前回こう述べた。「だからヘーゲルはもう読まなくていいのか。そうではない」と。しかし以下の部分は道元の言語論から余りに離れ過ぎてしまっているきらいががあるため、ここでいったん節目を織り込もうとおもう。そして改めて続け直しておきたい。
だからヘーゲルはもう読まなくていいのか。そうではない。むしろそれゆえに、そしてその神秘主義的な仮面をかぶったままのヘーゲルをあえて読むこと。読み直すことの重要性に考えおよびはしないだろうか。神秘主義的な面はフォイエルバッハとかマルクスとかが徹底的に剥がしたので差し当たり気にすることはない。
有益なのはヘーゲル弁証法による対立と統合の手法についてだろう。たとえば「お金とは何か」。貨幣あるいは紙幣をいくら数え上げてみても、前から後ろから繰り返し眺め廻してみても、けっしてわからない。そのようなことをして時間を無駄にしていると、目が貨幣に集中してしまうばかりに、逆に肝心の資本主義システムの何たるかから目がそれてしまうということが起こってくる。貨幣が何かということは、弁証法的関係の中に置かれて始めて見えてくる。「お金」というものは、簡単にいえば、「売買という関係」の中に置かれて始めて、それは何かということがだんだん判明してくるものだ。あるいはニーチェのいうように「債権者と債務者との間の契約関係」を生きることによって始めて判然としてくる。並行してマルクス「資本論」を読めばなお一層よく理解できるに違いない。順序としてはマルクス「資本論」から入ってニーチェ「道徳の系譜」へ移るのがわかりやすいかとおもう。ヘーゲルについて手に入りやすい主著としては、まず「精神現象学」、そして「小論理学」とかがある。
マルクスから「契約」と「商品流通」について次のセンテンスを上げておこう。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
ニーチェから「債権者・債務者」関係について。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・四・P.70」岩波文庫)
ヘーゲルから。
「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.251」岩波文庫)
「神は死んだ」とニーチェはいった。ニーチェのいう「神」はしかし様々な仮面を取り替えつつその都度新しい仮面で登場してくる。それは「国家」だったり「資本」だったり「ニヒリズム」だったり「冷笑主義」だったりする。また、ドイツでの宗教批判はフォイエルバッハによってすでに本質的に果たされていた。マルクスはどうしたか。フォイエルバッハによるドイツでの宗教批判をさらに乗り越え、死んだ「神」にとって代わった新しい「神」として大衆の頭上に君臨しつつ権能の限りを尽くしていた「国家」とか「資本主義的経済学」の批判へと向かった。それら諸力の運動を可能にしたのはほかでもないヘーゲル哲学だった。
さて、音声言語(パロール)中心主義として長いあいだ歴史を支配してきたロゴス中心主義的男根中心主義。男根ロゴス中心主義的排他的民族浄化主義。それはアウシュヴィッツにおいてもヒロシマにおいてもチェルノブイリにおいても、それらの致命的経験にもかかわらず脱却することができなかった「中心」という空虚なイデオロギーに過ぎない何ものかである。そしてまた、女性とかLGBTとかの中でも、これまでのように男性を中心とした宗教的思想的社会的構造が残っているからこそ生きづらいのだ、という根本的認識が十分に知れ渡っていないようにおもえる。それはただ単にカルト的宗教的教義に裏打ちされたに過ぎない民族浄化主義とか、理想的〔空想的〕な勃起した男根中心主義(ファルス主義)とかいう幻想がもたらす暴力信仰の何たるかを職場や学校や家庭という社会的日常生活の中でしっかり捉えている人々がいかに少ないかという現実に今なお現われている。人間には身体の重要性より空想のほうが好みに合うらしい。ところが身体には人間自身が頭の中だけでぼうっと考えているより遥かに地に足の着いた思考が詰まっている。
「知覚が脳内にあるのではない。脳こそが知覚群のうちに存在するのである。ーーー身体とは、だから、受容され、送りかえされる運動が《通過する地帯》であって、私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結線である」(ベルクソン「物質と記憶・P.301」岩波文庫)
だが重要なことがある。女性の社会性について。とりわけ先進的諸外国で女性は社会進出を果たしつつある。またLGBTはその名称と過酷な差別的待遇とで有名になりはした。けれども、自分で自分自身がマイノリティだということについて、一体どのように考えているのかがまだ判然としないようにおもう。とりわけ女性の場合。
マイノリティというのはただ単に「数が少ない」ということではない。むしろ数だけでいうなら「多い」というべきかも知れない。マジョリティは数字で数えられる単一的同一的集合的なものとして「国家」を持つものだが、一方マイノリティは数の寡多に還元できない多様体としてのみ存在し、特定の「国家」を持たないし持とうとしない。マジョリティはいつも平均的な水準を誇るとともに自分自身が社会的な枠組みの中の平均的な領域を占めていることで定義される。一方マイノリティはそれら平均的な基準から隔てられているという事実によって定義されるのだ。
たとえば、女性でありながら同時にマイノリティだとは必ずしもいえない女性が社会の中枢へと進出している。いつもは社会の中で平均的な基準から多少なりとも隔てられているマイノリティなのだが、かえって平均的な基準を満たすだけでなく平均値を固定化させるマジョリティとしての女性を見かけるようになってきた。そのような女性はもはやマイノリティとはいえない。かといって男性ではさらさらない。そこに居座っているのは理想的に勃起した男根を崇拝するファルス主義というイデオロギーにほかならない。その意味で平均値をより一層確固たるものにし、マイノリティとの隔たりを無限に設けてマイノリティをより一層下層階級化させていくマジョリティとしての女性がいる、と言わねばならない。
そのような女性は今なお根強く残る男社会の論理を男社会の内部から再組織し再支援するばかりか、むしろ率先して男社会の枠組みの維持に貢献してはばからない。見た目とアイデンティティが女だというだけで、そのじつマジョリティとして君臨する男根ロゴス中心主義的女性の増殖。彼女らは今や堂々と居直りつつ、マイノリティとしての他の女性(あるいは男性)とか他者としてのLGBTとかを、男社会の側に立って男社会の中から排除するシステムのさらなる秩序化に奔走している。
ここで、一つの対立がすでに発生している。
(1)マジョリティの一部と化した女性。
(2)マイノリティの一部でしかない女性。
両者は対立的関係に置かれなければならないし、実際すでに対立的な両項として置かれている。マジョリティとしての女性は自分が自分自身として生存競争を勝ち抜いていくために、今のところ他の選択肢がない以上、他方のマイノリティとしての女性をより一層下層階級へと押しやっていく方向を選択するほか残された手段はない。したがってヘーゲルから引用すると次の部分に相当する生活ルーティンを今後何度も繰り返し実践していくほかなくなるだろう。
「この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.224~225」平凡社ライブラリー)
「生命を賭けなければならない」、とヘーゲルはいう。事実上、給与体系において、正社員・非正規社員・そのあいだ・アルバイトなどで収入はそれぞれ異なる。それはとりもなおさず、そういうシステムの中へ自分自身の生命を丸ごと投げ込んでいく行為にほかならず、どのような人々もこのシステムから逃れることはできないという現実を現わしている。むしろ家族とか会社とかにこだわればこだわるほど、それを守るために各人はそれぞれの立場で「生命を賭けなければならない」境遇へとより一層徹底的に追いやられていく。絶対王政が瓦解し既に資本主義が勝ち取られていた十八世紀後半のヨーロッパでヘーゲルはそのありさまを嫌というほどよく見抜いていた。
マジョリティとしての女性とマイノリティとしての女性との両極に対立した社会的構造。しかしいずれにしても両者とも人間であることに変わりはないではないか、というヒューマニズムは資本主義社会の中では通用しない。今上げたヘーゲルの難解な叙述に対応させて、マルクスは次のように面白い比喩表現を用いている。
「こうして価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
そして「生命を賭け」た上で勝利した側の女性はその瞬間にマジョリティとしての女性へ生成変化するのであり、さらに「生命を賭けなければならない」労働者として次の「生と死を賭ける戦い」へ向かわなければならない。今度はさらに更新された最新機械とその最先端に位置する様々な諸技術を習得した上で、それら知力と体力とを限界まで携えて赴くほかない。限界ある「生命」を「賭け」た、にもかかわらずけっして終わることのない「賭け」だ。人間には死という限界がある。一方、「生命を賭けなければならない」戦いには限界がない。矛盾なのだが、しかしそれこそ資本主義社会の掟の一つである。
しかしなぜ敗北した女性はマイノリティとしての女性である以上にさらなる下層階級へと押し込まれるのか、という疑問は残るに違いない。それにはヘーゲルがこう答えている。〔勝利の先取りによって〕主観的な立場に立った側は、「物」として客体とされたもの(人間含む)を、圧倒的に主観的な立場から客体の内部へおもうがまま「浸透」しつつ、客体を積極的に色付けして自己固有化(自分の下僕化)してしまう、と。
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店)
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だからヘーゲルはもう読まなくていいのか。そうではない。むしろそれゆえに、そしてその神秘主義的な仮面をかぶったままのヘーゲルをあえて読むこと。読み直すことの重要性に考えおよびはしないだろうか。神秘主義的な面はフォイエルバッハとかマルクスとかが徹底的に剥がしたので差し当たり気にすることはない。
有益なのはヘーゲル弁証法による対立と統合の手法についてだろう。たとえば「お金とは何か」。貨幣あるいは紙幣をいくら数え上げてみても、前から後ろから繰り返し眺め廻してみても、けっしてわからない。そのようなことをして時間を無駄にしていると、目が貨幣に集中してしまうばかりに、逆に肝心の資本主義システムの何たるかから目がそれてしまうということが起こってくる。貨幣が何かということは、弁証法的関係の中に置かれて始めて見えてくる。「お金」というものは、簡単にいえば、「売買という関係」の中に置かれて始めて、それは何かということがだんだん判明してくるものだ。あるいはニーチェのいうように「債権者と債務者との間の契約関係」を生きることによって始めて判然としてくる。並行してマルクス「資本論」を読めばなお一層よく理解できるに違いない。順序としてはマルクス「資本論」から入ってニーチェ「道徳の系譜」へ移るのがわかりやすいかとおもう。ヘーゲルについて手に入りやすい主著としては、まず「精神現象学」、そして「小論理学」とかがある。
マルクスから「契約」と「商品流通」について次のセンテンスを上げておこう。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
ニーチェから「債権者・債務者」関係について。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・四・P.70」岩波文庫)
ヘーゲルから。
「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.251」岩波文庫)
「神は死んだ」とニーチェはいった。ニーチェのいう「神」はしかし様々な仮面を取り替えつつその都度新しい仮面で登場してくる。それは「国家」だったり「資本」だったり「ニヒリズム」だったり「冷笑主義」だったりする。また、ドイツでの宗教批判はフォイエルバッハによってすでに本質的に果たされていた。マルクスはどうしたか。フォイエルバッハによるドイツでの宗教批判をさらに乗り越え、死んだ「神」にとって代わった新しい「神」として大衆の頭上に君臨しつつ権能の限りを尽くしていた「国家」とか「資本主義的経済学」の批判へと向かった。それら諸力の運動を可能にしたのはほかでもないヘーゲル哲学だった。
さて、音声言語(パロール)中心主義として長いあいだ歴史を支配してきたロゴス中心主義的男根中心主義。男根ロゴス中心主義的排他的民族浄化主義。それはアウシュヴィッツにおいてもヒロシマにおいてもチェルノブイリにおいても、それらの致命的経験にもかかわらず脱却することができなかった「中心」という空虚なイデオロギーに過ぎない何ものかである。そしてまた、女性とかLGBTとかの中でも、これまでのように男性を中心とした宗教的思想的社会的構造が残っているからこそ生きづらいのだ、という根本的認識が十分に知れ渡っていないようにおもえる。それはただ単にカルト的宗教的教義に裏打ちされたに過ぎない民族浄化主義とか、理想的〔空想的〕な勃起した男根中心主義(ファルス主義)とかいう幻想がもたらす暴力信仰の何たるかを職場や学校や家庭という社会的日常生活の中でしっかり捉えている人々がいかに少ないかという現実に今なお現われている。人間には身体の重要性より空想のほうが好みに合うらしい。ところが身体には人間自身が頭の中だけでぼうっと考えているより遥かに地に足の着いた思考が詰まっている。
「知覚が脳内にあるのではない。脳こそが知覚群のうちに存在するのである。ーーー身体とは、だから、受容され、送りかえされる運動が《通過する地帯》であって、私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結線である」(ベルクソン「物質と記憶・P.301」岩波文庫)
だが重要なことがある。女性の社会性について。とりわけ先進的諸外国で女性は社会進出を果たしつつある。またLGBTはその名称と過酷な差別的待遇とで有名になりはした。けれども、自分で自分自身がマイノリティだということについて、一体どのように考えているのかがまだ判然としないようにおもう。とりわけ女性の場合。
マイノリティというのはただ単に「数が少ない」ということではない。むしろ数だけでいうなら「多い」というべきかも知れない。マジョリティは数字で数えられる単一的同一的集合的なものとして「国家」を持つものだが、一方マイノリティは数の寡多に還元できない多様体としてのみ存在し、特定の「国家」を持たないし持とうとしない。マジョリティはいつも平均的な水準を誇るとともに自分自身が社会的な枠組みの中の平均的な領域を占めていることで定義される。一方マイノリティはそれら平均的な基準から隔てられているという事実によって定義されるのだ。
たとえば、女性でありながら同時にマイノリティだとは必ずしもいえない女性が社会の中枢へと進出している。いつもは社会の中で平均的な基準から多少なりとも隔てられているマイノリティなのだが、かえって平均的な基準を満たすだけでなく平均値を固定化させるマジョリティとしての女性を見かけるようになってきた。そのような女性はもはやマイノリティとはいえない。かといって男性ではさらさらない。そこに居座っているのは理想的に勃起した男根を崇拝するファルス主義というイデオロギーにほかならない。その意味で平均値をより一層確固たるものにし、マイノリティとの隔たりを無限に設けてマイノリティをより一層下層階級化させていくマジョリティとしての女性がいる、と言わねばならない。
そのような女性は今なお根強く残る男社会の論理を男社会の内部から再組織し再支援するばかりか、むしろ率先して男社会の枠組みの維持に貢献してはばからない。見た目とアイデンティティが女だというだけで、そのじつマジョリティとして君臨する男根ロゴス中心主義的女性の増殖。彼女らは今や堂々と居直りつつ、マイノリティとしての他の女性(あるいは男性)とか他者としてのLGBTとかを、男社会の側に立って男社会の中から排除するシステムのさらなる秩序化に奔走している。
ここで、一つの対立がすでに発生している。
(1)マジョリティの一部と化した女性。
(2)マイノリティの一部でしかない女性。
両者は対立的関係に置かれなければならないし、実際すでに対立的な両項として置かれている。マジョリティとしての女性は自分が自分自身として生存競争を勝ち抜いていくために、今のところ他の選択肢がない以上、他方のマイノリティとしての女性をより一層下層階級へと押しやっていく方向を選択するほか残された手段はない。したがってヘーゲルから引用すると次の部分に相当する生活ルーティンを今後何度も繰り返し実践していくほかなくなるだろう。
「この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.224~225」平凡社ライブラリー)
「生命を賭けなければならない」、とヘーゲルはいう。事実上、給与体系において、正社員・非正規社員・そのあいだ・アルバイトなどで収入はそれぞれ異なる。それはとりもなおさず、そういうシステムの中へ自分自身の生命を丸ごと投げ込んでいく行為にほかならず、どのような人々もこのシステムから逃れることはできないという現実を現わしている。むしろ家族とか会社とかにこだわればこだわるほど、それを守るために各人はそれぞれの立場で「生命を賭けなければならない」境遇へとより一層徹底的に追いやられていく。絶対王政が瓦解し既に資本主義が勝ち取られていた十八世紀後半のヨーロッパでヘーゲルはそのありさまを嫌というほどよく見抜いていた。
マジョリティとしての女性とマイノリティとしての女性との両極に対立した社会的構造。しかしいずれにしても両者とも人間であることに変わりはないではないか、というヒューマニズムは資本主義社会の中では通用しない。今上げたヘーゲルの難解な叙述に対応させて、マルクスは次のように面白い比喩表現を用いている。
「こうして価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
そして「生命を賭け」た上で勝利した側の女性はその瞬間にマジョリティとしての女性へ生成変化するのであり、さらに「生命を賭けなければならない」労働者として次の「生と死を賭ける戦い」へ向かわなければならない。今度はさらに更新された最新機械とその最先端に位置する様々な諸技術を習得した上で、それら知力と体力とを限界まで携えて赴くほかない。限界ある「生命」を「賭け」た、にもかかわらずけっして終わることのない「賭け」だ。人間には死という限界がある。一方、「生命を賭けなければならない」戦いには限界がない。矛盾なのだが、しかしそれこそ資本主義社会の掟の一つである。
しかしなぜ敗北した女性はマイノリティとしての女性である以上にさらなる下層階級へと押し込まれるのか、という疑問は残るに違いない。それにはヘーゲルがこう答えている。〔勝利の先取りによって〕主観的な立場に立った側は、「物」として客体とされたもの(人間含む)を、圧倒的に主観的な立場から客体の内部へおもうがまま「浸透」しつつ、客体を積極的に色付けして自己固有化(自分の下僕化)してしまう、と。
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店)
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