白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年三月二十二日(1)

2017年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年三月二十二日作。

(1)からすの朝が早い

(2)抜け道にも爆風

(3)迷子の大人の道しるべがない

(4)だらしなく並んだ質問も応答も

(5)星の数ほど冤罪

(6)はったり不動産が売りに出ている

☞「『迷子』女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。三四郎は答えなかった。『迷子の英訳を知っていらしって』三四郎は知るとも、知らぬとも言い得ぬ程に、この問を予期していなかった。『教えて上げましょうか』『ええ』『迷える子(ストレイシープ)──解って?』三四郎はこう云う場合になると挨拶に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。と云って、この後悔を予期して、無理に応急の返事を、さも自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っている事が如何(いか)にも半間(はんま)であると自覚している」(夏目漱石「三四郎・P.124」新潮文庫)

三四郎の特徴がよく出た文章。「得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っている事が如何(いか)にも半間(はんま)であると自覚している」。すぐ後で似た意味の文章が出てくる。そこでもう一度述べよう。

「迷える子(ストレイシープ)という言葉は解った様でもある。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である」(夏目漱石「三四郎・P.124~125」新潮文庫)

「迷える子(ストレイシープ)という言葉」は人間一般を指して用いられる用語なので、読者としては差し当たりごく普通の意味に取っておいてよいだろう。漱石が強調しているように、ここで大事な点は、「解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である」。

「三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。『私そんなに生意気に見えますか』その調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れれば好いと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする」(夏目漱石「三四郎・P.125」新潮文庫)

この部分は注意を要する。江戸時代ではない。むしろ江戸時代は封建社会だったためか多少なりとも「生意気」で勝気な女性は、その性格の強靭さや機転の利かせ方のセンスを買われて、逆に男性からの受けが良かったりした。かと言って、第二次大戦後の形式的民主主義国家日本でもまたない。

三四郎の馬鹿なところをこのようなセンテンスであぶり出す手法は漱石作品に独特だ。このような馬鹿さを三四郎を通して敢えて描くことで、三四郎を通してはいるものの、その実、明治日本において始めて当然とされるようになった目に見えない「法的」な「空気」に対する皮肉や嫌味あるいは当てこすり、さらには大いなる疑問が語られている。男女関係の中で「生意気に見えますか」という質問を女性の側から引き出すことが出来れば、男性が勝利したことになる。これといった根拠も理由もなしに、なぜかそういうことになる。漱石が知っていた先進的ヨーロッパ社会では、わざとロマンティシズムに溺れる場面を演じる場合ででもない限り決してこのようなことはない。なのに三四郎は「この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た」、と考える。明治日本になって始めて生じてきた「明瞭な女」とは一体どのような「女」なのか。明治国家が設定した男性上位女性下位という社会的教義に従う限りで男性に満足を与える「女」こそが、このようなシーンでは理想的な「明瞭な女」とされるに至っていた。漱石にとっては女性は常に既に「他者」だった。江戸時代には存在したであろういつもの身近で野趣があり奔放でストレートで遊び相手としても面白い女ではもはやない。しかし漱石にとって女性が「他者」としてしか映らなくなったのは一体いつごろからだっただろうか。もちろん、明治時代半ばに二十代後半を迎えた漱石から見れば敢えて述べるまでもなかっただろう。男性にとって女性が「他者」となったのは明治国家成立以降である。その間、明治時代特有の教育を叩き込まれた世代、男女の社会的地位を含めて教育を受けた世代に特有の女性観にほかならない。この人工的な女性観は美穪子のような聡明な女性にとってはより一層拘束された苦痛として感じられたことは間違いない。日に日に増していくばかりの苦痛に耐え難さを覚え始める年頃、要するに十代半ばになり子どもを産める体になれば、早々と人生を諦めのうちに沈め込まねばならない人生観をもたらした。黎明期の資本主義的生産様式は江戸時代の日本にあった人間関係の身近さを打倒-廃棄し、しかし男尊女卑的制度を社会的政治的統治機構として明治政府へ引き継がせて打ち固めただけでなく、女性を「産む機械」として再生産させることに成功した。と同時に漱石ら一部の近代知識人から見れば、これからの明治日本はどうかしてしまいそうだ、と薄々気付いてはいた。列車の中で偶然一緒になった三四郎に向って広田先生は今後の日本の成行きについていともあっさりこう言う。「滅びるね」。実際、滅びた。陰惨なまでに自滅した。ヒロシマ、ナガサキ、オキナワへ至る大日本帝国の試練は、騒然たる誕生から壮絶な最後まで、どこか栄光の死を欲してなぜか望んでもいない死を欲し得た死へ至る過程を、すでに戦争慣れしている欧米諸国に向けて再び人体実験の機会を与える絶好の場を提供したかのように見えなくもない。

「晴れたのが恨めしい気がする」。謎の提示と回答の提出。この繰り返しもまた漱石作品の特徴の中で特筆されるべきパターンだろう。しかし謎に関する回答が出された時には、主人公はいつもどこか何か「物足りない」気分を味わう。時間の経過が利子を生んでいく以上、謎が提示された時点よりも、より一層多くの利得が得られなければ満足できない体質。それもまた資本主義が急速に輸入されて全国津々浦々まで過激に行き渡りつつある明治日本に生まれ、その空気を存分に吸って育ってきた近代知識階級に特有の苦痛でもあった。作品「それから」にはこうある。

「彼は元来が何方(どっち)付かずの男であった。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも露(むき)に抵抗した試(ためし)がなかった。解釈のしようでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付とも思われる遣口(やりくち)であった。彼自身さえ、この二つの非難の何(いず)れかを聞いた時、そうかも知れないと、腹の中で首を捩(ひね)らぬ訳には行かなかった。然しその原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く両(ふた)つの眼が付いていて、双方を一時に見る便宜を有していたからであった。かれはこの能力の為(ため)に、今日まで一図に物に向って突進する勇気を挫(くじ)かれた。即(つ)かず離れず現状に立ち竦(すく)んでいる事が屢(しばしば)あった。この現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのではなくて、却(かえ)って明白な判断に本(もとづ)いて起ると云う事実は、彼が犯すべからざる敢為(かんい)の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解ったのである」(夏目漱石「それから・P.251~252」新潮文庫)

「三四郎は美穪子の態度を故(もと)の様な、──二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片付かない空の様な、──意味のあるものにしたかった。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位で戻せるものではないと思った。女は卒然として、『じゃ、もう帰りましょう』と云った。厭味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものと諦(あきら)める様に静かな口調であった」(夏目漱石「三四郎・P.125」新潮文庫)

子どもはしばしば女性を困らせる。それも無意識的に困らせる点で顕著である。ここで三四郎が空想している内容もまたその類いに属する。「美穪子の態度を故(もと)の様な、──二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片付かない空の様な、──意味のあるものにしたかった」、とある文面が何より痛烈にそのことを物語っている。漱石の筆は容赦なく三四郎の子どもっぽさを暴露して止まない。そして一旦、本当に一旦だが、美穪子は「三四郎にとって自分は興味のないものと諦(あきら)める様に静かな口調」を取る。

「空は又変わって来た。風が遠くから吹いてくる。広い畠の上には日が限って、見ていると、寒い程淋しい。草からあげる地意気(じいき)で身体は冷えていた。気が付けば、こんな所に、よく今までべっとり坐っていられたものだと思う。自分一人なら、とうに何処かへ行ってしまったに違いない。美穪子も──美穪子はこんな所へ坐る女かも知れない。『少し寒くなった様ですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。然し気分はもうすっかり直りましたか』『ええ、すっかり直りました』と明かに答えたが、俄(にわか)に立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、独り言の様に、『迷える子(ストレイシープ)』と長く引っ張って云った。三四郎は無論答えなかった」(夏目漱石「三四郎・P.125~126」新潮文庫)

三四郎は世間話のほうへとことん逃走を試みている。もう一度「猶予」を得たいのなら、「こんな所に、よく今までべっとり坐っていられたものだと思う」などと考える必要はない。いつまでも坐っておればすぐにでも「猶予」は訪れる。だが子ども過ぎる三四郎はもう逃げることしか頭にない。ところが、三四郎のその逃走する背中へ向けて美穪子はわざと糸を引くように、「『迷える子(ストレイシープ)』と長く引っ張って云」うのだ。美穪子の態度には裏もなければ表もない。ただひと言「あなたと私はもしかしたら同類なのではないですか?」と、公然と問い掛けているのである。三四郎の意識の動きは美穪子には手に取るようにわかるのだ。腹の底の底まで見透かされ見抜かれている。美穪子に対する三四郎の苦手意識は、美穪子のような相手を「苦手」としているからやって来るわけでは全然ない。むしろ「知っていること」からやって来る。意識の内部を自分自身よりどんどん速くずばずばと計算されてしまう恐怖が、聞くのを待ってからではなく、体の内部から先に湧き上がってくるのだ。三四郎のプライドは実に高く実に甘いと言わねばならない。

次のセンテンスは冗談まじり。が、男女関係の中で冗談の時間が果たす役割は見逃せない。両者は何らかの冗談を演じて両者の間合いを計ろうとするのが常だが、冗談といえどもそれが言語である以上、人間の側は常に冗談の上を越えることはできない。言語の先へ向けて時間を追い越すことはできない。その意味で人間はいついかなる時も、冗談なら冗談の下で、またその限りでのみ、冗談を繰り延べたり断ち切ったりしながら冗談の範囲の拘束に耐えなければならない。その範囲で両者は両者の関係をもたもたと押し進めるほかない。

「美穪子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角を指して、道があるなら、あの唐辛子の傍を通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺の後に果たして細い三尺程の路があった。その路を半分程来た所で三四郎は聞いた。『よし子さんは、あなたの所へ来る事に極ったんですか』女は片頬で笑った。そうして問返した。『何故御聞きになるの』」(夏目漱石「三四郎・P.126」新潮文庫)

なお、ここで再び美穪子の得意技が炸裂している。「『何故御聞きになるの』」。三四郎は弄ばれているわけだが、美穪子は三四郎を弄んでやることでまたまた「猶予」を与えている。美穪子は余りにも忍耐強い。それほど優位に立っている証拠でもあるわけだが。また同時にこの余裕は作者=漱石の余裕でもある。

「三四郎が何か云おうとすると、足の前に泥濘(ぬかるみ)があった。四尺ばかりの所、土が凹(へこ)んで水がぴたぴたに溜(たま)っている。その真中に足掛りの為に手頃な石を置いたものがある。三四郎は石の扶(たすけ)を藉(か)らずに、すぐに向うへ飛んだ。そうして美穪子を振り返って見た。美穪子は右の足を泥濘(ぬかるみ)の真中にある石の上へ載せた。石の据わりがあまり善くない。足へ力を入れて、肩を揺(ゆす)って調子を取っている。三四郎は此方(こちら)側から手を出した。『御捕(おつか)まりなさい』『いえ大丈夫』と女は笑っている。手を出している間は、調子を取るだけで渡らない」(夏目漱石「三四郎・P.126」新潮文庫)

さて、あたかも下手な「ポルノ小説」のような描写が挟み込まれる。二人の間に「泥濘(ぬかるみ)」があり、そこは「土が凹(へこ)んで水がぴたぴたに溜(たま)っている」。さらに美穪子の姿勢だが、「足へ力を入れて、肩を揺(ゆす)って調子を取っている」。十代の中学高校生が読めば説明するまでもなく男女の性行為の一つ(騎乗位)にしか思われないに違いない。実際、読書においてはそのような官能性を読み取ることは十分可能であり容易いのだが、問題は、二人の登場人物のためだけに、親切にも漱石がわざわざこのようなシーンを設定してやった理由である。

「三四郎は手を引込めた。すると美穪子は石の上にある右の足に、身体の重みを託して、左の足でひらりと此方側へ渡った。あまりに下駄を汚すまいと念を入れ過ぎた為め、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに腰が前へ出る。その勢で美穪子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。『迷える子(ストレイシープ)』と美穪子が口の内で云った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずる事が出来た」(夏目漱石「三四郎・P.126~127」新潮文庫)

「泥濘(ぬかるみ)」、「水がぴたぴたに溜(たま)って」。さらにそこを一挙に移動して男の元へ飛び込んで行く。その意味ではなるほど美穪子もまた「水の女」ではある。それにしても不可解な、一挙に演じられるばかりか、まず失敗することのないこの「飛躍」。明治時代の日本でこのような「飛躍」が可能だったのはなぜか。文化的側面では男女関係を含む「交換体系」全般の全体主義化の進行があり、経済的な機構では資本主義的生産様式が全国に広く行き渡っている限りで始めて可能になった「近代」という新しい社会編成があった。だから江戸時代にこの種の「飛躍」などなかったに違いない。その意味で男女の恋愛の形態もとうに江戸時代に見られたようなものではなくなっていただろう。というより、江戸時代の風物そのものが完膚なきまでに、ものの見事に終わっていた。断片的にではあれ、言葉遣いや服装や宗教などは見た目だけはなるほど残って見えてはいた。しかしそのいずれもが、明治以降、それまでは有効だった意味をすっかり切り刻まれ取り換えられたことは論を待たない。さらにしばらくして「無意識」の発見がここに加わってくる。この流れに抵抗した勢力は西南戦争を大きな節目として軍事的大敗北を喫した後に、資本主義社会の鉄の掟の足元にひれ伏さなければ生きていくことすら許されない近代軍国主義日本へと転向した。フーコーの言う歴史の「断層」は既に深く刻み込まれていたのである。美穪子が「迷える子(ストレイシープ)」は「お互いさまなのでは?」と問い掛けた時、余りにも子どもじみた三四郎に、一体、実のある何をどう答えることができただろうか。作品のところどころで描写されるどこか気怠(けだる)げな美穪子の態度を見るに当たって、三四郎を評して「諦め/失望/誤ち」を真正面から指摘するかのような態度のように見える、と言われることが少なくない。けれどもその理由を述べようとすれば、明治日本社会のどこへでも急速に行き渡りつつある資本主義的黎明期に顕著な、近代知識人の漠然たる不安感情を抜きにしては論じることができない。勿論、知識人ゆえの特権的な不安ではない。学者なら誰でもこの種の不安を感じ取ることができたか。まったくそうではない。逆なのだ。学問を少しでも齧った知識人のみに限られた特権的な意識ではなく、この種の不穏さを胎動させた得体の知れぬ空気を敏感に嗅ぎ付ける嗅覚を獲得していた人間だったからこそ、特定の知識階級の中のごく一部の人々に限らず、彼ら彼女らは近代人たり得たのだ。そして近代人たり得ることは何を意味したか。刻一刻と深く濃くなっていくばかりのただならぬ社会の空気の中で、空気の急変と身を共にしつつ、しっかりと地面の上に立っているということはもはや不可能だと知った人間に特有の不安感情を常に内在化させて生きて行くほかない立場へと暗黙の裡に拘束されてしまっているということを意味した。そしてそのことは同時にほとんど間違いなく、「諦め/失望/誤ち」に満ちた暗澹たる事態への直面化を余儀なくされた、ということでなければならなかった。

前回、ドゥルーズ&ガタリから次の部分を引用した。

「公理と、現実の生きた流れのあいだには、基本的な違いがつねに存在している。公理は、制御と決定の中心に流れを従属させ、その一つ一つに切片をあてがって、その量を計測する。しかし生きた流れの圧力、流れが課し、強いてくる問題の圧力は、公理系の内部において作用しなくてはならない。全体主義的縮小に対して闘争するためにも。公理の付加を追い越し、加速し、方向付けてテクノクラートたちの倒錯を妨げるためにも」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226~228」河出文庫)

「現実の生きた流れ」、とある。説明などいらないという人々がいる一方、一体全体なんのことやらという人々もいる。個人的なことを言うと、周囲には両方ともいるが、その間に位置する人々、「わかるようなわからないような」人々となると余りにも多い。多過ぎる。次のセンテンスも参照。

「分裂者については、こういえる。かれがたえず移り歩き、さまよい、よろめき続けているその頼りない歩みからいって、かれは、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく崩壊させながら、たえず脱土地化の道をどこまでも遠くへとつき進んでゆくひとなのだ。恐らく、あの分裂者の散歩は、みずから大地を再び発見し直すかれ自身の独自の仕方なのである、と。分裂症患者は、資本主義の極限に身をおいているのである。かれは、資本主義に内属するその発育の衝動であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、それを殺戮する天使である。かれは一切のコードを混乱させ、欲望の脱コード化した種々の流れをもたらす。実在するものは流れる。<《過程》>の二つの様相が再び結ばれる。〔欲望する生産の〕形而上学的過程と社会的生産の歴史的過程とが。前者は、自然の中にあるいは大地の核心の只中に住まう『ダイモン』にわれわれを触れさせる、あの形而上学的過程であり、後者は、社会機械が脱土地化するのに応じて、欲望する諸機械の自律性を回復させる、あの社会的生産の歴史的過程である。分裂症とは、社会的生産の極限としての欲望する生産にほかならない。したがって、欲望する生産が現われるのは、またこの生産と社会的生産との体制の相違が現われるのは、最後においてであって、最初においてではない。一方の生産と他方の生産との間には、実在の生成というひとつの生成の運動があるのみである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.50」河出書房新社)

「分裂症患者」の特徴とは何か。社会の体系を失してしまった人々。体系に囚われる必要性がない。体系からはずれてしまっている人々。社会に存在する様々な境界線を越えているのか越えていないのか、自分でもよくわからなくなっている人々。だからといって、資本主義社会に対抗するために「分裂症患者」を対抗させるわけでは何らない。

資本主義的生産様式もまた極めて「分裂症的」な動きを取る点で共通項を多く持っている。両者は大変似ている。だが違う点があり、そしてこの違いこそ、両者が決定的に違っている点だとドゥルーズ&ガタリは強調するわけである。どちらが「偉い」とか「偉くない」とかいう問題ではない。資本主義は自らの限界を設定したり壊したり再設定したりと資本の要求を常に欲望として実現させようと計る。一方、「分裂症患者」は資本主義社会の限界まで一人歩きしたりするが、知らず知らずのうちにその極限に身を置くことしか知らない。資本主義は自ら公理系を付け加えたり捨て去ったりする。しかし「分裂症患者」は自ら公理系など何一つ創設しようがなく、社会的に操作する側ではなく、逆に操作される側に位置する。脈略なく動き回るために資本の運動と似ているように見えるのだが、資本のように自ら意図的に分裂症的な言動を繰り返して一般大衆を煙に巻いているわけではまったくない。問題は、資本の側に身を置きながら、たくさんのことを理解できているのにまるで理解できていないかのように振る舞って見せている人々=とりわけ「公的人間」なのだ。