白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

隙間と道元3

2019年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
分割してよいもの《と》そうでないもの=或る時刻・或る一日・或る季節・或る一年・気候・風・霧ーーーという「一つの個体性」としての<此性>。ここでの問題は分割してはいけないもの、<此性>としての後者だ。道元はいう。


「山水とは山と水ではない、山水一如である」(道元「現代語訳 正法眼蔵2・第二十九・山水教・P.226」河出文庫)

ドゥルーズのいう<此性>と大変共通している。ただし<此性>についてはこれまでさんざん述べてきた。だからここでは、ベルクソンの音楽論と比較してみたい。

「あたかも或るメロディーの楽音を言わば全部が溶け合ったような状態で想起するときに起こるように、ーーーこれらの楽音は継起しはするが、それでも私たちはそれらを相互に統覚しているわけであって、それら楽音の全体は、その諸部分が、たとえ区別されはしても、それらの緊密な結びつきそのものによって相互に浸透し合うような生き物になぞらえうるとは言えまいか。その証拠に、メロディーの一つの音を不当に強調して調子を乱すようなことがあると、その誤りを告げ知らせるのは、長さとしては度を越したその長さではなく、そのことによって楽節全体にもたらされた質的変化なのである。したがって、区別のない継起というものを考えることができる。しかも、その各々が全体を表し、ただ抽象することのできる思考にとってのみ全体から区別され、分離される諸要素の相互浸透、緊密な結合、内的組織化として考えることができる。このようなものこそ、おそらく、同一でありながら変化する存在者、何ら空間の観念をもたないような存在者が持続について形成するであろう表象である」(ベルクソン「時間と自由・P.122~123」岩波文庫)

「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)

「この場合、それらのイメージは、あたかも一つのメロディーのさまざまな楽音のように、区別のない多様性あるいは質的多様性とでも呼ぶべきものを、数とは何らの類似性ももたずに形成するような仕方で、相互に浸透し合い、有機的に一体化することになろう。私はこうして純粋持続のイメージを獲得するとともに、等質的な環境ないし測定可能な量という観念から完全に解放されることになろう」(ベルクソン「時間と自由・P.128」岩波文庫)

次の長いセンテンスでは表面的意識から徐々に意識の深層へ切り込んでいく過程が描かれる。そこには何があるだろうか。

「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)

ベルクソンは意識の「下」にある「異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続」、あるいは意識の「下」の「質的多様性」とかそれらの「融合」、カオス的に渦巻き混淆するエネルギーの流動をみる。

さらに「意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続」とある。とすれば動物は人間とは違う並外れの〔野生の〕時間感覚をいつも保持しながら行動していることになる。ペット化しつつある動物も多い中、このことは、ともすれば人間にとって今なお或る種の脅威なのであり、むしろ畏怖の念とともに動物に対する認識を改め直す必要性を感じさせる。それはそれとして。

ここでは、「眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたる」、とある。睡眠については次の部分も参照。

「しかし、私たちの過去が、じぶんにはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の閾を踏みこえる力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、ふたたび獲得することになるだろう。睡眠は、自然なものであれ人工的なものであれ、まさにこの種の離脱を引き起こす。最近では、睡眠時にあって、感覚性の神経要素と運動性の神経要素とのあいだの接触が中断されているとも言われている。かりにこの創意にとんだ仮説に目をとめないとしても、睡眠中にはなんらかの弛緩、すくなくとも機能的な弛緩が、神経システムの緊張について起こっていることを認めないわけにはいかない」(ベルクソン「物質と記憶・P.305~306」岩波文庫)

ところで「夢」とその諸効能についてはまた機会を改めて述べたい。「なんらかの弛緩、すくなくとも機能的な弛緩」のうちに、もしかしたら人々は「スキゾフレニー」を経験してはいないだろうか。機会があれば、おそらく「生の哲学」としてのエネルギー論と並行して論じることになるだろう。

さて。すでに世界中で研究中なのだが、<此性>は<此性>でもドゥルーズ&ガタリのいう<此性>とはどこか様子が違っており、睡眠でもなく覚醒でもなくその中間でもない<此性>というものがもしあるすれば、それは一体どのような状態なのか。いわゆる「癲癇」(てんかん)について。

それは状態という言葉ではもはや述べることができない。常に動きのなかにあり、動きでしかない、と述べることしかできない。しかしこの動きを体験している人々にとって自分は動いている、と感じることはできない。むしろ瞬間的な体験としてしか感知することができない。いわゆる「癲癇」(てんかん)発作に襲われて身体も言語も奪われてしまっているときの動き=静止=永遠として感知されるのが通例なのであって、言語化不可能な体験だということしかできない。だが稀有な例としてかつてドストエフスキーは自身の「癲癇」(てんかん)体験を言語化することに成功した。言語へと翻訳した。

「彼はさまざまな物思いにふけるうちに、こんなことを考えてみたのであった。すなわち、自分の癲癇(てんかん)に近い精神状態には一つの段階があり(もっとも、それは意識のさめているときに発作がおこった場合にかぎっていたが)、それは発作のほとんど直前で、憂鬱と精神的暗黒と胸苦(むなぐる)しさの最中に、ふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように燃えあがり、ありとあらゆる彼の生活力が一時にものすごい勢いで緊張するのである。自分が生きているという感覚や自意識が稲妻のように一瞬間だけ、ほとんど十倍にも増大するのだ。その間、知恵と感情はこの世のものとも思えぬ光によって照らしだされ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、まるで一時にしずまったようになり、調和にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な境地へ、解放されてしまうのだ。しかし、この数秒は、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒(決して一秒より長くない)の予感にすぎず、この一秒は、むろん、耐えがたいものであった。彼は健康な状態に戻ってから、この一瞬のことをいろいろと考えてみて、よくひとり言を言うのであった。この尊い自覚と自意識の、つまり、《至高の実在》の稲妻とひらめきは、要するに一種の病気であり、正常な状態の破壊にすぎないのではなかろうか。もしそうであるならば、これは決して至高な実在どころではなく、かえって最も低劣なものに数えられるべきものではなかろうか。彼はそう考えながらも、やはり最後には、きわめて逆説的な結論に到達したのであった。《これが病気だとしても、それがどうしたというのだ?》とうとう彼はこんなふうに断定した。《もしこれが異常な精神の緊張であろうとも、それがいったいどうしたというのだ?もし結果そのものが、健全なときに思いだされ、仔細(しさい)に点検してみても、その感覚の一瞬が依然として至高の調和であり、美であることが判明し、しかもいままで耳にすることも想像することもなかったような充実、リズム、融和、および最高の生の総合の高められた祈りの気持に似た法悦を与えてくれるならば、そんなことは問題外である!》この漠然(ばくぜん)とした表現は、まだあまりにも弱いものであったが、彼自身にはまったく明らかなものに思われた。いずれにしても、それが真に《美であり祈りである》ことを、また《至高なる生の総合》であるということについては、彼もまったく疑うことができなかった」(ドストエフスキー「白痴・上・P.419~420」新潮文庫)

「それにつづいて突然、何かしらあるものが彼の眼の前に展開したみたいだった。並々ならぬ《内なる》光が彼の魂を照らしだしたのであった。こうした瞬間が、おそらく、半秒くらいもつづいたであろうか。しかし、彼は胸の底から自然にほとばしり出て、いかなる力をもってしてもおさえることのできない恐ろしい悲鳴の最初のひびきを、はっきりと意識的に覚えていた。つづいて彼の意識は一瞬にして消え、まったくの暗闇(くらやみ)が襲ってきたのであった。もうかなり長いことなかった癲癇(てんかん)の発作がおこったのである。癲癇の発作というものは、とくに《ひきつけ》癲癇の場合は、周知のように、その瞬間には急に顔面が、とりわけ眼つきがものすごくゆがんでしまう。痙攣(けいれん)とひきつけが全身と顔面の筋肉を支配して、恐ろしい、想像もつかない、なんともたとえようもない悲鳴が、胸の底からほとばしり出る。この悲鳴のなかにすべての人間らしさがすっかり消えうせて、そばで見ている者にとっても、これが当の同じ人間の叫び声だと想像することも、また考えることもまったく不可能である。いや、少なくとも非常に困難である。まるでその人間の内部には誰か別の人間がいて、その人が叫んでいる声のようにさえ思われる。少なくとも大多数の人は、このように自分の印象を説明している」(ドストエフスキー「白痴・上・P.435」新潮文庫)

このときドストエフスキーは明らかに癲癇者に《なる》。分身する。そうでなければこのように書くことはできない。そしてその体験は「まるでその人間の内部には誰か別の人間がいて、その人が叫んでいる声のようにさえ思われる」、と自分自身の中の他者の存在をほのめかしてもいる。ドストエフスキーがそれを言語化できたのは幼少期から培われた膨大な言語的教養の賜物というほかない。しかしもっと重要なことは癲癇者としての体験の中で知ることができた確固とした事実だ。一人の人間には一つの人格しかないという寒々しく侘しく安易この上ない世間一般の感覚ではなく、むしろ一人の人間の「人格のなか」あるいは「人格」という概念の「なかには」、そもそも「多元的」なもの、「二元性」(あるいは多元性)があるという発見なのだ。

ニーチェはいう。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)

さらにこうも。

「《自分自身を見失う》。ーーーようやく自分自身を発見したならば、時々自分を《見失い》ーーーそれからまたあらためて発見することを心得ねばならない、ただし、彼が思索家であることを前提とした上で。つまり思索家にとっては、しょっちゅう《ひとつの》人格に結わえつけられていることは害になるからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・三〇六・P.487」ちくま学芸文庫)

一つの人格に拘束されてばかりいては他者に対する排他的感情しか持つことができないということ。たった一つの人格の中に精神の慰安所を見い出すことで安心し切ってしまうことは、《唯一の》宗教的教義・思想的信条という空想的条件の下に限り、自分で自分自身を縛り付けてファシスト化することに繋がってしまうことにしかならないということ。だからもっと自然な感性に則って、「時々自分を《見失い》」「それからまたあらためて発見する」という作業を不断に繰り返していなければならず、逆に「しょっちゅう《ひとつの》人格に結わえつけられていることは」むしろ「害になる」とニーチェはいう。

さてしかし、ドストエフスキーの癲癇体験は「持続」だろうか。あるいはほんの「瞬間の出来事」だろうか。外部から見る限り、それなりの時間を経過することは判明している。その意味ではベルクソンのいう純粋持続としての音楽と似ている。しかしそれともまた異なる。なぜなら、実際に「癲癇」発作を体験している本人にとっては「持続」ではなくたった一瞬の「ほとばしり出る」ような出来事として捉えることしかできないからだ。もっと継続的な専門的研究の必要性を感じる。

なお、「白痴」は一八六八年連載。日本でいう明治元年。王政復古の大号令。鳥羽・伏見の戦い。神戸事件。錦旗紛失事件。堺事件。パークス英公使襲撃事件。メトロポリタン生命保険会社設立。「太政官日誌」発行。江戸開城。江戸を東京と改称。徳川慶喜水戸退去。皇居制定東京城と改称。イギリス第一次ディズレーリ内閣成立。五条誓文掲示。「江湖新聞」創刊。会津戦争。北越戦争。奥羽列藩同盟成立。上野戦争。太政官札発行。二本松の戦い。築地ホテル館完成。観音崎灯台着工。箱館戦争。イギリス第一次グラッドストン内閣成立。鈴木貫太郎生まれる。斎藤緑雨生まれる。岡田啓介生まれる。秋山真之生まれる。内田魯庵生まれる。ガストン・ルルー生まれる。ニコライ二世生まれる。ポール・クローデル生まれる。宇垣一成生まれる。山田美妙生まれる。横山大観生まれる。徳富蘆花生まれる。北村透谷生まれる。シュティフター死去。相楽総三死去。近藤勇死去。小栗忠順死去。沖田総司死去。メビウス死去。河井継之助死去。橘曙覧死去。ロッシーニ死去。加藤弘之「立憲政体略」発表。福沢諭吉「窮理図解」発表。

BGM