白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「トランスクリティーク」読解スペシャル・エディション6

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
資本論序文から。

「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)

柄谷行人はこう述べる。

「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)

「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)

それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。

「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)

次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。

「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。

さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。

資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。

資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。

資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。

ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)

また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。

「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)

要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。

「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)

しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。

「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)

「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。

ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?

カントはいう。

「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント「実践理性批判・P.72」岩波文庫)

何をなすにしても、それが実践的である場合、普遍的に妥当するよう行為せよ、と。

だから、カントは、いわゆる「幸福」の追求は構わないにしても、実践的判断の基礎として取り扱われる場合、「幸福」とは果たして、いかなる時にも必然的に妥当する「普遍的」な判断原理だといえるだろうか、もしかしたら「一般的」なレベルでの思い込みに過ぎないのではないかと、強い疑問を呈している。

「我々は幸福の原理を、確かに格律たらしめることができる、しかし我々が《普遍的》幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格律たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変り易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど《一般的》な規則を与えることはできるが、しかし《普遍的》規則を与えることはできない」(カント「実践理性批判・P.84」岩波文庫)

この場合、「普遍性」は、カントのいう「道徳的」見地から考えられねばならない。例えば、自分の目的が「大統領になること」だとしよう。そのための「手段」として自分を取り扱うのは妥当だとしても、同時に他人をも「手段」として取り扱ってよいのか。それでは「普遍性」を失ってしまう。「一般的」であるに留まる。万が一にでも「普遍的」でありたければ、他人を使用する時、その人格(人間性)において、「手段」として使用してはならないというのだ。もし仮に使用するとしても、その時は「手段」としてのみではなく同時に「目的」としても使用すべきだと。こうある。

「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)

そして、もしそのように使用するのでない限り、それは何ら「普遍的」なものを持たない、とカントは考える。「普遍的」であるとは、では、どういうことか。或る意味、態度として「普遍的」であるとは、いついかなる時にでも妥当する「根本的」な態度だといえるだろう。しかし「根本的」な態度とはどういう態度か。例えばマルクスの場合、「協同組合労働」への転化運動の叙述において、そのような「普遍=妥当的」態度が示されている。

「この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、《自由で平等な生産者たちの結合》(association)という、共和的で福祉ゆたかな制度とおきかえることができるということを、実践的に示す点にある。

しかしながら、協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義的社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働という大規模で調和ある一制度に転化するためには、《全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化》が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移すこと以外には、けっして実現されえない」(マルクス「協同組合労働」『ゴータ綱領批判・P.159~160』岩波文庫)

また、たとえ「協同組合労働」といってもそれが「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」であるためには、「国家権力を」「生産者自身の手に移す」というだけでは不十分であり、相変わらず「国家そのもの」は存続し続けるかのように見える。そこで「国家」をどう捉えるかという点について、マルクスはこう釘を刺している。

「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)

ところで、「大規模で調和ある」というフレーズは、どこか「万博」の理念を思わせないでもない。しかし「協同組合労働」と違って、「万博」が、直ちに「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」を内容のうちに含んでいるかどうかはまったく定かでない。ヘーゲル用語でいうと、何よりもまず、今ある国家の諸形態をどのように「揚棄するか」という理念と実践のための用意がそこには欠片ほども見られない。

一方、資本の人格化としての資本家にとって「普遍的」であるとはどういうことか。少なくとも、資本家にとって、「通貨」は「普遍的」でなくてはならないに違いない。だが、「貨幣」はそれほどまでに「普遍的」だろうか。「信用」はどんなふうに「普遍的」だろうか。むしろ「信用」は何か別のものを増大したり減少させたりしないだろうか。あるいは「流通」は絶対的に「普遍的」だと断言できるだろうか。「手形」の流通は本当に「普遍的」なのか。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)

今のところ、「信用制度」は決済を無限に先送りして資本の自己増殖運動を促進し、新自由主義(グローバル資本主義)を無限に延長させている。従って、「信用」とそれを可能にしている「流通」がなければ資本の機能はあっさり切断されてしまう。さらに、この「流通」の還の成就のためには「消費者」の存在が不可欠である。ところで、「消費者」とは、一体何者なのか。少なくとも、始めは二極に分かれた「売る立場」(商品所持者)と「買う立場」(貨幣所持者)が、対立する関係に置かれる商品交換を成立させる(価値と剰余価値とを実現させる)際に、「消費者」は「いついかなる時にでも妥当する」《普遍的》な存在者として位置付けられているかと思われる。今のところは。

なお、労働時間の短縮について。労働時間が短縮されればされるほど、短縮された時間内における労働強化が徹底化されるということ。自動車メーカー・トヨタのトヨタイズムが取り上げられるが、注意点はトヨタイズムもまた「絶対的剰余価値」を中心に考えられた古いイデオロギーに過ぎず、高度にIT化されたシステムによって可能になる「相対的剰余価値」とそれを実際に現実化(価値と剰余価値とを現金化)させる「流通」を中心として考えられてはいないという点だろう。むしろ高度なIT化による労働時間の短縮は自明のことだ。そしてそのことがより一層暴力的な労働強化(短時間で発生してくる新しいタイプの疲労、過労、自殺)を招き込んでしまう。さらにその系列としてストレス性犯罪(痴漢、盗撮、強制性交、顧客プライバシー情報流出、社内機密売買)の多発を呼び起こす。

また労働の高度機能化によって労働時間の短縮を実現した大企業では、空いて解放された時間を消費行動へ向けることを促す。その点は官公庁とて民間と変わらない。この「促し」という情報宣伝活動は主にテレビ・マスコミが受け持つ。労働者として受け取った労賃は、時間短縮によって人為的に解放された「余暇」という名の消費行動へとすぐさま振り向けられる。労働者にとって労賃のほとんどはこの消費行動へと消えてしまう。と同時に他の大企業の儲けとして分配されていく。マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二十章・単純再生産」と「同・第二十一章・蓄積と拡大再生産」での記述はその過程をより一層鮮明な形で可視化したという歴史的功績によってもっと高く評価されてよいだろう。

「労働強化の代表的な例として、アメリカで始まったテイラーイズムにもとづくフォーディズムがあげられる。それは仕事の細分化と生産のオートメーション化(アセンブリ生産)によって、労働の熟練性を奪い『労働の疎外』を極度にもたらす。それに対して、日本のトヨタ方式においては、需要変動に即応するために多品種生産に応じる体制、そして、多能工が育成される。近年では、レギュラシオン学派は、トヨタイズムをポスト・フォーディズムとして評価している。しかし、実際には、それは労働者の『自主性』を活用する、より巧妙なフォーディズムにすぎない。トヨタイズムが成功したのはむしろ系列の下請け中小企業を締めつけ搾取することによってである。このような機械的生産における労働強化の形態によって、資本主義の歴史的『段階』を規定するのは一面的である。それは『絶対的剰余価値』を中心に考える傾向の延長にすぎない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.491〜492」岩波現代文庫)

「労働者の『自主性』」とある。国家・資本・会社の側から圧倒的威力をもって押し付けられてくる圧力を、労働者は仕方なく受け止め、あえて自分自身の「自主性」として発揮するほかない。だから、表沙汰になっていない労災あるいはそれに近い状況というものは、実をいえば途方もなく盛大にある。しかし労働者とその家族・支援者らは余りにも強大化した国家権力を相手にする気力もなければ資金もない。泣き寝入りするほか仕方がない。そのような状態に陥っている世帯が本当は一体どれほどの数に上っているか、官公庁は「国家・資本」の脅威に怯えているばかりであって真剣に考える余裕すらない。資本主義の掟の一つとして、加速するばかりの格差社会はそのうち破綻するが、いずれにせよ、テレビ・マスコミはその一つ一つを丁寧に伝えようとはしない。

BGM

「トランスクリティーク」読解スペシャル・エディション5

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的にはフェミニズムというものをどれほど理解しているかは定かでない。が、反差別の立場から、見るに見かねて述べておきたい。大学医学部入試女性差別問題について。といっても、いきなり引用から始める。

「ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏(かたよ)って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。

このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。

併(しか)し、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、貶(け)なされていたのであります。それはどいういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.451~456』ちくま文庫)

「リアルに書いており」「資料価値が高い」「リアリティ」「個性に即した物事の見かた」。それらのどこがどういけないというのだろうか。むしろ要するに、高度な水準の記述性、ということだ。記述性の水準を判定するに当たって記録者の「性別」がどうかなどまったく関係ない。織田信長に関する資料として安吾が引用している実例も男性による記述だ。しかしなぜかそれらは「例外」として、「婦女子の感覚」というレッテルを貼り付けられ「貶(け)なされていた」。逆に「抽象的な考え方」という言葉の説明に関し、安吾は、「禅僧の態度」を例に取って比較している。

「禅には禅の世界だけの約束というものがあるのでありまして、そういった約束の上に立って、論理を弄(ろう)しているものなのであります。すべては、相互に前もって交わされている約束があって始めて成り立つ世界なのであります。例えば、『仏とは何ぞや?』と問いますと、『無である』『それは、糞搔(くそか)き棒である』とか云うのです。お互いにそういった約束の上で分ったような顔をしておりますけれども、それは顔だけの話なんであります。分っているかどうかが分らないのであります。ですから、実際のところは、仏というものは仏である、糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理の前に出ますというと、このような理論はまるで役に立たないのであります。そして、このような一番当り前の論理の前に出まして、それを根本的に覆(くつが)えすことの出来る力がどんなものだか、どこにあるかと云いますと、それは実践というものと思想というものが合一しておるところにしかないのであります。

ところが、このような生き方は、禅僧にとってはまことに困難なのであります。それで、禅僧というものは、約束の上に立っている観念でだけものごとを考えているばかりでありまして、実践がない。悟りというようなものを観念の世界に模索しておるのでありますから、智力というものに頼ってはいても、実際の自分の力なるものがどのくらいあるのか、分っておる人間はいないのであります。ですから、カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動の前には、禅僧は非常に脅威を感じるのであります。自分の実力のなさ、みすぼらしさを感じるわけであります。そうして、禅宗を信じる者が、僧侶でありながらカトリック教へ転向するということが、多いに流行したのであります。それは、今日、われわれが想像いたしますよりも、遥かに多数なのであります。これは今日から見ますと驚くべきことではありますけれども、事実なのでありまして、それは記録に残っておるのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.472~473』ちくま文庫)

「仏というものは仏である」「糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理」。もっともだろう。もし仮に癌細胞摘出手術の際に、「メスとは何ぞや?」などと一体誰が言い出すだろうか。「メスはメス」であり「点滴は点滴」であり「血管は血管」であり「癌細胞は癌細胞」であって、それ以上でもなければ以下でもない。

ところで、「カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動」、とある。戦国時代末期、信長の時代、キリスト教徒はその生活の全てを信仰に賭けるという実践的態度を維持していた。徳川幕藩体制が崩壊し明治になる頃には再び活発に活動の場を与えられるようになったが、その時キリスト教に強く惹かれ入信したのは没落階級と化していた武士であり、しかもほとんど武士周辺の間でしか信徒を獲得できなかった(プライドの保持/武士道の再発見)という経緯がある。従って、近代日本のキリスト教勢力はとるに足らない範囲でしか広がりを見せていない。一般的には大衆のあいだで生活/生命のすべてを賭けてまで実践的態度の表明と実行が必要となるのは昭和になってから、大資本を相手として階級闘争を繰り広げるほかなくなってきた人々によるマルクス主義の本格的展開を待たねばならない。この時、再び「実践的」とは何か、が問われることになった。しかしマルクスは実に用意周到である。

「人間の思考にーーー対象的真理が到来するかどうかーーーという問題は、<ただ>理論の問題ではなく、《実践的な》問題である。実践において人間は自らの思考の真理性を、すなわち思考の現実性と力を、思考がこの世のものであることを、証明しなければならない。思考の現実性と非現実性をめぐる争いはーーー思考が実践から遊離されているならーーー純粋に《スコラ的な》問題である」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー・P.233』岩波文庫)

さて、大学医学部不正入試問題に戻ろう。「女子の方がコミュニケーション能力が高い」という発言については、公正であるべき入試に「性別は関係ない」として抗議するのが妥当だろうと考える。けれども、低所得者層を実際に生きている五十一歳の「社会化された」一個人の立場としては、もう一歩踏み込んで考えてみて欲しいものだと、多少なりとももどかしい思いはする。大学入試の結果(=学歴)や家柄や階級の違いによって個人の人間性もしくは人格のほとんどすべてが「あらかじめ」決定されてしまっている「かのような」近代社会の中で、なぜマルクスは次のようにも言い放ったのか。

「ある者は他の者よりも事実上多く受けとり、ある者は他の者より富んでいる等々ということが生ずる。これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。ーーー権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。ーーー各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38〜39」岩波文庫)

さらにもし、この事件で大学に抗議する人々が多く出現し始めた場合、大学側はどのように捉えてみるだろう。「大学の秩序」に対する「犯罪」とまで見たがる人物などが出てこないとは限らない。あるいは抗議活動参加者を指して苦々しく感じるばかりに「暴徒」扱いしたいと欲する者すらいるだろう。とすれば「大学」とは一体誰が何をする「関連機関」なのかさっぱり分からず、そしてまた「大学」はこれまで「国家の中でどういう機能を果たす」ために設置・運営されてきたのか、という根本的な問いさえ問い直されてくるに違いない。一九六八年のように。ところでニーチェは正しく「暴徒」の側を支持するのだ。

「《犯罪》は『社会秩序に反抗する暴動』という概念のうちの一つである。暴徒は『罰せられる』のではなくて、《制圧される》のである。暴徒というものは憐れむべき軽蔑すべき人間でもありうるが、それ自体では暴動にはなんら軽蔑すべきものはない、ーーーしかも、現今のごとき社会に関して暴動をおこすということは、それ自体ではまだ人間の価値を低劣ならしめはしない。そうした暴徒は、攻撃することを要する何ものかを私たちの社会で感取しているということのゆえに、畏敬をうけてすらよい場合がある、ーーーすなわち、それは、その暴徒が私たちを仮眠からめざめさせる場合である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・P.257」ちくま学芸文庫)

さて、ネット検索してみたところ次のような数値が出た。

「不倫エロ」=5500万件。
「人妻エロ」=1億4200万件。

「不倫エロ」より「人妻エロ」の方が8700万件も多い。圧倒的な差だ。しかし、不倫はいかにして人妻に負けたのか。あるいは人妻はいかにして不倫を制圧したのか。

さらに、二〇一九年三月二十日時点における次のネット検索数を見てほしい。

「フランス・パリ・黄色いベスト運動」=64万1000件。

「不倫エロ」=5500万件+「人妻エロ」=1億4200万件=1億9700万件のほうが「フランス・パリ・黄色いベスト運動」を遥かに、なおかつ桁外れに上回っていることを付記しておく。理由はこうだ。

性行為とはどのような状態をいうのか。行為者は異性愛者であれLGBTであれ乱行状態であれ、いずれの形態を問わず、性行為中は性行為の中へ性行為としての運動体として没頭するほかなく、したがって性行為中はほぼ完全に近く絶対的に国家に対して背反しているという事実に着目しないわけにはいかないからである。とすれば性行為は国家的背反行為なのだろうか。そうとばかりも言えない。たとえば公式の宗教(神道、キリスト教、イスラム教、仏教など)によって正式に認められた婚姻に限り、それは「祝福」される。しかし宗教的に認められた「婚姻」であっても「子作り」目的ではなくただ単なる快楽目的でしかない場合、それは「祝福」されない。さらに言うまでもなく、それ以外のケースはことごとく排斥される。宗教的殺害行為さえざらにある。そしてその罰を受けるのは男性よりもむしろ女性の側が今なお圧倒的に多数であることを記憶しておかねばならない。婚姻ならびに性行為に関する国家的宗教的関与とその管理のあり方は、常に国民国家総体における監視対象だったことを忘れてはいけないだろう。「祝福」にもかかわらず「祝福」された気のゆるみゆえに「祝福」を忘れ去って性行為の忘我の境地に何度も到ろうと欲する。性行為の最中には国家のことなどまったく頭にない。もし頭の中を国家に関する諸事情が掠めることがあれば性行為など上手くはいかないだろう。それにしてもなぜ「祝福」なのか。権威ある他人の承認を得なければ性行為は許されないのか。主体的行為であってはならないのか。性行為はなぜ「祝福」という形でわざわざ権威ある他人から管理されデータベース化されビッグデータに組み込まれ恣意的に選別されたAIの活用に利用されなければならないのか。必ずしも「祝福する」わけではなく逆に「祝福しない」場合もあるという管理権力の底深い意図。その意図の中には何かがあった。その時点ですでに「子どもを作らない」異性愛者とかLGBTとかの政治的排除は「優性思想」の表明でありまた決定事項としてあらかじめ創設されていたのではなかったろうか。

「たしかに芝居見物は姦淫が罪であるようには罪でないのかもしれません」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.52」岩波文庫)

内村鑑三は「芝居」と「姦淫」とを別々に分けて考えている。そして「姦淫」に比べれば「芝居見物」は「罪」のレベルが異なる。「罪」は軽いと言う。いずれにしても内村鑑三の信仰には身体に対する激烈な蔑視と抑圧がある。けれども、ネット検索された数値は、限定的とはいえ、「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」へ向けられた人類の関心の高さの一端を如実に反映させている点で容赦がない。複合施設的商品経済の世界では両者(姦淫および芝居)は決して別々ではありえない。「姦淫」も「芝居」も人間の行為である。もし仮に「姦淫」と「芝居」とを無理に分割しようとすると、その分割が分割自身を通して逆に繋がり合ってしまうという逆説が生じる。この逆説は、分割されるものどうしが、あらかじめ「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されているがゆえに可能となる。両者の「均質化」が分割を逆に連続性へと置き換えてしまう契機なのだ。つまり問題は「理性的人間」と「非-理性的人間」との分割が、分割にもかかわらず、結果的に連続性へと転倒する点にある。

ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

ニーチェのこの一節を踏まえてフーコーが言うように、狂人がなぜ分割されたかという理由は、狂人が「人間」としては「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されたことが上げられる。狂人はなるほど非-理性の存在ではあるけれども、「人間」としては「同等・一様・均質」であるがゆえに始めて「狂った人間」という概念が発生し、従って「狂った人間」はあくまで「狂った人間」して監禁・排除される対象と化した。こうして人間としては「均質的存在」だと認められた以上、狂人は鉄格子の内部へ場を移すべき存在へと変貌する。このことのうちに、理性と非-理性(狂気)との分割が、その実、人間としては「同等」だとして理性との連続性が保証される一方、にもかかわらず「狂った人間」としては体良く世間から隔離される対象となった経緯がある。この歴史性を忘れてはいけない。

そして「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は、その意味内容が理性的であるにせよそうでないにせよ、「同等」な人間どうしの行為の製作物だと認定され他のものと交換可能なものとして認められうる以上、政治的宗教的官僚的御都合主義によって、いついかなる時にでもその現実的存在を左右・処罰できる単なる物的対象=商品となった。「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は今や新自由主義的貨幣経済システムの一部を見事に構成するのだ。管理権力の側から見て理性の範囲内として認められる場合、社会は、一方で「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」を商品として奔放に売買して多額の利益を上げる。その一方でその同じ社会は、同じ「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」が「狂った人間」の所業として認められる場合、再び鉄格子の内部へ監禁・排除して売買を中止させるがそのコピー商品は出回り続けてさらなる利益を生む。だがしかし、「狂って」いるかどうか判断する権利は一般市民の側には既になく、民主主義的選挙を通して選ばれた管理権力の側に移っている。いずれにしても「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は「自然」で「一様」で「同等」で「均質的」な人間の行為としては確かに認められているため、それを「狂った人間」の所業として社会から分割-排除するのも逆に単なる「人間」の所業として社会の表面に復帰させてやるのも、「人間/狂人」の連続性が成立しているがゆえであり、にもかかわらずその時その時の権力装置の都合次第なのだ。ともあれしかし、これらの売買から税収(議員報酬含む)を得ている国家は理性的だろうか、それとも非-理性的だろうか。なお多くの要素が多元的・多層的に問われねばなるまい。

ところで、両者(姦淫および芝居)は決して別々ではない、両者は同じ国家の共同性のうちにあると知っても、「姦淫」の中に「芝居」的行為が混じり込んでいることをわざわざ示唆したいわけではなく、検閲のように「芝居」の中に「姦淫」的要素が見受けられうると指摘したいわけではさらにない。むしろそれではまるで戦前戦中の治安維持法だ。歴史的逆戻りでしかない。ところが極めて安易な方法で現実的な快楽を享受するばかりの一群(金利生活者、大株主、大土地所有者など)やこれもまた現実的な痛苦に喘いでばかりいる人々(低所得者層、生活保護世帯、日雇い労働者など)が流通貨幣を介して存在する以上、また同時に流通貨幣を介する限りにおいてしか存在できない以上、国家という「共同体」は、吉本隆明のいうような単なる「共同幻想」とは違っている。そうではなくて、重要なのは、両者(姦淫および芝居)はどの瞬間も「貨幣を介して」同時にグローバルな社会的連関のもとにあるということだ。この謎を解くためには、両者はーーーこう言ってよければ両者だけでなく検閲当局もまたーーーいつもすでに熱狂的な社会的-共犯関係の中に没入しているということが前提として表象に浮かべられていなくてはならない。さらにこれらの「質」と「量」の中にはたった一人のキリスト教徒も決して入っていないという根拠はどこにも見当たらない。だが逆にすべてがキリスト教徒であるなどと言いたいわけではまったくない。

フロイトはこう述べている。

「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)

少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。

ニーチェはこう述べる。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。

マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。

「『精神』はそもそもの初めから物質に『取り憑かれて』いるという呪いを負っており、ここでは物質は運動する空気層、音、要するに言語という形で現われる。言語は意識と同い年である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.56~57」岩波文庫)

「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。

内村鑑三に戻ろう。彼の弟子格だった志賀直哉。やがてキリスト教を離れていわゆる自然主義へ移行するわけだがーーー、一九二四年(大正十三年)十二月、「人妻」という言語がその「魔性的」な意味の「競り上げ」に関して極めて重要な役割を果たしている、ということを早くも感覚的に知っていた節がある。勿論当時はインターネットもないしネット検索など知るよしもなかったわけだが。ちなみにこの年はロシアでレーニンが死に、中国で第一次国共合作が成立、日本では築地小劇場開場、孫文が神戸に立ち寄ったりもしている。

志賀は次のように書く。

「この話は僕には全く意外だった。この話で僕は僕の頭にある薫さんという人間を全く作り変えねばならなかった。何処にそういう熱情をあの人は隠しているのだろう?そういう熱情が今も尚あの人の何処かに隠されてあるのだろうか、そう思った。が、僕がそう思ったのも実は束の間だった。僕はそれでこそ、あの人があの人らしくなった、それでこそあの人が丸彫りになったのだ、と、直ぐこんなに思うようになった。僕は今まであの人を余りに平面的に見ていた。それは岸本があの人の妊娠に幻滅を感じた事が余りに平面的な見方からであったと同様であると考えた。

それから年月(としつき)が経つにつれ段々に薫さんという人が僕には明瞭(はっきり)して来た。同時に平凡にもなって来たが、薫さんに対する知らず知らずの好意は少しも変らなかった。姉の家(うち)で落ち合ったりすると、その日一日、或いは翌日(よくじつ)までも私は云いしれぬ淡い幸福を感ずる事がある。然しそれが薫さんを自分が恋しているからだとは僕は少しも考えなかった。臆病者の僕にはそれは考えられない。人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する、若(も)しこうなって来ると、それは尚考えてはならぬ事だった。が、事実は僕はやはり薫さんを恋していた。只それを意識に上らせる事が出来なかった。これは臆病といえば臆病だが、人間はそれでいいのだと思う。時には人妻を好きにならぬとはかぎらない」(志賀直哉「冬の往来」『小僧の神様・城の崎にて・P.205~206』新潮文庫)

こうある。

「人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する」

大胆と言えばいいのか。率直と言えば率直すぎる文章だ。その相手の名は「薫さん」とある。最初に夫がいた。妊娠も経験する。夫の生存中に「岸本」という男性と不倫してしまい岸本を愛するようになる。が、岸本はアメリカへ渡り、その後に満州へ出かけたきり消息不明。夫はまだ生きている。そんな時、話者「僕」が「薫=人妻」に欲情の「競り上げ」を覚えるという展開だ。次のことに気を付けたい。

始めのうちは「淡い幸福を感ずる事がある」程度でしかなかった。「僕」は「臆病者」だった。「臆病者」の「僕」が、「薫」=夫のいる「人妻」という「言葉」を突きつけられた時、始めて「恋する」=欲情を「競り上げ」=「意識に上らせる」。一見、ただ単なる三角関係に見える。三角関係の成立と同時に欲情が始まっている「かのように」見えはする。フロイト経由のエディプス・コンプレクスのように。しかしそれだけでは、いつの時代でもどこにでもありそうなーーー例えば近松門左衛門の作品に出てくるようなーーーただ単なる男女の三角関係でしかない。なるほど目に映るのは三人の男女が繰り広げる単なる痴情沙汰に過ぎない。だがこれはそうではないのだ。近松作品と近代文学の違いもそこにある。「臆病者」の「僕」が途端に大胆な思いに駆られ開き直ってしまう瞬間は、まさしく「人妻」という言葉とばったり出会った瞬間と一致する。そしてこの欲情は想像的幻想的な奇怪奇抜この上ないあらゆる性的技法を脳内全域を駆使し思い切り描き尽くし舐め尽くそうとする。妄執的観念の渦巻きに深く溺れ劣情の隅々までを堪能し合い耽溺し合う。この欲情の「競り上げ」は、一方でその発火点・起源となった「人妻」という言葉が実はただ単なる物質的言語(エクリチュール)に過ぎないという足元の現実をすっかり忘れさせてしまう効果を持つ。

小林秀雄は志賀直哉を評してこう言っている。

「志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.36』岩波文庫)

そしてエドガー・アラン・ポーの制作態度と対比して、志賀の「手足」といった身体性を強調している。この身体性の強調はどこかニーチェに似ている。

「私は気分で書くとか理屈で書くとかいう程度の問題を云々しているのじゃない。制作の全過程を明らかに意識する事が如何に絶望的に精密な心を要するものと知りつつこれを敢行せざるを得なかったポオの如き資質と、制作する事は、手足を動かすという事のように、一眦(いっし)をもって体得すべき行動であると観ぜざるを得ない志賀氏の如き資質とを問題としているのだ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.44』岩波文庫)

ところでもし志賀直哉作品の身体性に対して、あるいは「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」とその視聴者が要求する身体性に対して、世の中のキリスト教徒が拒絶的態度を取るとすればそれは明らかに甚だしい自己欺瞞だというほかない。事実はこうだ。キリスト教はAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延にもかかわらず生き延びたのではなく、逆にAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延ゆえにその《別種》の対処療法の一つとして生き延びた。そして現在も生き延びている。

※ただし「児童ポルノ」に関してはなお精神医学的領域・社会学的ないし法哲学的領域での問題が未解決のまま数多く残されており、より一層専門的かつ多層的横断的な取り組みの必要性が要求されている事実を社会自身が明確に自覚しておかなければならないことは言うまでもない。世界中の紛争地帯で発生している幼児・児童に対するレイプもその一つだ。けれども、犯罪に問われた者をただ単なる刑事犯として取り扱い「暴力的装置」(武器・武力・監禁)をもって処刑・処罰するだけでは何ら根本的解決に繋がらないことをはっきりさせておきたい。マルクスは言っている。

「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが《人間に即して》論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは《人間に即して》の論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)

「人間にとっての根本は、人間自身である」。キリスト教徒だけでなくキリスト教徒と共に、さらには仏教徒やイスラム教徒らと共に考え取り組んでいかねばならない問題であることは間違いない。なお、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む際に、それぞれのイデオロギーや教義をそれぞれが譲り合い弛め合う必要性があると考えられがちだ。そうしないと各人は連帯しにくくなるのではないかというのである。なるほどそういう面はあるだろう。日常生活の食事や作法といった様式的分野に限っては。しかし実のところ、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む時にこそ、逆にそれぞれのイデオロギーや教義はますます厳密に硬直性を増しつつ、同時にその有効性を本質的に試される。とりわけ世界中の紛争地帯で幼児・児童らが受ける性暴力・レイプの多発に対して、どこまで《現実的》に有効であるか有効でないか、各々の思想・信条の実質的可能性の射程がまったくの丸裸にされて世界中に晒されるのだ。こうした連帯の危うさについて、各々の厳格さにもかかわらず同盟関係を崩壊させないためにまず言えることは、マルクスに限って述べるとすれば次のような「アソシエーション」(association)の可能性の探求ということになるだろう。「アソシエーション」とは何か。その概念の一端についてマルクスはこう述べる。

「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)

BGM

「トランスクリティーク」読解スペシャル・エディション4

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
生産(メーカー)はいいけれど投機はいけない、などと言う資格がどこの誰にあるのだろうか。それ以前に、生産と投機(商人資本)とはそんなに違ったものなのか、と問う必要がある。

「たとえば、今日、市場経済の調整機能を讃美していた人たちは、それがうまく行かないことを、一部の投機集団のせいにしている。投機家は、商品としての資本や貨幣ーーー株式市場と為替市場ーーーの価値体系の差異から剰余価値を得る、商人資本である。だが、製造業が健全で、投機は不健全だというのは、産業資本主義=古典経済学のイデオロギーにすぎない。それは差異化から剰余価値を得るという自らの商人資本的本性を、商人資本に転嫁することで隠蔽している。第二次大戦以前では、それは反ユダヤ主義として語られたのだ。それに対して、マルクスはいう」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.492」岩波現代文庫)

「資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの幻惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金儲けをなしとげようとするのである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

そういうわけだ。

さて、シェークスピアが今日のような「物語/悲劇」として発見されたのは十九世紀ドイツ・ロマン派の中においてである。ニーチェはいう。

「シェークスピアについても事情は異ならない。この驚くべきスペイン風・ムーア風・ザクセン風の趣味綜合については、アイスキュロスと交情のあった古代アテーナイ人は半ば死ぬほど笑うか怒るかしたことであろう」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.202」岩波文庫)

ではなぜ、シェークスピアの著作が、とりわけ「ハムレット」などの悲劇が、今日のように「自意識過剰」な「物語」として高く評価されるようになったのか。なお高く評価され続けているのか。

「われわれが『高次の文化』と呼ぶものは殆どすべて、《残忍》の精神化と深刻化に基づいている。ーーーあの『粗暴な野獣』は決して殺されてしまったのではない。それは生きており、栄えている。ーーーそれはただーーー神化されただけなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

「神化されただけ」。つまりキリスト教によって「弱化された=馴致された=飼い慣らされた」ということを意味している。と同時に、一体どのような事態が発生してきたか。「暴力意志の内向化」がそれだ。さらに「内向化=転倒」した「暴力意志」は、とどまるところを知らないまま「残忍への意志」として、自分自身の内側へ向けられた「自己滅却・自己否認・自己犠牲」などといった種々の精神的肉体的な自己暴圧装置となる。そしてこの自己暴圧装置の諸機能は今なお片時も休むことなく様々な形を取って働き続けている。というのも、自分自身に向け換えられた自己暴圧という態度の中にさえも、ロマン主義的な、或る種の「甘美な享楽」があるからだ。

「悲劇の悲痛な悦楽をなすものは残忍である。いわゆる悲劇的同情において、根本的にはついに形而上学の最も高く最も繊細な戦慄に至るまでのすべての崇高なものにおいてすら、快適の感じを惹(ひ)き起こすものは、その甘美さをひとりそのうちに混入された残忍の要素から得ているのである。ーーー残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

その証拠が今もロング・セラーを続けるシェークスピア悲劇、あるいは「自意識過剰なハムレット」などという現象に端的に現れていると言えはしないだろうか。

さて、そのように倒錯した精神的暴力装置としてのキリスト教だが、他の宗教的政治的諸勢力から幾度となく暴圧されながらも、むしろそれを逆にバネに世界最大の宗教勢力として発展してきた。なかでも注目されたのは、ほかでもない、その「殉教者」の態度が立派なことだった。同志がむざむざと処刑されるシーンを他の一般大衆が見るという構造。無論、キリスト教徒がそれを阻止しようとしなかったわけでは決してない。圧倒的な力関係の違いがある場合、阻止しようとしても出来なかっただけだ。そしてまた「抵抗してはいけない」という教義の特異さもあった。だがそのぶん、同志が残虐この上ない方法で処刑されるシーンを一般大衆が見る、という形を取って、そんな実状をさらなる布教のために優位に利用したこともまた事実であるに違いない。キリスト教徒の無残極まりない死体。するとなおのこと、無慈悲な処刑に耐えた「殉教」に対する尊敬とキリスト教に対する敬意が民衆の心を捉えるという逆説が起こってきた。こうして異端者は逆に英雄となる。しかし、そんな逆説も或るちょっとした考え方の転倒をきっかけにして見る見る間に消えてしまった。坂口安吾は次のように述べている。

「パジェスの『日本切支丹(キリシタン)宗門史』だとか『鮮血遺書』のようなものを読んでいると、切支丹の夥(おびただ)しい殉教に感動せざるを得ないけれども、又、他面に、何か濁ったものを感じ、反撥を覚えずにいられなくなるのである。当時は切支丹の殉教の心得に関する印刷物があったそうで、切支丹達はそれを熟読して死に方を勉強していた。潜入の神父とか指導者達はまるで信徒の殉教を煽動しているような異常なヒステリイにおちており、それが第一に濁ったものを感じさせる。切支丹は抵抗してはいけない掟(おきて)であるから、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ大小を鞘(さや)ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて捕縛されたなどという御念の入った武士があり、こういうものを読むと、その愚直さにいたましい思いをさせられ、やりきれない思いになる。

然し、彼等の堂々たる死に方には実際感動すべきものがあるのであって、始めのころは斬首や磔(はりつけ)であったが、その立派な死に方に感動して首斬りの役人までが却(かえ)って切支丹になる者がある始末、そこで火炙(ひあぶ)りを用いるようになり、それも直接火をかけず、一間ぐらい離れた所から炙(あぶ)るようにし、網目をわざと弛(ゆる)めておいた。というのは、彼等が見苦しく逃げ廻ったりすることの出来る余地を与えるわけで、見物にまぎれて刑場をとりまいている信徒達に彼等の敬愛する先輩達の見苦しく取りみだした様をみせつけて改宗をうながすよすがにするためであった。この火炙りにかかると一時間から三四時間生きているのが普通であったが、見苦しく取りみだして逃げ廻ったりするのは極めて稀れで、大概は身動きもせず唯一念に祈念の声を放ちつづけて堂々と死に、その荘厳さに見物人から多数の切支丹になる者が絶えなかった。結局二十年目に穴つるしという刑を発明したが、手足を縛して穴の中へ逆さに吊るすのだそうで、これにかかると必ず異様滑稽なもがき方をするのがきまりで、一週ぐらい生きているから、見物人もウンザリして引上げてしまう。苦心二十年ようやく切支丹の死の荘厳を封じることが出来、その頃から切支丹がめっきり衰えた」(坂口安吾「文学と国民生活」『坂口安吾全集14・P.470~471』ちくま文庫)

昨今、目に余る日本政府のカルト性。その切り崩しのための糸口の、ささやかなアイデアの一つがこんなところにもあるように思える。例えば、ウルトラ・ナショナリズムに対してはモノマネや諧謔や皮肉の継続を。同時に、帝国主義的キリスト教徒に対してはその荘厳さを取り上げて逆に滑稽さに置き換えてしまうこと。などなど。

さて、古代ギリシアはシェークスピアを理解しないというのには理由がある。シェークスピアの戯曲には自分で自分自身のうちへと内向化された暴力意志によってずたずたに切り裂かれて汚物と化した内臓の告白が充満しているからだ。古代ギリシアはそのような腐敗物を最も嫌う。

しかし近代以降、とりわけ二十世紀になって盛んに取り上げられてきたハムレットに関する解釈には接しておくほうがよいだろう。というのも、二十一世紀になってアメリカの青年層がますます病むようになってきた精神的傾向は次のように定義可能だからである。エリクソンから。

「この劇には五人の青年が登場する。全員ハムレットの昔からの友人であり、孝行息子として、宮廷人として、未来の指導者としての自らのアイデンティティに確信をもっている(もちすぎている)者たちである。しかし、背信という道徳的裏ぎりが『くさった』デンマークに忠節を尽くしてきた者たち全員の心のなかに滲(し)みこんでゆき、かれら五人もまた、さまざまな陰謀によってそのなかに全員引きずりこまれてしまうのだ。そして、その陰謀は、ハムレットが自らの陰謀によって打破したいと願っているものなのである。すなわち、劇中劇である。

したがって、ハムレットの世界は、拡散した現実と忠誠とから成り立っている。劇中劇を通してのみ、狂気のなかの狂気を通してのみ、演劇行為者のなかの行為者であるハムレットは、見せかけのアイデンティティのなかに高貴なアイデンティティが存在していることを、ーーーそして宿命的な装いのなかに至高の忠誠が存在していることをーーー顕示することができるのである。

かれの疎隔というのは、アイデンティティ拡散の疎隔のことである。存在それ自身からの疎隔ということが、かの有名な独自のテーマなのだ。かれは、人間であることから、男であることから疎隔されているのだ。『人間を見ても楽しくはない。女を見ても心おどらぬ』。愛情と生殖からも疎隔されている。『結婚などというものは、もうこの世から消えてなくなれ』。また、『わたしはこの国に生れ、土地の気風には馴(な)れているつもりだが』、かれは、故国の風習から疎隔されている。さらには、『われわれの疎外された』青年と同じように、時代の超規格化された人間から疎隔されており、事実、『疎外された』人間であるとして描かれている。そして、かれの時代の超規格化された人間というのは、『出会いの時の雰囲気のつかみ方と、外交辞令的な習慣しか知らない』者のことだったのである。

しかし、忠誠を求めるハムレットの探求、ひたむきな、しかし悲劇的運命をもったかれの探求は、これらすべてを突破する。ここにこそ、かの歴史上のハムレットの本質があるのだ。歴史上のハムレットとは、シュイクスピアがそれを現代化し、永遠化する以前に、何世紀にもわたって民衆の英雄であったハムレットの原型のことである。

かれは、自分がすべての問題で嘘をつきがちな人間だと思われることを嫌っていた。いかなる嘘にも無関係な人間だと思われたいと願っていた。したがって、かれは、かれの言葉が、真理を欠いているのではないが、しかし真理を表わすこともなく、またかれの熱意を裏切ることもないように、悪知恵と正直を混ぜ合わせたのである。

このテーマは、息子に向けての宰相の言葉のなかにも見られるが、これは戯曲『ハムレット』が描く真理の姿である。

ポロニュースーーーところで一番大事なことは、自己に忠実なれ、この一事を守れば、あとは夜が日につづくごとく、万事自然に流れ出し、他人にたいしても、いやでも忠実にならざるをえなくなる。

しかし、ハムレットの狂気は、かれの気高さをさらに高めているわけで、このこともまた、ハムレットの熱烈な台詞(せりふ)における中心的なテーマなのである。かれは、因襲的なごまかしを憎悪し、真摯なる感情をもつことが大切であると力説する。

見える!いや、事実そうなのだ。見えるとか見えぬとか、そのようなことはこちらの知ったことではない。この漆のように黒い上衣、しきたりどおりのもっともらしい喪服、そらぞらしい溜息、溢れほとばしる涙の泉、湿っぽい憂え顔、そのほかありとあらゆる悲しみの型も表情も、母上、この心の底を真実あらわしてはおりませぬ。なるほど、こういうものなら目にも見える。そうしたお祭り騒ぎなら、誰にもやれましょう。この胸のうちにあるものは、そのような、悲哀が着て見せるよそゆきの見てくれとは、ちがいます。

かれは、エリートのみが真に理解できるものーーー『すっきりした作風』(『正直な生き方』)ーーーを探求しているのだ。

いつか聴かせてくれたやつがいい。たしか一度も板にはのらなかったはずだ。それとも一度くらいのったかな。どうも大向うには受けなかったらしい。一般の見物にはキャヴィアよろしく、高級すぎて口にあわないのだ。だが、あれはいいものだったーーー自分などよりよほど見巧者の連中も、そう言っていたがーーー各場それぞれよくこなれていいて、気が利いているし、それでいて度をすごさずーーー!誰かもいっていたようだが、味をよくしようとして薬味をきかせすぎるようなところもないし、作者の厭味な体臭にうんざりするような文句もなく、まあ、すっきりした作風だった。

かれは、上品な『所作』と、誠実な『演技』を狂信的に要求する。

その辺の呼吸はめいめい分別にしたがうよりほかにない。要するに、せりふにうごきを合わせ、うごきに即してせりふを言う、ただそれだけのことだが、そのさい心すべきは、自然の節度を越えぬということ。何事につけ、誇張は劇の本質に反するからな。もともと、いや、今日でも変りはないが、劇というものは、いわば、自然に向って鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を択りだし、時代の様相を浮かびあがらせるのだ。

そして、最後に、かれの友人が真摯な性格をもっていることを、熱心に(熱心すぎるくらいに)認めようとする。

自分で自分の好き嫌いがわかるようになり、人間の善し悪しの見わけがつくようになってからというもの、ホレイショーこそは心の友と固くおもいさだめてきたのだ。人生のあらゆる苦労を知っていながら、すこしもそれを顔に出さず、運命の神が邪慳に扱おうと、格別ひいきにしようと、いつも同じ気持で受け容れる、そういう男だ、ホレイショーというのは。心臓と頭の働きが程よく調和している。けっして運命神の指先で手軽に操られ、その好きな音色をだす笛にはならない。まことに羨ましい男だ。激情の奴隷とならぬ男がほしい。この胸の底にそっとしまっておきたいのだ。いや、今そうしているのだ。よけいなお喋りをしたな。

したがって、これこそまさに、ハムレットのハムレットなのだ。言葉が行為であること、自らは実行できぬことをはっきりと言うこと、忠誠をもつがゆえに愛する者を死にいたらしめざるをえぬということ、これらこそ、演劇行為者であり、知識人であり、青年であり、神経症患者であったハムレットに似つかわしいことである。なぜなら、最後にかれが達成するものは、最初に避けようとしたものだからである。かれは、われわれが否定的アイデンティティと呼ぶものを実現してしまったのであり、また、彼の倫理感が決して許すことがないような人間にーーー狂気の復讐者にーーーまさになってしまったのである。したがって、精神の現実性と歴史の真実性とが共謀して、一人の人間が肯定的アイデンティティを獲得する可能性を否定してしまったのだ。かれは、まさにそのためにこそ生れてきたというのに。もちろん、この劇の観客は、ハムレットのこの誠実性そのもののなかになにか致命的なものがすでに含まれていると、終始感じてこられたことであろう」(エリクソン「アイデンティティ・P.334〜338」金沢文庫)

自己発見を目指して自己喪失を手に入れる。優等生を目指して狂気に陥る。そのような現代アメリカの若年〜中高年層が病んでいる深刻な精神の病と向き合うこともまた、言語・貨幣・流通を介した日本の役目ではないだろうかとおもえてくるのだ。少なくとも世界中がネット社会に立ち至っている昨今、日本は日本の中だけで他の気に食わない論客を相手に居直りつつ攻撃して喜んでいる老害老人をのさばらせていて果たしてよいものだろうか。

なかには「徴兵制を目的とする教育」の実現を説いている学者すらいる。老いてなお与党権力の側から少数派をいじめることに夢中になれる老人学者。軍事目的を兼ねた教育改革とはどのようなものか。そのための「学校」とは何か。そんなことはレーニンがとっくの昔に述べている。

「たとえば、われわれがすでにその深遠な意見を知っている新『イスクラ』の例の『一実践家』は、私が党を、中央委員会という支配人をいただく『巨大工場』と考えているといって告発している(第57号、付録)。この『一実践家』は、彼のもちだしたこのおどし文句が、プロレタリア組織の実践にも理論にもつうじていないブルジョア・インテリゲンツィアの心理を一挙にさらけだしていることに、気づいてもいない。ある人にはおどし道具としかみえない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭にたたせた資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンチャに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発達した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている。ブルジョア・インテリゲンツィアには服しにくい規律と組織を、プロレタリアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、とくにやすやすとわがものにする」(レーニン「一歩前進二歩後退・P.261」国民文庫)

信じがたいが日本にはそういう老人が今なお少なくないのだ。そんな暇があるなら少しは国際貢献の一つでもしてみてはどうかとおもうのだが。

BGM

「トランスクリティーク」読解スペシャル・エディション3

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
右翼は万人によって求められることを自ら欲し、左翼は万人によって愛されることを自ら望む。かつても民を愚昧ならしめるためにマスコミが最も狭き宿命に緊縛されたことがあった。今や事実と技術とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに日和見的なる民衆の切実なる急用である。マルクスはいう。

「要するに、人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.320』岩波文庫)

こうもいう。

「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140」国民文庫)

その通りに読み進めて見るとーーー。なるほど確かにこうある。

「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)

「実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである」。要するに「剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない」のだが、一方、「利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものであ」って、従って丸見えだと。

ところが「必要労働」と「剰余労働」との「境界」はどこまでいっても「見えない」。両者は「融合している」。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

マルクスのいう考察方法あるいは一つの叙述。

「前には同じ資本に時間的に相次いで起きた変化として考察したことを、今度は、別々の生産部門に相並んで存在する別々の投資のあいだの同時に存在する相違として考察するのである」(マルクス「資本論・第三部・第二篇・第八章・P.242」国民文庫)

時間的差異から生じる剰余価値を空間的差異へと置き換えて考えてみたわけだ。しかしそれは一国内部ですべての労働過程が機械化されてしまえば無くなってしまう「剰余」に違いない。それでもなおどこからか剰余価値は発生してくる。どこからなのか。すべてがオートメーション化されきっていない諸地域から続々と、である。ゆえにマルクスはこう述べている。

「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならないのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)

「全商業世界」、とある。ここで、グローバル資本の多元性、多国籍企業とその傘下にある重層的グループによって、世界中の様々な地域から吸収され合体される総資本、という概念は既にマルクスの念頭には置かれていたと見るべきだ。

ここでのキーワードは貿易。それも資本主義的生産様式が高度に発展した国とまだ発展途上にある諸地域(とりわけ植民地)との間で行なわれる貿易である。両者の間の様々な商品取引から発生するだけでなく発生しないわけにはいかない剰余価値の吸収と合体。いつもすでに不均衡な多元的取引。高度に発展した国のほうへ常に既に有利に働く動因が両者の不均衡な取引をますます不均衡な方向へ加速させる。こんなふうに。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易に投ぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

世界資本主義あるいはグローバル資本主義の生成。要するに新自由主義の樹立とその絶え間ない更新。そこで重要になるのは「流通」並びに「交換」である。いつまでも「生産」にばかり囚われていてはいけない。勿論、生産過程は重要だ。しかし生産物=商品を資本化するのは生産工場内部ではまったくない。商品は流通する。しかしただ単に流通するだけでなく貨幣との交換において始めて自分自身が暴力的に貫徹されうることを知るのだ。こういった過程をたどらざるを得ない資本主義本来の暴力性に対して労働者でもあり消費者でもある一般の人々は一体どのように振る舞っていけばよいのか。

例えば、柄谷行人はこう言っている。

「『資本論』において、労働者が主体的となる契機は、商品―貨幣というカテゴリーにおいて、労働者が位置するポジションが変更されるときに見出される。すなわち、資本が決して処理しえない『他者』としての労働者は、消費者として現われるのだ。それゆえ、資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は『道徳的』である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.436~437」岩波現代文庫)

それは確かにそうだ。つい先日発生したにもかかわらず、もう日本の歴史から忘れられてしまいそうになっている「新潮45」廃刊問題は記憶にも新しい代表的な事例だろう。だがなぜそれほどまでに「流通/交換」過程は重要なのか。商品は貨幣と交換されなければその価値を実現できない。商品は貨幣と交換される時点で、またその限りでのみ、始めて実際的な価値を実現するほかないからだ。マルクスはこう述べる。

「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)

次に柄谷は、マルクスではなく、頭の固すぎるマルクス「主義者」を念頭に置きつつだと思われるが、こう述べる。

「古典派経済学を受け継いだマルクス主義者は、生産点での労働運動を優先し、それ以外のものを副次的・従属的なものと見なしてきた。それは同時につぎのようなことを意味する。生産過程中心主義には男性中心主義がふくまれている。事実上、労働運動は男性、消費運動は女性が中心となってきたが、それは、産業資本主義と近代国家が強いる男女の分業にもとづいている。古典派経済学の生産過程中心主義は、『価値生産的』労働の重視であるから、それは家事労働などの『生産』を非生産的とみなすことになる。これは産業資本主義とともに始まる差別であり、それがジェンダー化されたのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.437」岩波現代文庫)

さらに、日本国内だけではどうにもならない事情についてだ。「トランスナショナル」な抵抗運動の構築を提案している。そこで問われてくるのはーーー当たり前のことだがーーー消費者とは何かという問いだ。消費者、それは同時にグローバル化したトランスナショナルな労働者以外の何者かであった試しはない、と柄谷はいう。

「だが、『消費者』とはそもそも何なのか。それは労働者以外の何者でもない。市民=消費者から出発することは、生産関係を捨象してしまうことであり、それはまた、海外の消費者との『関係』を捨象することである。人々が生産過程と流通過程に分離されているかぎり、資本の蓄積運動と資本主義的な生産関係に抵抗することはできない。したがって、資本と国家への抵抗運動は、たんなる労働者あるいは消費者の運動ではなく、トランスナショナルな『消費者としての労働者』の運動でなければならない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.438」岩波現代文庫)

またマルクスは何度か協同組合について言及しており、ここでも時々取り上げてきた。何もしないよりはマシだという程度でしかないが。次の文章もまた考察に値すると考える。

「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)

「突破である」、とある。突破とは何か。坂口安吾に言わせれば「突き放す」あるいは「突き放される」ことだ。

「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーーー私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。ーーーだが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそう信じています」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330~331』ちくま文庫)

さらに。「マスコミ気質」というのか、「評論家気質」というのか、なかにはまだ「文士気質」というものまで残っているかもしれない。小林秀雄はそういう人々に向かってこういった。

「しかしここにどうしても忘れてはならない事がある。逆説的に聞えようと、これは本当の事だと僕は思っているが、それは彼らは自ら非難するに至った、その公式主義によってこそ生きたのだという事だ。理論は本来公式的なものである、思想は普遍的な性格を持っていない時、社会に勢力をかち得る事は出来ないのである。この性格を信じたからこそ彼らは生きたのだ。この本来の性格を持った思想というわが文壇空前の輸入品を一手に引受けて、彼らの得たところはまことに貴重であって、これも公式主義がどうのこうのというような詰らぬ問題ではないのである。

なるほど彼らの作品には、後世に残るような傑作は一つもなかったかも知れない、また彼らの小説に多く登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。しかしこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至は成功の結果ではないのであった。

わが国の自然主義小説はブルジョア文学というより封建主義的文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、その限界に時代性を持っていたのに反して、わが国の私小説の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示している。彼らが抹殺したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルクシズム文学全般の仕事の上に現れている事を誰が否定し得ようか。彼らが思想の力によって文士気質なるものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである」(小林秀雄「私小説論」『小林秀雄初期文芸論集・P.388』岩波文庫)

昨今は特に、マスコミ御用達の評論家気質が目に余って仕方がない。彼ら彼女らは一体いつになれば「マスコミ人気質・マスコミ気取り」から脱出・自分で自分自身を解放するとともに、この地上の、世間の一般大衆が日夜どれほど苦悶に喘いでいるか、日常生活の様々なやりくりから来る精神的肉体的苦痛に倒れそうになっているか、実際に倒れているか、どんな安月給でボンクラな現政権による暴力的抑圧を耐え忍んでいるか、少しは知ってほしいものだと思う。ーーー無理だろうけれど。無理なら無理でせめてそういう「気質/気取り」だけでも「征服」できはしないだろうか。「征服」するつもりはあるのだろうか。もっとも、マスコミだけに限ったことではないけれども、もし「気質/気取り」=「寄らば大樹根性」=「そいつの性根」だけでも「征服」できそうでなければどうなるだろう。もう既にそれはあちこちで始まっているが。左翼の完全な消滅と同時に、今以上に増幅された形で、残された資本家同士の熾烈な銭ゲバによって再び世界は二分割されるだろう。それでもいいと言うのなら世界各地で発生するに違いない小型原爆による地球破壊へと急速に突き進んでいくほかないだろう。つまらない繰り返しの繰り返し。ともあれ、ニーチェのいう「永劫回帰」とはそういう意味の「回帰」では決してないのだが。左翼の消滅は直ちに右翼の消滅を意味しない。そんな簡単なものでは決してない。歴史によれば、一方(左翼)の虐殺・絶滅を経て始めて虐殺・絶滅を敢行した側の右翼もまた考え出す。そこで何かと修正しないといけない諸々の事象があることにようやく気付く、という経過をたどる。しかしながら、外国はまた事情が何かと錯綜しているため単純に言えないとは思うけれども、ただし日本に限って言えば、なにをなすべきか?「日本の左翼」はとっとと経済を語るべきだ。一般大衆を日々これ途切れることなく確実に食わせていかなければならない。とすれば、なにをなすべきか?

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「トランスクリティーク」読解スペシャル・エディション2

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
カントはいう。

「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものではない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、ーーー物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということについては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する」(カント「プロレゴメナ・P.80~81」岩波文庫)

カントは、「ある」ということは認めるけれどもそれが実際に何であるかは知ることのできない「物体」が「我々のそとにある」ということを「承認する」、と言っている。我々には知ることができないがその存在は「承認」できる「物」とは一体なんだろう。ここでカントは「他者」の存在を認めている。それが実際に何であるかは「知らない」と同時に「我々のそとにあることを承認」せざるを得ない「物体」。昨今通用する言葉に直せばそれは「他者」という言葉に置き換えられる。さらに。

「しかし判断がどのような起源をもつにせよ、またその論理的形式がどのようなものであるにせよ、判断は内容に関して区別せられる、すると判断は、単に《解明的》であって認識内容に何ものをも付け加えないか、それとも《拡張的》であって与えられた認識〔の内容〕を増大するか、二つのうちのいずれかである。前者は《分析的》判断、また後者は《総合的》判断と名づけられる」(カント「プロレゴメナ・P.32」岩波文庫)

後者の「《総合的》判断」は「《拡張的》であって与えられた認識〔の内容〕を増大する」、という。どういうことか。

「述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら両つの仕方のいずれかである。私は第一の場合の判断を《分析的判断》と呼び、また第二の場合の判断を《総合的判断》と名づける。それだから判断において、述語と主語との結びつきが同一性の原理によって考えられるものが、分析的(肯定)判断である。しかしこの結びつきが同一性によらないで考えられるものは、総合的判断と呼ばれるべきである。我々は分析的判断を《解明的判断》、また総合的判断を《拡張的判断》とも呼ぶことができるだろう」(カント「純粋理性批判・上・P.65~66」岩波文庫)

こうある。「述語と主語との結びつきが」「同一性によらないで考えられる」。そのような場合、「総合的判断=拡張的判断」と呼ぶ。「或る言語B」と「或る言語A」との「総合的判断」というときの「総合」は、カントでは、感性「と」悟性の「総合」である。間に「と」が入っている。切断がある。しかも両者の結びつきは「同一性によらない」何か他のものに依存する。この「何か他のもの」は様々なケースが考えられる。また「物自体=他者」はただ単に一つの「他者」があると考えられるだけでなく、様々なケースの想定可能性という形態を持つ。従って、「物自体/他者」=「複数の他者/他者性」という論理を立てることができるかと思う。このことは即座に、それぞれに違った法則・価値観を共有する共同体が複数(多数)あるということを示唆している。複数の共同体は複数の国家と言い換えてもいいかも知れない。事実、複数の国家は複数の共同体として「それぞれに違った法則・価値観を共有」しながら共時的に現存しているだけでなく、時間的には過去に実在したし、また未来において、変容しながらではあろうものの存続してはいくだろうからだ。

さらにカントは「自由」ということについて極めて批判的な視線を向けた。それは何も「自由」を拘束したいがためではない。例えばこうある。

「自分の理性を《公的に使用する》ことは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を《私的に使用する》ことは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が《学者として》、一般の《読者》全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーーー《公民として》或る《地位》もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。ところで公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人達のうちの若干に、あくまで受動的な態度を強要するような或る種の機制を必要とする。それは政府が、この人達を諸種の公的目的と人為的に一致せしめるためであり、或いは少なくともこれらの目的を顚覆させないためである。こういう場合には、論議はもとより許されていない、ただ服従あるのみである。しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員ーーーそれどころか世界市民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向って、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差し支えないのである」(カント「啓蒙とは何か・P.10~11」岩波文庫)

一般的には、いわゆる「私的」なものを「公的」なものへ置き換えて、公共的なもの(国家・共同体)を逆に私的なものとして取り扱った、と言われている。それがカント的転回だと。しかし、それだけだろうか。「世界市民的社会の一員」とある。カントのいう「世界市民」は特定の「国家・共同体」の内部でだけ完結する「市民」のことではない。その意味の「市民」なら昔もいたし今もいる。そうではなく、「世界市民」であるためには「自由」が保証されていなくてはならない。ところで、そのための「自由」は果たして現実に保証されているだろうか。保証されていない。ではどうすれば「世界市民」は実現できるのか。たとえ実現できるとしても、その「自由」は実在する「国家・共同体」によってすぐさま絡め取られてしまうのではないか。そうなのだ。実際はすぐさま絡め取られてしまう。そこでカントのいう「世界市民」並びに「自由」は一旦「括弧入れ」しなければ問うことができない。そういう「自由」だ。カントでは個人的であることが形式的にはむしろ「パブリック」だとされるので、ともすれば「引きこもり」などの態度=「パブリック」と取られる転倒した解釈を引き起こす。しかしそれでは転倒の転倒であって根本的な問題解決にはならない。「引きこもり」といったケースは「一時的避難」の態度として考えるべきだろう。それはカント的転回ではないが、社会的な意味で、一つの立場として、「括弧入れ」された「立場」として尊重されるべきだろう。勿論それもまた一つの「他者」として。しかし、問題は依然として「自由」とは何か、あるいは規制の「国家・共同体」を越える「世界市民」は可能かであり、もし可能だとすればそれはいかにして可能か、である。

なお「括弧入れ」は差し当たりフッサールを参照しておこう。

「生活世界があらかじめ与えられているという事態は、どうすれば固有の普遍的な主題になりうるであろうか。それは、言うまでもなく、自然的態度を《全面的に変更すること》によってのみ可能なのである。それは、われわれがもはや、いままでのように自然的に現存する人間として、あらかじめ与えられている世界の恒常的な妥当を遂行することのうちに生きるのをやめ、むしろこの妥当をたえずさし控えるといった変更である。そのようにしてのみ、われわれは、『世界それ自体の先所与性』という、変更された新たな種類の主題に到達することができる。換言すれば、世界が純粋にもっぱら《世界》として、また、われわれの意識生活において意味と存在妥当をもち、しかも、たえず新たな形態の意味と存在妥当を得てくるそのままの《姿》で主題となるのである。こうしてのみわれわれは、自然的生活においてものを企てたり所有したりするさいの基盤として妥当する世界がなんであるのか、またそれと相関的に、自然的生活とその主観性とは《究極的には》なんであるのかーーーその主観性はそこでは妥当を遂行するものとして作動しているのであるがーーーを研究することができる。自然的な世界生活は世界を妥当させているが、そのような能作をしている生活は、自然的な世界生活の態度では研究されえない。それゆえにこそ、《全面的な》態度変更が、すなわち《まったく他に類のない普遍的な判断中止》が必要となるのである」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第三部・第三十九節・P.266~267」中公文庫)

しかしここにはフッサール自身が自覚的に提出したアポリアがあった。主観性としての人間は、世界の部分的主観でしかない人間(自分自身)を含む全世界を、客観的存在として考察することができるのかという難問(アポリア)である。

「だが、まさにこの点に困難が存する。あらゆる客観性、すなわちおよそ存在するあらゆるものがそこに解消される普遍的相互主観性が人間以外のなにものでもないことは明らかであるし、この人間は疑いもなく、それ自体世界の部分的要素である。世界の部分的要素である人間的主観性が、いかにして全世界を構成することになるのか。すなわち、みずからの志向的形成体として全世界を構成することになるのか。世界は、志向的に能作しつつある主観性の普遍的結合の、すでに生成し終え、またたえず生成しつつある形成体なのであるが、そのさい、相互に能作しつつある主観そのものが、単に全体的能作の部分的形成体であってよいものであろうか。そうなれば、世界の構成分である主観が、いわば全世界を呑み込むことになろうし、それとともに自己自身をも呑み込むことになってしまおう。なんという背理であろうか」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第三部・第五十三節・P.327~328」中公文庫)

ところでカントは一方でこう述べる。

「ところで過去の時間は、私の自由にならないから、私の為す一切の行為は、もはや私の自由にならないような規定根拠によって必然的でなければならない、換言すれば、私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、私の《自由にならない》ものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列ーーーすなわち<その前にあるものから>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにはいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである」(カント「実践理性批判・P.194~195」岩波文庫)

もう一方で次のように述べる。

「例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根原まで突きとめてみる、そしてこの根原を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生れ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が以前の不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或はまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである、即ちーーーこの行為者の以前の行状がどうであろうと、それは度外視してよろしい、ーーー過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、ーーー要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったと見なすのである」(カント「純粋理性批判・中・P.225~226」岩波文庫)

一方で「自由ではない」と言い、もう一方で「自由であり得るし自由であるべき」だったと言う。二つの対立する命題の両立が余儀なくされている。これは「それぞれに価値観の異なる様々な国家・共同体」=「複数の他者」の「他者性」は可能かという課題と似ている。フロイトはいう。

「夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現わしているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者たちのようなものです。われわれが精神分析に技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.208」新潮文庫)

「選挙によって選ばれた大衆の代表者たちのようなもの」。「夢の諸要素」は代議制民主主義のようなものだ、多くの選挙民の立場が「短縮された要約」なのだと。そうはいっても「代議制」にも色々あるだろう。マルクスは次のように述べたことがある。

「また、民主党の代議士といえば、みな商店主か、さもなければ商店主のために熱をあげている連中だと、考えてもならない。彼らは、その教養や個人的地位からすれば、商店主とは天と地ほどもかけはなれた人たちであるかもしれない。彼らが小ブルジョアの代表者であるのは、小ブルジョアが生活においてこえない限界を、彼らが頭のなかでこえないからである。したがって、小ブルジョアが物質的利益と社会的地位とに駆られて実践的にめざすのと同一の課題と解決とにむかって、彼らが理論的に駆り立てるからである。これが、一般にある階級の《政治的》および《文筆的代表者》と、彼らの代表する階級との関係である」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.59」国民文庫)

「代表するもの」(代議士)《と》「代表されるもの」(大衆)の間は「天と地ほどもかけはなれ」ているかもしれない。実際のところ、おそらく、今なお、かけ離れている場合が多いかもしれない。事実、両者のつながりは決して自然必然的なものではない。むしろ両者の間には切断がある。だから選挙民は選挙のたびに「代表するもの」(代議士)を取り換えることができる。両者のつながりはいつもすでに恣意的なものでしかない。フロイトは「夢の作業」について「圧縮」「転移」などの用語を用いて「代表するもの」《と》「代表されるもの」の構造を取り出しているがマルクスはそれに先駆けている。だからといって両者ともいわゆる「構造主義者」でないことはもはや周知の事実だ。

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫)

「もはやたがいに理解しえないようになった」、という。この事態は「それぞれに価値観・法則・風習の異なる様々な国家・共同体」=「複数の他者」の「他者性」は可能か、と同時にそれら相互間の理解可能性はどのようにして構築・保証されるべきか、あるいは必ずしも構築・保証される必要はないのか、といった諸課題を想起させる。まるで「問い」としての「バベル」を思い起こさせるが、それについてはまたの機会にしたい。機会があればの話だが。ところで、「代表者」を持たない多くの人々はどうしたか。

「分割地農民たちのあいだにたんなる局地的な結びつきしかなく、利害の同一性が、彼らのあいだにどんな共同関係も、全国的結合も、政治組織も生みださないかぎりで、彼らは階級をつくっていない。だから、彼らは議会をつうじてであれ、国民公会をつうじてであれ、自分の階級的利益を自分の名まえで主張する能力がない。彼らは、自分で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない。彼らの代表は、同時に彼らの主人として、彼らのうえに立つ権威として、彼らを他の諸階級にたいして保護し、上から彼らに雨と日光をふりそそがせる無制限な統治権力として、現われなければならない」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.148」国民文庫)

特定の代表者を持たない「分割地農民たち」は何と直接にルイ・ボナパルトを支持することにした。今でいう「国民投票」のようなものだ。昨今、世界中に溢れている「無党派層」だが、彼ら彼女らはなるほど「特定の代表者を持たない」浮動票なので十九世紀半ば頃の「分割地農民たち」の社会的立場と似ている。だからといってむやみやたらと「統一」を呼びかけてみても不毛な気がする。なぜだろう。上からも下からも半ば強制的に与えられるばかりの代議制民主主義にはもう飽き飽きしているのかも知れない。愛想を尽かしたのかも知れない。「代表するもの」の側は愛想を尽かされたのかも知れない。代議制民主主義などにもはや自分たちのどのような未来も具体的には見出せず、ほとんど一切の関心も興味も失ってしまったかのように見える。実際、彼ら彼女らの多くは、選挙を通した政治的経済的文化的議論よりも、遥かにインターネットを含む不必要な「機械操作」に夢中だ。だがそれら「機械操作」の多くは、今まで以上にますます、「絶望的な退屈」や「変化の多い怠惰」を生む。

「『機械文化への反作用』。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)

「夢」のように「短縮された要約」とは、フーコーのいう「言説」のことだ。「言説」が人々をまとめ上げる。その前に、「表層」としての「言語」とは何か。

「さてこれは、ヒステリー症状が言語的表現を手段とする象徴化によって発生することについての適切な、奇妙とさえいえる実例だと思われる」(フロイト「ヒステリー研究」『フロイト著作集7・P.151』人文書院)

ここで述べられているように、フロイトは通常思われているような「深層」の発見者ではない。逆である。フロイトはそれまで行われてきた催眠療法によって被分析者から半ば暴力的に記憶を掘り起こさせるよりも、できる限り「のんびりした方法」=「夢」や「自由連想法」といった方法の適用を考案した。その際、「深層」ではなく「表層」に現われる「言語」の連合的・総合的配置に着目したのだ。しかし逆説的なのは、言語の連合的・総合的配置から得られる様々な情報を分析の起点としたにもかかわらず、ニーチェの言葉を借りれば「遠近法的倒錯」によって「無意識」として論述されてしまったがゆえにフロイトにまつわる無数とも言える誤解が生じてきたことだ。「夢」や「自由連想法」から得られた言語的諸情報の多層的分析から症状解決への道を探るというフロイトの試みは、いつの間にか「無意識」の発見者へと転倒されて次世代へ相続される事態を招いた。だがしかし、あくまで「表層的」な「言語」とその連合的・総合的配置が先立って与えられることによってのみ、その地点で被分析者が示す「抵抗」という態度を通して、始めて精神分析並びに「無意識」の発見は可能となる。

さらに言語的連結は、事後的に、なおかつ直ちに、様々な解釈を発生させずにはおかない。解釈は拡大再生産される。大量に発生してきた無制限な解釈の中から、そもそも諸々でばらばらな無政府的且つカオス的な個々別々の破片の乱立があるだけに過ぎない(そしてそれは事実であるとしても)という一つの「言説」が立ち現われてくる。「表層」に着目したにもかかわらず、なぜ、あるいはそれゆえに「無制限の解釈」へ転倒してしまうのかという問いにはニーチェがこう答えている。

「完璧なものにすること(たとえば、私たちが鳥の運動を運動として見ていると思っている場合がそうだが)、つまり即座に《捏造すること》は、感官知覚においてすでに始まっている。私たちはつねに、私たちが人間たちについて見たり知ったりしている事柄から、人間たちの《全体》像を定式化する。私たちは《空虚》には耐えられない、ーーーこのことが私たちの空想の破廉恥さなのである。いかにわずかしか私たちの空想は真理に結びつけられ慣らされていないことか!私たちは《いかなる》瞬間にも、認識されたもの(ないしは認識されうるもの!)では満足し《ない》。《材料を戯れつつ加工すること》が、私たちの間断ない根本活動、それゆえ空想の習いなのである。いかにこの活動が強力であるかの証拠としては、目を閉じているときの視神経の戯れのことを考えてみよ。私たちが読んだり、聞いたりする場合も同様である。《正確に》聞いたり見たりすることは文化のきわめて高い段階なのだ、ーーー私たちはこの段階からはまだきわめて遠いところにいる。聞いたり見たりすることにおいて虚偽があることはまだ全然感じられない!空想する力のこうした自発的な戯れが私たちの精神的な根本生活である。もろもろの思想は私たちに《現象する》のだ、過程が過程のままで意識されること、つまり反映することは一つの比較的に例外的なこと(おそらくそれは対象がそこなわれること)であるにすぎない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一八・P.20~21」ちくま学芸文庫)

だから「言説」以前は本来「ばらばら」であっても誰にも文句は言えないし、むしろ「言説」が与えられることで一挙にまとめ上げられた大衆が差し当たり一つの「階級」を形成したとしても、それは「階級」という言語の付与によって事後的に「まとめ上げられた/形成された」だけに留まる。圧縮・転移され、いわば恣意的に一つの「物」へと「加工」されただけの大衆。しかしルイ・ボナパルト批判にも的外れなものがあった。

「ヴィクトール・ユゴーは、このクーデタの責任発行人にむかって、辛辣(しんらつ)な、気のきいた悪口を浴びせかけるだけである。ユゴーの著書では、この事件そのものがまるで青天の霹靂(へきれき)のように見える。彼は、この事件を一個人の暴力行為としか見ていない。この個人が世界史上に類例のない個人的な主動力をもっていたとすることで、その人物を小さくせずに、かえって大きくしているのだということに、彼は気がつかない」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.10」国民文庫)

ヴィクトール・ユゴーによるボナパルト批判は「事実に即して」の批判になっていない。ただ単なる誹謗中傷でしかない。その種の「悪口」では「相手に即して偽なることを示さなければならない」というヘーゲルを越えることはできない。そしてここには「代表制」という限りでは、間接的代表制と直接的代表制というたった二つの代表制の対立があるだけなのだという事情も忘れ去られてしまうだろう。次のことも。

「たとえば、下士官に日額4スーの手当を支給する命令をだそうという提案がそれである。また、労働者のための無担保貸付金庫をつくろうという提案がそれである。金がもらえる。金が借りられる。これが、ボナパルトが大衆を釣る餌にしようと思った見とおしであった。あたえる、貸す。身分が高かろうと下賤であろうと、ルンペン・プロレタリアートの財政学はこれに尽きる」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.80」国民文庫)

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