コジェーヴによるヘーゲル読解の続き。今回取り上げる箇所はこれまで以上に、あるいは多少難解かも知れない。けれども実をいうと、そこで語られていることは決して難解でも何でもない。勿論、コジェーヴの力量による部分は大いにある。だがそれ以上にマルクス並びにハイデッガーによるヘーゲル読解の歴史に負う部分はもっと大量にある。測り知れないほどある。コジェーヴ自身、マルクス並びにハイデッガーによるヘーゲル読解から、その成果を大量に吸収した形跡を隠していない。むしろ逆に「丸出し」と呼んでも構わないほど惜しみなく披露している。
「以上のように、ヘーゲルが自己の哲学の大要を粗描した『精神現象学』の序文中の一節を分析するならば、この哲学において死の観念が果たしている本源的な役割が明らかになる。死の事実、或いは自己自身を意識する人間の有限性の事実をためらわずに受容することがヘーゲルの全思想の究極の源泉であり、彼の思想はもっぱらこの事実の現存在からそのすべての帰結を、最も隔たった帰結をも引き出しているのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.374」国文社)
「この思想によれば、《人間》はまったくの尊厳を求める《闘争》の中でみずからの意志により死の危険を受け容れることによって初めて《自然的世界》の中に現われ、死を甘受しかつまた自己の言説により死を開示することによって、最期に《絶対知》或いは《知恵》に到達し、かくして《歴史》を仕上げるに至る。このような思想がヘーゲルに生まれたのは、彼が死の観念から思索を始め自己の《学》、『絶対的』哲学を練り上げたからであり、このような学だけが、自己の有限性を意識し、時に自在にこの有限性に対処する有限な存在者が《世界》に現存在するという事実を哲学的に説明しうると見て取ったからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.374」国文社)
「死を開示する」、「自己の有限性を意識し」、などの専門用語。ハイデッガーからの強い影響がうかがえるに違いない。だからといって簡単にハイデッガー信者になってしまわないところは、さすがにコジェーヴの真面目さ、学者としての態度、ユーモア・センスなど様々な知性の引き出しの質の高さを思わせて余りある。
「このようにして、ヘーゲルの《絶対知》或いは《知恵》と、完全かつ決定的な無化として把握された死の意識的な受容とは不可分の一体をなしている。ヘーゲル自身、このきわめて重要な序文の他の一節においてこの点をはっきりと述べている。このまったく驚くべき一節を読むことによって初めて、ヘーゲルの思想の究極的な動機が捉えられ、その真実が把握され、それが及ぶ全域が理解されるのである。この一節の本文はおよそ次のように翻訳することができる。──†分離の活動は、《悟性》という、〔すなわち〕最も驚嘆に価し〔あらゆるもののうちで〕最も大きい威力、或いはむしろ絶対的な〔威力〕のもつ力であり労働である。それ自身のうちで完結し〔たままに〕安らい、そのもろもろの契機を、実体〔が保持する〕ように保持する円環は直接的な関係であり、したがって何ら驚嘆に値しない。だが、自己の周囲から分離された偶有的なものそのものが、かくして結び付けられたもので他の物との連関においてのみ客観的に実在するものが、独立の経験的-現存在と、分離され孤立した自由とを得るという〔こと〕は、《否定的なもの》のもつ驚くべき威力〔を表現している〕。それは、思惟の、純粋抽象-《自我》のエネルギーの致すところである。死とは──その非実在性をこのように呼ぼうとするならば──最も恐るべきものであり、死せるものを見据えることは、最も大きな力を要することである。力なき美は悟性を憎悪する。なぜならば、悟性は美には為しえないことを美に要求するからである。だが、《精神》の生は死の前に脅えその暴威から自己を守る生ではなく、死を耐え忍び死の中に自己を保つ生である。《精神》は絶対の分裂の中に自己自身を見いだして初めて自己の真理を得るのである。我々は或る事物について『これは何物でもない』とか『これは偽である』などと言い、〔そのようにして〕それを片付け何か他のものに移って行くが、精神がこの〔驚嘆すべき〕威力であるのは、そのように《否定的なもの》から眼をそらす《肯定的なもの》だからではない。そうではなく、《精神》がかかる威力であるのは、《否定的なもの》と面と向かいそれを凝視しその許に踏み留まることにのみよっている。このように踏み留まることが《否定的なもの》を所与-《存在》へと転ずる魔力である。この〔《精神》の威力つまり魔力〕は先ほど《主体》と呼ばれたものと同一のものである。すなわち主体は自己〔固有〕の境地のうちで特殊な規定に経験的現存在を与え、これによって抽象的《直接態》すなわち単に一般に《所与存在として現存在》するにすぎぬ《直接態》を弁証法的に揚棄し、この揚棄によって真の《実体》であるもの、〔すなわち〕所与《存在》或いは《直接的》でありながら、自己の外に《媒介》をもたず、それ自身がこの《媒介》であるところのものなのである。†──この一節の冒頭はやや謎めいているが、他の部分はまったく明快かつ一義的であり誤解の余地がない。この冒頭を把握するためには、以下の事柄を心に留めておかねばならない。すなわち、哲学とは《知恵》の追求であり、《知恵》とは自己意識の充溢である。したがって、《知恵》を渇望しそれを追い求めながら、ヘーゲルは、究極において、自己を、つまり在るがままの自己と自己のなすこととを自己自身及び他者に説明しようとしているのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.374~376」国文社)
ヘーゲルからの引用が長過ぎて何が何だかわからなくなりそうになる。他の訳文も参照できればしておこう。例えば、ヘーゲル「精神現象学・上・P.48~50」(平凡社ライブラリー)。
コジェーヴに戻ろう。
「ところが、真に人間的な彼の現存在が帰属する彼の活動は、自己の存在及び自己にあらざる存在を自己の言説によって開示する哲学者もしくは《賢者》のそれである。したがって、哲学者として思索するとき、ヘーゲルは何よりもまず彼自身の哲学的な言説を説明しなければならないことになる。さて、この言説を考察しながら、ヘーゲルは、ここで問題であるのは受動的な所与ではなく、『労働』と呼ばれうる『活動』の結果であり、そしてこの活動が彼が『《悟性》』と呼ぶものから得られるきわめて大きな『力』を要求するものである、ということを確認する。それによって彼は《悟性》が一つの『威力』であることを確認し、この威力が爾余のものすべてに『勝り』、まったく『驚嘆に値する』と述べるわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.376」国文社)
「明白に、ここで『《悟性》』は《人間》における真に人間的かつ人間特有のものを意味している。なぜならば、人間を動物や物から区別するものは言説の能力だけだからである。それはまた、どのような哲学者であれ哲学者である限りどんな哲学者の中にも、したがってヘーゲルの中にも存在する本質的なものであり、したがって問題は挙げてこれが何であるかを知ることに還元される。《悟性》(=《人間》)は己れを『《分離》という活動』の中で、そしてそれによって、より正確には『《分離する》活動』として顕在化する『《絶対的な》威力』である、とヘーゲルは述べる。だがなぜ彼はこう述べるのであろうか。それは、《悟性》の活動、すなわち人間の思惟が本質的に《言説による》からである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.376~377」国文社)
「《人間》は稲妻のように一瞬にして実在するものの総体を開示するのではない。すなわち、人間はこの総体をただ一つの語-概念で捉えるのではない。総体を開示できるようにその契機を総体から《分離し》、孤立した語句や部分的な言説によってこの契機を逐次開示していくのであり、実在の総体が同時的なものであっても、それを開示できるのは、時間の中で展開される彼の言説の全体だけである。だが実は、これらの契機は時間的、空間的、さらには物質的に不可分の関係によって互いに絡み合い一つの全一体を構成しており、この全一体からそれを《分離することができない》。したがってその《分離》はまったく『奇蹟』であり、この分離を為す威力はまったくもって『絶対的』と呼ぶにふさわしい」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.377」国文社)
「ヘーゲルが念頭に置く《悟性》の絶対的な力ないし威力は、究極のところ、《人間》の中に見いだされる《抽象》の力ないし威力にほかならないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.377」国文社)
「《人間》の中に見いだされる《抽象》の力ないし威力」、とある。ただ単に「主観性」と呼んだりもする。しかしヘーゲルのいう主観はただ単に固定された意味で受け取られがちな主観ではまったくない。そのような意味ではなく、ありとあらゆる対象を手前勝手に絶滅してみたり、気まぐれにでも再び再生させたり、実際には何百キロも離れた物を手元に出現させてみたりもする主観である。その意味で「《抽象》の力ないし威力」なのであり、それは「絶対的」であると言われる。
「或る任意の対象を孤立的にそれだけで記述しようとするとき、爾余のものは捨象される。例えば、『このテーブル』や『この犬』について語るとき、あたかもそれらだけがこの世に存在しているかのように語る。ところが実際には、その犬やテーブルは実在するものであり、実在する《世界》の中で特定の時に場を占めており、その周囲のものからそれらを分離することはできない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.377」国文社)
「だが、思惟によってそれらを孤立させる人間は、この思惟において好きなようにそれらを結び合わせることができる。例えば、今述べたテーブルと犬とが実際には今何万キロメートルも離れているとしても、その犬をこのテーブルの下に置くこともできるわけである。いったい、実在するどのような結合力、反撥力もこれに対抗できるほどに強くはない以上、この物を分離し再び結び合わせる思惟の威力は実際『絶対的』なものである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.377~378」国文社)
「しかもこの威力は何ら虚構の、もしくは『観念上』の力ではない。なぜならば、自己の言説による思惟において、そしてそれにより物を分離し再び結び合わせることによって人間は人為的な企図を形成し、これがいったん労働によって実現されるやいなや、所与の《自然的世界》の相貌を現に変貌せしめ、その中に《文化的世界》を創造するからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.378」国文社)
「文化的世界」、とある。いわゆる歴史的建造物、古典文学の舞台、古い伝承、遺跡なども或る程度は含まる時もあるにはあるが、主として「文化的」なものと言う時、現実的な効力を発揮する「文化」は、「法律/経済/社会制度/諸宗教/諸民族の歴史」などである。今の日本を含む東アジア諸国では大変しばしば「文化的事業に力を入れて行きたい」というキャッチ・フレーズが一般大衆の間では受けるようだ。ところがそれは世界の中のほんの例外に過ぎない。なるほど間違いではないものの、方言あるいは放言レベルでしかない。もっと政治的経済的レベルで公然と発言される「文化」は、もちろん、歴史的建造物、古典文学の舞台、古い伝承、遺跡などといった「副産物的」なものではなく、歴史的な原動力として実質的に成立してきたもの、要するに「法律/経済/社会制度/諸宗教/諸民族の歴史」などを主軸としているし、「文化的」という言語の中心的な意味は、よほど世俗的なマスコミででもない限り、以前からずっと「法律/経済/社会制度/諸宗教/諸民族の歴史」などを主軸としてきた。事実、社会保障制度/労働賃金/教育制度/金融関連諸機関/職場の整備/裁判所など、多岐に渡っている。文化の原動力はまた同時に労働から始まるほかない。しかしそこで「文化」と聞いて、もし「テレビに映し出されている古いお城」を思い浮かべる人々がいるとすれば、残念ながらそういう人々は今後もずっと世俗的政治力の餌食として延々地下世界を這いずり廻って生きていくか、しばらくして野垂れ死ぬしかない。それでもまだ「まし」なほうであって、日本の変わった風習の中で暮らしていてはわからない、ごく普通の文化圏では、「テレビに映し出されている古いお城」をテレビで見ただけで毎月給料がもらえるわけではない、と誰もが肝に銘じて知っている。だが、なぜか日本人はそれほどにも大事なことをすっかり忘れ去ってしまって平気で笑っているようなところがある。今なおある。「お人よし」と言えば失礼に当たる。だからそうは言わない。周囲はただ黙って見ている。だが世界中でも珍しく、うまく手なずけられやすい国民に映って見えていることはもはや疑いようがない。
「一般的に、或る実在するものの《概念》が創られるとき、このものは、その《今とここ》から引き離される。或る事物の概念は、その《今とここ》から引き離されたものとしてのこの事物それ自身である。したがって、この犬が今ここにおり、他方その概念が至る所にあるとともにどこにもなく、つねにあるとともにいかなる時にもないという点を除けば、『この犬』という概念はそれが『開示する』具体的な実在する犬と何ら変わりがない。さて、或るものをその《今とここ》とから引き離すことは、このものが一部となっている所与の時間的-空間的な宇宙の爾余のものによって一義的に限定されている『物質的』なその支えからこれを分離することである。だからこそ、このものは概念となった後に好きなように操られ『単純化』されうるわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.378」国文社)
「概念となった後に好きなように操られ『単純化』されうる」。個人が先にあるわけでは決してない。そのような事態はあり得ようもない。まず概念的に人間という類いの分類がなされる。その後で、ようやく「個人」という分離や割り当てが遂行でき得るのであって、その逆ではない。
「このようにして、この実在する犬は概念として単に『この犬』であるだけではなく『任意の犬』や『一般に犬と呼ばれるもの』や『四足獣』や『動物』等々に、まったく単純に『存在』にすらなりうるのである。再度繰り返すならば、もろもろの学問や芸術や技能の根源にあるこの《分離》の威力は、《自然》がいかなる有効な抵抗もできない『絶対的』な威力である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.378」国文社)
「主観〔主体〕」の「絶対的威力」について。別のところでヘーゲルはこう述べている。
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」・「ヘーゲル全集7・P.75」岩波書店)
極めて俗な世間話の用語を用いて譬えれば、こんな感じ。「主体は白い。客体は黒い。そこへ主体がやって来て客体〔対象〕に対して否定的〔積極的〕に働き掛け始めた。すると黒い客体はじわじわと浸透され、遂には白い主体によって隅々まで浸透されきってしまう。否定性というのは客体〔対象〕に対して主体の側の欲望で全面的に加工しようとする(染め上げる/洗脳する)行為である。要するに、始めは黒かった客体は、次第に白い主体に浸透され尽くしてしまい、客体もまた白くなる。だけでなく、浸透された後は両方とも白い。いまや主体も客体も同時に白い。従ってどちらが主体でどちらが客体であったか、もはや見分けることは不可能になっている。さらに人間というものは主体〔否定的侵略的欲望〕であると同時に客体〔加工される側〕でもある」。だが歴史はそこで終わるわけではない。さっきまであった客体は完全に崩壊して今ではすべてが白く見えているけれども、それは同時に次の新しい主体を生じさせる契機として作用する。
先に「個人」があるなどという論理がいかに馬鹿げた、一般大衆を馬鹿にした論理であるか。アドルノは容赦なく暴露している。
「個人などというのはたとえて言えば毛筋一本残さず根絶やしにされる時代である、というのはまだ考えが甘い。完膚なきまでに否定され、連帯を通じてモナドの状態が解消されるのであれば、そこに自ずから個体の救いの道もひらけてくるわけで、もともと個体は普遍的なものと関係づけられることによって始めて個別者となるものなのである。ところで現状はそうしたことからよほど遠いところにある。かつて存在したものが根こそぎ消滅したというわけではないのだ。むしろ歴史的に命運の尽きた個人が、生命を失い、中性化され、無力化したていたらくで引きずられ、徐々に深間に引きずり込まれていくという形で禍いが生じているのである」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.201」法政大学出版局)