト教的な存在論の根本形式を代表するものである。したがって、ヘーゲルは自己の哲学を(カント並びにフィヒテの哲学、及びデカルト哲学の一部を唯一の例外として)先行するすべての哲学に対立させていることになる。ヘーゲル以前の哲学者は、タレスとパルメニデスとの後を承け、もっぱら『《実体》』の概念に執し、『《主体》』の概念もまた等しく本源的であり何物にも還元できぬことを忘れてしまっていたのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.360~361」国文社)
「哲学は、単に真理もしくは真なる記述であるだけではなく、さらに《真なるもの》の記述であり、そうあらねばならぬであろう。いったい《真理》が理路整然とした《言説》(=《ロゴス》)による《存在》と《実在するもの》との正確かつ完全な『開示』(=記述)であるならば、《真なるもの》とは、《言説により-その実在性において-開示された-存在》であり、したがって哲学者は、《存在》を記述するだけでは足りず、さらに開示された《存在》を記述し、言説による《存在》の開示という事実を説明せねばならぬことになる。哲学者は、《存在し》かつ現存在するものの《総体》を記述しなければならないのである。この総体は、実際には《言説》をも、とりわけ哲学的な言説をも内に含んでいる。したがって哲学者は、静的-所与-《存在》もしくは、《言説》の《客体》である《実体》のみならず、《言説》及び哲学の《主体》にも関わりをもっていることになる。すなわち、哲学者は自己に与えられた《存在》について語るだけでは不十分であり、自己自身についても語らねばならず、《存在》と自己とについて語る者としての自己を自己自身に解明せねばならないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361」国文社)
「換言すれば、哲学はなぜどのようにして《存在》が単に《自然》及び《自然的世界》としてだけでなく、《人間》及び《歴史的世界》としても実在化されるかを解明しなければならない。哲学は《自然哲学》に甘んじていてはならず、さらに人間学とならなければならない。すなわち、自然的実在の存在論的基礎に加え、哲学は《言説》によってのみ開示されうる人間的実在の存在論的基礎をも探求せねばならない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361」国文社)
「ヘーゲルは《真なるもの》を《主体》としても記述することを通じて、換言すれば人間的実在に特有の特徴を分析することを通じて、《存在》と《実在するもの》との《弁証法的》構造及びこの弁証法的性格の基礎にある《否定性》という存在論的カテゴリーを見いだす。彼が《真なるもの》と《真理》との《円環性》、したがって彼の哲学そのものの《円環性》を見いだして行くのも実在する《弁証法》の記述を通じてである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361~362」国文社)
「ヘーゲル自身先ほど引用した文の直後の一節でこの間の事情を次のように語っている。──†さらに言うならば、生ける〔すなわち静的でも所与でもない〕《実体》とは、真実には《主体》である《存在》である、或いは同じことであるが、──実体が自己自身を措定する〔弁証法的〕運動である限りで、すなわち自己以外のものとなる活動を自己自身と媒介する限りで客観的に実在する《存在》である。《主体》としてのこの《実体》は純粋に《単純・不可分》な《否定性》であり、否定性であるがゆえにこの単純・不可分な自己自身を分裂させ、対立的に二重となりながら、再び、かくして生じた相互に没交渉な相違とその対立とを《否定するもの》である。このように分裂とその後の対立とを否定して《再び構成された》同等性、もしくは他的存在となりながら自己自身に環帰している事態が《真なるもの》であり、《本源的》な統一態それ自体、つまり《直接的》〔統一態〕それ自体が《真なるもの》ではない。《真なるもの》とは自己自身の生成であり、自己の終局を自己の目的としてあらかじめ設定し、しかもこの終局を端緒となし、自己を実在化すべく展開しその終局に達することによって初めて客観的に実在するものとなる円環である。†──このきわめて凝縮された一節には、ヘーゲルの『弁証法』がもつ根本概念がすべて含まれており、彼の哲学の本質的かつ真に新しいものがすべて要約されている」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362」国文社)
「死の観念」といっても特別に難解なわけではまったくない。むしろ逆に、普段から余りにも理解でき過ぎているために、かえって人々は一般的に、常日頃は忘れることにしている。というのも、日常生活をいちいちヘーゲル用語に置き換えて暮らしていては時間が足りなくなって困ってしまうわけだからなのだが。ところがしかし、どんな立場の人間であっても、一般大衆はもちろんのこと、まぎれもなくヘーゲル=コジェーヴが何度も繰り返し強調する「否定性」を抜きにしたところで、人間は生きていくことはできないし、従って死ぬこともできない。ヘーゲルの言う「否定性」は人間生活の、いわば「動力」である。
「自然的な静的-所与-《存在》として捉えられた《実体》が(自己自身との)《同一性》を存在論的基礎とするならば、この《存在》と自己自身とを開示する《言説》の《主体》すなわち《人間》は、《否定性》をその究極の基礎とする」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362」国文社)
「ところで、自己の存在自体において《否定性》に支配されている《人間》は、静的-所与-《存在》ではなく、自己を措定する、もしくは自己自身を創造する《行動》或いは《活動》である。人間は出発点となる所与《存在》の《否定》により『媒介』されて結果を得る『弁証法的運動』として初めて客観的に実在するものとなる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362~363」国文社)
「この《否定性》は《存在》の中で《存在》の《同一性》に結び付けられながら、ほかならぬこの《存在》を《主体》と《客体》とに分離し、《自然》に対立する《人間》を創造する。だがしかし、この《否定性》はまた《自然》の只中に人間的現存在としても実在化され、《言説》とそれが開示する《存在》とが『一致する』真の認識において、そしてこの真の認識により、この《主体》と《客体》とを改めて再統一する」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「したがって、《真なるもの》或いは開示された《存在》は、パルメニデスや彼の熱心な追随者たちが考えていたような存在と思惟との最初の本源的な同一性、つまりは『直接的』或いは所与かつ自然的な同一性ではなく、《自然》に《人間》が《対立する》ことから始まり、そのような自然を人間が語り、自己の行動によって『否定』していく長い活動の過程の《結果》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「《統一》の回復、もしくは『《実体》』と『《主体》』との究極の一致は、『絶対』哲学による《存在》と《実在するもの》との《総体》の十全な記述において遂行される(この哲学の作者つまり《賢者》の人間的現存在は挙げてこの哲学を練り上げることに己れを帰一し、したがって彼は『《実体》』として捉えられた《自然》に『《主体》』として行動的に対立することをやめてしまう)。しかしながら、《実在するもの》の総体には、創造的《運動》としてのみ現存在する人間の実在が含まれている」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
要するに、ただ単に総体を記述することができたとしても、記述する行為そのものが常に既に「主体的=否定性」を含んでいる。時間とともに時間として自然に対して働き掛けながら生存している。時間として自然に対して働き掛ける人間という主体は、「創造的《運動》として」、常にエネルギーを発揮しないわけにはいかない。そして人間が発揮するエネルギーは、おそらく何度かのピークを迎えつつ、しかし遂にはその個体自身の死へ到達していくほかない。だがここで重要なのは、人間はただ単なる人形ではなく人間自身を含めた全環境に働き掛けて環境を改変しつつ生きていく「運動体」であるという理解でなくてはならない。
「したがって、《存在》(=《実体》)と《言説》(=《主体》)との完全かつ決定的な適合が遂行されるのは、時の終わり、《人間》の創造的運動が仕上げられる時でしかない。この仕上りは《人間》がもはや先に進まず、(自己の行動的な現存在において)すでに歩んだ道程を(哲学的思惟において)再び歩むことに甘んずるという事実によって開示される。このようなわけで、用語の強い意味での『絶対』哲学や《真なるもの》が現われうるのは、ただ総体として捉えられた実在する《弁証法》の《円環的》記述という形式においてだけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「この哲学は、一方では《存在》(=《自然》)の只中における《言説》(=《人間》)の発生から、自己の《言説》によって《存在》の総体を開示する《人間》の到来に至る道程を記述するが、他方この哲学それ自体が《総体》を開示する《言説》である。だが、開示される《総体》は、ほかならぬこの総体を開示する《言説》に加え、この《言説》が生成する過程を含んでいる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363~364」国文社)
「したがって哲学的記述が終局に到達したとき、我々は発端へ、哲学的記述の生成の記述へと投げ返され、この哲学的記述の生成が記述されて『終局』に達したときになって初めて、絶対哲学は到来するのである。だが、この到来は実は追求して来た目的でもある。なぜならば、哲学は、ただ己れ自身の生成を記述することによって己れ自身を把握する限りで絶対的であり、《総体》を記述するものだからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
「だが他面、この記述は絶対哲学の観点からなされうるのみであり、したがって絶対哲学が十全な記述すべての『端緒』ないしは根源である。これはつまり、絶対哲学もまた、それが記述する《総体》とまったく同じように、ただその『展開』の中で、そして『展開』によって、すなわち実在の完結した弁証法を再現する一体不可分な全一性を形成する円環的言説の《全体》となって客観的に実現されうるだけである、という意味である。乗り超えることも修正も不可能な《総体》を、それゆえに絶対的な《真理》を保証するものはこの哲学的言説の円環性なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
「ヘーゲル自身この間の事情を、(注解を記した後)上記に引用した一節の最期に表明された観念を再び取り上げ、次のように語っている。──†《真なるもの》は《全体》である。だがその全体は自己の展開を通じて初めて己れを仕上げ完成する実在である。《絶対者》について語るならば、それは本質的に《結果》であり、《終局》において初めてそれが真理において在るがままのものとなる、と言わねばならず、まさにこの点に、客観的に実在するものであり、主体であり、自己自身となる活動であるというその本性は存している。†──《真なるもの》、もしくは《言説により-開示された-存在》とは《総体》である、すなわち《存在》の只中に《言説》を生み出す創造的、弁証法的《運動》の全体である。《絶対者》或いは実在するものの《総体》とは、単に《実体》であるばかりか、実在するものを完全に開示する《主体》でもある」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
否定する主体とは何か。一般的な極めて簡略な世俗的用語を用いて喩えてみよう。こんな感じ。「1ページ目を読み終えた→2ページ目を読み始める」=「1ページ目の否定/1ページ目の廃棄→2ページ目の否定に取り掛かりつつある」=「1ページ目は廃棄され否定されてはいるけれども、取り掛かりつつある2ページ目の否定において、取り組み終えて今はもう過ぎ去っている1ページ目の肯定を、2ページ目の否定への取り掛かりのうちに含んでいる」。
「ただそれは、己れ自身の開示に帰着する弁証法的(=歴史的)生成の果てにそうなる。このような開示に帰着する生成が意味するものは、《総体》が《人間的》実在を含んでいる、しかも永遠に自己同一的な《所与》ではなく、時間的に漸次なされていく自己創造の《活動》である《人間的》実在を含んでいる、ということである。《人間》のこの自己創造は(自然的かつ人間的な)所与を《否定する》ことによって遂行される」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364~365」国文社)