道元の言語論はすでに多くの人々のあいだで知られている。
「哀れむべきだ、彼らは念慮というのが語句であることを知らない、語句とは思惟を場としての句に移して伝えるものだ、語句はさらに思惟からも離脱することを知らないのだ、思惟を現成するのが語句である、語句は個別の思惟を離脱して普遍のなかに自在の意味を得るのである」(道元「現代語訳 正法眼蔵2・第二十九・山水教・P.225」河出文庫)
しかしだからといって、何も道元だけがそのような言語論の地平にまで登りつめたわけではない。何ごとかを思惟する場合、思惟する行為自体、常に既にそれは言語によって行われるほかない。このようなことはヘーゲルがより一層正確に述べている。ただ、ヘーゲルにとって、思考するという行為は純粋な行為でなくてはならない。したがって、言語は言語でも、「文字言語」という物質的なものが思考の内部に混じり込んでいるということを、ヘーゲル自身は認めたくなかった。何か不純なことであるように思われたのだ。
ところが後になって、デリダが「エクリチュール」概念を登場させて言語論の再発見を行なった。そのとき、ヘーゲルはひたすら隠そう隠そうとしていたのだが、思考・思惟といった純粋な行為の中には、実をいうと純粋でないばかりか始めから物質的言語が介入しているし、そのことはヘーゲル自身がいかにも苦しげな様子を見せつつも吐露しているとデリダは述べた。
もっともデリダの戦略はヘーゲル哲学の打倒というようなものではなくて、脱構築というれっきとした方向性をあらかじめ持っていた。その一つの過程としてなされた研究の一つに過ぎないのだが。というのも欧米では戦後なおも「文字言語」(エクリチュール)より「音声言語」(パロール)のほうが優れており、「文字言語」(エクリチュール)が要請されるような場においてもそれは「音声言語」(パロール)の補助機能として仮に使用されるに過ぎず、けっして「ロゴス・真理」を伝えることはできないとされていたからである。
このことは欧米(とりわけヨーロッパ)世界の伝統的特徴の中でも大変大きな部分を占めていた。音声言語(パロール)こそ「神」の「ロゴス・真理」を保持する唯一の言語にほかならないという、ただ単なる「屁理屈」。それはユダヤ=キリスト教の歴史的伝統に根ざしている。さらにその伝統は欧米全域に根を張る「男根中心主義」の核心部分をなしてもいた。デリダが告発したのは、理想的な形に勃起したペニスの隠喩でしかない音声言語(パロール)中心主義と、その補助的役割しか割り当てられてこなかった文字言語(エクリチュール)のあいだに横たわる差別的構造だといってよい。デリダによれば、エクリチュールはパロールの「代補」(代理・補欠)として取り扱われてきたのであって、けっしてパロールのように「根源」として取り扱われてきたことはない、という。だけでなく、そもそも「根源」という概念こそ怪しいという。そして、怪しいにもかかわらず、なぜか「根源」には、いつも男根中心主義・ロゴス中心主義が居座っている、という告発だった。
プラトンやソクラテスの哲学を注意深く検討することで、デリダは、音声言語(パロール)の優位性という幻想と、文字言語(エクリチュール)の非-嫡子性の劣等性という幻想が、欧米には根強く残されてきたという二重の幻想を暴露した。そしてその一手として長いあいだ疑問に附されたことのなかったヘーゲルの言語に関する論述における明らかな矛盾にも触れておくことにした。
デリダはいう。
「ヘーゲルは、すでにこの戯れに捉われていた。《一方では》、彼がロゴスの哲学の全体を《要約した》ことはたしかである。彼は存在論を絶対的論理学と規定し、現前としての存在のあらゆる規定を集結せしめた。彼は現前性に臨現の終末論を、また無限の主観性の<自己への近接性>の終末論を、割り当てた。彼は、ライプニッツの記号学を批判するときも、悟性の形式主義を批判する場合も、また数学の象徴主義を批判する際にも、みな同じ態度をとる。つまり、感覚的あるいは悟性的抽象化における、ロゴスの<自己=外=存在>を告発するのだ。文字言語(エクリチュール)は自己の忘却、外面化であり、内面化する記憶の、つまり精神の歴史を開始する回想の、正反対に位置する」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.56」現代思潮社)
その通り。ヘーゲルの著書のいたるところで、文字言語(エクリチュール)は「外面的なもの」(外面性・外的なもの)として取り扱われている。ヘーゲルは文字言語を徹底的に嫌っている。けっして「真なるもの」として認めようとしない。「ロゴス」が外面的であるはずはない、というわけだ。もし仮に、文字言語(エクリチュール)が実際に外面的であるのなら外面的だと述べるのはヘーゲルの自由だ(が、そのとき、「ロゴス・真」なる内面性とは何なのか)。ところがただ単に文字言語を嫌っているがゆえに文字言語を落とし込めて音声言語の優位を説くという態度は哲学者の取るべき態度ではないだろう。哲学という分野で「ロゴス・真理」を探求したいとするのなら、ただ単なる「好き嫌い」を基準として哲学を語るべきではない。それは単なる偏見でしかない。さらにいえば、ヘーゲルは様々な論述の中で、あるいは男女関係をほのめかせながら、男尊女卑的態度で音声言語の優位と、その補助的役割しか持たない文字言語の劣等性、という区別を行なっている。繰り返していえば、それこそ欧米を中心として展開してきた音声言語中心的民族中心主義であり、宗教的な領域での音声中心主義的ユダヤ=キリスト教中心主義でもある。そしてその傾向はソクラテスやプラトン哲学の時代から顕著だった。
しかし皮肉なことは、ヘーゲルが探求した言語に関する部分の真っただ中において、「思考・思惟する」という行為の真っ只中において、実はヘーゲル自身、文字言語(エクリチュール)の同伴的存在様相を認めないわけにはいかない、というヘーゲルの論述だった。ヘーゲルの先走りは、ヘーゲル自身の思考が余りにも厳密だったがゆえに、自分自身が語っている論述の中にはいつも文字言語(エクリチュール)が「横たわっている」ばかりか文字言語(エクリチュール)なしにどのような思考もなく思惟もない、ということを語ってしまっていることだ。デリダはその意味でヘーゲルを次のように評している。
「絶対知の地平とは、まさしくロゴスにおける文字(エクリチュール)の消失、臨現における痕跡の還元、差異の再所有化であり、われわれが他のところで《固有なものの形而上学》と呼んだものの実現である。しかしながら、この地平においてヘーゲルが思惟したあらゆるもの、つまり終末論以外のあらゆるものは、<エクリチュール>についての省察として読み直すことができる。ヘーゲルは《また》、還元不可能な差異について思惟する人でもある。彼は思惟を、記号を《生み出す記憶》として復権させた。そしてまた彼は、ーーー他のところでそれを示そうと思うがーーーそれまでつねにそれなしでも済まし得ると信じられてきた哲学的なーーーつまりソクラテス的なーーー言説における書かれた痕跡の本質必然性を再び導き入れたのである。彼は書物についての最後の哲学者であり、<エクリチュール>についての最初の思惟者なのだ」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.59」現代思潮社)
なお、「われわれが他のところで《固有なものの形而上学》と呼んだもの」とあるのは、次の論文を参照されたい。アルトーの試みに対する批判なのだが、批判というより、アルトーがやってのけようと欲する行為はいつも或る種のパラドクスに陥るほかないという指摘である。だからといってアルトーの試みには何らの意義もないという意味ではない。
「私から私を剥奪し、私から遠ざけるもの、私自身に対する私の近接性を壊すものは私を汚すのだ。そのため私は私の固有性=清潔さを失ってしまう。自己に近い主体ーーーおのれがそれであるところの主体ーーーの名前は清潔(プロプル)だが、客体の名前や漂流している作品の名前はおぞましい。私は自分が清潔(プロプル)であるときに固有(プロプル)名をもつ。清潔であるときにだけ、子供は自分の名のもとで西洋社会のなかにーーーまず手始めに学校にーーー入っていくのであり、清潔であるときにだけ、きちんと真に名づけられるのだ。これらの複数の意味作用の統一性は見かけ上は分散して隠されているが、この意味作用の統一性、つまり、自己に絶対的に近接している主体の、汚(けが)れなきこととしての固有=清潔という統一性は、(〔固有の〕が〔近く〕に結びつけられた)哲学のラテン時代以前には生じることはなかった。そして同じ理由から、哲学のラテン時代以前には、狂気を疎外の病とみなす形而上学的規定が熟し始めることもなかった。(言うまでもないことだが、われわれは言語学的現象を原因や症候に仕立てあげているのではない。狂気の概念が、簡単に言えば、固定されるのは、固有=清潔な主体性の形而上学の時代においてでしかないのだ)。アルトーがこの形而上学を《煽動し》、それを《揺さぶる》のは、この形而上学がおのれ自身をあざむくときである。そのとき、この形而上学は、ひとが自分の固有性=清潔さをきれいに捨て去ること(つまり疎外の疎外)を固有性=清潔さという現象の条件に仕立て上げる。これに対してアルトーは依然としてこの形而上学を《必要としている》。アルトーは依然としてこの形而上学の奥底にある価値をくみ取り、一切の分離の前日に固有性=清潔さを絶対的に復元することで、この形而上学自身がそうである以上に、この形而上学に対して忠実であろうとしているのである」(デリダ「吹きこまれ掠め取られる言葉」『エクリチュールと差異・P.368~369』法政大学出版局)
さらに「根源」あるいは「起源」というイデオロギーの怪しさについては次の部分を参照。
「遅延こそが起源的なのである。さもなければ、差延は、意識がーーー現前するものの自己への現前性がーーーみずからに付与する猶予になってしまう。それゆえ、延期することが意味するものとは、ある可能な現在を遅らせたり、すでにいま可能な行為を先延ばしにしたり、すでにいま可能な知覚を延期するなどということではありえない。このような可能なことがらは差延によってのみ可能となるのであって、したがって、決断の計算や機構としてではなく、それとは異なる仕方で、差延を理解しなければならない。差延が起源的だと言うことは、同時に、現前する起源という神話を消し去ることである。だからこそ、『起源的』ということは《抹消しながら》理解しなければならないのだ。さもなければ、差延は、ある充溢した起源から派生することになってしまうだろう。起源的なものとは、非-起源的なのである」(デリダ「フロイトとエクリチュールの舞台」『エクリチュールと差異・P.411~412』法政大学出版局)
さて、ではなぜヘーゲルが「文字言語(エクリチュール)についての最初の思惟者」なのか。次に引用する部分をゆっくり読んでみたい。
「《記号》は、それ自身がもっている内容とは全く別な内容を表象するところの或る直接的直観である。すなわち記号は、疎遠な魂を自己のなかに移し保存しているところの《ピラミッド》である。《記号》は《象徴》とはちがっている。象徴も一つの直観であるが、象徴としての直観においては、直観《自身の》規定性がそれの本質および概念の方から見て、多かれ少なかれ象徴としての直観が表現する内容である。それに反して記号そのものにおいては、直観自身の内容と、直観を記号としてもっている内容とは、相互に無関係である。したがって、《記号化するもの》としての知性は、象徴化するものとしての知性よりも、直観を使用する場合に、いっそう自由な恣意と支配とをもっていることを証明している。──記号の真実の地位は今明示された次のような地位である。ーーー知性は直観するものとしては時間および空間の形式を産出するが、しかし感性的内容を取り上げ、そしてこの素材から表象を形成するものとして自分に対して現われる。ーーー〔しかるに〕知性は今や、自分の独立的な諸表象に一定の現存在を自分のなかから与え、充実された空間および時間すなわち直観を《自分自身のもの(知性自身のもの)として使用》し、直観の直接的な内容・直観に特有な内容を亡ぼし、直観に他の内容を意味や魂として与える。ーーー記号を創造するこの活動はとくに《生産的記憶》(さしあたりは抽象的な記憶の女神=ムネモジネ)と名づけられることができる。というのは、日常生活においてはしばしば想起および表象や構想力と混同され同じ意味に用いられる記憶は、一般にもっぱら記号を取り扱うべきであるということによってである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.133~135」岩波文庫)
さらに。
「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)
記号とか名前とか、それらはいつも思考・思惟の中に「横たわっている」。そしてヘーゲルは執拗に名前とか記号とかを外面性へと排除しようとするけれども、そうすればするほど、逆にいつまでも記号とか名前、あるいは「記憶」とかいった物質的言語を持ち出してこざるを得なくなりとうとう「文字言語(エクリチュール)についての最初の思惟者」へ化していくのである。ヘーゲルは文字言語(エクリチュール)を「外面性・外的なもの・外面的なもの」であると暗黙のうちにあらかじめ設定した後で華々しく音声言語(パロール)の優位性を常に説きつづけたにもかかわらず、逆にいつまで経っても文字言語(エクリチュール)を自身の哲学から排除することはできなかった。
道元の言語論に戻ろう。「語句とは思惟を場としての句に移して伝えるもの」である。このとき、思惟と思惟の語句への変換は少なくとも同時でなければならないし、もし同時でなければ何らの思考もできず思惟することもできないという含蓄が含まれていると考えられる。要するに「思惟を現成するのが語句である」。語句なくしてどのような思惟があるのか。もし語句のないところで思惟だけがあるとすれば、それはその地点で即カルト的発想へと滑落してしまっていただろう。しかしまた、道元にとってという条件付きではあるものの、個別的(個人的)なレベルに甘んじている個別的(個人的)思惟・思考を脱して「普遍的」な道元哲学を伝達するために用いられざるを得ないのも「語句」である。そして「語句」に依拠することで始めてようやく「普遍のなかに自在の意味を得る」という経過をたどることとなる、と考えるのが妥当だろうとおもうのである。
BGM
「哀れむべきだ、彼らは念慮というのが語句であることを知らない、語句とは思惟を場としての句に移して伝えるものだ、語句はさらに思惟からも離脱することを知らないのだ、思惟を現成するのが語句である、語句は個別の思惟を離脱して普遍のなかに自在の意味を得るのである」(道元「現代語訳 正法眼蔵2・第二十九・山水教・P.225」河出文庫)
しかしだからといって、何も道元だけがそのような言語論の地平にまで登りつめたわけではない。何ごとかを思惟する場合、思惟する行為自体、常に既にそれは言語によって行われるほかない。このようなことはヘーゲルがより一層正確に述べている。ただ、ヘーゲルにとって、思考するという行為は純粋な行為でなくてはならない。したがって、言語は言語でも、「文字言語」という物質的なものが思考の内部に混じり込んでいるということを、ヘーゲル自身は認めたくなかった。何か不純なことであるように思われたのだ。
ところが後になって、デリダが「エクリチュール」概念を登場させて言語論の再発見を行なった。そのとき、ヘーゲルはひたすら隠そう隠そうとしていたのだが、思考・思惟といった純粋な行為の中には、実をいうと純粋でないばかりか始めから物質的言語が介入しているし、そのことはヘーゲル自身がいかにも苦しげな様子を見せつつも吐露しているとデリダは述べた。
もっともデリダの戦略はヘーゲル哲学の打倒というようなものではなくて、脱構築というれっきとした方向性をあらかじめ持っていた。その一つの過程としてなされた研究の一つに過ぎないのだが。というのも欧米では戦後なおも「文字言語」(エクリチュール)より「音声言語」(パロール)のほうが優れており、「文字言語」(エクリチュール)が要請されるような場においてもそれは「音声言語」(パロール)の補助機能として仮に使用されるに過ぎず、けっして「ロゴス・真理」を伝えることはできないとされていたからである。
このことは欧米(とりわけヨーロッパ)世界の伝統的特徴の中でも大変大きな部分を占めていた。音声言語(パロール)こそ「神」の「ロゴス・真理」を保持する唯一の言語にほかならないという、ただ単なる「屁理屈」。それはユダヤ=キリスト教の歴史的伝統に根ざしている。さらにその伝統は欧米全域に根を張る「男根中心主義」の核心部分をなしてもいた。デリダが告発したのは、理想的な形に勃起したペニスの隠喩でしかない音声言語(パロール)中心主義と、その補助的役割しか割り当てられてこなかった文字言語(エクリチュール)のあいだに横たわる差別的構造だといってよい。デリダによれば、エクリチュールはパロールの「代補」(代理・補欠)として取り扱われてきたのであって、けっしてパロールのように「根源」として取り扱われてきたことはない、という。だけでなく、そもそも「根源」という概念こそ怪しいという。そして、怪しいにもかかわらず、なぜか「根源」には、いつも男根中心主義・ロゴス中心主義が居座っている、という告発だった。
プラトンやソクラテスの哲学を注意深く検討することで、デリダは、音声言語(パロール)の優位性という幻想と、文字言語(エクリチュール)の非-嫡子性の劣等性という幻想が、欧米には根強く残されてきたという二重の幻想を暴露した。そしてその一手として長いあいだ疑問に附されたことのなかったヘーゲルの言語に関する論述における明らかな矛盾にも触れておくことにした。
デリダはいう。
「ヘーゲルは、すでにこの戯れに捉われていた。《一方では》、彼がロゴスの哲学の全体を《要約した》ことはたしかである。彼は存在論を絶対的論理学と規定し、現前としての存在のあらゆる規定を集結せしめた。彼は現前性に臨現の終末論を、また無限の主観性の<自己への近接性>の終末論を、割り当てた。彼は、ライプニッツの記号学を批判するときも、悟性の形式主義を批判する場合も、また数学の象徴主義を批判する際にも、みな同じ態度をとる。つまり、感覚的あるいは悟性的抽象化における、ロゴスの<自己=外=存在>を告発するのだ。文字言語(エクリチュール)は自己の忘却、外面化であり、内面化する記憶の、つまり精神の歴史を開始する回想の、正反対に位置する」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.56」現代思潮社)
その通り。ヘーゲルの著書のいたるところで、文字言語(エクリチュール)は「外面的なもの」(外面性・外的なもの)として取り扱われている。ヘーゲルは文字言語を徹底的に嫌っている。けっして「真なるもの」として認めようとしない。「ロゴス」が外面的であるはずはない、というわけだ。もし仮に、文字言語(エクリチュール)が実際に外面的であるのなら外面的だと述べるのはヘーゲルの自由だ(が、そのとき、「ロゴス・真」なる内面性とは何なのか)。ところがただ単に文字言語を嫌っているがゆえに文字言語を落とし込めて音声言語の優位を説くという態度は哲学者の取るべき態度ではないだろう。哲学という分野で「ロゴス・真理」を探求したいとするのなら、ただ単なる「好き嫌い」を基準として哲学を語るべきではない。それは単なる偏見でしかない。さらにいえば、ヘーゲルは様々な論述の中で、あるいは男女関係をほのめかせながら、男尊女卑的態度で音声言語の優位と、その補助的役割しか持たない文字言語の劣等性、という区別を行なっている。繰り返していえば、それこそ欧米を中心として展開してきた音声言語中心的民族中心主義であり、宗教的な領域での音声中心主義的ユダヤ=キリスト教中心主義でもある。そしてその傾向はソクラテスやプラトン哲学の時代から顕著だった。
しかし皮肉なことは、ヘーゲルが探求した言語に関する部分の真っただ中において、「思考・思惟する」という行為の真っ只中において、実はヘーゲル自身、文字言語(エクリチュール)の同伴的存在様相を認めないわけにはいかない、というヘーゲルの論述だった。ヘーゲルの先走りは、ヘーゲル自身の思考が余りにも厳密だったがゆえに、自分自身が語っている論述の中にはいつも文字言語(エクリチュール)が「横たわっている」ばかりか文字言語(エクリチュール)なしにどのような思考もなく思惟もない、ということを語ってしまっていることだ。デリダはその意味でヘーゲルを次のように評している。
「絶対知の地平とは、まさしくロゴスにおける文字(エクリチュール)の消失、臨現における痕跡の還元、差異の再所有化であり、われわれが他のところで《固有なものの形而上学》と呼んだものの実現である。しかしながら、この地平においてヘーゲルが思惟したあらゆるもの、つまり終末論以外のあらゆるものは、<エクリチュール>についての省察として読み直すことができる。ヘーゲルは《また》、還元不可能な差異について思惟する人でもある。彼は思惟を、記号を《生み出す記憶》として復権させた。そしてまた彼は、ーーー他のところでそれを示そうと思うがーーーそれまでつねにそれなしでも済まし得ると信じられてきた哲学的なーーーつまりソクラテス的なーーー言説における書かれた痕跡の本質必然性を再び導き入れたのである。彼は書物についての最後の哲学者であり、<エクリチュール>についての最初の思惟者なのだ」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.59」現代思潮社)
なお、「われわれが他のところで《固有なものの形而上学》と呼んだもの」とあるのは、次の論文を参照されたい。アルトーの試みに対する批判なのだが、批判というより、アルトーがやってのけようと欲する行為はいつも或る種のパラドクスに陥るほかないという指摘である。だからといってアルトーの試みには何らの意義もないという意味ではない。
「私から私を剥奪し、私から遠ざけるもの、私自身に対する私の近接性を壊すものは私を汚すのだ。そのため私は私の固有性=清潔さを失ってしまう。自己に近い主体ーーーおのれがそれであるところの主体ーーーの名前は清潔(プロプル)だが、客体の名前や漂流している作品の名前はおぞましい。私は自分が清潔(プロプル)であるときに固有(プロプル)名をもつ。清潔であるときにだけ、子供は自分の名のもとで西洋社会のなかにーーーまず手始めに学校にーーー入っていくのであり、清潔であるときにだけ、きちんと真に名づけられるのだ。これらの複数の意味作用の統一性は見かけ上は分散して隠されているが、この意味作用の統一性、つまり、自己に絶対的に近接している主体の、汚(けが)れなきこととしての固有=清潔という統一性は、(〔固有の〕が〔近く〕に結びつけられた)哲学のラテン時代以前には生じることはなかった。そして同じ理由から、哲学のラテン時代以前には、狂気を疎外の病とみなす形而上学的規定が熟し始めることもなかった。(言うまでもないことだが、われわれは言語学的現象を原因や症候に仕立てあげているのではない。狂気の概念が、簡単に言えば、固定されるのは、固有=清潔な主体性の形而上学の時代においてでしかないのだ)。アルトーがこの形而上学を《煽動し》、それを《揺さぶる》のは、この形而上学がおのれ自身をあざむくときである。そのとき、この形而上学は、ひとが自分の固有性=清潔さをきれいに捨て去ること(つまり疎外の疎外)を固有性=清潔さという現象の条件に仕立て上げる。これに対してアルトーは依然としてこの形而上学を《必要としている》。アルトーは依然としてこの形而上学の奥底にある価値をくみ取り、一切の分離の前日に固有性=清潔さを絶対的に復元することで、この形而上学自身がそうである以上に、この形而上学に対して忠実であろうとしているのである」(デリダ「吹きこまれ掠め取られる言葉」『エクリチュールと差異・P.368~369』法政大学出版局)
さらに「根源」あるいは「起源」というイデオロギーの怪しさについては次の部分を参照。
「遅延こそが起源的なのである。さもなければ、差延は、意識がーーー現前するものの自己への現前性がーーーみずからに付与する猶予になってしまう。それゆえ、延期することが意味するものとは、ある可能な現在を遅らせたり、すでにいま可能な行為を先延ばしにしたり、すでにいま可能な知覚を延期するなどということではありえない。このような可能なことがらは差延によってのみ可能となるのであって、したがって、決断の計算や機構としてではなく、それとは異なる仕方で、差延を理解しなければならない。差延が起源的だと言うことは、同時に、現前する起源という神話を消し去ることである。だからこそ、『起源的』ということは《抹消しながら》理解しなければならないのだ。さもなければ、差延は、ある充溢した起源から派生することになってしまうだろう。起源的なものとは、非-起源的なのである」(デリダ「フロイトとエクリチュールの舞台」『エクリチュールと差異・P.411~412』法政大学出版局)
さて、ではなぜヘーゲルが「文字言語(エクリチュール)についての最初の思惟者」なのか。次に引用する部分をゆっくり読んでみたい。
「《記号》は、それ自身がもっている内容とは全く別な内容を表象するところの或る直接的直観である。すなわち記号は、疎遠な魂を自己のなかに移し保存しているところの《ピラミッド》である。《記号》は《象徴》とはちがっている。象徴も一つの直観であるが、象徴としての直観においては、直観《自身の》規定性がそれの本質および概念の方から見て、多かれ少なかれ象徴としての直観が表現する内容である。それに反して記号そのものにおいては、直観自身の内容と、直観を記号としてもっている内容とは、相互に無関係である。したがって、《記号化するもの》としての知性は、象徴化するものとしての知性よりも、直観を使用する場合に、いっそう自由な恣意と支配とをもっていることを証明している。──記号の真実の地位は今明示された次のような地位である。ーーー知性は直観するものとしては時間および空間の形式を産出するが、しかし感性的内容を取り上げ、そしてこの素材から表象を形成するものとして自分に対して現われる。ーーー〔しかるに〕知性は今や、自分の独立的な諸表象に一定の現存在を自分のなかから与え、充実された空間および時間すなわち直観を《自分自身のもの(知性自身のもの)として使用》し、直観の直接的な内容・直観に特有な内容を亡ぼし、直観に他の内容を意味や魂として与える。ーーー記号を創造するこの活動はとくに《生産的記憶》(さしあたりは抽象的な記憶の女神=ムネモジネ)と名づけられることができる。というのは、日常生活においてはしばしば想起および表象や構想力と混同され同じ意味に用いられる記憶は、一般にもっぱら記号を取り扱うべきであるということによってである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.133~135」岩波文庫)
さらに。
「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)
記号とか名前とか、それらはいつも思考・思惟の中に「横たわっている」。そしてヘーゲルは執拗に名前とか記号とかを外面性へと排除しようとするけれども、そうすればするほど、逆にいつまでも記号とか名前、あるいは「記憶」とかいった物質的言語を持ち出してこざるを得なくなりとうとう「文字言語(エクリチュール)についての最初の思惟者」へ化していくのである。ヘーゲルは文字言語(エクリチュール)を「外面性・外的なもの・外面的なもの」であると暗黙のうちにあらかじめ設定した後で華々しく音声言語(パロール)の優位性を常に説きつづけたにもかかわらず、逆にいつまで経っても文字言語(エクリチュール)を自身の哲学から排除することはできなかった。
道元の言語論に戻ろう。「語句とは思惟を場としての句に移して伝えるもの」である。このとき、思惟と思惟の語句への変換は少なくとも同時でなければならないし、もし同時でなければ何らの思考もできず思惟することもできないという含蓄が含まれていると考えられる。要するに「思惟を現成するのが語句である」。語句なくしてどのような思惟があるのか。もし語句のないところで思惟だけがあるとすれば、それはその地点で即カルト的発想へと滑落してしまっていただろう。しかしまた、道元にとってという条件付きではあるものの、個別的(個人的)なレベルに甘んじている個別的(個人的)思惟・思考を脱して「普遍的」な道元哲学を伝達するために用いられざるを得ないのも「語句」である。そして「語句」に依拠することで始めてようやく「普遍のなかに自在の意味を得る」という経過をたどることとなる、と考えるのが妥当だろうとおもうのである。
BGM