白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

レイチェル/生と水のエチカ2

2019年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ダロウェイ夫人の夫=リチャード・ダロウェイ。彼はイギリスの議員である。レイチェルの伯母(ヘレン)からねぎらいの言葉をかけられてこう答える。

「『この世の中で、自分が自分の身体の奴隷となっているのを知るときほど恥ずかしいことはない』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.124」岩波文庫)

この返事はしかし本当にリチャードの言葉なのだろうか。ヘレンのねぎらいの言葉はこうだった。

「『頭痛がするのではありませんか、違います?』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.124」岩波文庫)

頭痛と統合失調症。ウルフは十三歳の時に精神錯乱を起こしている。「船出」においてもレイチェルの頭痛は熱病や意識混濁、解離、幻覚などの予兆として現われる。作中しばしば顔を覗かせる頭痛へのこだわりはウルフに特有の精神病と常に何らかの関係を持って登場してくる。

リチャード・ダロウェイの返事はレイチェル=ウルフの思想・信条を代弁するものだ。ウルフは常々、身体に閉じ込められていることを大変嫌悪していた。公言してもいる。この場合の身体とは女性であると男性であるとを問うていない。身体への閉じ込めという現実は、ウルフにとって、のっぴきならない奇怪極まりないリアルな問題としてその生涯を貫いていく。ここでもレイチェル=ウルフはリチャード議員という極めて世俗的で磊落な性格の人物を巧みに利用して、人間は「自分の身体の奴隷となっている」ことに注意を促している。この言葉は「自分は自分の身体から解放されたい」という心情の反語的表現を取っている。しかしレイチェル=ウルフにとっての「身体」とは何だろうか。男尊女卑という古典的で社会的な因襲に拘束された「身体」であって、それゆえなおさら、自由な精神と拘束的身体との二元論という悪循環に陥っていく。ウルフが五十九歳で自殺したことは有名だが、「船出」発表直前にも精神的不安定から自殺未遂を起こしていたことを覚えておきたい。だから、発言者がリチャード議員でなくてはならない必然性など見当たらないにもかかわらず、或る意味、突拍子もない形で「自分が自分の身体の奴隷となっているのを知るときほど恥ずかしいことはない」という言葉がほとばしり出てくるのだ。そしてそれはレイチェル=ウルフにとって実に深刻な、生涯を賭けた問いでもあった。

なお、同性愛ではないが、小説のこの辺りではもう、レイチェルとその伯母(ヘレン)との同性愛的関係について気づいている読者もいるに違いない。同性愛もまたウルフにとって大きな意味を持つ、そして肯定すべき人間性の一つだった。レイチェルとヘレンとの間には「二十歳近い年齢の差」がある。この年齢差が持つ意味について少し想像してみよう。レイチェルとヘレンとのあいだにはおそらく空想上の二十歳くらいの男性が挟み込まれている。そして二人の女性はこの空想上の二十歳くらいの男性を両側からいたわりつつ慰みものにしつつ責めるのだ。レイチェルとヘレンの同性愛的関係とはそのようなものだ。

「新たな光に照らされて、レイチェルは初めて、自分の人生が、狭い囲いの中を這い回るようなものだとわかった。高い壁に挟まれた中で念入りに馭(ぎょ)され、こちらでは脇に寄せられ、あちらでは闇に放り込まれ、永久に頭は鈍く、肢体は不自由にされているーーーたった一度の機会である自分の人生がそうなのだーーー幾千もの言葉と行為の意味が明らかになった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.140」岩波文庫)

レイチェルは自分の人生があらかじめ設定された「狭い囲いの中を這い回るようなものだ」と理解する。理解はするけれども全面的に受け入れたりはしない。抵抗を試みる。だがその仕方がわからない。深まる孤独。レイチェルは小説内で二十四歳の女性として設定されているだけでなく極めて利発的で理知的な女性として描かれている。ウルフ自身がそうであった。この知性が女性にとって女性としての自己実現の武器になっていった時期に、知性による鋭い認識と深い洞察が逆説的にレイチェルを苦しめる。知識人ウルフは知識人レイチェルの苦悶を淡々と描く。だからといってウルフはレイチェルではない。常に一定の距離を置いている。見離しているようにさえ見えることもないではない。小説家とその作中人物とはあくまで別物なのだ。

「肢体は不自由」。

第一に単純に人間の身体に閉じ込められているということの「不自由」。第二に、重要なことなのだが、まだまだ女性解放が実現されていない時代、女性解放という運動自体が差別的に取り扱われていた時代、宗教的政治的社会的にあらかじめ決定づけられた様々な役割を担わさせた女性の身体として拘束されていることの「不自由」。レイチェルは二重の「不自由」を負っている。そして社会はこの「負債」を永遠に負っていくよう彼女に迫り続ける。政治と合体した宗教による「負債」の観念は民衆に対する強迫観念となり、「罪の意識」と「返済義務」の観念の暴力的反復によって数えきれない「債務者」の群れを量産することに成功した。では一体どこからこのような「債務感情」「良心の疚(やま)しさ」「終わりなき罪悪感」というものが発生したか。それを突き止めたのはニーチェだが、ウルフはニーチェのような壮大でアクチュアルな思想的変形を実践に移せるようなタイプではなかった。律義なのだ。しかし現実のウルフは行動の人でもあった。しかしその律義さは別の意味でウルフをウルフの背後から羽交い締めにしている。ウルフは大学出身者ではないが幼少期から膨大な読書環境に恵まれていた。極めてイギリス的な、イギリスの知識人階級に属していたといえるかもしれない。二十世紀初頭に至ってもなおスーツを着て始めてイギリス人はイギリス紳士に《なる》。そうでなければその人間は何ものでもないという観念が支配的だった環境の中では、与えられた環境自体に限界があった。そしてウルフもまたその限界を越えることはできない。人間は社会的人間としてしか生きていけない以上、限界の中で突破を目指すことしかできないわけだが、それはウルフの責任では何らない。むしろウルフは十分健闘することとなる。

「幾千もの言葉と行為の意味が明らかになった」とあるのは明らかに回帰のテーマである。ニーチェはこういっている。

「君はこのことを知らないのか?君がなすあらゆる行為において、一切の出来事の歴史が繰り返されており要約されているいるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三〇三・P.678」ちくま学芸文庫)

ところで、レイチェルはコミュニケーションについてこんなふうにおもう。

「レイチェルは、これまでほとんどの人が肩書だった、と言った。でも、あの方たちがわたくしに話しかけてくださると、肩書ではなくなってーーー『もう、いつまでだってお話に耳を傾けることができるの!』レイチェルは叫ぶように言った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.142」岩波文庫)

「肩書」は「仮面」だ。レイチェルはその知性にもかかわらず肩書の下には本当の人間がいると信じている。あるいは信じ込みたがっていた。仮面の下には仮面をはずした人間がいると。しかし仮面の下にいるのは本当に人間なのだろうか。仮面の下はさらなる仮面かもしれないとは考えないのだろうか。この時点でレイチェルは考え及んでいない。だから「叫ぶように言」ってしまう。しかし事情はこうだ。

「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならないのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.62~63」河出文庫)

ウルフはもちろんわかっている。わかっていて、あえて自分の分身であるレイチェルに「ぬか喜び」する場面を与えている。ウルフとしてはもっとレイチェルに対して過酷でなければならない理由がある。そのわけは後により確かな形で明らかになるだろう。ともかく、レイチェルはヘレンの言葉に導かれて「自分なりの人間性」に開眼する。自分は自分であり他者は他者であり両者は両者ともに「溶け込むことのない」個別的人間として存在すると。

「自分なりの人間性、本当に永遠に続く存在としての自分、海や風のように、他のどの存在とも違い、他と溶け込むことのない自分の姿が突然眼の前に現れ、レイチェルは自分として生きることに深い興奮を覚えた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.145」岩波文庫)

とはいえレイチェルが、ともすればしょっちゅう他者と融合してしまいがちな精神的不安定性から解放されるだろうと考えたとすれば、それは大いなる錯覚だといわざるをえない。レイチェルはその前にすでに「海」や「風」へと分身している。レイチェルは「海」になり「風」になりそして何よりも「水」である。その上でさらに「他と溶け込むことのない自分の姿」にも《なる》。事情はそうなのであって、いずれもがレイチェルであると同時にレイチェルの分身なのだ。レイチェルのオンパレードだともいえる。このような現象がなぜ生じてくるのかという事情については他の誰よりもマルクスが熟知していた。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫)

「レイチェルはヘレンが期待していたほど乗り気ではなかった。熱意を見せたかと思えば、たちまち疑問を抱いた。壮大な川の幻影がレイチェルを捕らえて離さなかった。水は時に青く、時に熱帯の太陽を受けて金色に染まり、その上を色鮮やかな島が横切る。月が輝けば水面は白く、陰れば揺れる木々に暗く閉ざされ、藪の生い茂る岸からカヌーが滑り出る」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.149」岩波文庫)

この文章の後半で水の表情が多彩に描かれている。試しに「水」を「レイチェル」に置き換えてみよう。するとレイチェルの分身性の柔軟性がよりよく見えてくるかと思われる。こうだ。

「レイチェルは時に青く、時に熱帯の太陽を受けて金色に染まり、その上を色鮮やかな島が横切る。月が輝けばレイチェルは白く、陰れば揺れる木々に暗く閉ざされ」、となる。

何ら違和感がないと感じるのはごく一部の読者だけだといえるだろうか。むしろ多くがこの変換あるいは交換に同意できるのでは、とおもわれる。さらにここでのレイチェルはただ単なる「水」であるだけでなくむしろ南米のジャングルを悠々と流れる「川」でもある。レイチェルは川だ。様々な迂路を経て大西洋に流れ込みそのうち海に《なる》大河の片鱗だ。大西洋に流れ込んでしまえばもうレイチェルはいつどこにでも出現可能だ。窮屈この上ない当時の社会的女性の身体から解放される。そして限りない変態を経ながらどこまでも微分化=差異化されていきつつ世界を横断するのである。

次のセンテンスはまた独特の読解手法を要するだろう。

「この季節には、夜の帳(とばり)がナイフのようにいきなり降り下ろされると同時に、街は煌めく粒が織り成す円や線となって眼下に湧き上がる。昼間は見えなかった建物が夜になると姿を現し、動いている汽船の灯から、海が陸に押し寄せてくるのがわかる」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.149」岩波文庫)

「夜の帳(とばり)」は「ナイフ」だ。「ナイフ」は「いきなり降り下ろされる」。また「ナイフ」は銀行のシャッターでもある。閉じるや否や計算が始まる。「昼間は見えなかった」資本主義は「夜になると姿を現」す。ただし銀行とそのネットワークの内部で、ということなのだが。計算は地味だが「街は煌めく粒が織り成す円や線となって眼下に湧き上がる」。そして「動いている汽船の灯から、海が陸に押し寄せてくる」わけだが、「陸に押し寄せてくる」ものは「海」あるいは「波」だけだろうか。資本主義は南米の大河を逆流しながら「陸に押し寄せる」のだ。何がなんでも。それは一体何だろうか。現金輸送車(船)である。

ところで余談だが。昨今ではキャッシュレス機能がぐんぐん発達してきた。現金輸送車(船)は急速に過去のものと化しつつある。しかしそれは「信用」が確実である限りでいえることでしかない。さて、「信用」はどこまで確実なのか。むしろ「信用」が確実である限りにおいて貨幣も確実なのではなかったろうか。貨幣が確実である限りで、したがってキャッシュレスもまた「信用」に依存することができる。だがその「信用」は多国籍間貿易に依存せざるをえない。しかし多国籍間貿易はスムーズに進行しているだろうか。アメリカ経済の無政府性と中国共産党の読み違いによってむしろ逆行しているのではないだろうか。

戻ろう。ヒューウェットが登場する。ヒューウェットはロンドンではなくこの南米のジャングルの中で始めてレイチェルと二人きりになる機会を持つ。そしてレイチェルと婚約するが、このヒューウェットもまた変わり者である。彼は友人のハーストにこう話す。

「『枝から枝へと飛び移るんだ』ヒューウェットは声を弾ませ、『この世はすこぶる愉快なんだ』とベッドで両腕を枕にし、仰向けに寝た。『きみみたいにあいまいなのが、本当にいいのだろうかね?』そう言ってハーストはヒューウェットの方を見た。『継続性の欠如ーーーきみが変なのはそこだよ。二十七歳、ほとんど三十歳なのに、何の結論も出してはいないんだ。婆さん連中に囲まれてうっとりしている三歳の子だ、きみは』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.184~185」岩波文庫)

ヒューウェットは「二十七歳、ほとんど三十歳」なのだが、「婆さん連中に囲まれてうっとりしている三歳の子」にも《なる》。変身する。だが変身は持続のうちにあるのかそれとも持続の切断によって可能となるのか、よくわからないところがある。ハーストはいう。「連続性の欠如」と。なるほどハーストの言葉は的を得ている。しかし人間の人格において「連続性の欠如」とは何を指していうのか。そしてそれは恋愛においてどのように展開することができるか。慎重な検討がなされるべきだろう。ベルクソンから。

「熱烈な愛や深い憂いは私たちの心いっぱいに拡がるものである。それらは、互いに溶け合い浸透し合う無数のさまざまな要素であって、はっきり決まった輪郭はもっていないし、相互に外在化しようとするいささかの傾向性ももってはいない。それらの独自性はそうしたことと引き換えに成り立っている。だから、私たちがそれらの混然たる塊りのなかに数的多様性を見分けるとき、それら感情の諸要素はすでに変形してしまっている。では、それらを互いに切り離し、等質的環境のなかで繰り広げてみると、いったいどうなるだろうか。この環境はさしあたっていまは、お望みのままに、時間と呼んでも空間と呼んでもいいのだが、さっきまでは、それらの一つ一つは、それが位置していた環境から定義しがたい或る色どりを借りてきていた。いまや、それは色褪せ、名前を受け取る準備をすっかり整えている。感情そのものは、自己を展開し、したがって絶えず変化する一つの生き物である。そうでないとしたら、感情が私たちを少しずつ一つの決心へと導くことは理解できなくなるだろうし、つまり私たちの決心は即座になされるということになるだろう。しかし、感情が生きているのは、感情の展開される場をなす持続がその一つ一つの瞬間ごとに相互に浸透する持続だからである。それらの瞬間を相互に分離し、時間を空間のなかで繰り広げたために、私たちはその感情からその生気と色彩とを失わせてしまったのである。したがって、私たちはいま、私たち自身の影に直面しているのだ。自分では感情を分析したつもりでも、実は感情の代わりに、言葉に翻訳できる無生気な諸状態を併置しただけなのである。これらの状態はそれぞれが、社会全体が或る特定の場合に感じた印象の共通要素を、したがって非個人的な残余をなしている。それ故に、私たちはこれらの状態について推論したり、私たちの単純な論理をそれらに当てはめたりできるのである。つまり、私たちはそれらを互いに分離したという、ただそれだけのことで、それらを類に昇格させてやり、やがておこなわれる演繹にそれらが役立つように準備したのだ。もし、いまここに、誰か型破りな小説家がいて、私たちの因襲的自我が器用に織りあげた布を引き裂き、この外見上の論理の下に根本的な不合理を、またこの単純な諸状態の併置の下に、名付けられる瞬間にすでに存在しなくなったさまざまな印象の無限の浸透を示してくれるなら、私たちは彼を私たち自身より以上に私たちのことを知っていると称賛するであろう。だが、決してそうはならない。私たちの感情を等質的空間のなかに繰り拡げ、その諸要素を言葉で表現するというまさにそのことによって、彼の方も私たちに感情の一つの影を提示しているだけなのである。ただ彼は、影を投影する対象の異常で非論理的な本性を私たちに推察させてくれるような仕方で、この影を処理した。彼は、表現された諸要素の本質そのものをなす矛盾や相互浸透のいくぶんかを、外的表現のなかに置き入れることによって、私たちを反省へと誘った。私たちは彼に勇気づけられて、しばし、私たちが私たちの意識と私たちとのあいだに介在させていた覆いを取り除いた。彼は私たちを再び私たち自身と向き合わせたのである」(ベルクソン「時間と自由・P.158~160」岩波文庫)

「連続性の欠如」があるのではない。性愛とか憂鬱とかいった「混然たる」持続があるのだが、それは瞬間瞬間において「絶えず変形」している。したがって規則的に整除された文法的世界の中では、この「変形」運動が、持続を示しているとは映ることなく、逆に「連続性の欠如」に見えてしまうという遠近法的倒錯が生じる。そしてこの倒錯なしに社会は今の姿で見えることもない。さらにそれら性愛とか憂鬱とかいった「混然たる」持続の多様体は言語化されるや否や「色褪せ」て見えるほかない。言語化の作業は同時に社会的にあらかじめ設定された瞬時にして起こる徹底的な文法的切断と整理整頓の作業である。一方、性愛にしても憂鬱にしても純粋持続は相互浸透・融合のうちに変化を遂げていく。だがそれは言語化されて始めて明瞭に意識化されるのであり、にもかかわらず意識化されたときすでにそれは「一つの影」でしかなくなってしまっている。レイチェルが捉えようとしているのは、この、言語化を逃れて相互浸透・融合のうちに変化を遂げていく「生」の流れなのであって、この「生」の流れの中を流れそのものとして生きてみようと願っているのである。

BGM