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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

お金はどこからお金になるのか/マスコミが伝えない3.11=マーケティングと管理社会1

2019年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ヘーゲル弁証法による商品の対立的関係は、ただ二項対立的関係だけを説明するに過ぎない。それはまだ商品ではなく仮に「労働生産物」といいうる諸々の物同士の関係を二つに対立させて描き出すことに成功した、というに過ぎない。しかしマルクスは間違っていない。

「二人または二集団のそれぞれ」は、「彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって」、そしてそれを暴力的に貫徹することによってのみ、「等値する」ことができ、したがって同時に交換することができる。しかしこの暴力的貫徹を可能にするのは、「二人または二集団のそれぞれ」が、互いの異種の諸生産物の交換可能性をあらかじめ予見しあっているからである。とはいえ、この交換可能性は常に既に交換不可能性を伴っている。いつも必ずしも交換可能だとは限らない。その意味で両者はいつも「賭け」という形でしか交換に臨むことはできない。この地点では等価交換の可能性はまだ可能性の領域に留まっている。固定されておらず、不安定なのだ。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

なぜかは相変わらずわからないのだが、その時その場限りで「それを行う」。そしてそれは成功することもあれば失敗することもある。しかしいずれにしても、両者とも交換可能性を予見している。「先取り」している。交換可能性のうちに入っている。問題を孕みつつ。

「交換とは見かけだけのものである。二人または二集団のそれぞれが、受け取りうる最後のもの(限界のもの)の値を評価し、見かけ上の等価性がそれに付随して生まれてくる。等値は、二つの異質な系列から生まれ、交換またはコミュニケーションは、二つの独白から発生する(《黒人酋長との談合》)。交換価値や使用価値があるのではなく、それぞれの側に、最後のものに対する評価(限界を超えることにともなうリスクの計算)がある。儀式的性格も実利的性格も、系列的性格も交換的性格もすべて等しく説明する評価=先取りのメカニズムがあるのだ。それぞれの集団において、限界に対する評価は最初から存在し、すでに二つの集団間の最初の『交換』を導きつつあるのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.183」河出文庫)

ドゥルーズ&ガタリのいう「すべて等しく説明する評価=先取りのメカニズムがある」、ということは可能である。だから、こう述べることができる。少なくとも、「最初の『交換』を導きつつある」、と。

それにしても、貨幣はいつどこで貨幣として確固たるものに《なる》のか。停滞のない流通過程の中で常に流動している運動体としての貨幣。そのような貨幣を、ニーチェ流の言い回しを用いれば、「現行犯」として捉えることができるのは一体どこで、なのだろうか。あるいはどのような方法でそれは確固たる貨幣として保証されうるものと《なる》のか。

少しばかり考えてみよう。労働力、商品、資本。ドゥルーズ&ガタリは「捕獲装置」という概念を提出する。上層階級の人々も下層階級の人々も、いずれに属していようといまいと、この世に生きている以上、「国家」の「捕獲装置」の「一つ」を経由しないではいられない部分として活動してはいないだろうか。しかし「国家」の「捕獲装置」の「一つ」とは何か。「税」である。それが「経済の貨幣化をもたらす」。

「税が経済の貨幣化をもたらすのであり、税が貨幣を作り出す。税が、必然的に運動、流通、循環の中にある貨幣を作るのであり、循環する流れの中で、必然的に役務と財に対応するものとして貨幣を作るのである。国家は税に、対外貿易の手段を見出す、つまり対外貿易を所有する手段を見出すだろう。しかし貨幣形態が生まれるのは、交易からではなく、税からなのである。そして税から発生する貨幣形態によって、国家が外部との交換を独占すること(貨幣による交換)が可能になる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.190」河出文庫)

国家が「税」を徴収するためには絶対的尺度が必要になる。それはもちろん原始時代の交換のようにその都度その都度異なってくる或る種の「賭け」によって決定されるような不確定性に汚染されていてはいけない。最大限度まで確保されうる絶対性が必要である。したがって、それを貫徹するために、労働力=商品=貨幣という等価性を決定的尺度として採用する国家権力が、「捕獲装置」として必要とされてくる。そして始めて多国間貿易における貨幣を介した商品交換の安全保障性も成り立つのである。だからマルクスは次のように述べることができる。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

とはいえ「言論」。この言論という行為。たとえば「コミュニケーションの普遍相」についてドゥルーズはなぜもっと危機感を持つよう示唆するのだろうか。充満するコミュニケーションの普遍化。その危険性。危険性への認識は世界的な流れである。にもかかわらず、とりわけ日本では日本のマスコミを通して「コミュニケーションの普遍相」が、逆に賛美されていることを見逃してはならないだろう。

東日本大震災。その対策として、インターネットを始めとする情報通信技術は大いに役立った。しかしその後、どうなっているだろうか。福祉環境の整備は中途半端なままであり、多方向からの支援はなるほど急務だ。しかしそれと同時に急浮上してきたもう一つの実態はどうだろうか。震災の経験がなくても発生してきた先進的資本主義国家の事例を上げてドゥルーズはいっていなかったろうか。

「デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたとはいえ、結局はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことを忘れてはならない」(ドゥルーズ「記号と事件・P.358」河出文庫)

ドゥルーズはフーコーが追求したかつての規律型監禁社会と今のコンピュータによる管理社会とを截然と区別する。重要なのは、社会管理の道具としての「マーケティング」が「企業の魂」として出現してきた、ということだ。着目しておきたい文章がある。なぜ女性社員ばかりでなく、むしろ一般的な男性社員はもうとっくの昔から、日常生活の中で或る種の「生きづらさ」を精神的身体的重圧として感じ取ってきたのか。

「(エレクトロニクスの首輪をつけた)企業内の人間など、開かれた環境における成員の位置を各瞬間ごとに知らせる管理機構」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)

既にそのような管理に適した装置は開発され実際に運用されてもいる。そしてこの事実は疲労あるいは過労を続々と生み出し続ける方向へますます作用する。「時短」の実現によって解放された「自由」な時間は、しかし結局のところ、消費のための時間へ回される。その意味で「時短」によって解放され空いた空白の時間は、空白どころか、すぐさま「余暇」という名の「実質的消費」のための時間へ回すよう促される。このような「促し」は消費という名のもう一つの「労働」を促進してはいないだろうか。疑問が湧く。このような「促し」による「消費」はもう一つの「労働」としてしか考えられない以上、あえていえばそれなりの「賃金」によって補完されなくてはならないのでは、と。しかし、実質的にもう一つの「労働」として考えられる「余暇」に当てられるような、等価の「賃金」は何ら保障されていない。

ともかく、ほとんど「労働」と化した「余暇」という名の「消費行動」によって、さしあたり手にした賃金はすぐさま資本へ回収されていく。そしてこのような世論を捜査しているのはほかでもないマスコミとそのスポンサーなのだ。笑いが止まらない日本の首相と中央官僚。「有効活用」とは一体何なのか。

さて少し前、犯罪捜査にGPS機能を用いた違法捜査が実践された。が、捜査手法としては違法であるという裁判所の判決が下され警察は敗北した。ところが、ごく当たり前に見える一般の大手企業ではこのような「成員の位置を各瞬間ごとに知らせる管理機構」がほとんど全面的かつ普遍的に導入されているのはどうしてなのだろう。カード化、キャッシュレス化、マーケティングといった管理社会は既に到来している。都合のいいものは不都合なものも同時に同じだけ到来させる。裏と表とがあるのではない。裏も表も常に既にあからさまに表面化しているのだ。

BGM