次のセンテンスはよく見かける光景ではないだろうか。
「木立は美しく、大きく枝を広げ、そこに座って話をしている間中ヘレンは、木漏れ日のまだら模様や葉の形、白輪の大花が緑の中のあちこちに座している姿に目を向けていた。半ば無意識に見ていただけだったが、そこに織り成されている図柄が会話の一部となっていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.30」岩波文庫)
書き込まれているように「半ば無意識」であることが条件だといえるかもしれない。このような場面では、人々の会話は意識の多くの集中を必要としない。むしろ「半ば」自然に任せたままでいるほうがいいことがある。とすれば「無意識」=「自然」という定式ができあがる。それで構わない。そうしてこそ、人は「そこに織り成されている図柄」を「会話の一部」として取り込む妥当な態度が生じてくる。事情はそうなっているのだということも、人々の頭の中ではほとんど意識されていない。このようなケースでは言語崩壊の不安に襲われることはまずないといえる。人間はそのようにして、というのは「半ば無意識」のうちに、意識に掛かる無駄な負荷を節約しようとするのだ。
しかしこのことは意識がやることだろうか。意識は意識的に「半ば無意識」に陥るというわけだろうか。そうではない。周囲と人間とは一挙にそういう場面を作り上げてしまう。人間とは、その意味では、周囲の一部でもある。そして意識とは、それが内部に含まれる諸条件のうちのほんの一部分に過ぎない。どちらが先かとは言えないのだ。意識は身体のうちのほんの一部を占める尖った先端に過ぎない。意識の優先は人間の意識の錯覚によるものでしかない。むしろ身体に優先権を与えるべきである。
「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)
ベルクソンもまた、意識を中心に据えてはいない。むしろ「中心」の「複数性」に着目している。というより、着目しよう。
「つまり、こうである。神経システムには、表象を創りだすことはおろか、準備することに役だつ装置すら、なにひとつそなわっていない。神経システムの機能は、刺戟を受容して、運動の装置を組みたて、この装置のうち可能なかぎり多数のものを、与えられた一箇の刺戟に対して提供することにある。神経システムが発達するにつれて、ますますその数をふやし、より遠くまで及んでゆくのが、空間中の地点である。神経システムは、空間の複数の地点を、たえずそれだけ複雑化する運動機構に関係づけてゆくことになるが、この空間中の地点がより数多くのものとなり、またより遠くのものとなりうるのである。かくて神経システムが私たちの行動に対して開いておく自由度が拡大するはこびとなるけれども、ほかならぬその点にこそ、神経システムが増大して完成されてゆくことの意味が存している。とはいえ、神経システムが構成されるのは、動物の系統の発端から終端へといたるまで、行動がしだいに必然的に定められたものではなくなってゆくためであるとするならば、知覚も、その進歩が神経システムの進展に規制されているかぎりでは、これまたかんぜんに行動に向けて方向づけられているのであって、純粋認識へと向かっているのではない、と考える必要があるのではないだろうか。そうなれば、この知覚がますます豊かになってゆくということ自体ひとえに、不確定な部分が増大してゆくことを象徴的に指標するものとなるはずではないか。この不確定な部分とは、生命体が事物に対してふるまうさいに、その選択に委ねられる部分なのである。それでは、この不確定性を真の原理と見なすところから出発しよう。この不確定性がいったん想定されると、そこからみちびき出しうるものは、意識的な知覚の可能性ばかりでなく、その必然性ですらあるのではないかということを、探求してみよう。ことばをかえれば、たがいにつながりあい、緊密にむすびあっている、物質的世界と呼ばれるこのイマージュのシステムが与えられており、そのうえ当のシステムのそこかしこに、生命ある物質によって代表される、《現実的な行動の複数の中心》が存在しているものと想像してみるとしよう。そこで私としては言いたいところであるが、それらの中心のそれぞれについて、その周囲にはイマージュ群が配置されており、当のイマージュ群はくだんの中心の位置にしたがい、またその中心とともに変化するものであることが《必要となる》。さらにまた、その結果として意識的な知覚が生じ《なければならない》のであり、かくてまた、どのようにしてその知覚が出現するのかを理解することも可能となるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.61~62」岩波文庫)
再びレイチェル。
「海は大変穏やかで、崖下には波が寄せては返していたが、底にある岩の赤味が見えるくらい澄んでいた。世界の誕生の頃もこのようであり、それ以後もずっとそのままだったのだ。おそらくあの水を、ボートや身体で掻いた人間はこれまで一人もいなかっただろう。衝動に駆られて彼女はその永遠の平和を乱そうと、手元にあった一番大きな石を投げた。それは水面を打ち、波紋が広がっていった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.33」岩波文庫)
「衝動」。レイチェルは衝動に《なる》や否や「石」に《な》って、「水面を打ち」、「波紋」に《なる》。そして「波紋」のまま水面《を》広がっていく。あえて《を》としたのは、レイチェルはこのシーンで格助詞にも《なる》からだ。「波紋」であるとともに格助詞としても動く。何も名詞にばかり《なる》とは誰もいっていないのではなかろうか。
「『小説ね』彼女は繰り返した。『なぜ小説なの?曲を書くべきだわ。音楽って』ーーー彼女は目をそらし、頭が回転を始め、顔には何かの変化が起こり、全体の魅力に欠けてきた。『音楽ってそのものずばりでしょ。言うべきことすべてを一気に言うの。書くというのはーーー』適切な表現が見つからず、彼女は地面に指先をこすりつけていた。『マッチ箱を擦ってばかりいるみたいだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.35」岩波文庫)
半覚醒状態のレイチェルのほうが「魅力的」だとヒューウェットはおもっている。「うっとり」、とある。レイチェルは「うっとり」している。水面の風景に融合していきながら。
そしていう。「音楽ってそのものずばりでしょ」。おもわず「ドビュッシーか?」と思ってしまいそうなところだが、それは誰にもわからないというしかない。そこまで書いてしまうと逆に小説という形式の柔軟性が失われてしまうだろう。もし固有名詞を持ち出してくるとすれば、何でもいいのかもしれないけれども、その代わりに次にこのようなシーンに遭遇したとき、必ず何か音楽かそれとも音楽と等価の関係を維持できうる何かを持ち出してこなければ、どこか不親切な小説になってしまうに違いない。ウルフはとても広い意味で「自由さ」を目指して書いている。この「自由さ」を失ってしまえばウルフ自身を襲うのは常に死だと決定的になっているわけだから、それは意識的に避けられなければならないのだ。もっとも、他の場面で実在する作曲家の固有名詞はすでに登場している。バッハやベートーベン、ワーグナーなど。しかしそれらはあくまで註釈のレベルであって、「水」のモチーフと混同されるべきではない。
さて、またもやレイチェルは一人でいることの「自由さ」を隠そうとしない。彼女は「歌」に「風」に「海」に《なる》。場所は特に海岸でなくてもよく、ここでは「リッチモンド公園」の「散歩」においてである。
「『リッチモンド公園を散歩して、一人で歌って、それが誰にとっても何の関わりもないことだとわかっていると幸せなの。いろんなことを見ているのが好きーーーあの夜、わたくしたちがあなたたちを見て、あなたたちはわたくしたちを見ていなかった時みたいにーーーその自由さが好きーーー風みたい、海みたいでいるのが』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.49」岩波文庫)
しかし、彼女の分身はただそれらだけだろうか。「見ている」とあるが。もしかして彼女は「目」ではないだろうか。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
アポロンが「陶酔」するとはどういうことか。ディオニュソスと同盟しているときに限って、である。さらにこの「目」はもちろん運動状態にある。どのような運動状態だといえるだろうか。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.264」河出文庫)
レイチェルは何と「拘束された光」にも《なる》。それにしても「拘束された」とは言い得て妙というほかない。もっとも、ドゥルーズが「船出」ならびに「レイチェル」に関して何か言っているというわけではないけれども。
「『ぼくは人の足を囲むチョークの丸い線は見えないんだ。時には見えるといいな、と思うけどね。その線は恐ろしく複雑でこんがらがっているんだと思う。とてもこうだ、とは言えない。ますます判断がつかなくなるんだ。わかるかな?それに人がどう感じているのかは決してわからないんだ。誰もが闇の中にいる。わかりたいとは思う。でも、ある人が別のある人について持つ意見ほどばかばかしいものはないと思わないかい?わかっていると思って先に進むけれども実際にはわかっていない』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.54~55」岩波文庫)
ヒューウェットは正直者である。正直「過ぎる」といってよい。文字通りであって、この部分については、何一つ付け加える必要もないだろう。だが、少ししゃべり過ぎる。
「『ぼくが小説を書いてしたいことは、きみがピアノを弾いてしたいこととほとんど同じだと思うよ』振り向いて肩越しに彼は言った。『ぼくらは物の背後にあるものを見たいんだ。そうだろう?ーーーあの下の方のいくつもの灯火を見てごらん』彼は続けた。『ばらばらに散らばっているね。いろいろなものがあの光のようにやってくるのをぼくは感じるんだーーーそれをみんな結び付けたいんだ。きみは模様を描く花火を見たことがある?ーーーぼくは模様を作りたいんだーーーそれがきみもしたいことかな?』通りに出たふたりは並んで歩けるようになった。『わたくしがピアノを弾く時?音楽は違うわーーーでもあなたの言うことはわかる』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.56」岩波文庫)
ウルフの思想がまた大きく顔を出している。「それをみんな結び付けたい」ーーー「模様を作りたい」。レイチェルは実はもっと違う意味でウルフの思想の代弁者であるのだが、ヒューウェットはそこまでいくことはない。「越えたい」と思いはするけれどもそれが直接的な死を意味することはない。だからこれはウルフの思想の一端たりえていてもウルフ自身ではない。小説家としてはまだほんのデビュー作なのだが、その点ですでに意識的な書き分けを心得ていたのかもしれない。
次の部分は極めて近現代的な要素を含んでいる。
「『ホテル』と『ヴィラ』の間には、ある種の情報交換が行われるようになり、一日中、ほとんどいつでも、どちらにいても、もう片方で何が行われているかを推測できた。『ヴィラ』と『ホテル』という言葉は、二つの違う暮らしがあることを意識させ、顔見知りから友達へと発展する機会を与えた。というのも、ミセス・バリーの客間と繋がると、必ずそこからイギリスのいろいろな場所と繋がるたくさんの枝に分かれていったからだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.59」岩波文庫)
数年前、ネット社会の実現に伴って「プラット・フォーム」の創設という具体案が提出されたことがあった。その後どうなっているのかさっぱりなのだが。ともかくこのシーンで描かれていることは紛れもなく資本主義社会の実現に伴って出現した「プラット・フォーム」構想のプロト・タイプであって、ここでは「ミセス・バリーの客間」がそれに相当する。他者どうしを連結させる機能が与えられていることから見ても明らかだろう。
「『嵐が丘』から『人と超人』、そしてイプセンの戯曲に至るまで、彼女が読んだ本のどれ一つとして、作品中に見られる愛の分析から、女主人公の感じたことは今レイチェルが感じていることだと思わせるものは無かった。わたくしが抱いているこの感情には名前がない、と思った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.65」岩波文庫)
レイチェルは彼女自身であるときの個別性を問題にしている。レイチェルが何ものかとして世界と融合する或る時刻、不意打ち的に訪れる或る時刻のみに限って他と差異化された単独性を問題にしている。だからそれは言語という一般化・均質化・凡庸化されたものではない。言語へ置き換え不可能なものだ。したがって「この感情には名前がない」と彼女は洞察する。「名前」を与えられ言語化されてしまえばその「感情」はもうレイチェルのみに限って他と差異化された単独性を失ってしまう。言語なら何度も繰り返し反復可能だが、彼女の目指す個別性は反復されえないがゆえに本当に貴重な一回限りのものである。ベルクソンはいう。
「根底的な差異が、反復によって構成されなければならないものと、本質的に反復されえないものとのあいだに存在することを、どうして承認せずにいることができるだろうか」(ベルクソン「物質と記憶・P.163」岩波文庫)
レイチェルの精神状態は本当に深刻だといわざるをえない。余りにも敏感過ぎる。囚われた身体から脱出したいという切実な願い。しかしそれは第一次世界大戦前後の社会にあってはありふれた敏感さだったともいえる。当時、たとえば「永遠」とは何を指していわれていただろうか。死である。死において始めて得られるだろう「永遠」。善悪を超えてその彼岸へと向かう「エネルギー」の貯蔵庫としての無意識。真か偽かを問わないあるいは問えないという約束に同意した上で、資料として読む限りで、フロイトの論考は大いに参考になるだろう。
ところでつい先ほどウルフの書き分けについて述べた。ヒューウェットとレイチェルとは恋人どうしであるにもかかわらず身体としても思想的にも別々であり、どのような形式を取ることになっても、おそらく平行線のまま推移するに違いないという個別性について。それは次のような文章の中でも見て取ることができる。
「もしかすると、あの夜レイチェルが庭で口にしたことは正しかったのかもしれない。『お互いに一番悪いものを出し合うだけーーーわたくしたちは離れて生きていくべきだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.97」岩波文庫)
BGM
「木立は美しく、大きく枝を広げ、そこに座って話をしている間中ヘレンは、木漏れ日のまだら模様や葉の形、白輪の大花が緑の中のあちこちに座している姿に目を向けていた。半ば無意識に見ていただけだったが、そこに織り成されている図柄が会話の一部となっていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.30」岩波文庫)
書き込まれているように「半ば無意識」であることが条件だといえるかもしれない。このような場面では、人々の会話は意識の多くの集中を必要としない。むしろ「半ば」自然に任せたままでいるほうがいいことがある。とすれば「無意識」=「自然」という定式ができあがる。それで構わない。そうしてこそ、人は「そこに織り成されている図柄」を「会話の一部」として取り込む妥当な態度が生じてくる。事情はそうなっているのだということも、人々の頭の中ではほとんど意識されていない。このようなケースでは言語崩壊の不安に襲われることはまずないといえる。人間はそのようにして、というのは「半ば無意識」のうちに、意識に掛かる無駄な負荷を節約しようとするのだ。
しかしこのことは意識がやることだろうか。意識は意識的に「半ば無意識」に陥るというわけだろうか。そうではない。周囲と人間とは一挙にそういう場面を作り上げてしまう。人間とは、その意味では、周囲の一部でもある。そして意識とは、それが内部に含まれる諸条件のうちのほんの一部分に過ぎない。どちらが先かとは言えないのだ。意識は身体のうちのほんの一部を占める尖った先端に過ぎない。意識の優先は人間の意識の錯覚によるものでしかない。むしろ身体に優先権を与えるべきである。
「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)
ベルクソンもまた、意識を中心に据えてはいない。むしろ「中心」の「複数性」に着目している。というより、着目しよう。
「つまり、こうである。神経システムには、表象を創りだすことはおろか、準備することに役だつ装置すら、なにひとつそなわっていない。神経システムの機能は、刺戟を受容して、運動の装置を組みたて、この装置のうち可能なかぎり多数のものを、与えられた一箇の刺戟に対して提供することにある。神経システムが発達するにつれて、ますますその数をふやし、より遠くまで及んでゆくのが、空間中の地点である。神経システムは、空間の複数の地点を、たえずそれだけ複雑化する運動機構に関係づけてゆくことになるが、この空間中の地点がより数多くのものとなり、またより遠くのものとなりうるのである。かくて神経システムが私たちの行動に対して開いておく自由度が拡大するはこびとなるけれども、ほかならぬその点にこそ、神経システムが増大して完成されてゆくことの意味が存している。とはいえ、神経システムが構成されるのは、動物の系統の発端から終端へといたるまで、行動がしだいに必然的に定められたものではなくなってゆくためであるとするならば、知覚も、その進歩が神経システムの進展に規制されているかぎりでは、これまたかんぜんに行動に向けて方向づけられているのであって、純粋認識へと向かっているのではない、と考える必要があるのではないだろうか。そうなれば、この知覚がますます豊かになってゆくということ自体ひとえに、不確定な部分が増大してゆくことを象徴的に指標するものとなるはずではないか。この不確定な部分とは、生命体が事物に対してふるまうさいに、その選択に委ねられる部分なのである。それでは、この不確定性を真の原理と見なすところから出発しよう。この不確定性がいったん想定されると、そこからみちびき出しうるものは、意識的な知覚の可能性ばかりでなく、その必然性ですらあるのではないかということを、探求してみよう。ことばをかえれば、たがいにつながりあい、緊密にむすびあっている、物質的世界と呼ばれるこのイマージュのシステムが与えられており、そのうえ当のシステムのそこかしこに、生命ある物質によって代表される、《現実的な行動の複数の中心》が存在しているものと想像してみるとしよう。そこで私としては言いたいところであるが、それらの中心のそれぞれについて、その周囲にはイマージュ群が配置されており、当のイマージュ群はくだんの中心の位置にしたがい、またその中心とともに変化するものであることが《必要となる》。さらにまた、その結果として意識的な知覚が生じ《なければならない》のであり、かくてまた、どのようにしてその知覚が出現するのかを理解することも可能となるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.61~62」岩波文庫)
再びレイチェル。
「海は大変穏やかで、崖下には波が寄せては返していたが、底にある岩の赤味が見えるくらい澄んでいた。世界の誕生の頃もこのようであり、それ以後もずっとそのままだったのだ。おそらくあの水を、ボートや身体で掻いた人間はこれまで一人もいなかっただろう。衝動に駆られて彼女はその永遠の平和を乱そうと、手元にあった一番大きな石を投げた。それは水面を打ち、波紋が広がっていった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.33」岩波文庫)
「衝動」。レイチェルは衝動に《なる》や否や「石」に《な》って、「水面を打ち」、「波紋」に《なる》。そして「波紋」のまま水面《を》広がっていく。あえて《を》としたのは、レイチェルはこのシーンで格助詞にも《なる》からだ。「波紋」であるとともに格助詞としても動く。何も名詞にばかり《なる》とは誰もいっていないのではなかろうか。
「『小説ね』彼女は繰り返した。『なぜ小説なの?曲を書くべきだわ。音楽って』ーーー彼女は目をそらし、頭が回転を始め、顔には何かの変化が起こり、全体の魅力に欠けてきた。『音楽ってそのものずばりでしょ。言うべきことすべてを一気に言うの。書くというのはーーー』適切な表現が見つからず、彼女は地面に指先をこすりつけていた。『マッチ箱を擦ってばかりいるみたいだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.35」岩波文庫)
半覚醒状態のレイチェルのほうが「魅力的」だとヒューウェットはおもっている。「うっとり」、とある。レイチェルは「うっとり」している。水面の風景に融合していきながら。
そしていう。「音楽ってそのものずばりでしょ」。おもわず「ドビュッシーか?」と思ってしまいそうなところだが、それは誰にもわからないというしかない。そこまで書いてしまうと逆に小説という形式の柔軟性が失われてしまうだろう。もし固有名詞を持ち出してくるとすれば、何でもいいのかもしれないけれども、その代わりに次にこのようなシーンに遭遇したとき、必ず何か音楽かそれとも音楽と等価の関係を維持できうる何かを持ち出してこなければ、どこか不親切な小説になってしまうに違いない。ウルフはとても広い意味で「自由さ」を目指して書いている。この「自由さ」を失ってしまえばウルフ自身を襲うのは常に死だと決定的になっているわけだから、それは意識的に避けられなければならないのだ。もっとも、他の場面で実在する作曲家の固有名詞はすでに登場している。バッハやベートーベン、ワーグナーなど。しかしそれらはあくまで註釈のレベルであって、「水」のモチーフと混同されるべきではない。
さて、またもやレイチェルは一人でいることの「自由さ」を隠そうとしない。彼女は「歌」に「風」に「海」に《なる》。場所は特に海岸でなくてもよく、ここでは「リッチモンド公園」の「散歩」においてである。
「『リッチモンド公園を散歩して、一人で歌って、それが誰にとっても何の関わりもないことだとわかっていると幸せなの。いろんなことを見ているのが好きーーーあの夜、わたくしたちがあなたたちを見て、あなたたちはわたくしたちを見ていなかった時みたいにーーーその自由さが好きーーー風みたい、海みたいでいるのが』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.49」岩波文庫)
しかし、彼女の分身はただそれらだけだろうか。「見ている」とあるが。もしかして彼女は「目」ではないだろうか。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
アポロンが「陶酔」するとはどういうことか。ディオニュソスと同盟しているときに限って、である。さらにこの「目」はもちろん運動状態にある。どのような運動状態だといえるだろうか。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.264」河出文庫)
レイチェルは何と「拘束された光」にも《なる》。それにしても「拘束された」とは言い得て妙というほかない。もっとも、ドゥルーズが「船出」ならびに「レイチェル」に関して何か言っているというわけではないけれども。
「『ぼくは人の足を囲むチョークの丸い線は見えないんだ。時には見えるといいな、と思うけどね。その線は恐ろしく複雑でこんがらがっているんだと思う。とてもこうだ、とは言えない。ますます判断がつかなくなるんだ。わかるかな?それに人がどう感じているのかは決してわからないんだ。誰もが闇の中にいる。わかりたいとは思う。でも、ある人が別のある人について持つ意見ほどばかばかしいものはないと思わないかい?わかっていると思って先に進むけれども実際にはわかっていない』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.54~55」岩波文庫)
ヒューウェットは正直者である。正直「過ぎる」といってよい。文字通りであって、この部分については、何一つ付け加える必要もないだろう。だが、少ししゃべり過ぎる。
「『ぼくが小説を書いてしたいことは、きみがピアノを弾いてしたいこととほとんど同じだと思うよ』振り向いて肩越しに彼は言った。『ぼくらは物の背後にあるものを見たいんだ。そうだろう?ーーーあの下の方のいくつもの灯火を見てごらん』彼は続けた。『ばらばらに散らばっているね。いろいろなものがあの光のようにやってくるのをぼくは感じるんだーーーそれをみんな結び付けたいんだ。きみは模様を描く花火を見たことがある?ーーーぼくは模様を作りたいんだーーーそれがきみもしたいことかな?』通りに出たふたりは並んで歩けるようになった。『わたくしがピアノを弾く時?音楽は違うわーーーでもあなたの言うことはわかる』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.56」岩波文庫)
ウルフの思想がまた大きく顔を出している。「それをみんな結び付けたい」ーーー「模様を作りたい」。レイチェルは実はもっと違う意味でウルフの思想の代弁者であるのだが、ヒューウェットはそこまでいくことはない。「越えたい」と思いはするけれどもそれが直接的な死を意味することはない。だからこれはウルフの思想の一端たりえていてもウルフ自身ではない。小説家としてはまだほんのデビュー作なのだが、その点ですでに意識的な書き分けを心得ていたのかもしれない。
次の部分は極めて近現代的な要素を含んでいる。
「『ホテル』と『ヴィラ』の間には、ある種の情報交換が行われるようになり、一日中、ほとんどいつでも、どちらにいても、もう片方で何が行われているかを推測できた。『ヴィラ』と『ホテル』という言葉は、二つの違う暮らしがあることを意識させ、顔見知りから友達へと発展する機会を与えた。というのも、ミセス・バリーの客間と繋がると、必ずそこからイギリスのいろいろな場所と繋がるたくさんの枝に分かれていったからだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.59」岩波文庫)
数年前、ネット社会の実現に伴って「プラット・フォーム」の創設という具体案が提出されたことがあった。その後どうなっているのかさっぱりなのだが。ともかくこのシーンで描かれていることは紛れもなく資本主義社会の実現に伴って出現した「プラット・フォーム」構想のプロト・タイプであって、ここでは「ミセス・バリーの客間」がそれに相当する。他者どうしを連結させる機能が与えられていることから見ても明らかだろう。
「『嵐が丘』から『人と超人』、そしてイプセンの戯曲に至るまで、彼女が読んだ本のどれ一つとして、作品中に見られる愛の分析から、女主人公の感じたことは今レイチェルが感じていることだと思わせるものは無かった。わたくしが抱いているこの感情には名前がない、と思った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.65」岩波文庫)
レイチェルは彼女自身であるときの個別性を問題にしている。レイチェルが何ものかとして世界と融合する或る時刻、不意打ち的に訪れる或る時刻のみに限って他と差異化された単独性を問題にしている。だからそれは言語という一般化・均質化・凡庸化されたものではない。言語へ置き換え不可能なものだ。したがって「この感情には名前がない」と彼女は洞察する。「名前」を与えられ言語化されてしまえばその「感情」はもうレイチェルのみに限って他と差異化された単独性を失ってしまう。言語なら何度も繰り返し反復可能だが、彼女の目指す個別性は反復されえないがゆえに本当に貴重な一回限りのものである。ベルクソンはいう。
「根底的な差異が、反復によって構成されなければならないものと、本質的に反復されえないものとのあいだに存在することを、どうして承認せずにいることができるだろうか」(ベルクソン「物質と記憶・P.163」岩波文庫)
レイチェルの精神状態は本当に深刻だといわざるをえない。余りにも敏感過ぎる。囚われた身体から脱出したいという切実な願い。しかしそれは第一次世界大戦前後の社会にあってはありふれた敏感さだったともいえる。当時、たとえば「永遠」とは何を指していわれていただろうか。死である。死において始めて得られるだろう「永遠」。善悪を超えてその彼岸へと向かう「エネルギー」の貯蔵庫としての無意識。真か偽かを問わないあるいは問えないという約束に同意した上で、資料として読む限りで、フロイトの論考は大いに参考になるだろう。
ところでつい先ほどウルフの書き分けについて述べた。ヒューウェットとレイチェルとは恋人どうしであるにもかかわらず身体としても思想的にも別々であり、どのような形式を取ることになっても、おそらく平行線のまま推移するに違いないという個別性について。それは次のような文章の中でも見て取ることができる。
「もしかすると、あの夜レイチェルが庭で口にしたことは正しかったのかもしれない。『お互いに一番悪いものを出し合うだけーーーわたくしたちは離れて生きていくべきだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.97」岩波文庫)
BGM