ナチス・ドイツを自滅させ、ロシア革命を消化し、旧ソ連を崩壊させ、新自由主義的アメリカをラストベルトだらけにして政権崩壊へ叩き込んだ資本主義とは一体何なのか。「公理系」を持つだけでなく、その公理系は移動する。可動的な公理系とはどのようなシステムに従っており、またシステム自身をどのようにしてどんどん更新させていくものなのか。
「資本主義が始まるのはコードによってではなくて、公理系によってであるとしても、資本主義が社会体を⦅あるいは社会機械を⦆まとまった一群の技術的諸機械にとりかえたのだと考えてはならない。社会機械と技術機械というこの二つの型の機械は、正確にいって、両者とも、隠喩ではなしにまさしく二つの機械であるが、この両者の間の本性の相違は依然として存在する。資本主義の独自性は、社会機械が不変資本としての技術機械を部品としており、人間を部品としているのではないということである。不変資本は、社会体の充実身体の上にとりつき付着しているものなのであり、人間は技術機械に付属しているものなのである(この点から、原理的に登記はもはや直接的には人間を対象としないあるいは少なくとも対象とする必要はないであろうということになる)。ところが、もともと、公理系というものは、それだけでひとつの単純な技術機械なのでは全くない。自動的な、あるいはサイバネティックな技術機械でさえもない。ブルバキは科学の種々の公理系について、このことをはっきりとこう語っている。それらの公理系は、テーラー体系を構成するものでも、孤立した諸公式のメカニックな機能を構成するものでもない。それらは、むしろ種々の構造の反響や連接と結びついた〔全体把握的な〕『直観』を含むものなのである。ただし、これらの直観が、技術の『強力なテコ』によって補助されているというだけのことである、と」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.301」河出書房新社)
公理系は脱コード化していくほかない資本主義的な流れを調整して「政治経済体制としての資本主義」に有利な水路を創設するために常に既に機能している。ただ、そのすべてが目に見える機械ではないし、ほとんど目に見える道具とか機器のようなものでもない。以前述べたが、人間の頭脳の働きの中でも無意識のうちに身に付いている権力意志こそ、その多くを占める原動力的位置にある。だから、ほとんど目に見えるようなことはあるはずもないのだ。しかしその実現された形態では、社会的な「きまりごと」の一つとしてごく当り前に存在している時期もあれば、唐突に廃棄されたりもする。
「こうしたことは、社会の公理系については、いかにいっそう真実であることか。すなわち、この社会の公理系が自分自身の内部を充実する仕方、この公理系がその極限を押し返し拡大する仕方、この公理系がみずから体系の飽和化を防いで、さらに種々の公理を付け加える仕方、この公理系がきしみを生じ調子の狂いを通じて復調することによってしか作動しない仕方、こうした仕方はすべて、決定し管理し反応し登記する社会諸器官を前提としている。つまり、種々の技術機械の作用には還元されないテクノクラシーや官僚制を前提としている。要するに、種々の脱コード化した流れの連接や、これらの間の微分の比や、さらにこれらの流れの多様な分裂や裂け目、こういったものはすべて全面的に調整を要求するものであり、この調整の主要器官が《国家》なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.301~302」河出書房新社)
社会の極限を越えていく存在が「分裂症的」であるとすれば、社会の極限を設定し、その極限を資本主義に有利に働くように置き換えたり押し返したりしながら、その都度その都度の資本主義を常に有利な位置に位置づけるほとんど万能的でさえある調整器のことを指して「公理系」と呼ばれる。そしてこのような「調整の主要器官が《国家》なのである」。
「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)
資本は脱コード化していくものだし、脱コード化している限りで資本は資本主義社会を形成することができる。そしてそれはまた世界資本主義を成立させるに至った。しかしこの成立のために必要だったのは、ただ単なる資本主義というイデオロギーではない。むしろ一方通行的な目に見える暴力的装置としての資本主義では多分無理だっただろう。そのような方法では資本主義反対運動の側も同時に盛り上がってくる。ロシア革命を何度も繰り返させることになる。そうではなく、ロシア革命を消化して資本主義の内部に内在化させてしまうという新しい公理を発明し、実際にロシア革命を消化したばかりか、ソ連崩壊まで持って行った調整器こそ「公理系」であり、その主催者は濃淡の違いはあれ、ありとあらゆる資本主義「国家」である。旧ソ連の場合も、資本主義的流通貿易なしに国家を継続していくことは不可能だと明言された時すでに、徐々にではあれ、公理系の導入が検討されていたと考えるほかない。
「資本主義《国家》は、まさに<具体的なるものになる>ということを成就しているということになる。つまり、抽象的な専制君主《原国家》が〔歴史の中で〕発展してゆく過程で、われわれには重要な役割を演じたように思われたあの<具体的なるものになる>ということを。資本主義的《国家》は、超越的統一体の立場から、社会的諸力の場に内在するものとなり、これらの諸力に奉仕するものとなって、脱コード化し公理系化した種々の流れに対して調整者の役割を果しているからである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)
「《原国家》は超コード化によって規定されていた。ところが、この《原国家》から派生したものは古代ポリスから王制《国家》に至るまで、既に、脱コード化した、あるいは脱コード化しつつある種々の流れに現前しており、これらの流れは、確実に《国家》を次第に現実の種々の力の場に内在させ従属させていったのである。しかし、まさに、これらの流れが連接の関係に入るための状況が与えられなかったために、《国家》は、超コード化の断片や種々のコードの断片を残存させるなり、あるいはそれに見合う別のものを発明することに満足して、全力をもって連接の働きが起ることを妨げることさえしていた(そして、その他のことといえば、できうる限り《原国家》を甦らせることを目標としていたのだ)」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)
脱コード化する流れへの過程は古代ギリシア時代から既にあった。だが、それはまだもっと時間をかけて熟成されねばならない。高利貸しが商売として成り立っているからといって、それが世界を股にかけて接合=ネットワーク化された資本主義機構として成立していたわけではまったくないからだ。全面的な繋がりを持たないうちは、高利貸しがいようといまいと、その社会を資本主義社会と呼ぶにはまだまだ随分隔たりがあるのである。
「ところが、資本主義《国家》は、これとは異なる状況の中にある。この《国家》が生みだされるのは、脱コード化しあるいは脱土地化した種々の流れが連接することによってである。そしてこの『国家』が<内在的なるものになること>を最高度に実現することになるのは、この《国家》が種々のコードや超コード化の普遍的破綻を承認する限りにおいてであり、またこの《国家》が、これまでには知られていない性質をもった新しい連接公理系の中で全面的に展開する限りにおいてである。さらにかさねていえば、この《国家》が、あの公理系というものを発明したのではないのだ。何故なら、この公理系は資本そのものと一体をなしているからである。逆に、この《国家》はこの公理系から生まれ、この公理系の結果であり、この公理系の調整を保証するものにすぎないのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302~303」河出書房新社)
強調しておこう。「逆に、この《国家》はこの公理系から生まれ、この公理系の結果であり、この公理系の調整を保証するものにすぎない」ということを。
「この公理系においては、不調がこの公理系の作動する条件をなしているが、この《国家》は、こうした条件としての種々の不調を調整したり、あるいは組織したりさえする。この公理系は飽和を進行させ、それに応じて自分の極限〔境界線〕を拡大するが、この《国家》はこうした進行や拡大を監視し指導するのだ。ひとつの《国家》が、経済力の兆候に奉仕するために、これほどまでに力を費やしたことは、これまでにはなかったことである。だから、資本主義《国家》は、何といわれようと、始めから⦅つまり、まだ半ば封建的、あるいは半ば君主制的な形態の中にそれがはぐくまれていたときから⦆、こうした役割を極めて早々ともっていたのだ。すなわち、『自由な』労働者の流れの見地からいえば、人手と賃金との統制がそうであるし、商工業生産の流れの見地からいえば、資本蓄積の好条件となる専売特権の付与や過剰生産の弾圧といったものが、そうである。自由な資本主義というものは、決して存在したことがなかったのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303」河出書房新社)
資本の流れに「不調」は付きものだ。だからこそ脱コード化していることもわかるのだが、しかし国家は介入するし、介入しないではいられない。「不調がこの公理系の作動する条件をなしているが、この《国家》は、こうした条件としての種々の不調を調整したり、あるいは組織したりさえする」。また「公理系は飽和を進行させ、それに応じて自分の極限〔境界線〕を拡大するが、この《国家》はこうした進行や拡大を監視し指導する」。国家が資本主義を作ったわけではなく、資本主義的機構が絶えず起こしてしまう「不調」を整理整頓して資本にとって通常の拡大発展を維持させるために、資本主義の側が国家を隷属させて公理系を調整器として扱わせ、資本が資本主義のために常に既に有効に作動しているか監理監督させるようになった。国家は資本主義以前から存在したにもかかわらず、資本主義が成立するや否や立場を逆転させ、今度は資本主義の側が国家の上に立ち、資本主義社会を創設してくれた国家を資本主義に奉仕するための装置として隷属させるようになった。今や資本主義は公理系という調整器を国家に与え、資本主義の永遠の延長のための監理統制の役割を世界的規模で国家に任せている。
「種々の専売特権に対する抵抗運動といったものは、〔端的な自由の要求ではなくて〕何よりも商業資本、金融資本が、まだ古い生産体系と同盟関係にある時機と、そしてまた生まれつつある産業資本主義が、これらの専売特権の廃止を獲得することによってしか生産や市場を確保しえないといった時機とかかわりがあるのだ。《国家》が適切に行動するということを前提とすれば、専売特権に抵抗する行動の中には、国家による統制という原理そのものに対する闘争は何ら含まれてはいない。このことは、重商主義が次のようなものである限りにおいて、この重商主義の中に明らかに見てとれることである。つまり、これまでは生産の中で直接的に利益を確保するものであった資本に対して、重商主義は、この資本が新しい商業的な機能をもつに至ったことを表現している限りにおいて。一般的にいえば、国家による統制や調整が消滅したり減少したりすることになるのは、人手〔労働力〕が豊富に供給され、市場が常になく拡張する場合においてのみである。すなわち、《資本主義が、十分に大きい種々の相対的極限の中で、極めて少数の公理によって作動している場合においてのみである》。こうした状況は、ずっと以前から存在しなくなってきた。このような事態になってきた決定的因子と見なされなければならないのは、強力な労働階級の組織化である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303」河出書房新社)
資本主義は拡大=増殖することを自己目的とする。そして実際、世界を手に入れた。次にはそれを何度も繰り返し手に入れなければならない。資本主義を永続させていくことが自己目的と化している。ところが拡大=増殖する傾向に対して、また別の傾向が生じてくるのは歴史的であるとともに脱コード化する社会においては必然的な流れである。そもそも脱コード化の流れはもっと大きな果てしのない流れだった。しかし資本主義はすべての脱コード化を許すわけではまったくない。その都度その都度の資本の欲望に適合した流れだけを、その流れのみに限り、増殖させていくことを自己目的とする。だからそれ以外の脱コード化する流れを上手く取り込み調整-改変して、その都度その都度の時期に支配的な資本においてのみ有利な調整器を資本主義社会の内部へと何種類も取り込んで消化していかなくては生きていけない。資本主義は利権獲得=自己増殖をひたすら目指して世界をどんどん繋げていく。世界を繋げれば繋げるほど、その同じ作業が、反資本主義的流れをも生み出すに至る。資本主義は自分で作った増殖装置の効果の結果として生じてきた労働運動の世界化に直面しなければならない。その最大の試練はロシア革命という事態となって出現してきた。しかし資本主義は誰も思いもかけなかった手法を発明した。この発明はロシア革命に真正面から対立することで発見されたわけではない。いわゆる「ジグザグコース」という歴史の運動の中から、結果的に資本主義が獲得することになった「新しい公理系の創設」という手法にほかならない。
「この階級は、安定した高度の雇用水準を要求し、資本主義にその公理を増加することを強制するからであり、これと同時に資本主義はたえず拡大する規模において自分の種々の極限を再生産しなければならなかったからである(中心から周辺へと向かうおきかえの公理)。資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)
こうある。「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができた」。そしてさらに、今ではもはや万能に近いと言ってもいいほど、新種の公理系を日々付け加えたり、もう古くなって使い物にならなくなった公理系をこなごなに叩き壊して焼却したりと、せわしなく稼動している。また、新しい公理系を付け加えるに当たって重要なのは、公理系が稼動するためには、公理系自身が「可動的」でなくてはならないということだろう。そして公理系が実際に可動的であるのはどのような条件の下でか。始めに述べた原初的な脱コード化の流れそのものが極めて自由な動きを取ることができる限りにおいてである。しかし脱コード化していくばかりの巨大なエネルギーの流れを放置することもまたできない。そこで再び脱コード化していく限界なき流れに対して限界を設置して調整する。この調整する調整器のことを公理系と呼ぶのだが、資本主義から与えられた公理系を実際に適応して脱コード化の流れを、暴力的にも軍事的にも、その都度その都度の資本に有利な限界の内部に縛り付け縛り上げるのは国家の役割である。その意味で国家は資本主義に従って資本に忠実に隷属する場合に限り、或る一定の権限を与えられる。ただ、暴力的-軍事的とはいえ、殴る蹴るとかいう粗雑な行為ではまったくない。むしろ人間の目には逆に洗練された極めて優雅な行為に映って見えることが多々ある。なるほど創成期の資本主義社会では、始めのうちはよく見えていた時期も確かにあった。が、今ではほとんど見えなくなってしまっている。そのぶん、暴力性-軍事性の度合いは桁違いに増したと言えるだろう。
この作業は余りにも速く行われるので、一般的に人間の目に見えない。というより、何と言って表現していいのかわからないうちに速くなされる変化であるため、この速度自体が暴力を遥かに通り越して、ともすれば芸術的に見えるというわけだ。ニーチェはこう言っている。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。──要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)