二〇一七年三月十八日作。
(1)居心地が良過ぎる不気味だ
(2)解けないまま眠ってしまった机が固い
(3)でかでかと多数派の怪しい
(4)電子レンジで子宮こんがり浮気を味わう
(5)遅刻電車の酒臭さ求人誌を売る
(6)世慣れた声で新学期が近い
☞「《飽和》──システムの飽和は一つの転回点を示すと言うとき、われわれはシステム内に正反対の二つの傾向を区別できるだろうか。できない。飽和そのものが相対的なものでしかないからだ。マルクスが資本主義の機能を公理系として説明していたとすれば、それは特に、よく知られた利潤率の低下傾向についての章においてである。資本主義は、内在的な法則しか持たないからこそ、公理系なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226」河出文庫)
公理系についての論考を続けて見ていこう。
「資本主義は、宇宙の限界、資源やエネルギーの限界に直面するような振りをする。しかし資本主義はみずからの限界(既存資本の周期的な価値低下)に衝突するだけであり、資本主義が押しもどし移動させるのは、それに固有の限界だけである(利潤率の高い新しい産業における新しい資本の形成)。石油と原子力の場合がこれにあたり、二つが一諸になっている」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226~227」河出文庫)
「資本主義がその限界に衝突するのと。限界を遠くに押し退け、より遠くに設置し直すのは同時にである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「公理の数を制限しようとする全体主義的傾向が限界との対決であるとすれば、限界を移動させる傾向は社会民主主義的なものといえよう。ところがこの二つは他方なしでは進行しない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「異なった場所で同時に、または緊密に繋がり継起する時期に、他方が一方の上、さらには他方の中でというふうに、つねに同一の公理系を形成しながら進行するのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「典型的な例は、『全体主義と社会民主主義』とのあいだで曖昧な交代を繰り返す現在のブラジルだろう。一般に、公理系内の一つの場所から公理が除去され、別の場所に公理が付加されるとき、限界はより容易に移動する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「限界」は「移動する」、とある。限界であるにもかかわらず、境界線は常に既に移動可能/可動的である。カフカ読解で見てきた通り、この点は十分注目するに値する。
「公理レベルでの闘争を切り捨ててしまうのは誤りだろう。資本主義内、あるいは一つの資本主義国家内におけるすべての公理は、『回収』を意味すると言われることがある。しかしこの幻滅に満ちた概念はあまりよい概念とはいえない。資本主義という公理系のたえまない手直し、つまり付加(新しい公理の言表行為)と除去(排他的公理の創設)は、決してテクノクラートだけの課題ではない闘争の目標なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「事実どこでも、労働者の闘争は、とりわけ派生的命題にかかわる企業という枠組を逸脱するものだ。闘争は直接、国家の公的支出を決定する公理や、国際組織(たとえば、多国籍企業はある国に置かれた工場の閉鎖を勝手に計画できる)にかかわる公理を対象にする。これらの問題を担当し、世界規模の労働にかかわる官僚機構やテクノクラートたちによる脅威そのものを祓いのけるには、局所的な闘争が国家レベルや国際レベルの公理を直接の標的としつつ、まさに公理が内在性の場に挿入される地点で行なわれなければならない(この観点から注目されるのは農村地帯における闘争の潜在性である)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227~228」河出文庫)
「公理と、現実の生きた流れのあいだには、基本的な違いがつねに存在している。公理は、制御と決定の中心に流れを従属させ、その一つ一つに切片をあてがって、その量を計測する。しかし生きた流れの圧力、流れが課し、強いてくる問題の圧力は、公理系の内部において作用しなくてはならない。全体主義的縮小に対して闘争するためにも。公理の付加を追い越し、加速し、方向付けてテクノクラートたちの倒錯を妨げるためにも」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226~228」河出文庫)
思い出そう。カフカ「城」における可動的な「柵」を。境界線は可動的である。資本主義的官僚主義的機構は民間であろうと役所であろうと、役割の分担こそなされてはいても、所詮、資本主義に隷属するほかない。いつも述べているように、民間の官僚主義化と官僚の民間企業化は同時かつ加速度的に浸透し合っていく。
「司法は、むしろたえず伝わって来る音(言表)のようなものである。《法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する》。『訴訟』とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。──つまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。バルナバスは《事務局に入って行きます。でもそこはやはり全事務局の一部分でしかなく、さらに柵がいくつもあるし、その先にはまだ別の事務局がいくつもあります。彼はかならずしもさらに先へ行くことを禁じられているというわけではありません──こうした柵をあなたもある決まった境界のように思ってはいけません──だから彼が通りすぎる柵もありますし、そうした柵は彼のまだ通り抜けていない柵と違っているようには見えません》。司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.103~104」法政大学出版局)