資本論序文から。
「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)
柄谷行人はこう述べる。
「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)
「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。
「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)
次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。
「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。
さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。
資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。
資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。
ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)
また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)
要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。
「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)
しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。
「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)
「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。
ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?
カントはいう。
「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント「実践理性批判・P.72」岩波文庫)
何をなすにしても、それが実践的である場合、普遍的に妥当するよう行為せよ、と。
だから、カントは、いわゆる「幸福」の追求は構わないにしても、実践的判断の基礎として取り扱われる場合、「幸福」とは果たして、いかなる時にも必然的に妥当する「普遍的」な判断原理だといえるだろうか、もしかしたら「一般的」なレベルでの思い込みに過ぎないのではないかと、強い疑問を呈している。
「我々は幸福の原理を、確かに格律たらしめることができる、しかし我々が《普遍的》幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格律たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変り易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど《一般的》な規則を与えることはできるが、しかし《普遍的》規則を与えることはできない」(カント「実践理性批判・P.84」岩波文庫)
この場合、「普遍性」は、カントのいう「道徳的」見地から考えられねばならない。例えば、自分の目的が「大統領になること」だとしよう。そのための「手段」として自分を取り扱うのは妥当だとしても、同時に他人をも「手段」として取り扱ってよいのか。それでは「普遍性」を失ってしまう。「一般的」であるに留まる。万が一にでも「普遍的」でありたければ、他人を使用する時、その人格(人間性)において、「手段」として使用してはならないというのだ。もし仮に使用するとしても、その時は「手段」としてのみではなく同時に「目的」としても使用すべきだと。こうある。
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)
そして、もしそのように使用するのでない限り、それは何ら「普遍的」なものを持たない、とカントは考える。「普遍的」であるとは、では、どういうことか。或る意味、態度として「普遍的」であるとは、いついかなる時にでも妥当する「根本的」な態度だといえるだろう。しかし「根本的」な態度とはどういう態度か。例えばマルクスの場合、「協同組合労働」への転化運動の叙述において、そのような「普遍=妥当的」態度が示されている。
「この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、《自由で平等な生産者たちの結合》(association)という、共和的で福祉ゆたかな制度とおきかえることができるということを、実践的に示す点にある。
しかしながら、協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義的社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働という大規模で調和ある一制度に転化するためには、《全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化》が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移すこと以外には、けっして実現されえない」(マルクス「協同組合労働」『ゴータ綱領批判・P.159~160』岩波文庫)
また、たとえ「協同組合労働」といってもそれが「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」であるためには、「国家権力を」「生産者自身の手に移す」というだけでは不十分であり、相変わらず「国家そのもの」は存続し続けるかのように見える。そこで「国家」をどう捉えるかという点について、マルクスはこう釘を刺している。
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)
ところで、「大規模で調和ある」というフレーズは、どこか「万博」の理念を思わせないでもない。しかし「協同組合労働」と違って、「万博」が、直ちに「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」を内容のうちに含んでいるかどうかはまったく定かでない。ヘーゲル用語でいうと、何よりもまず、今ある国家の諸形態をどのように「揚棄するか」という理念と実践のための用意がそこには欠片ほども見られない。
一方、資本の人格化としての資本家にとって「普遍的」であるとはどういうことか。少なくとも、資本家にとって、「通貨」は「普遍的」でなくてはならないに違いない。だが、「貨幣」はそれほどまでに「普遍的」だろうか。「信用」はどんなふうに「普遍的」だろうか。むしろ「信用」は何か別のものを増大したり減少させたりしないだろうか。あるいは「流通」は絶対的に「普遍的」だと断言できるだろうか。「手形」の流通は本当に「普遍的」なのか。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)
今のところ、「信用制度」は決済を無限に先送りして資本の自己増殖運動を促進し、新自由主義(グローバル資本主義)を無限に延長させている。従って、「信用」とそれを可能にしている「流通」がなければ資本の機能はあっさり切断されてしまう。さらに、この「流通」の還の成就のためには「消費者」の存在が不可欠である。ところで、「消費者」とは、一体何者なのか。少なくとも、始めは二極に分かれた「売る立場」(商品所持者)と「買う立場」(貨幣所持者)が、対立する関係に置かれる商品交換を成立させる(価値と剰余価値とを実現させる)際に、「消費者」は「いついかなる時にでも妥当する」《普遍的》な存在者として位置付けられているかと思われる。今のところは。
なお、労働時間の短縮について。労働時間が短縮されればされるほど、短縮された時間内における労働強化が徹底化されるということ。自動車メーカー・トヨタのトヨタイズムが取り上げられるが、注意点はトヨタイズムもまた「絶対的剰余価値」を中心に考えられた古いイデオロギーに過ぎず、高度にIT化されたシステムによって可能になる「相対的剰余価値」とそれを実際に現実化(価値と剰余価値とを現金化)させる「流通」を中心として考えられてはいないという点だろう。むしろ高度なIT化による労働時間の短縮は自明のことだ。そしてそのことがより一層暴力的な労働強化(短時間で発生してくる新しいタイプの疲労、過労、自殺)を招き込んでしまう。さらにその系列としてストレス性犯罪(痴漢、盗撮、強制性交、顧客プライバシー情報流出、社内機密売買)の多発を呼び起こす。
また労働の高度機能化によって労働時間の短縮を実現した大企業では、空いて解放された時間を消費行動へ向けることを促す。その点は官公庁とて民間と変わらない。この「促し」という情報宣伝活動は主にテレビ・マスコミが受け持つ。労働者として受け取った労賃は、時間短縮によって人為的に解放された「余暇」という名の消費行動へとすぐさま振り向けられる。労働者にとって労賃のほとんどはこの消費行動へと消えてしまう。と同時に他の大企業の儲けとして分配されていく。マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二十章・単純再生産」と「同・第二十一章・蓄積と拡大再生産」での記述はその過程をより一層鮮明な形で可視化したという歴史的功績によってもっと高く評価されてよいだろう。
「労働強化の代表的な例として、アメリカで始まったテイラーイズムにもとづくフォーディズムがあげられる。それは仕事の細分化と生産のオートメーション化(アセンブリ生産)によって、労働の熟練性を奪い『労働の疎外』を極度にもたらす。それに対して、日本のトヨタ方式においては、需要変動に即応するために多品種生産に応じる体制、そして、多能工が育成される。近年では、レギュラシオン学派は、トヨタイズムをポスト・フォーディズムとして評価している。しかし、実際には、それは労働者の『自主性』を活用する、より巧妙なフォーディズムにすぎない。トヨタイズムが成功したのはむしろ系列の下請け中小企業を締めつけ搾取することによってである。このような機械的生産における労働強化の形態によって、資本主義の歴史的『段階』を規定するのは一面的である。それは『絶対的剰余価値』を中心に考える傾向の延長にすぎない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.491〜492」岩波現代文庫)
「労働者の『自主性』」とある。国家・資本・会社の側から圧倒的威力をもって押し付けられてくる圧力を、労働者は仕方なく受け止め、あえて自分自身の「自主性」として発揮するほかない。だから、表沙汰になっていない労災あるいはそれに近い状況というものは、実をいえば途方もなく盛大にある。しかし労働者とその家族・支援者らは余りにも強大化した国家権力を相手にする気力もなければ資金もない。泣き寝入りするほか仕方がない。そのような状態に陥っている世帯が本当は一体どれほどの数に上っているか、官公庁は「国家・資本」の脅威に怯えているばかりであって真剣に考える余裕すらない。資本主義の掟の一つとして、加速するばかりの格差社会はそのうち破綻するが、いずれにせよ、テレビ・マスコミはその一つ一つを丁寧に伝えようとはしない。
BGM
「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)
柄谷行人はこう述べる。
「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)
「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。
「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)
次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。
「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。
さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。
資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。
資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。
ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)
また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)
要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。
「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)
しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。
「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)
「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。
ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?
カントはいう。
「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント「実践理性批判・P.72」岩波文庫)
何をなすにしても、それが実践的である場合、普遍的に妥当するよう行為せよ、と。
だから、カントは、いわゆる「幸福」の追求は構わないにしても、実践的判断の基礎として取り扱われる場合、「幸福」とは果たして、いかなる時にも必然的に妥当する「普遍的」な判断原理だといえるだろうか、もしかしたら「一般的」なレベルでの思い込みに過ぎないのではないかと、強い疑問を呈している。
「我々は幸福の原理を、確かに格律たらしめることができる、しかし我々が《普遍的》幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格律たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変り易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど《一般的》な規則を与えることはできるが、しかし《普遍的》規則を与えることはできない」(カント「実践理性批判・P.84」岩波文庫)
この場合、「普遍性」は、カントのいう「道徳的」見地から考えられねばならない。例えば、自分の目的が「大統領になること」だとしよう。そのための「手段」として自分を取り扱うのは妥当だとしても、同時に他人をも「手段」として取り扱ってよいのか。それでは「普遍性」を失ってしまう。「一般的」であるに留まる。万が一にでも「普遍的」でありたければ、他人を使用する時、その人格(人間性)において、「手段」として使用してはならないというのだ。もし仮に使用するとしても、その時は「手段」としてのみではなく同時に「目的」としても使用すべきだと。こうある。
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)
そして、もしそのように使用するのでない限り、それは何ら「普遍的」なものを持たない、とカントは考える。「普遍的」であるとは、では、どういうことか。或る意味、態度として「普遍的」であるとは、いついかなる時にでも妥当する「根本的」な態度だといえるだろう。しかし「根本的」な態度とはどういう態度か。例えばマルクスの場合、「協同組合労働」への転化運動の叙述において、そのような「普遍=妥当的」態度が示されている。
「この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、《自由で平等な生産者たちの結合》(association)という、共和的で福祉ゆたかな制度とおきかえることができるということを、実践的に示す点にある。
しかしながら、協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義的社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働という大規模で調和ある一制度に転化するためには、《全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化》が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移すこと以外には、けっして実現されえない」(マルクス「協同組合労働」『ゴータ綱領批判・P.159~160』岩波文庫)
また、たとえ「協同組合労働」といってもそれが「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」であるためには、「国家権力を」「生産者自身の手に移す」というだけでは不十分であり、相変わらず「国家そのもの」は存続し続けるかのように見える。そこで「国家」をどう捉えるかという点について、マルクスはこう釘を刺している。
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)
ところで、「大規模で調和ある」というフレーズは、どこか「万博」の理念を思わせないでもない。しかし「協同組合労働」と違って、「万博」が、直ちに「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」を内容のうちに含んでいるかどうかはまったく定かでない。ヘーゲル用語でいうと、何よりもまず、今ある国家の諸形態をどのように「揚棄するか」という理念と実践のための用意がそこには欠片ほども見られない。
一方、資本の人格化としての資本家にとって「普遍的」であるとはどういうことか。少なくとも、資本家にとって、「通貨」は「普遍的」でなくてはならないに違いない。だが、「貨幣」はそれほどまでに「普遍的」だろうか。「信用」はどんなふうに「普遍的」だろうか。むしろ「信用」は何か別のものを増大したり減少させたりしないだろうか。あるいは「流通」は絶対的に「普遍的」だと断言できるだろうか。「手形」の流通は本当に「普遍的」なのか。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)
今のところ、「信用制度」は決済を無限に先送りして資本の自己増殖運動を促進し、新自由主義(グローバル資本主義)を無限に延長させている。従って、「信用」とそれを可能にしている「流通」がなければ資本の機能はあっさり切断されてしまう。さらに、この「流通」の還の成就のためには「消費者」の存在が不可欠である。ところで、「消費者」とは、一体何者なのか。少なくとも、始めは二極に分かれた「売る立場」(商品所持者)と「買う立場」(貨幣所持者)が、対立する関係に置かれる商品交換を成立させる(価値と剰余価値とを実現させる)際に、「消費者」は「いついかなる時にでも妥当する」《普遍的》な存在者として位置付けられているかと思われる。今のところは。
なお、労働時間の短縮について。労働時間が短縮されればされるほど、短縮された時間内における労働強化が徹底化されるということ。自動車メーカー・トヨタのトヨタイズムが取り上げられるが、注意点はトヨタイズムもまた「絶対的剰余価値」を中心に考えられた古いイデオロギーに過ぎず、高度にIT化されたシステムによって可能になる「相対的剰余価値」とそれを実際に現実化(価値と剰余価値とを現金化)させる「流通」を中心として考えられてはいないという点だろう。むしろ高度なIT化による労働時間の短縮は自明のことだ。そしてそのことがより一層暴力的な労働強化(短時間で発生してくる新しいタイプの疲労、過労、自殺)を招き込んでしまう。さらにその系列としてストレス性犯罪(痴漢、盗撮、強制性交、顧客プライバシー情報流出、社内機密売買)の多発を呼び起こす。
また労働の高度機能化によって労働時間の短縮を実現した大企業では、空いて解放された時間を消費行動へ向けることを促す。その点は官公庁とて民間と変わらない。この「促し」という情報宣伝活動は主にテレビ・マスコミが受け持つ。労働者として受け取った労賃は、時間短縮によって人為的に解放された「余暇」という名の消費行動へとすぐさま振り向けられる。労働者にとって労賃のほとんどはこの消費行動へと消えてしまう。と同時に他の大企業の儲けとして分配されていく。マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二十章・単純再生産」と「同・第二十一章・蓄積と拡大再生産」での記述はその過程をより一層鮮明な形で可視化したという歴史的功績によってもっと高く評価されてよいだろう。
「労働強化の代表的な例として、アメリカで始まったテイラーイズムにもとづくフォーディズムがあげられる。それは仕事の細分化と生産のオートメーション化(アセンブリ生産)によって、労働の熟練性を奪い『労働の疎外』を極度にもたらす。それに対して、日本のトヨタ方式においては、需要変動に即応するために多品種生産に応じる体制、そして、多能工が育成される。近年では、レギュラシオン学派は、トヨタイズムをポスト・フォーディズムとして評価している。しかし、実際には、それは労働者の『自主性』を活用する、より巧妙なフォーディズムにすぎない。トヨタイズムが成功したのはむしろ系列の下請け中小企業を締めつけ搾取することによってである。このような機械的生産における労働強化の形態によって、資本主義の歴史的『段階』を規定するのは一面的である。それは『絶対的剰余価値』を中心に考える傾向の延長にすぎない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.491〜492」岩波現代文庫)
「労働者の『自主性』」とある。国家・資本・会社の側から圧倒的威力をもって押し付けられてくる圧力を、労働者は仕方なく受け止め、あえて自分自身の「自主性」として発揮するほかない。だから、表沙汰になっていない労災あるいはそれに近い状況というものは、実をいえば途方もなく盛大にある。しかし労働者とその家族・支援者らは余りにも強大化した国家権力を相手にする気力もなければ資金もない。泣き寝入りするほか仕方がない。そのような状態に陥っている世帯が本当は一体どれほどの数に上っているか、官公庁は「国家・資本」の脅威に怯えているばかりであって真剣に考える余裕すらない。資本主義の掟の一つとして、加速するばかりの格差社会はそのうち破綻するが、いずれにせよ、テレビ・マスコミはその一つ一つを丁寧に伝えようとはしない。
BGM