レイチェルはテロリストに《なる》。ウルフはレイチェルに関して実に幅広い感受性を与えている。それはしかし、ヒューウェットがレイチェルに向かってこういうからではない。「きみはまるでぼくの脳みそを吹き飛ばしそうに見える」「もしも岩の上に立っていたとしたら、ぼくを海に突き落とすだろうと思う」からではない。これはいわば「口説き文句」、ただ単なる「ステレオタイプ」(常套句)に過ぎないので注意しておこう。しかしヒューウェットはまるで何の疑いもなしにそう言ったわけではないだろう。どこか頭の隅では、本当にやるかも知れない、という直感的なものが含まれているように思われる。レイチェルは無邪気にこう反応する。
「レイチェルは繰り返した。『もしも岩の上に一緒に立っていたとしたらーーー』海に振り落とされ、あっちこっちに流され、世界の根っこにまで押しやられるーーーちぐはぐな想像だとしても楽しかった。彼女は跳びはね、部屋の中を動き回り始めた。屈んだり、椅子やテーブルを脇へ押しのけたり、まるで実際に水中を突き進んでいるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.193」岩波文庫)
レイチェルは「ちぐはぐな想像だとしても」、自分の側が「突き落とされる」女であるとして捉えている。そして「突き落とされる」女の側に立って想像してみたとき彼女の思考は爆発的に世界を拡張する。家具類を破壊したりあるいはそれらと遊んでみたり。水を得た魚=人魚に《なる》。
「『わたしは人魚!泳げるわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.194」岩波文庫)
まるで子どもだ。というより、子どもなのだ。子どもへの生成変化がある。同時にテレンス=ヒューウェットは保護者に《なる》。それまではレイチェルのほうが現実的という意味で確実に大人びていたわけだが、その関係がここで急転する。テレンスは、はしゃぐレイチェルを「見守る」保護者として大人になっている。そして気をつけよう。子どもはいつ何をしでかすかまったく予想がつかない生き物でもあるということを。さらに、両者のうちの片方が大人になってしまっているときに限って特にそうだということを。
「『きみはいつも他の何かを求めている』ーーー『きみは理解できないーーーきみは理解しないーーー』ーーー今彼女は、彼の言っていることはまったく以て本当だと思った、わたくしは一人の人間の愛よりも、もっと多くのものーーー海、空を求めているのだ。再び振り返り、遠い青に目を馳せた。それは海と空が出会うところで、静かに澄み渡っていた。たった一人の人間だけを求めることは到底できなかった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.201」岩波文庫)
このセンテンスが、いわゆる「テロ」だ。彼女には「たった一人の人間だけを求めることは到底できな」い。「もっと多くのものーーー海、空を求めている」。しかしヒューウェットに対するこの「テロ」はどこに狙いを付けているのか。「それは海と空が出会うところ」、「海」と「空」の《あいだ》であり、伝統的な読解にしたがったとしてもそれは「永遠」を意味している。言い換えれば「死にたい」と彼女はいっている。長い間ヨーロッパでは、永遠の生は死であるという観念が横行していた。そしてそれは宗教的行司の場では極めて実質的なものとして受け取られてもいた。しかし実行する人間はそれほどいなかった。日常生活ではどう考えても現実味はなかったからである。ところがウルフはそのような欺瞞的な宗教的教義について我慢がならなかった。自分自身を女性という窮屈な身体に閉じ込めたばかりか、意味不明な母性というものまででっち上げ、性的役割分担という根拠のない社会的暴力をしずしずと押し進め、世界中に普及させ、にもかかわらずまったく何ら恥じるということを知らない宗教という社会的権能の何という破廉恥ぶり。その下品さ。それにしてもなお、死による「永遠の生」の実現というキリスト教的公式は、ごくふつうに考えれば不可能なことははっきりしている。だから人々はキリスト教を信仰はしても実行はしない。ところがレイチェルを典型的とする「反-没個性化」の思想は、ここではなるほど「自殺」という言葉は出てこないにせよ、思想という仮の形式をまとって、ウルフ作品では身も蓋もない思想としてよく出てくる。レイチェルは何より合理性を重んじる一方で非合理的な思想をどんどん拡大再生産させていく。そしてウルフはフェミニストとしては当然のことながら、次のように第二のテロを平然と敢行する。照準を同性に合わせている。
「嫌なのは、見られるからではなくて、必ず人にとやかく言われるからなのよ。特に女の人から。女の人が嫌というのではないけれど、感情にかかわることになると砂糖にたかる虫みたいで、きっといろいろ訊かれるわ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.212」岩波文庫)
さて、レイチェルはここまで言った。男性はどう答えるべきか。あるいは答えることができるか。できるとすればそれはどのような言葉もしくは態度でか。それはわからないとしかいえない。しかしあえて「答えない」という言語もあるのではないか。もちろんある。そしてそれも「あり」だ。しかし返答を迫られたにもかかわらず答えられなかった側の権威失墜は致命的であることを覚悟しなければならない。それでもテレンス=ヒューウェットが持ちこたえられたのはなぜだろう。これはこれでまた単純なことなのだ。ただ単に彼の周囲の女性たちがレイチェルのようではなかったからである。ヒューウェットはレイチェルの告発的テロに対してあえて答えるどころか、「まあ、〔女ってのは〕そうだからね」とでもいうような同意を示しておくだけでよかったのだ。むきになって反論する必要は全然なかった。作品発表は一九一五年。先進国イギリスでもなお、女性の地位は所詮その程度のものとしか考えられておらず、また力としてもその程度のものしか与えられていなかった。もっとも、与えられるのを待つのではなく自分で自分自身のほうから獲得するものだ、と主張することはできた。しかし書き加えられるのはさらなる「仮面」ばかりで、「素顔」ではなく、まともに相手にされないことが多かった。あたかも「パリ・コミューン」ででもあるかのように単発的なもので終わってしまうこともたびたびだった。しかし粘り強かったことは確かだ。それはすでに歴史が証明している。
だが「素顔」とは何だろうか。ニーチェは反語的にこう洩らす。
「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)
それでも「最良の」としかいえない。わからないのだ。素顔とは何なのかということが。これからもわからないとしか言いようがないだろうとおもうのだが。もっとも、「物自体」の概念を廃棄することができれば、という条件付きではあるが。しかしもしそれが見えたとしたら。そのときその人はおそらく「気が狂っている」といわれるだろう。そういう問題だ。ここではこれ以上触れる必要はないだろうとおもう。
また、合理性を目指して不合理を達成するというのは往々にして人間社会の常だが、合理性と不合理性とは同居することができる。そのときそれを指して何といえばいいのかよくわからないけれども、ともかくこの同居は可能なのだ。そのとき極めて意識的であることも。スピノザから。
「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。ーーー精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている。したがって精神は妥当な観念を有する限りにおいても非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。ところで精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神は自己の努力を意識している。ーーーこの努力が精神だけに関係する時には《意志》と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には《衝動》と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、ーーー自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに《欲望とは意識を伴った衝動である》と定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.178~179」岩波文庫)
欲望という問題に付き合わないといけない。しかし欲望に関してここでは述べない。というのは他のところで、もう十分述べてきたとおもうからだ。欲望するのは簡単だが欲望について述べるのは大変疲れるという事情もある。次へいこう。
「ソーンベリ夫人は、ふたりと一緒に門まで歩いていった。芝や砂利の上を、とてもゆっくりと優雅な足取りで横切りながら、終始花と鳥について話していた。娘が結婚してから植物の勉強を始めたの。これまでの人生をずっと田舎で過ごして、いま七十二歳だけれど、まだ一度も見たことのない花が数えきれないほどあるのは素晴らしいことよ。年を取った時に、他の人たちに頼る必要のない、自分でしたいことがある、というのは良いことよ。ただ不思議なことに、年取ったと感じることはないの。いつも自分は二十五歳で、それより一日若くも、一日年を取っているとも感じないの」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.238」岩波文庫)
レイチェルではないが、「ソーンベリ夫人」が、年齢を超越して、年齢の生成変化=移動のアクチュアルな思考を起動させている。「ダロウェイ夫人」ではこうだった。「自由な移動」というより「移動の自由さ」に力点を置きたい。
「彼女はとても若いような気もし、お話にならないほど老けた気もした。ナイフみたいにあらゆるものの中へ切りこむし、外部にいて眺めてもいる。タクシーの群れを眺めていると、遠い遠い海の上にひとりぼっちでいるような、そんな気持ちによくなるし、たった一日でも生きていることが、とてもとても危険だという感じが、しょっちゅうする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.13~14」角川文庫)
なお、前に述べたが、今上げたセンテンスでクラリッサ・ダロウェイは多様体として「ナイフ」に変化し「あらゆるものの中へ切りこむ」という微分化=差異化の運動を実践していることを思い出しておこう。
さて、「頭痛」のモチーフが出てくる。統合失調症との関連で見ていくのが妥当だろうとおもう。
「炎暑と、踊る大気のせいで、庭もまた異様に見えたーーー木々はあまりに遠く、あるいはあまりに近く、頭が痛いのはほぼ確かと思えた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.241」岩波文庫)
文法からの脱出が始まる。それは同時に身体からの解放をも意味する。わけがわかっていない恋人テレンス=ヒューウェットは差し当たり詩を与えるのだがレイチェルの反応は極めて深刻というほかない。だがそれは元の身体に戻るという意味で深刻なのであって、むしろ社会的にあらかじめ束縛された女性という身体=文法的に文節・規律化された身体からの解放という意味では自由への意志である。だからこういうことが生じてくる。
「難しくて辛かったのは、形容詞があるべき所になかなか納まらないことだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.246」岩波文庫)
さらに。
「部屋の中のあらゆるもの、ベッド自体と、それぞれ異なった感覚を持つ四肢五体から成る自分の肉体とが日ごとに重要になった。彼女は外の世界から完全に切り離され、交わりを持てず、ただ自分の肉体だけの孤立する存在となった。ーーーレイチェルは寝返りを打って目を冷ますと、あの果てしのない夜のただ中にいた。十二時で終わらず、さらに二桁の時刻が続くーーー十三時、十四時、さらには二十時、次には三十時、次には四十時に至る無限の夜だった。夜がその気になったら抑える術がないことをレイチェルは知った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.246~247」岩波文庫)
順調といえば順調な、むしろ快調な速度であちらこちらの解体が始まる。ようやくディオニュソスがそれ相応の態度で出現したといえよう。「無限の夜」とある。ここでもまた「此性」としての「或る一刻」が到来していると考えておく。
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「レイチェルは繰り返した。『もしも岩の上に一緒に立っていたとしたらーーー』海に振り落とされ、あっちこっちに流され、世界の根っこにまで押しやられるーーーちぐはぐな想像だとしても楽しかった。彼女は跳びはね、部屋の中を動き回り始めた。屈んだり、椅子やテーブルを脇へ押しのけたり、まるで実際に水中を突き進んでいるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.193」岩波文庫)
レイチェルは「ちぐはぐな想像だとしても」、自分の側が「突き落とされる」女であるとして捉えている。そして「突き落とされる」女の側に立って想像してみたとき彼女の思考は爆発的に世界を拡張する。家具類を破壊したりあるいはそれらと遊んでみたり。水を得た魚=人魚に《なる》。
「『わたしは人魚!泳げるわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.194」岩波文庫)
まるで子どもだ。というより、子どもなのだ。子どもへの生成変化がある。同時にテレンス=ヒューウェットは保護者に《なる》。それまではレイチェルのほうが現実的という意味で確実に大人びていたわけだが、その関係がここで急転する。テレンスは、はしゃぐレイチェルを「見守る」保護者として大人になっている。そして気をつけよう。子どもはいつ何をしでかすかまったく予想がつかない生き物でもあるということを。さらに、両者のうちの片方が大人になってしまっているときに限って特にそうだということを。
「『きみはいつも他の何かを求めている』ーーー『きみは理解できないーーーきみは理解しないーーー』ーーー今彼女は、彼の言っていることはまったく以て本当だと思った、わたくしは一人の人間の愛よりも、もっと多くのものーーー海、空を求めているのだ。再び振り返り、遠い青に目を馳せた。それは海と空が出会うところで、静かに澄み渡っていた。たった一人の人間だけを求めることは到底できなかった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.201」岩波文庫)
このセンテンスが、いわゆる「テロ」だ。彼女には「たった一人の人間だけを求めることは到底できな」い。「もっと多くのものーーー海、空を求めている」。しかしヒューウェットに対するこの「テロ」はどこに狙いを付けているのか。「それは海と空が出会うところ」、「海」と「空」の《あいだ》であり、伝統的な読解にしたがったとしてもそれは「永遠」を意味している。言い換えれば「死にたい」と彼女はいっている。長い間ヨーロッパでは、永遠の生は死であるという観念が横行していた。そしてそれは宗教的行司の場では極めて実質的なものとして受け取られてもいた。しかし実行する人間はそれほどいなかった。日常生活ではどう考えても現実味はなかったからである。ところがウルフはそのような欺瞞的な宗教的教義について我慢がならなかった。自分自身を女性という窮屈な身体に閉じ込めたばかりか、意味不明な母性というものまででっち上げ、性的役割分担という根拠のない社会的暴力をしずしずと押し進め、世界中に普及させ、にもかかわらずまったく何ら恥じるということを知らない宗教という社会的権能の何という破廉恥ぶり。その下品さ。それにしてもなお、死による「永遠の生」の実現というキリスト教的公式は、ごくふつうに考えれば不可能なことははっきりしている。だから人々はキリスト教を信仰はしても実行はしない。ところがレイチェルを典型的とする「反-没個性化」の思想は、ここではなるほど「自殺」という言葉は出てこないにせよ、思想という仮の形式をまとって、ウルフ作品では身も蓋もない思想としてよく出てくる。レイチェルは何より合理性を重んじる一方で非合理的な思想をどんどん拡大再生産させていく。そしてウルフはフェミニストとしては当然のことながら、次のように第二のテロを平然と敢行する。照準を同性に合わせている。
「嫌なのは、見られるからではなくて、必ず人にとやかく言われるからなのよ。特に女の人から。女の人が嫌というのではないけれど、感情にかかわることになると砂糖にたかる虫みたいで、きっといろいろ訊かれるわ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.212」岩波文庫)
さて、レイチェルはここまで言った。男性はどう答えるべきか。あるいは答えることができるか。できるとすればそれはどのような言葉もしくは態度でか。それはわからないとしかいえない。しかしあえて「答えない」という言語もあるのではないか。もちろんある。そしてそれも「あり」だ。しかし返答を迫られたにもかかわらず答えられなかった側の権威失墜は致命的であることを覚悟しなければならない。それでもテレンス=ヒューウェットが持ちこたえられたのはなぜだろう。これはこれでまた単純なことなのだ。ただ単に彼の周囲の女性たちがレイチェルのようではなかったからである。ヒューウェットはレイチェルの告発的テロに対してあえて答えるどころか、「まあ、〔女ってのは〕そうだからね」とでもいうような同意を示しておくだけでよかったのだ。むきになって反論する必要は全然なかった。作品発表は一九一五年。先進国イギリスでもなお、女性の地位は所詮その程度のものとしか考えられておらず、また力としてもその程度のものしか与えられていなかった。もっとも、与えられるのを待つのではなく自分で自分自身のほうから獲得するものだ、と主張することはできた。しかし書き加えられるのはさらなる「仮面」ばかりで、「素顔」ではなく、まともに相手にされないことが多かった。あたかも「パリ・コミューン」ででもあるかのように単発的なもので終わってしまうこともたびたびだった。しかし粘り強かったことは確かだ。それはすでに歴史が証明している。
だが「素顔」とは何だろうか。ニーチェは反語的にこう洩らす。
「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)
それでも「最良の」としかいえない。わからないのだ。素顔とは何なのかということが。これからもわからないとしか言いようがないだろうとおもうのだが。もっとも、「物自体」の概念を廃棄することができれば、という条件付きではあるが。しかしもしそれが見えたとしたら。そのときその人はおそらく「気が狂っている」といわれるだろう。そういう問題だ。ここではこれ以上触れる必要はないだろうとおもう。
また、合理性を目指して不合理を達成するというのは往々にして人間社会の常だが、合理性と不合理性とは同居することができる。そのときそれを指して何といえばいいのかよくわからないけれども、ともかくこの同居は可能なのだ。そのとき極めて意識的であることも。スピノザから。
「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。ーーー精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている。したがって精神は妥当な観念を有する限りにおいても非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。ところで精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神は自己の努力を意識している。ーーーこの努力が精神だけに関係する時には《意志》と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には《衝動》と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、ーーー自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに《欲望とは意識を伴った衝動である》と定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.178~179」岩波文庫)
欲望という問題に付き合わないといけない。しかし欲望に関してここでは述べない。というのは他のところで、もう十分述べてきたとおもうからだ。欲望するのは簡単だが欲望について述べるのは大変疲れるという事情もある。次へいこう。
「ソーンベリ夫人は、ふたりと一緒に門まで歩いていった。芝や砂利の上を、とてもゆっくりと優雅な足取りで横切りながら、終始花と鳥について話していた。娘が結婚してから植物の勉強を始めたの。これまでの人生をずっと田舎で過ごして、いま七十二歳だけれど、まだ一度も見たことのない花が数えきれないほどあるのは素晴らしいことよ。年を取った時に、他の人たちに頼る必要のない、自分でしたいことがある、というのは良いことよ。ただ不思議なことに、年取ったと感じることはないの。いつも自分は二十五歳で、それより一日若くも、一日年を取っているとも感じないの」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.238」岩波文庫)
レイチェルではないが、「ソーンベリ夫人」が、年齢を超越して、年齢の生成変化=移動のアクチュアルな思考を起動させている。「ダロウェイ夫人」ではこうだった。「自由な移動」というより「移動の自由さ」に力点を置きたい。
「彼女はとても若いような気もし、お話にならないほど老けた気もした。ナイフみたいにあらゆるものの中へ切りこむし、外部にいて眺めてもいる。タクシーの群れを眺めていると、遠い遠い海の上にひとりぼっちでいるような、そんな気持ちによくなるし、たった一日でも生きていることが、とてもとても危険だという感じが、しょっちゅうする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.13~14」角川文庫)
なお、前に述べたが、今上げたセンテンスでクラリッサ・ダロウェイは多様体として「ナイフ」に変化し「あらゆるものの中へ切りこむ」という微分化=差異化の運動を実践していることを思い出しておこう。
さて、「頭痛」のモチーフが出てくる。統合失調症との関連で見ていくのが妥当だろうとおもう。
「炎暑と、踊る大気のせいで、庭もまた異様に見えたーーー木々はあまりに遠く、あるいはあまりに近く、頭が痛いのはほぼ確かと思えた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.241」岩波文庫)
文法からの脱出が始まる。それは同時に身体からの解放をも意味する。わけがわかっていない恋人テレンス=ヒューウェットは差し当たり詩を与えるのだがレイチェルの反応は極めて深刻というほかない。だがそれは元の身体に戻るという意味で深刻なのであって、むしろ社会的にあらかじめ束縛された女性という身体=文法的に文節・規律化された身体からの解放という意味では自由への意志である。だからこういうことが生じてくる。
「難しくて辛かったのは、形容詞があるべき所になかなか納まらないことだった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.246」岩波文庫)
さらに。
「部屋の中のあらゆるもの、ベッド自体と、それぞれ異なった感覚を持つ四肢五体から成る自分の肉体とが日ごとに重要になった。彼女は外の世界から完全に切り離され、交わりを持てず、ただ自分の肉体だけの孤立する存在となった。ーーーレイチェルは寝返りを打って目を冷ますと、あの果てしのない夜のただ中にいた。十二時で終わらず、さらに二桁の時刻が続くーーー十三時、十四時、さらには二十時、次には三十時、次には四十時に至る無限の夜だった。夜がその気になったら抑える術がないことをレイチェルは知った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.246~247」岩波文庫)
順調といえば順調な、むしろ快調な速度であちらこちらの解体が始まる。ようやくディオニュソスがそれ相応の態度で出現したといえよう。「無限の夜」とある。ここでもまた「此性」としての「或る一刻」が到来していると考えておく。
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