道元は認識ということについて徹底的に考え抜いた仏教者の一人である。
「人の認識には障りがあることは明白である。一つの現象もそのままには認識することはない、物自体とは何も認識しえないものだと疑い惑っていてはならない。ーーー空は隠れもない、山も水も隠れもない、だが隠れもない明々なものこそ、その真実は窺い知ることが困難であるーーー、秘密とは隠れもないもののうちに潜んでいるものなのだ」(道元「現代語訳 正法眼蔵1・第六・行仏威儀・P.122~123」河出文庫)
仏法を極めることによって、物の「自体」を知ることができる、とまでいう。しかし今なおそれを成し遂げた人はどこにもいない。しかし道元の探求は少なくともカントの認識論にまでは到達している。
カントはいう。
「たとえ私が純粋悟性によって、《物自体について》何ごとかを総合的に言い得るとしても(だがこれは不可能である)、私はこのことを現象に関係させるわけにはいかないだろう、現象は物自体を表示するものではないからである。それだから現象に関係する場合には、私は私の概念を先験的反省において常に感性の条件のもとで互に比較せねばなるまい。すると空間および時間は、物自体の規定ではなくて、現象の規定であるということになる。また物自体がなんであろうとも、私はそれを知らないし、また知る必要もない、私にとっては、物は現象においてしか現われ得ないからである」(カント「純粋理性批判・上・P.352~353」岩波文庫)
「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものではない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、ーーー物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということについては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する」(カント「プロレゴメナ・P.80~81」岩波文庫)
しかしエンゲルスは、そのような観念論的認識論の次元とはまた違っていて唯物論的観点から次のように述べている。
「こういうところへ、新カント派の不可知論者があらわれてきていう、物の性質を正しく知覚することはわれわれにもできるかもしれないが、感覚的、ないし思惟的な過程では、『物自体』を把握することはできない。この『物自体』はわれわれの認識の彼方にある、と。これに対してはとうの昔にヘーゲルは答えている、諸君が物の性質について何もかも知ったとき、そのことは物自体がわかっていることになる、われわれがいなくてもその物が存在しているという事実がある、それだけでたくさんではないか、しかも、諸君の感覚によってこの事実を知ったのだ、諸君はその物自体を残るくまもなく知ったのだ、カントの有名な認識不可能な《物自体》とはそれだと。これに付け加えてわたくしはいいたい、カントの時代には自然の物体に関するわれわれの知識は、極めて断片的であったので、カントもその自然物についてのわれわれの僅かな知識の背後に何かまだ神秘な『物自体』があるかもしれぬといったのであろう。だが、科学のすばらしい進歩によってこれらのわかりにくかったものがつぎつぎに把握され、分析されたのである、それどころか、《再生産》されるまでになったのだ、いやしくも、われわれが作りうるものを、われわれが認識しえないとは考えられない」(エンゲルス「英語版への序文」『空想より科学へ・P.107』岩波文庫)
なるほどその通り、といえばいえるだろう。実際、科学の世界ではもうすでにゲノム編集が行われている。人間だけでなく動植物の根源には遺伝子の系列がある。生命は遺伝子という物質的言語系列から発生してくるということがわかってしまっている。科学の発達は人為的操作によるその置き換えすら可能なものにしてしまった。エンゲルスのいうようにそれらの《再生産》すら可能になっている。したがって哲学の世界では「物自体」について今なお何かを考察している場合かという焦燥感さえ漂っていることは確かだ。けれども、遺伝子はそれだけから発生してくるわけではない。宇宙論的世界の総体的諸力の運動によって遺伝子レベルのあらゆる物質もまた常に変容の危機と可能性とに晒されている。だからむしろなおさら、それら世界の動向をよく見据えつつ、あえて哲学という立場の再構築を、そして再構築の《創造的》反復を、なおのこと一層強力に押し進めていくほかないようにおもえるのである。
ヘーゲルによるカント哲学の差し当たっての評価は以下。
「古代エレア学派は主として、その弁証法を運動に対して適応した。プラトンは、しばしばこれを彼の時代の、特にソフィスト達の諸々の観念や概念に適用したが、しかしまた純粋なカテゴリーや反省規定に対しても適応した。高い知性をもった後期懐疑論は、弁証法を直接的な、いわゆる意識の事実や日常生活の格率に適応したのみならず、また一切の学的概念にまでも押し拡げた。ところで、このような弁証法から引き出される結論は一般に、そこに述べられる各主張の《矛盾》と《空しさ》とである。しかし、このことは二様の意味をもつことができる。ーーー一つは、客観的意味におけるそれ〔矛盾と空しさ〕であって、このようにそれ自身において自分に矛盾する《対象》が自分を止揚するものであり、それ自身として空しいものだということである。例えば世界、運動、点について、その《真理》を拒否したエレア学派の結論が、それである。ーーー他は《認識が欠陥をもつものだ》とする主観的意味におけるものである。ところで後者の結論は一方では、弁証法がただ誤れる仮象の手品をやるものにすぎないという意味に解される。これは《感性的》な明証と《習慣的な観念や言説》を後生大事に守るところの、いわゆる常識のとる日常的な見解である。ーーーそれは時には犬儒ディオゲネスが黙って、あちらこちらと歩き廻ることによって運動の弁証法の弱点を暴露した時のように、平穏な形をとることもあるが、またしばしば、弁証法を一体に戯(たわ)け事と見、殊にそれが人倫上の重大事件に関するものである場合には、本来不動のものであるはずの事柄を動揺させようとし、悪徳に屁理屈をつける不埒な所業として弁証法に憤りをぶちまけることにもなる。ーーーそれは即ちソフィストの弁証法に対するソクラテスの弁証法に現われた見解であるが、またそれは却ってソクラテスがその一命を賭けることになった怒でもあった。ディオゲネスがやったような、思惟に対して《感性的意識》を対立させ、感性的意識の中に真理があると考えるような通俗な反駁は、そのままに放っておかねばならない。しかし弁証法が人倫の諸規定を否定するということになると、理性に対する信頼を人々に、しっかりもってもらう必要がある。即ち、理性こそ人倫の諸規定をその真理において、またその正義において、しかもそれらの制限をも意識した上で、復活させることができるものだという理性に対する信頼をである。ーーーのみならず、またこれを他面から言えば、主観的な空しさという結果は弁証法そのものの与り知らぬところではなくて、むしろ弁証法を云々する当の認識に由来するものである。或いは、それは懐疑論の意味において、またカント哲学の意味において、《認識一般》に関する問題である。その場合の根本的な謬見は、弁証法が《単に消極的な結果》しかもたないということであるが、この点について次に、いくらか立ち入った考察をしておこう。まず、いま挙げた弁証法が普通に取るように見える《形式》について次の点を注意しなければならない。即ちこの形式では、弁証法とその結果とは、その問題としている《対象》または主観的《認識》だけに係わるものであって、そこからこの認識または対象を空しいものだと宣言〔説明〕するが、しかし《第三のもの》としての対象において指摘される《諸規定》は問題にせずに放っておかれ、それはそれ自身、妥当なものとして前提されているということである。だから、この無批判的な方法に対して注意を促し、《真の〔即且向自的な〕思惟規定》の考察という意味において、論理学と弁証法との復興に衝撃を与えたことは、カント哲学の無限の功績である」(ヘーゲル「大論理学・下」『ヘーゲル全集8・P.367~369』岩波書店)
なお、「動植物」の「根源」と述べたが、「根源」あるいは「起源」は、より正確にいえば「起源的」としかいえない。せいぜいのところ「非-起源的起源」としかいえない。遺伝子という運動とその人為的配置転換という行為ですら、すでに与えられた環界の一部として常に既に何らかの作用を受けていると同時に作用として働きかけている運動でしかないわけなので。わかりやすいように簡略化しておいたことを付記しておく。デリダ参照。
「遅延こそが起源的なのである。さもなければ、差延は、意識がーーー現前するものの自己への現前性がーーーみずからに付与する猶予になってしまう。それゆえ、延期することが意味するものとは、ある可能な現在を遅らせたり、すでにいま可能な行為を先延ばしにしたり、すでにいま可能な知覚を延期するなどということではありえない。このような可能なことがらは差延によってのみ可能となるのであって、したがって、決断の計算や機構としてではなく、それとは異なる仕方で、差延を理解しなければならない。差延が起源的だと言うことは、同時に、現前する起源という神話を消し去ることである。だからこそ、『起源的』ということは《抹消しながら》理解しなければならないのだ。さもなければ、差延は、ある充溢した起源から派生することになってしまうだろう。起源的なものとは、非-起源的なのである」(デリダ「エクリチュールと差異・P.411~412」法政大学出版局)
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「人の認識には障りがあることは明白である。一つの現象もそのままには認識することはない、物自体とは何も認識しえないものだと疑い惑っていてはならない。ーーー空は隠れもない、山も水も隠れもない、だが隠れもない明々なものこそ、その真実は窺い知ることが困難であるーーー、秘密とは隠れもないもののうちに潜んでいるものなのだ」(道元「現代語訳 正法眼蔵1・第六・行仏威儀・P.122~123」河出文庫)
仏法を極めることによって、物の「自体」を知ることができる、とまでいう。しかし今なおそれを成し遂げた人はどこにもいない。しかし道元の探求は少なくともカントの認識論にまでは到達している。
カントはいう。
「たとえ私が純粋悟性によって、《物自体について》何ごとかを総合的に言い得るとしても(だがこれは不可能である)、私はこのことを現象に関係させるわけにはいかないだろう、現象は物自体を表示するものではないからである。それだから現象に関係する場合には、私は私の概念を先験的反省において常に感性の条件のもとで互に比較せねばなるまい。すると空間および時間は、物自体の規定ではなくて、現象の規定であるということになる。また物自体がなんであろうとも、私はそれを知らないし、また知る必要もない、私にとっては、物は現象においてしか現われ得ないからである」(カント「純粋理性批判・上・P.352~353」岩波文庫)
「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものではない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、ーーー物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということについては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する」(カント「プロレゴメナ・P.80~81」岩波文庫)
しかしエンゲルスは、そのような観念論的認識論の次元とはまた違っていて唯物論的観点から次のように述べている。
「こういうところへ、新カント派の不可知論者があらわれてきていう、物の性質を正しく知覚することはわれわれにもできるかもしれないが、感覚的、ないし思惟的な過程では、『物自体』を把握することはできない。この『物自体』はわれわれの認識の彼方にある、と。これに対してはとうの昔にヘーゲルは答えている、諸君が物の性質について何もかも知ったとき、そのことは物自体がわかっていることになる、われわれがいなくてもその物が存在しているという事実がある、それだけでたくさんではないか、しかも、諸君の感覚によってこの事実を知ったのだ、諸君はその物自体を残るくまもなく知ったのだ、カントの有名な認識不可能な《物自体》とはそれだと。これに付け加えてわたくしはいいたい、カントの時代には自然の物体に関するわれわれの知識は、極めて断片的であったので、カントもその自然物についてのわれわれの僅かな知識の背後に何かまだ神秘な『物自体』があるかもしれぬといったのであろう。だが、科学のすばらしい進歩によってこれらのわかりにくかったものがつぎつぎに把握され、分析されたのである、それどころか、《再生産》されるまでになったのだ、いやしくも、われわれが作りうるものを、われわれが認識しえないとは考えられない」(エンゲルス「英語版への序文」『空想より科学へ・P.107』岩波文庫)
なるほどその通り、といえばいえるだろう。実際、科学の世界ではもうすでにゲノム編集が行われている。人間だけでなく動植物の根源には遺伝子の系列がある。生命は遺伝子という物質的言語系列から発生してくるということがわかってしまっている。科学の発達は人為的操作によるその置き換えすら可能なものにしてしまった。エンゲルスのいうようにそれらの《再生産》すら可能になっている。したがって哲学の世界では「物自体」について今なお何かを考察している場合かという焦燥感さえ漂っていることは確かだ。けれども、遺伝子はそれだけから発生してくるわけではない。宇宙論的世界の総体的諸力の運動によって遺伝子レベルのあらゆる物質もまた常に変容の危機と可能性とに晒されている。だからむしろなおさら、それら世界の動向をよく見据えつつ、あえて哲学という立場の再構築を、そして再構築の《創造的》反復を、なおのこと一層強力に押し進めていくほかないようにおもえるのである。
ヘーゲルによるカント哲学の差し当たっての評価は以下。
「古代エレア学派は主として、その弁証法を運動に対して適応した。プラトンは、しばしばこれを彼の時代の、特にソフィスト達の諸々の観念や概念に適用したが、しかしまた純粋なカテゴリーや反省規定に対しても適応した。高い知性をもった後期懐疑論は、弁証法を直接的な、いわゆる意識の事実や日常生活の格率に適応したのみならず、また一切の学的概念にまでも押し拡げた。ところで、このような弁証法から引き出される結論は一般に、そこに述べられる各主張の《矛盾》と《空しさ》とである。しかし、このことは二様の意味をもつことができる。ーーー一つは、客観的意味におけるそれ〔矛盾と空しさ〕であって、このようにそれ自身において自分に矛盾する《対象》が自分を止揚するものであり、それ自身として空しいものだということである。例えば世界、運動、点について、その《真理》を拒否したエレア学派の結論が、それである。ーーー他は《認識が欠陥をもつものだ》とする主観的意味におけるものである。ところで後者の結論は一方では、弁証法がただ誤れる仮象の手品をやるものにすぎないという意味に解される。これは《感性的》な明証と《習慣的な観念や言説》を後生大事に守るところの、いわゆる常識のとる日常的な見解である。ーーーそれは時には犬儒ディオゲネスが黙って、あちらこちらと歩き廻ることによって運動の弁証法の弱点を暴露した時のように、平穏な形をとることもあるが、またしばしば、弁証法を一体に戯(たわ)け事と見、殊にそれが人倫上の重大事件に関するものである場合には、本来不動のものであるはずの事柄を動揺させようとし、悪徳に屁理屈をつける不埒な所業として弁証法に憤りをぶちまけることにもなる。ーーーそれは即ちソフィストの弁証法に対するソクラテスの弁証法に現われた見解であるが、またそれは却ってソクラテスがその一命を賭けることになった怒でもあった。ディオゲネスがやったような、思惟に対して《感性的意識》を対立させ、感性的意識の中に真理があると考えるような通俗な反駁は、そのままに放っておかねばならない。しかし弁証法が人倫の諸規定を否定するということになると、理性に対する信頼を人々に、しっかりもってもらう必要がある。即ち、理性こそ人倫の諸規定をその真理において、またその正義において、しかもそれらの制限をも意識した上で、復活させることができるものだという理性に対する信頼をである。ーーーのみならず、またこれを他面から言えば、主観的な空しさという結果は弁証法そのものの与り知らぬところではなくて、むしろ弁証法を云々する当の認識に由来するものである。或いは、それは懐疑論の意味において、またカント哲学の意味において、《認識一般》に関する問題である。その場合の根本的な謬見は、弁証法が《単に消極的な結果》しかもたないということであるが、この点について次に、いくらか立ち入った考察をしておこう。まず、いま挙げた弁証法が普通に取るように見える《形式》について次の点を注意しなければならない。即ちこの形式では、弁証法とその結果とは、その問題としている《対象》または主観的《認識》だけに係わるものであって、そこからこの認識または対象を空しいものだと宣言〔説明〕するが、しかし《第三のもの》としての対象において指摘される《諸規定》は問題にせずに放っておかれ、それはそれ自身、妥当なものとして前提されているということである。だから、この無批判的な方法に対して注意を促し、《真の〔即且向自的な〕思惟規定》の考察という意味において、論理学と弁証法との復興に衝撃を与えたことは、カント哲学の無限の功績である」(ヘーゲル「大論理学・下」『ヘーゲル全集8・P.367~369』岩波書店)
なお、「動植物」の「根源」と述べたが、「根源」あるいは「起源」は、より正確にいえば「起源的」としかいえない。せいぜいのところ「非-起源的起源」としかいえない。遺伝子という運動とその人為的配置転換という行為ですら、すでに与えられた環界の一部として常に既に何らかの作用を受けていると同時に作用として働きかけている運動でしかないわけなので。わかりやすいように簡略化しておいたことを付記しておく。デリダ参照。
「遅延こそが起源的なのである。さもなければ、差延は、意識がーーー現前するものの自己への現前性がーーーみずからに付与する猶予になってしまう。それゆえ、延期することが意味するものとは、ある可能な現在を遅らせたり、すでにいま可能な行為を先延ばしにしたり、すでにいま可能な知覚を延期するなどということではありえない。このような可能なことがらは差延によってのみ可能となるのであって、したがって、決断の計算や機構としてではなく、それとは異なる仕方で、差延を理解しなければならない。差延が起源的だと言うことは、同時に、現前する起源という神話を消し去ることである。だからこそ、『起源的』ということは《抹消しながら》理解しなければならないのだ。さもなければ、差延は、ある充溢した起源から派生することになってしまうだろう。起源的なものとは、非-起源的なのである」(デリダ「エクリチュールと差異・P.411~412」法政大学出版局)
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