二〇一七年三月八日作。
(1)福島から何とか生きてはいるらしい
(2)物騒な話であくびが出た
(3)見えない壁の痛い
(4)夜学が仕事が友だちがない自由
(5)賀状の返事が利子生んで来た春
(6)すれ違いざま人相がずるい
☞「影の半分は薄黒い。半分は花野の如く明かである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然(こんぜん)として調和されている。のみならず、自分も何時の間にか、自然とこの経緯(よこたて)のなかに織り込まれている。ただそのうちの何処かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考えると、今さき庭のうちで、野々宮と美穪子が話していた談柄(だんぺい)が近因である。三四郎はこの不安の念を驅(か)る為めに、二人の談柄を再び剔抉(ほじくり)出してみたい気がした」(夏目漱石「三四郎・P.112~113」新潮文庫)
「今さき庭のうちで、野々宮と美穪子が話していた談柄(だんぺい)」が「近因」で「不安」に陥る三四郎。読者もなぜか、「そんなにまで」も「不安」なのかという意識へ持って行かれそうになる。「談柄(だんぺい)」とは何か。
「話しは野々宮と美穪子の間に起りつつある。『そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ』これは男の声である。『死んでも、その方が可いと思います』これは女の答である。『尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は充分ある』『残酷な事を仰(おっ)しゃる』」(夏目漱石「三四郎・P.111」新潮文庫)
「飛行機」はなぜ飛ぶのか、という話題。それを知って三四郎は「落語のおち」でも聞かされたようなつまらない気持ちになる。不安は解消された。しかし不安の解消とともに三四郎の意識には或る種の物足りなさが生じている。テーマについて見当を付けられないこと。その時点では怖いほどスリリングな境地に放り出されている。やがてテーマが何であるか知らされる。怖いほどスリリングな不安の境地から、また別の位置への移動がある。移動先は、しかし決して安心ではない。逆に何か「物足りない」境地である。
三四郎は二度と同じ位置へ戻ってくることができない。時間を稼いでしまったからなのだが、しかしそもそも、そういう時間とは一体なんなのか。作者=漱石にしてからが、その正体については学識上の知識しか持ち得ていない。しかも当時の。とはいえ、時間を与える、あるいは「猶予」を与えるという問題意識から見ると、ただごとではない事案だということを、漱石は熟知していたし、熟知していなければ務めようにも務まらない社会的地位にいた。明治日本における資本主義は、西欧から取り込んだものではあるという意味では最先端だが、西欧から取り込んだものであると同時に最先端であるがゆえに、国家的にまだまだ心細いばかりの島国=日本にとっては、まず耐えられないに違いない暴力的改造力を要請するに至った。日本政府はその要請をむしろ積極的にどんどん受け入れた。受け入れるに足るだけの余力がないまま暴力的国家改造に臨んだ。様々なところで、様々な形態で、様々な矛盾が暴露されることになるが、日本政府はその矛盾の群れをさらなる矛盾で押し切った。そうするほか、どんな方法があったか。漱石の場合、むろん新聞くらいは読んでいる。立場上、新聞に載っていないことや、新聞には載らないことまでしばしば知っている。「大逆事件」なども見知っている。が、直接発言したり関係したりはしない。横目で見て通り過ぎていく。それが漱石の流儀である。作品「それから」の中では幸徳秋水の名が出てくる。事件の顛末がどうしたこうしたと登場人物の口を借りて、情報を伝える。それは危険だと思う人々もいれば逆にそれだけでは不十分この上ないと批判する人々もいる。しかし留学経験のある漱石にはそのような社会の中で生きていくことになるのは百も承知である。
三四郎はまた少し放っておいて、次の文章を見ておこう。
「もし時間があると思わなければ、また時間を計る数というものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。御互(おたがい)の損になります。空間があると心得なければ、また空間を計る数というものがなければ、電車を避ける事も出来ず、二階から下りる事も出来ず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はたはだ嬉しくない結果になります。普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。だからすべてこれらに存在の権利を与えないとわが身が危ういのであります。わが身が危うければどんな無理な事でもしなければなりません。そんな無法があるものかとりきんでいる人は死ぬばかりであります。だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直者で、律儀(りちぎ)な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、悉(ことごと)く死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません」(「文芸の哲学的基礎」・「漱石文芸論集・P.50~51」岩波文庫)
時間とは何か。思考とは。存在とは。コジェーヴから。
「彼は次のように述べる。──†〔人間的〕個体は即自かつ対自的に存在する。個体が《対自的に》存在するとは、すなわち個体が自由な行動であることである。だが、このような個体はまた《即自的》でもある、すなわち独特に限定せられた個体性の《身体》は、個体性が生まれながらにしてもっている《生得性》であり、彼が為さなかったところのものである。だが個体は同時にみずから為したかぎりのものであるから、彼の身体も彼が生み出した彼自身の表現である。かくして〔彼の身体は〕個体が自己の生得的本性を働かせるという意味で、直接的なものに留まらず、同時にただそれによって個体が自己の何《である》かを認識させることのできる《印》ででもある†──《人間》は存在し現存在する、そして『即自かつ対自的に』存在し現存在するものとして『現われる』と述べること──これはつまり人間が《即自》かつ《対自的存在》である、すなわち《総体的》もしくは《総合》であるとの意味であり、したがって人間が弁証法的(或いは『精神的』)なものであり、その実在的かつ『現象的』な現存在が『運動』であるとの意味である。ところで、《弁証法的総体性》はどのようなものであれ、まず第一に、《同一性》すなわち《即自存在》或いは《定立》である。存在論的に語るならば、この《同一性》は《存在》すなわち所与《存在》であり、形而上学的に語るならばそれは《自然》である。『現象する』《人間》においては、《同一性》や《存在》や《自然》という側面ないし、契機が人間の『身体』或いは一般にその『生得的本性』である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.301~302」国文社)
「自己の存在の中に、自己の現存在の中に、そして自己の『現われ』の中に《否定性》という契機を含む限りで、《人間》は『総体的』、『総合的』、さらには『弁証法的』であるにすぎず、その限りで『対自的』、意識的かつ言葉を話す存在として現存在するのであり、したがってその限りで『精神的』、真に人間的なのである。それ自体として捉えるならば、《否定性》は純粋の無でしかない。すなわち、否定性は《存在》せず、現存在せず、現われない。それは《同一性》《の否定》として、すなわち《差異》としてしか《存在》しない。したがって、否定性は《自然》《を》現実に否定するものとしてしか《現存在》しえない。ところで、この《否定性》が現存在するということこそはまさしく人間特有の現存在であり、だからこそ、動物として死ぬときに《人間》は無に帰してしまう、つまり、そのとき、言わば《自然》の外に移行し、したがってもはや自然を《現実に》否定できなくなるのである。《否定性》が自然の自己同一的な所与を現実に否定するものという形で《現存在》する限りで否定性は《現われる》ことができる。このような《現われ》が、ヘーゲルが引用節において語っているように、《人間》の『自由な行動』にほかならない。したがって、(人間的)『現象的』な次元において、《否定性》は《行動》として実現され顕在化され開示される実在する《自由》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.303~304」国文社)
次の箇所はヘーゲルのいう「否定性」とは何かを、大変わかりやすく解説したものになっている。これ以上わかりやすく説明することはおそらく不可能。
「引用節において、ヘーゲルはさらに『〔人間〕個体はみずから《為した》かぎりのもの《である》』とも言っている。そして彼は少し先で次のように述べる。──†《人間》の《真の存在》は実はその《行動》であり、この行動においてこそ《個体性》は《客観的に実在するもの》となる──。《個体性》は実際の行動においては、所与《存在》を弁証法的に揚棄する限りで《存在する否定的な》本質的実在として提示される〔或いは顕在化する、或いは現われる〕†──《所与》-《存在》が存在論的次元において《自然》に対応するならば、この次元において《人間》としての《人間》を代表するものは、《活動》である。《人間》としての《人間》は所与-《存在》ではなく創造的-《行動》である。《自然》の『客観的実在』がその実在する《現存在》であるならば、本来の《人間》のそれは彼の実際の《行動》である。動物は単に《生きている》だけであるが、生きている《人間》は《行動し》、その実際の行為によって自己の人間性を『顕在化』し、真に人間的な存在者として『現われる』。たしかに、《人間》は所与-《存在》や《自然》でもある。すなわち、動物や事物が現存在するように、人間も『即自的』に現存在する。だが、人間が特有の在りかたで人間《であり》、そのようなものとして、すなわち《対自存在》として或いは自己を意識し、自己自身及び自己以外の者に関し、『人間は《対自的》である、つまり自由な行動である』と語る存在者として《現存在し現われる》のは、ただ《行動》において、そしてそれによってのことである。行動することによって、人間は《否定性》を或いは自然的所与-《存在》と自己との《差異》を実現し顕在化するのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.304~305」国文社)
続くセンテンスは一気に読むのが正しい。が、余りにも長い。とりあえず二つに分けて引用してみた。意味は同じなので二つに分けて読んでも、あるいは便利かも知れないと思われる。
「したがって、『現象学的』次元において、《否定性》は《人間的》《自由》以外の何物でもない、すなわち《人間》が動物から異なる所以のもの以外の何物でもない。だが、《自由》が存在論的に《否定性》であるのも、それは自由が《否定》としてしか《存在し現存在》しえないからである。ところで、否定することができるためには、何か否定すべきもの、すなわち現存在する《所与》であり、したがって自己同一的な所与《存在》がなければならない。所与の《自然的世界》において動物として生きなければ人間が自由に、つまりは人間的に現存在できないのはそのためである。だが、人間がその中で《人間的に》生きるのも、この自然的もしくは動物的な所与を《否定する》限りでのことである。そもそも、否定は思惟や単なる欲望としてではなく、現に遂行された《行動》として《実現される》。したがって、《人間》が真に自由であるのは、すなわち現実に人間的であるのは、何ほどか『高められた』彼の『観念』(や彼の想像)においてではなく、何ほどか『崇高な』或いは『昇華された』彼の『希求』によってでもなく、ただ所与の実在するものを実際につまりは行動によって否定することにおいて、そしてそれによってである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.305」国文社)
「《自由》は二つの《所与》の間の《選択》にあるのではなく、所与の《否定》であり、(動物として或いは『体現された伝統』として)自己自身がそれである所与、並びに自己にあらざる(すなわち《自然的、社会的》な《世界》である)所与の《否定》である。加えて、この二つの否定は実は一つのものである。《自然的、社会的》な《世界》を弁証法的に否定すること、すなわちそれを保存しながら否定すること、それはこの世界を変貌させることであり、そうである以上、自己自身を変えてこの世界に自己を適合させるか、それとも滅びるかのいずれかとならざるをえない。逆に言うならば、現存在において自己を保持しながら自己自身を否定すること、これは、その場合この《世界》に改変された契機が含まれることになり、したがって《世界》の相貌を変えることになる。このようなわけで、《人間》が人間的に現存在するのは、自己の否定的行動によってその《自然的、社会的世界》を現実に変貌させ、この変貌に基づき自己自身を変化させる限りでのことである。或いは同じことであるが、自己の動物的もしくは社会的な『生得的本性』を自己の行動によって否定し、それによって《世界》を変貌させる限りでのことである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.305」国文社)
覚えておこう。「時間」は止められない以上、時間は常に「否定性」として存在していく。とともにこの「否定性」は意識的にも、また行動面においても同時に「《世界》を変貌させる限りで」の「時間」でありまた「人間的現存在」であるのだ。とはいえ、政治的スローガンの意味での「行動」とか「自己否定」を意味するわけではない。もっと根本的な部分で人間という存在は自然に対して働き掛けないでは生きていくことができないという次元においてそもそも暴力的存在として生きている。そういう人間の生の地層の奥深くから論じている。
「弁証法的ないし《否定する》《行動》として実現され顕在化される《自由》はこの行動自体によって本質的に一つの《創造》となる。なぜならば、無に至らずに所与を拒否すること、これはそれまで現存在していなかった何物かを生み出すことだからであり、これこそは〔創造する〕と呼ばれるものだからである。逆に言うならば、所与の実在するものを《否定》しなければ、真に創造することはできない。なぜならば、この実在するものの外には何も存在しない(《無》しか存在しない)か、或いはこの実在するもの以外のものが存在するのである以上、この実在するものは言わば遍在しそれ自体において充実しているからである。したがって、言うならば《世界》の中に新しいものに対しての場は存在していない。《無》から浮かび上がりながらも、この新しいものは所与-《存在》の場を奪わなければ、すなわちそれを否定しなければ《存在》の中に入り込むことができず現存在することもできない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.306」国文社)
「否定性」なしに人間は生きていくことができず、したがってまた死ぬこともできない、ということについて。
「加えて、《人間》を弁証法的に解釈するとき、すなわち《自由》や《行動》を弁証法的に解釈するとき、『否定』と『創造』という用語は、その強義の意味において捉えられねばならない。或る所与を他の《所与》によって置き換えることではなく、その所与を(いまだ)《存在》していないもののために廃棄し、それによってこれまで《与えられて》いなかったものを実現することが問題だからである。これはつまり、《人間》は(神によって課されたものであろうと単に『生得の』ものであろうと)自己に《与えられた》或る『理想』との一致を実現するために自己自身を変え自己のために《世界》を変貌させるのではない、との意味である。『何の先立つ観念もなしに』否定し自己を否定するから人間は創造し自己を創造する。すなわち、人間はただ同一のままに留まろうとはしないから他のものになる。もはや現在《ある》自己であろうとはしないから、将来の自己或いは将来なりうるであろう自己が人間にとり一つの『理想』となるのであり、その『理想』が人間の否定的、創造的な行動、つまりは彼の変化を『正当化』し、それに一つの『意味』を与えるのである。一般に、《否定》や《自由》や《行動》は思惟から生まれるのではなく、自己の意識や外界の意識から生まれるのでもない。逆にそれらが実際の自由な行動として実現され(思惟により《意識》に)『開示』される《否定性》から生まれるのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.306」国文社)