白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年三月二十七日(1)

2017年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年三月二十七日作。

(1)サイコで儲けるサイコなマスコミいつまで

(2)日和見野党が恩を売る見飽きた

(3)スキャンダルがない不穏だ

(4)死にのた打ち見て興奮冷めやらぬ戦前日本

(5)桜に席を譲る佇むロウバイ

(6)誰も死なない春がおかしい

☞「すると第二の予想外が継いで起った。お秀が、一寸(ちょっと)顔を背(そむ)けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化は決して怒りのためでないという事がその時始めて解った。年来陳腐な位見飽きている単純な極(きま)り悪さだと評するより外に仕方のないこの表情は、お延を更に驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。然しその意味の因(よ)って来(きた)る所は、お秀の説明を待たなければまた確かめられる筈(はず)がなかった」(夏目漱石「明暗・P.377」新潮文庫)

作品「三四郎」の登場人物の中でも美穪子の他者性は、恐らく群を抜いて際だっている。なぜか。前回述べたように近代知識人という枠組みだけでは論じ切れない部分をその内部に大量に蓄積しているからである。そこで少し言い方を換えてみようと思う。例えるとしても「三四郎」の登場人物からではなくて、作品「明暗」からのほうが的を得ているだろう。「お延」である。彼女は漱石が最も集中して「他者としての女」を描いた造形では、と考えられるからだ。「お延」は引き裂かれた存在である。「二重化」されている。

「お延」の特徴は存在論的問題と倫理的問題の両方を極端なまでに内在化させてしまっている自分自身の苦痛に耐えて生きていかねばならない立場に置かれた女性である、という点で際だっている。「二重化」されているとは、この意味で言うのである。第一に存在論的問題とは何か。性欲に顕著だが、公然たる彼氏がいるにもかかわらず、その実、もっと他の男性と性行為に耽りたいと頭に思い描く本能的な主観に忠実でありたいと思うこと。第二に倫理的問題とは何か。性欲の場合、彼氏や夫以外の異性と浮気や不倫したいと思っている女性は、他にもそれこそ数えても数えても数え切れないほど実際にいるにもかかわらず、社会的倫理的な見地から、なぜか裁きを受けなければならない社会の一員として法的にも裁きを受けるべきとする倫理の側に属していること。従って、存在論的には乱交支持だが同時に倫理的には乱交不支持であるという矛盾を常に抱えて両方の間で葛藤している精神状態。その困難この上ない役割こそ、漱石が「お延」に託した課題である。もっとも、「お延」の夫=「津田」にこそこの葛藤は課されるべきであり、実際課されてはいるが、「お延」の言動ほど明確化されているとは言えないだろう。

「お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接(つ)いだように、突然話題を変化した。行掛かり上全然今までと関係のないその話題は、三度目に又お延を驚かせるに充分な位突飛(とっぴ)であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った」(夏目漱石「明暗・P.377~378」新潮文庫)

「お秀の口を洩(も)れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは『愛』という言葉であった。この陳腐(ちんぷ)な有来(ありきた)りの一語が、如何(いか)にお延の前に伏兵(ふくへい)のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重(おも)な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである」(夏目漱石「明暗・P.378」新潮文庫)

「お延に比べるとお秀は理屈(りくつ)っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理屈を行為の上に運んで行く女であった。だから平生(へいぜい)彼女の議論をしないのは、出来ないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他(ひと)から注(つ)ぎ込まれた知識となると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴れた雑誌さえ近頃(ちかごろ)は滅多に手にしない位であった。それでいて彼女は未(いま)だ曾(かつ)て自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟(しげき)されずに済んでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった」(夏目漱石「明暗・P.378」新潮文庫)

「ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくする殆(ほと)んど凡(すべ)てであった。少なくとも、凡てでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁のない叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きを置くようになった。然しいくら自分を書物より軽く見るにした所で、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活(い)きて働いて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄(がら)にもない議論を主張するような弊に陥った。然し自分が議論のために議論しているのだから詰(つま)らないと気が付くまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分の道程(みちのり)があった。意地の方から行くと、余りに我(が)が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副(そ)ぐわないような理屈を、わざわざ自分の尊敬する書物の中(うち)から引張り出して来て、其所(そこ)に書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸(たま)を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分(くすんごぶ)の代りに、振り廻して見るような滑稽(こっけい)も時々は出て来(こ)なければならなかった」(夏目漱石「明暗・P.378~379」新潮文庫)

漱石の十八番。近代知識人に対する「からかい」。漱石自身にも似たようなところがあったせいか、手に取るようによくわかったに違いない。だからといって漱石と同程度の知識人となると、作品の登場人物にしても苛酷な台詞(せりふ)が割り振られている。例えば「坊ちゃん」における「赤シャツ」。こんなシーンがある。

「赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺(なが)めたが、咄嗟(とっさ)の場合返事をしかねて茫然として居る。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直して来なくってもよさそうなものだと、呆(あき)れ返ったのか、または双方合併したのか、妙な口をして突っ立ったままである。『あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任すると云う話でしたからで──』『古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです』『そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです』『君は古賀君から、そう聞いたのですか』『そりゃ当人から、聞いたんじゃありません』『じゃ誰からお聞きです』『僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母(か)さんから聞いたのを今日僕に話したのです』『じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね』『まあそうです』『それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そう云う意味に解釈して差支えないでしょうか』」(夏目漱石「坊っちゃん」・「夏目漱石全集2・P.350」ちくま文庫)

赤シャツの論理はまったく近代知識人の頭脳から出現してきた言葉だ。漱石がもし赤シャツの立場であれば、当然のように同様の台詞(せりふ)で対応したであろう。このように言葉一つ取っても、その責任の所在と責任の重さを計りにかけて一言一言吟味した上でようやく口に出せる発言でなければならなかった。言葉は常に社会的責任とともにあるほかなくなっていた。それは近代国家が成立していくための諸条件の中でも最も重要なポイントの一つであり、また責務ともなっていた。また、昨今の日本のように公的な場で責任のありかとその重さを問われたり問うことができたりするのが可能な理由は、こうした近代社会の苛酷さを受け入れることから徐々に始まり、いわゆる「ジグザグコース」を描きながら、一歩また一歩と身に付けていくほかない痛ましい歴史的過程を丹念に踏んできたからでもある。いまなお不十分な点は多々あるものの。ちなみに「明暗」が発表された一九一六年は森鴎外「高瀬舟」発表の年でもあるが、それと同時に念頭に置いておきたいことは、既にドイツでアインシュタインが「一般相対性理論」を発表した年でもあったという彼此の違いだ。両者は同じコースを違う速度で競争しなくてはならないわけではないのに、どういうわけか「追いつき追い越せ」の精神が注入されてもはや当然のようにいつも存在する空気のような気運を熟成させ始めていた。ともかく、近代社会が要求する苛酷さを受け入れない限り、でき得るかぎり「義理/人情/気まぐれ/思い込み/裁く側の趣味嗜好」などを排して、被害者側が加害者側に向けて公的な責任を追及する権利は得られなかったし、加害者側が被害者側からの追及に反論する公的な場を法的に設定することも認められなかった。

「問題は果して或(ある)雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれ程興味のあるものでもなかった。然しまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的な問題を、何処(どこ)かで自分の思い通り活かして遣(や)ろうと決心した」(夏目漱石「明暗・P.379」新潮文庫)

「彼女は稍(やや)ともすると空論に流れやすい相手の弱点を可成(かなり)能(よ)く呑(の)み込んでいた。際(きわ)どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それ程都合の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされる位なら、最初から取り合わない方が余っ程増しだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛り付けて置く必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にはいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、掘の愛でも、乃至(ないし)お延、お秀の愛でもなかった。ただ漫然として空裏(くうり)に飛揚(ひよう)する愛であった。従ってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺(ず)り卸(おろ)さなければならなかった」(夏目漱石「明暗・P.379~380」新潮文庫)

極めて重要な話がすうっと挿入してある部分。

「風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺(ず)り卸(おろ)さなければならなかった」、とある。要するに簡単に言えば「空論」を「唯物論」の地平へ移動させた上で改めて問いただそうとしているわけだが、江戸時代には、似たようなイデオロギーはあったにせよ、実際に使える論理的思考方法はまるでないに等しかった。だが近代知識人=漱石は、「お延」の戦術を通して「お秀」の中身のなさの程を、じんわりと明らかに暴露させたがっている。漱石がその種の加虐的な嗜好の持主だったことはまず間違いない。ただ、そうした加虐性にもかかわらず、それに満足してほくそ笑んでいるだけに終わらせたりはせず、また敢えて隠したりもせず、小説形式を借りて社会に向けて問い掛けたところが他の知識人とは大きく異なる凄みと自信の現われだったと言える。

「子供が既に二人もあって、万事自分より所帯(しょたい)染(じ)みているお秀が、この意味に於(おい)て、遥(はる)かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯(うけが)いながら、腹の中では、焦慮(じれっ)たかった。『そんな言葉の先でなく、裸で入(い)らっしゃい、実力で相撲(すもう)を取りますから』と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にすることが出来るだろうと思案した」(夏目漱石「明暗・P.380」新潮文庫)

漱石が知っており、また「お延」が葛藤している抜き差しならない「愛」というもの。「殺す/殺される/殺し合う」といった次元にまでとんとん拍子に飛躍-増殖することもしばしばある苛酷な恋愛関係。それが「お秀」においては「子供が既に二人もあって、万事自分より所帯(しょたい)染(じ)みているお秀が、この意味に於(おい)て、遥(はる)かに自分より着実でない」。作品「三四郎」では、美穪子を通して裏も表もなく体現されている一方、三四郎を通してしまうと意識下に限り満々とたたえられてはいるものの、表面上は無意識のうちにそこから逃げようと知らず知らず演じてしまっている「愛」というもののただならぬ正体とはこれだ。その意味で美穪子は「獰猛」な女であり、つまり「ごく普通の女」である。ちなみに三四郎では、美穪子は美穪子のいない所で「乱暴な女」と評される場面が出てくる。どこがどのように「乱暴」なのか。それはまたの機会に見ることにしよう。ただ、ここで述べておくべきは、この「乱暴さ」がなくても「妊娠・出産」は可能であるが、しかしこの「乱暴さ」のないところでは、逆に漱石の考える、あるいは「お延」のいう「愛」は一切成立しないということだろう。

「やがてお延の胸に分別が付いた。分別とは外でもなかった。この問題を活かすためには、お秀を犠牲にするか、又は自分を犠牲にするか、何方(どっち)かにしなければ、到底(とうてい)思う壷(つぼ)に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただ何処からか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とする所ではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟(しげき)に対して、真偽の吟味などは、要らざる斟酌(しんしゃく)であった。然し其所には又それ相応の危険もあった。お秀は怒るに違なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。最後に彼女はある時機を摑(つか)んで起(た)った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた」(夏目漱石「明暗・P.380~381」新潮文庫)

「『そう云われると、何と云って可(い)いか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証が付いていらっしゃるんだから』お秀の器量望みで貰(もら)われた事は、津田と一所にならない前からお延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女に取っては、羨(うら)やましい事実に違なかった。始めて津田からその話を聴かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬(しっと)を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐(ふくしゅう)をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題に就いて、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑(けいべつ)であった。それを表向さも嬉(うれ)しい消息ででもあるように取扱かって、彼我(ひが)の共通する如くに見せ掛けたのはあ、無論一片のお世辞に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄(ちょうろう)であった」(夏目漱石「明暗・P.381」新潮文庫)

ここでのお延の意識の流れは大変面白い。漱石によって畳み掛けられるお秀に対する「からかい」。しかしなぜそこまで「意地悪」したかったのだろうか、漱石は。もしかしたら作品中で、お延の性格に近いところが最も濃く描写されている箇所ではあるかも知れない。とはいえ、それを読んで理解できる今の読者はお延と同程度かそれ以上に「意地悪」あるいは「サイコ」な性格を備えていなければ到底理解できないはずだ。ところが、ほぼすべての読者には理解できる。この事実は何を意味しているだろうか。そして何を意味していないだろうか。

「幸いお秀は其所に気が付かなかった。そうして気が付かない訳であった。と云うのは、言葉の上は兎(と)に角(かく)、実際に愛を体得する上に於て、お秀はとてもお延の敵ではなかった。猛烈に愛した経験も、生一本(きいっぽん)に愛された記憶も有(も)たない彼女は、この能力の最大限がどの位強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏という諺(ことわざ)が正にこの場合の彼女を能く説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押し付けられた愛の判を、普通の証文のような積で、何時までも胸の中(うち)へ仕舞い込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中(うち)で、真面目に受ける程無邪気だったのである」(夏目漱石「明暗・P.381~382」新潮文庫)

お秀の「無邪気」。「知識人の無邪気」は時として危険である。漱石は諸外国の戦争や革命についてよく知っていたこともあってか、その危険性については熟知していた。だが、差し当たりここでは「中途半端な知識人の滑稽さ」に微笑できれば読者としては合格だろうし、そのような読者に上手く読んでもらえれば作家の側としても合格点をもらってもよいのでは、と漱石は思っていたに違いない。