白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年三月八日(2)

2017年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

戦争を経済政策へと転化させた歴史的経緯について。ドゥルーズ&ガタリから。

「国家の基本的任務の一つは、支配の及ぶかぎり空間を条里化すること、すなわち条里空間のための交通手段として平滑空間を利用することである。単に遊牧民を征服するだけでなく、移民を管理すること、より一般的に言えば、『外部』全体に、世界空間を貫くもろもろの流れの総体に、法の支配する地帯を君臨させること、──これらは各国家にとって死活問題である。なぜなら国家はあらゆる種類の流れを、人口の、商品すなわち商業の、そして金ないし資本などの流れを、可能なかぎりどこでも捕獲する過程と切り離せないものだからである。さらにそのためには、速度を制限し、流通を規制し、運動を相対化し、もろもろの主体と客体の相対的運動を細部にわたって加減するような、規定された方向をもつ固定した行程が必要である。この点に関してポール・ヴィリリオの主張は重要である。彼によれば、『国家の政治的権力は《ポリス》すなわち道路行政であり』、『都市の城門と納税所や税関は、人であれ家畜であれ財貨であれ、集団の流動性や侵入してくる群れの力に対する堤防でありフィルターなのだ』。重力、《重厚さ》は国家の本質であるが、国家は速度を知らないというわけではない。ただ国家にとっては、最も速い運動ですら平滑空間を占める動体の絶対的状態であることをやめて、条里空間のなかで一点から他の一点へ移動する『動かされるもの』の相対的性格になることが必要なのである。この意味では国家は運動を分解しては再構成して変容させる、つまり速度を規制することをやめないのである。それは道路管理者としての国家、方向変換器ないしインターチェンジとしての国家である。この点でエンジニアの役割は重要である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.80~81」河出文庫)

「公理系」としての国家の黎明期。「方向変換器ないしインターチェンジとしての国家」。水路調整器あるいは「インターチェンジ」または「プラットフォーム」としての国家。国家の黎明期としての初歩的「公理系」の採用。この機能を持たない国家は国家としては認められないということ。

「絶対速度ないし運動は法則をもたないわけではないが、それは《ノモス》の法則、つまりノモスを繰り広げる平滑空間の、ノモスに住む戦争機械の法則である。遊牧民が戦争機械を形成しえたのは、彼らが絶対速度を発明し速度の『同義語』になったからである。不服従行為、蜂起、ゲリラ、あるいは行動としての革命といった反国家的企てが生起するたびに、戦争機械が復活し、新しい遊牧的潜勢力が出現し、平滑空間が再構成される、あるいはあたかも平滑空間があるかのように空間に存在する仕方が再構成される、と言えよう(『街路を占拠する』という蜂起や革命のテーマの重要性をヴィリリオは指摘している)。そのためにこそ国家の反撃は、国家の支配をはみ出す危険のあるものすべてに対抗して空間を条里化することなのだ。国家は戦争機械をわが物にするにあたってそれに相対的運動の形式を与えねばならなかった。運動の相対化はたとえば運動の制御装置としての《城塞》のようなモデルによって行なわれた。城塞はまさしく遊牧民の躓きの石であり、渦巻状の絶対運動が寄せては砕ける暗礁であり防壁であった。逆に、国家が自己の内部の空間、あるいは隣接する空間を条里化しえない場合には、その空間を貫くもろもろの流れは必然的にその空間に反逆する戦争機械の姿をとり、その空間に敵対ないし反抗する平滑空間の中に繰り広げられることになる(たとえ他の国家が、そこにみずからの線条〔条里〕をしのびこませることになっても)。それは十四世紀末頃の中国が経験した出来事である。非常に高度な造船や航海の技術をもっていたにもかかわらず、中国は壮大な海洋空間に背を向けたために、商業の流れが海賊と同盟を結んで中国に反逆したのであった。中国は商業の大規模な制限という不動の政策によってこれに応えただけで、そのことがまた商業と戦争機械の関係を強化することになったのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.81~82」河出文庫)

海へ出た。にしてもなお初歩的次元に留まっている。が、じわじわと歩を進めていくことになる。

「なるほど海は主要な平滑空間であり、すぐれて水力学的モデルである。しかし海はまたすべての平滑空間のなかで最も早くから人間が条里化しようと努めたものであり、固定した航路、一定の方向、相対的運動、そして水路や運河といった反水力学的企てによって陸に従属させようと努めたものなのである。西洋が覇権を握った理由の一つは、西洋の国家装置が北欧と地中海の航海技術を結びつけ大西洋を併合することによって、海を条里化する力を獲得したことである。ところがそれはまったく意外な結果をもたらしたのだ。つまり条里空間における相対運動の増加と相対速度の強度化は、平滑空間と絶対運動を再構成する結果になったのである。ヴィリリオが強調しているように、海は《現存艦隊》fleet in beingの場となったのであり、それはある一点から他の一点へと移動するのではなく、任意の一点からすべての空間を保持するのである。空間を条里化するのではなく、たえまなく運動する脱領土化のベクトルによって空間を占拠するのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.82~83」河出文庫)

さらに空へ。

「こうした現代的戦略は、海から新しい平滑空間としての空へ、そしてまた砂漠あるいは海と見なされた地球全体へと及ぼされる。方向転換器にして捕獲器である国家は運動を相対化するだけでなく、再び絶対運動を与えるのである。国家は平滑から条里にいたるだけでなく、平滑空間を再構成し、条里空間の果てに平滑空間を再び与える。まさにこの新しい遊牧性は、世界的規模の戦争機械をともなうのである。それは国家装置を越える組織をもち、多国籍的、エネルギー的、軍事・産業的複合体に取り込まれる。このような事実は次のことを示している。すなわち、平滑空間と外部性形式は必ず革命的使命をもつというわけではなく、どんな相互作用の場に取り込まれるか、どんな具体的条件の下で実行され成立するかによって、極端に意味を変えてしまうということである(たとえば総力戦や人民戦争あるいはゲリラでさえも、おたがいに戦争の仕方を学び合っているという事実がある)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.83」河出文庫)

「陸・海・空」。ここで一旦、基本は押さえたことになる。とはいえ、どれほど巨大な軍事大国であっても逃れられない条件は余りにも皮肉であって、笑おうにも笑えない。

──「おたがいに戦争の仕方を学び合っているという事実」。

さて、この数日間で急速にスポットライトを浴びた印象のあるテーマに関する。「武器」と「道具」の間の境界線の不透明化。いまに始まった議論ではまったくない。日本ですら八〇年代後半には大学を先頭とする多くの学術機関で、その内部/外部を問わず、議論になっていた。ドゥルーズ&ガタリはここで改めて「速度」という言葉を持ち込んで読者を瞠目させた。「武器と速度」は「相互補足関係」あるいは「相互依存関係」、少し言葉を簡単にすれば「相互補完関係」にある。その意味では武器と道具の間の境界線はどこまでも消滅していくばかりである。

「武器と道具が、運動や速度と結ぶ関係は『傾向として』(近似的に)同じではないということである。武器と速度の次のような相互補足関係を強調したこともまたポール・ヴィリリオの本質的な貢献の一つである──すなわち、武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明するということである(武器の投射的性格はこれに由来する)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.99」河出文庫)

次の論考は極めて重要。たった一撃で敵を撃破してしまえばそれで戦争は終わってしまう。軍事産業は破滅する。それを避けて世界的な規模で軍事的相互依存体制を永遠に延長させるためにはどうすればよいのか。

「戦争機械は特有の速度ベクトルを出現させるからであり、単に破壊力ではないのだから、これには何か特別な名称を与えなければならない──すなわち『走行主義』dromocratie(=《ノモス》)という名称である。この名称の利点の一つは、狩猟と戦争の新しい区別の仕方を提案していることである。というのも、確かに戦争は狩猟から派生するわけではなく、また狩猟そのものも特に武器を発達させるわけではないからである。狩猟は、武器と道具が未分化で相互転換が可能な次元で行なわれるか、それともすでに道具から区別され武器として構成されたものを自分流に使用するかのどちらかである。ヴィリリオが言うように、戦争が出現するのは、人間が人間に対して《狩猟者》と動物の関係を適用するときではなく、逆に、人間が《狩猟される》動物の力を補捉して、まったく別の対人関係つまり戦争の関係(もはや獲物ではなく敵)に入るときなのである。したがって戦争機械を発明したのが放浪する牧畜民すなわち遊牧民であることは驚くにあたらない──牧畜と調教は、原始的狩猟とも定住的牧畜とも異なるものであり、まさしく投射するものとされるものが作るシステムの発見なのである。一撃の暴力で倒す、言い換えれば『一度だけ』の暴力を構成する代わりに、戦争機械は牧畜と調教によって暴力の経済を、つまり暴力を持続させ無制限にさえする手段を樹立したのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.99~100」河出文庫)

こうある。「一撃の暴力で倒す、言い換えれば『一度だけ』の暴力を構成する代わりに、戦争機械は牧畜と調教によって暴力の経済を、つまり暴力を持続させ無制限にさえする手段を樹立した」。人間はこういう才能に長けている。この才能を用いて考えたり行動したりすること。そしてそのような言動から開発される概念、宗教、イデオロギー、機械、さらに様々な技術をひっくるめて「戦争機械」と呼ばれている。要するに人間のやること為すこと考えること等々、「戦争機械」と関連しないものなど何一つない、というより、むしろ逆に人間の頭脳なしに「戦争機械」は出現し得ないという意味で用いられている。また差し当たり、人間と動物の違いがくっきりと鮮明に映し出されるのはこういうシーンにおいてだ。ただ単なる「狩猟」と戦争は始めから関係があるわけではない。そうではなく人間による資本主義的生産様式の獲得以後、人間はいついかなる時にでも「戦争機械」たり得るようになった。だから動物が「戦争機械」であったためしはかつてなかったのだが、しかし特定の動物の特徴を活かした活用方法で一部の動物は「戦争機械」としても準備・動員されるようになった。

動力機械=エンジンの発見と戦争のためのその適用。「即死」させる「狩猟」ではなく、保存・調教・蓄積・増殖・応用という「牧畜」的方向性への社会的転換。

「『流血や即時の殺害は暴力の無制限の使用すなわち暴力の経済に反するものである。(──)《暴力の経済は牧畜民における狩猟者の経済ではなく、狩猟される動物の経済なのである》。乗用馬において保存されるのは馬の運動エネルギーと速度であって、もはや蛋白質ではない(発動機であって、もはや食肉ではない)。(──)狩猟において猟師は野獣の運動を組織立ったによって停止しようと目指すのに対し、牧畜民は野獣の運動を保存し始める。調教によって、騎乗者はその運動に合体して方向を与えつつ加速させようとするのである』。機械の発動機はこの傾向を発達させたものであるが、『乗用馬は戦士の最初の投射機であり、彼の最初の武器システムである』。戦争機械における<動物になること>はこれに由来する。そうすると戦争機械は乗用馬と騎兵以前には存在しないということになるだろうか?この質問は的はずれである。問題は、戦争機械は自由な独立した変数となった<速度>ベクトルの発見をともなうのに、狩猟においてはその発見はなされないということである。この場合、速度は、まず狩猟される動物に関係する。この走行ベクトルは乗用馬に頼らずに歩兵隊によっても発見されうるし、さらに、乗用馬といっても、自由ベクトルをともなわない交通手段あるいは運送手段として存在することもありうる。しかし、いずれにしても、戦士は、動物から獲物というモデルではなく、発動機という発想を借りるのだ。戦士は、獲物というモデルを一般化して敵に適用するのではなく、発動機という発想を取り出して自分自身にそれを適用するのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.100~101」河出文庫)

「ただちに二つの反論が予想される。第一の反論は、戦争機械には、速度と同じ程度に重さと重力があるのではないか、というのである(重と軽の区別、攻撃と防御の非対称性、休止と緊張の対立)。しかし、戦争において非常に重要な現象である『待機』、あるいは停止と緊張症(カタトニー)でさえ、ある場合には、純粋な速度の成分に由来するということを示すのは容易であろう。そしてその他の場合、これらは、国家装置がとりわけ条理空間を設け、敵対する力同士を均衡させることによって戦争機械を自分のものにする諸条件に由来する。速度が弾丸や砲弾という投射されるものの特性として抽出された結果、武器そのものと兵士に停止を強いることがある(たとえば、一九一四年の大戦での停止状態)。しかし力の均衡は抵抗による現象であるが、反撃は均衡を破る速度の変化ないし加速をともなう現象である──戦車は<速度ベクトル>に作戦のすべてを再び集中し、運動に平滑空間を与えて人間と武器を停止状態から引っ張りだしたのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.101」河出文庫)

「一九一四年の大戦」、とある。次の原注を引いておこう。

「一九一四年の戦争は最初から砲兵を中心とする攻撃的かつ機動的な戦争として構想されたのであった。しかし砲兵戦術は逆の結果をもたらし、膠着状態を余儀なくした。大砲の数を増やして戦争を膠着状態から脱却させることは不可能であった。なぜなら砲弾でできた穴でますます戦場は動きにくくなったからである。主としてイギリス人となかんずくフラー将軍によって画策された解決策とは、戦車の採用であった──『陸の船』である戦車は陸上に一種の海洋空間すなわち平滑空間を再構成し、『陸戦のなかに海戦戦術を導入させることになった』。一般的に言って、反撃は決して同じレベルではなされえない──大砲に反撃するのは戦車であり、戦車に反撃するのはミサイルを搭載したヘリコプターである、というように。戦争機械の技術革新はこうした反撃によるものであり、労働機械の技術革新とは非常に異なったものである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.339~340」河出文庫)

労働の概念が導入される。消滅しかけていた「武器と道具の境界線」が再び浮上してくる。「労働モデル」。

「第二の反論は、第一の逆で、より複雑である──速度は武器に劣らず道具にも属していて、決して戦争機械の専売特許ではないのではないか、という反論である。発動機の歴史は単に軍事的な歴史ではないことも確かである。しかし、質的モデルを探す代わりに、運動量だけを問題にしすぎる傾向があるのではないだろうか。理想的な発動機のモデルには、労働モデルと《自由活動》モデルの二つがあると考えられる。労働とは、抵抗に会いながら外部に働きかけ、結果を産み出すために消費ないし消尽される動力因であり、絶えず更新されねばならない。自由活動もまた動力因であるが、克服すべき抵抗に会うこともなく、動体それ自身に働きかけることもなく、結果を産み出すために消尽することなく連続する動力因である。速度の高低にかかわらず、労働の場合、速度は相対的であり、自由活動の場合は、絶対的である(自由活動は《永久運動体》といってもよい)。労働で重要なのは、『一つ』と見なされた物体(重心)の上にかかる重力の作用点であり、この作用点の相対的移動である。自由活動において重要なのは、いかに物体を構成する諸要素が重力から脱出して、点をもたない空間を絶対的に占拠するかということである。武器とその扱いが自由活動モデルにしたがうように、道具は労働モデルにしたがうように思われる。一点から他の一点への線的な移動は道具の相対的運動を構成するが、空間を渦状に占拠することは武器の絶対的運動を構成する。あたかも武器は動くものであり自己運動なのに、道具はあくまで動かされるものであるというふうに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.102」河出文庫)

「道具と労働のこのつながりは、以上のような動力的定義すなわち実在的定義を労働に与えないかぎり、決して明白にはならない。労働を定義するのは道具ではなく、その逆なのだ。道具は労働を前提にしているのである。それでもやはり武器もまた、動力因の更新、結果を産み出すための消費ないし消滅、外的抵抗との直面、力の移動などをともなうことは否定できない。武器に道具の制約に対立しうるような魔術的力を与えようとしても無駄であろう──武器も道具も同じ法則にしたがっているのであり、これらの法則はまさしく共通の次元を定義するものである。しかしすべてのテクノロジーの原則は、ある技術的要素は、それが前提にしている《アレンジメント》に関係づけられないかぎり、抽象的であり、まったく無規定なものにとどまるということを示すことである。技術的要素よりも優先するのは機械である。機械といっても、それ自体技術的要素の集合である技術的機械ではなく、社会的ないし集団的機械、つまり、機械状アレンジメントであって、これが、ある時期に何を技術的要素として取り上げるか、それをいかに使用するか、その外延、内包をどうするか、こういったことを決めるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.102~103」河出文庫)

アレンジメント次第である。アレンジメントによって「どうにでもなる」。この困難。アポリア。この課題に突き当たって苦悩しなかった人間がかつていただろうか。いた。それも大量に。むしろ自ら進んで歓喜の渦に巻き込まれていった時代があった。その余地はいまなお十分残されている。たった今引用したように「戦争は延長されなければならない」。戦争のための経済政策が必要とされているからである。核爆弾投下ではいけないのだ。一撃で事態が終わってしまう。被害の大きさや収拾に費やされる時間も未知数な場合が余りにも多い。軍事産業の安定的継続性が危うくなる。だから総力戦に取って代わって「継続的局地戦/新冷戦地域」が台頭する。「宗教紛争/民族紛争/地域紛争」が政治的過程を通して要請されてくる。なかでも宗教紛争は紀元前からの歴史を持つ。軍事産業から得られる収入源としては最も有力な無視できない要素である。政治評論家が「宗教の時代」と口にする裏の意味は恐らくそういうことでなければほとんど無意味に等しい。しかし宗教家が戦争賛美することは表面上許されていない。その点、地域紛争は限定的なので表面上はおおっぴらに非難されるが、戦争経済再延長のためにはこっそりとではあるが賞讃される。直接的な関係からそれを要請するのは財界にほかならない。しかしその財界を支持するために有力な政治勢力を支持しないとたちまち経済的困窮に陥ってしまうのはいつも決まって一般大衆である。戦争経済に依存しないと生活していけない一般大衆。戦争経済のために続々と故障していくのもまた一般大衆である。

「《系統流》が、技術的要素を選択したり、性格を決めたり、発明したりさえするのは、さまざまなアレンジメントを媒介にしてなのである。それゆえ、技術的要素がその中に組み込まれ、かつ前提にもしているアレンジメントを定義しなければ、武器についても道具についても、語ることはできない。この意味で、われわれは、武器と道具は単に外的に区別されるわけではないが、だからといって本質的な弁別特徴をもつわけでもない、と言っておいたのである。つまり、武器と道具は、何らかのアレンジメントに組み入れられるのであり、それぞれのアレンジメントに由来する内的特徴(本質的ではなく)があるのだ。したがって、自由活動モデルを実現するのは、武器それ自体あるいは武器の物理的存在ではなく、武器の形相因としての『戦争機械』というアレンジメントなのである。他方、労働モデルを実現するのは、道具ではなく、道具の形相因としての『労働機械』というアレンジメントである。武器は速度ベクトルと不可分であるのに対し、道具は重力の諸条件に結び付けられている、とわれわれが言ったとき、われわれはただ二つのタイプのアレンジメントの差異を指摘したかったのである。たとえ道具がそれ自身のアレンジメントにおいて、抽象的にみてより『速く』、武器は抽象的にみてより『重い』としてもこのことに変わりはない。道具は本質的に力の発生と移動と消費に結びついており、労働の法則によって規定されているのに対し、武器は自由活動にしたがって時空において力を実行し、あるいは表出することにかかわる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.103~104」河出文庫)

「道具は本質的に力の発生と移動と消費に結びついており」、というだけでは「武器と道具」の違いの説明としてはまだ不十分だろう。こう続く。

「武器は空から落ちてくるわけではないから、当然、生産、移動、消費や抵抗を前提にしている。しかし武器のこの側面は、武器と道具に共通の次元に属するもので、武器の特殊性にはまだ関係していない。武器の特殊性が現われてくるのは、ただ、力がそれ自体において把握され、数と運動と時空のみに関係づけられるとき、あるいは、《速度が移動に付け加わるとき》である。このようなものとして武器は、たとえ労働の諸条件を満たしていると見なされても具体的に<労働>モデルではなく、<自由活動>モデルに関係づけられる。要するに、力の観点からは、道具は<重力と移動>、<重量と高度>のシステムに、武器は<速度と《永久運動体》>のシステムに結びついている(速度それ自身が『武器のシステム』であると言えるのは、こういう意味である)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.104~105」河出文庫)

武器は完成品として「空から」手元に届けられるものではない。メルヘンではない。現実的に「生産、移動、消費や抵抗を前提にしている」。だが道具もまたそうだ。自然の素材と労働力と貨幣を介して始めて社会に出回ることができる。重要なのは、「力がそれ自体において把握され、数と運動と時空のみに関係づけられるとき、あるいは、《速度が移動に付け加わるとき》」に限れば限るほど、「武器の特殊性が」際だつ。例えば、インターネット。スマートフォン。常時接続。全体が常に繋がっている状態=「新型」ファシズム、旧ソ連、ナチス・ドイツ、北朝鮮政府、米軍基地、等々。