「エリザベス」。懐かしい名だ。
「エリザベス女王の時代以降その川を見た者はほとんどなく、エリザベス朝の航海者が目にした景色を変えるようなことはその後何も起こらなかった。エリザベス朝から現在までの時間は、水がこの両岸の間を流れ始めた時からの年月に比べれば一瞬のことにすぎず、至る所に緑の茂みがあり、小さな木々は、皺のよった孤独な大木となっていた。変化といえば太陽と雲の変化によるものだけで、波打つ広大な緑の山塊は次々に到来する世紀を迎えては送り、水は両岸の間をとぎれることなく流れ、時には大地、時には木々の枝を洗い流してきたが、同じ世界の別の所では、一つの町がもう一つの町の廃墟の上に建てられ、町の住民は時が経つにつれてより明確に自己を表現し、他人との違いを明らかにしてきた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.135~136」岩波文庫)
水としてのレイチェルはとても長いあいだほとんど変わらぬ光景を見せつつ光景としても物質としてもいずれにしても同時にそれとして流れてきた南米のジャングルの川だ。その周りを取り囲んでいるのはウルフの文章にある通りだったろう。ところがレイチェルらはイギリスからの異邦人に過ぎない。異邦の地で異邦人として彼女は意識せざるをえない。「別の所では、一つの町がもう一つの町の廃墟の上に建てられ、町の住民は時が経つにつれてより明確に自己を表現し、他人との違いを明らかにしてきた」し、今もしていると。どこかヘーゲルの匂いがしないだろうか。むしろヘーゲルなのだ。建設と破壊との交互作用を繰り返しながら、という点では。時間が導入されている。クロノス(時計時間)が。しかしレイチェルの望みはクロノス(時計時間)ではない。アイオーン(感性的時間あるいは永劫)に《なる》ことなのだ。ダブルバインドされたこのテーマはウルフを生涯捉えて離さない。ウルフもまた離れようとしない。
彼ら彼女らの一行はピクニックに出かける。そこでヒューウェットはおもう。
「不思議にも船がヒューウェットと一体になると、起き上がって船を操る意味が失われるのと同じで、もはや自分自身の抑えられない感情と争っても役に立たなかった。ヒューウェットは自分の知っていることすべてからどんどん引き離され、船が滑らかな川の水面を滑るように進むにつれ、ヒューウェット自身も防壁を越え、境界標を通過し、未知の水域に入っていった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.138~139」岩波文庫)
ヒューウェットもまた変身するわけだが、ここではいつもよりも少しばかり冒険してみる。「船」に《なる》。すると彼は「自分の知っていることすべてからどんどん引き離され」「防壁を越え、境界標を通過し、未知の水域に入ってい」く。「プラットフォーム」化していた「ミセス・バリーの客間」から切り離される。そこで、ヒューウェットが、ではなく、レイチェルが、著しく反応する。
「『恐ろしいーーー恐ろしいわ』再びの沈黙の後、レイチェルは呟いたが、そう言いながら、彼女は、自分自身の感情を思い返すよりも、絶え間なく聞こえてくる激しい水音のことを考えていた。荒々しく無分別に駆けめぐる水音が、遠くで、絶えることなく続いていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.148」岩波文庫)
レイチェルは自分で自分自身の内部を外部から受け取る。「荒々しく無分別に駆けめぐる水音」。それはなるほど「恐ろしい」。だがこれほど「身近な」ものもまたとないのだ。彼女は自分自身に触れているのだから。このようなとき、クロノス(時計時間)はほとんど息切れしている。アイオーン(感性的時間あるいは永劫)の支配下にあるほかない。「境界標を通過し」てしまった船は、通過と同時にアイオーンと合体・融合している。ところがこの船はほかの誰でもないヒューウェットなのだ。彼は突拍子もないことをいきなり口にしたりしもするが、基本的にのんきである。
「日中の暑さは収まり始め、お茶を飲む時にはフラッシング夫妻もよくしゃべるようになっていた。彼らが話すのを聞いていると、テレンスは、今や事物は二つの異なった層に分かれて進行するように思えた。一方ではフラッシング夫妻が、頭上の空中のどこか高い所で話している。一方自分とレイチェルは共に世界の底に落ちていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.151」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットは確かに基本的にのんきなのだが、おもっているほど何も気づかないほどではない。或る意味、鋭い。彼ら一行はジャングルの中で「二つの異なった層に分かれて進行する」と、テレンス=ヒューウェットは感じ取っている。上と下とに分かれていることに気づく。フラッシング夫妻は上に、一方、テレンス=ヒューウェットとレイチェルは「共に世界の底に落ちてい」る。ウルフがどう考えていたにしろ、ここでの主題は無意識をおいて他にあるだろうか。そこから生命が誕生してくる暗黒世界だ。それは常に下層にある。ニーチェに言わせれば「机の上」にではなく「机の下」で起こっていることであり、俗にいう「下半身問題」である。そこには時間というものは始めから存在しない。フロイトはそれを「エス」(それ)と呼んだ。というのも、「それ」は「それ」としか言いようがなかったからだ。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
ここで実際の性交があったかなかったかは問題にならない。重要なのはこの「通過」だ。ここからようやく歴史性は始まる。ウルフの文章は大変丁寧で、ともすれば一読者の立場を忘れて好感を持ってしまいそうになる。もちろん、そうであっていいのだが。
「大いなる漆黒の世界が、彼らを取り囲んでいた。穏やかにその中に引きこまれていくにつれ、暗闇は測り知れない厚みと持続性を備えているように思えた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.177」岩波文庫)
というふうに。
だがレイチェルはヒューウェットの思う次元に留まってはいない。そしてテレンス=ヒューウェットは恋人であるレイチェルを咎める。
「『きみはぼくのことを完全に忘れていたね』テレンスは咎めるように言って、レイチェルの腕を取り、甲板を歩き出した。『ぼくは決してきみを忘れないよ』『ああ、違う』レイチェルは囁いた。忘れていたのではない。ただ星がーーー夜がーーー闇がーーー。『レイチェル、きみは巣でまどろんでいる小鳥みたい。きみは眠っている。眠りながら話しているんだ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.177~178」岩波文庫)
レイチェルは「巣でまどろんでいる小鳥」に《なる》。確かにそうだ。けれどもそれだけだろうか。レイチェルは船を自分の上に浮かべながらいずれは大西洋という大海原へ運び去っていく水ではなかったか。彼女は「小鳥」に「星」に「夜」に「闇」に《なる》。そしてもちろん「水」にも《なる》。そしていずれは《大西洋》にもなってどんどん変態を遂げていくのだ。この系列は奇妙に入り混じりながらいつも高速で移動している。彼女は停止ということをまったく知らない。むしろ世界を知ってしまっている。逆説的だが事情はこうだ。ベルクソンはいう。
「まず極限的にいえば、《瞬間的になりたつ》再認といったものが存在する。これはまったく身体だけで可能となる再認であって、そこには明示的な記憶がすこしも介入してこない。その再認は行動にあってなりたち、表象において成立するものではない」(ベルクソン「物質と記憶・P.183」岩波文庫)
何度も繰り返し訪れたことのある街路を前にして人は迷うということは稀にしか起こらない。むしろ無意識のうちにいつものコースあるいはあらかじめ頭の中で整頓しておいたコースを考えもせず散歩してまた元の位置に戻ってくることができる。それがベルクソンのいう「《瞬間的になりたつ》再認」というものの事例である。「慣れ」については前に述べた。その「慣れ」は身体が何度も同じことを反復=思考することで確かなものとして身体に定着する。だから慣れていない人は意識を固定することができず、定められたコースを「《瞬間的になりたつ》再認」という形で一挙に下描きすることはできない。ところがレイチェルにはそれができる。彼女は、判然とはしないが或る種の世界地図を持っている。それはあのランボーが持っていた地図と同様のものだ。ランボーは若い頃、実際の海を見たことがなかった。にもかかわらず彼は見事に「酔いどれ船」を一挙に書き上げてしまいはしなかっただろうか。抽象的なのではない。むしろ逆に現実的であり過ぎたためだ。或る出来事の経験から即座に無数の出来事を見抜き学び取ってしまう。驚くべき学習能力の高さと速さ。稀にでしかないが、この、ごくふつうの社会の中にも、そのような人間は生まれてくる。第一次世界大戦前後はそういうことが比較的多かったことは事実だろう。それよりももっと早くになるとまた急に数が少なくなっているように思われる。けれども、さしあたりマルクスの名を特記しておきたい。また謎なのは、異様ともいえる「学習能力」の高さと速さから生まれたマルクスとかランボーとかカフカとかヴァレリーとかウィトゲンシュタインらの出現にもかかわらず、彼ら彼女らに否定的な日本政府が推し進めている「生涯学習」とはこれからどのようなものになっていくのかという問いとともに、同時に何を創設=生産していくのかという問いが目の前に宙吊りにされており、極めて興味深いといえる。学問の場が果たして彼ら彼女らを上手く吸収できるだろうか。もし上手く吸収できない場合、あるいは彼ら彼女らを学問の場から閉め出してしまう場合、彼ら彼女らは路上へ放出される。すると今度は逆に彼ら彼女らは路上に《なる》。彼ら彼女らは路上だ。路上は通路だ。通路の諸系列と化した様々なネットワークを通じて世界と繋がる交通網。彼ら彼女らは世界だ。
それはそうと。では「《瞬間的になりたつ》再認」が存在するとして、その認識は、もし言い換えることができるとすれば、一体どのようなものとして捉えることができるのか。あるいはできないのか。答えは、できる、である。
「私の現在と呼ばれるものは、直接的な未来に対するじぶんの態勢であり、つまりは切迫している私の行動である。私の現在は、かくてまさに感覚ー運動的なものなのだ」(ベルクソン「物質と記憶・P.279」岩波文庫)
ベルクソンのいう「切迫している私の行動」。しかしこの「切迫性」をあえてさらに切迫させてしまってもいけない。それはそれでまた危険なのだ。
「生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけねばならない」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
次へ行こう。
「ほら、レイチェルはあそこで自分の音楽に熱中して身体を揺らし、ぼくのことは忘れているーーーしかしぼくは彼女のそんな資質が好きだ。それが彼女にもたらしている個人を超えた性格が好きだ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.181」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットはレイチェルの良き理解者だ。それも稀に見る良き理解者だろうとおもう。しかし理解者に留まる。レイチェルは「侵入禁止」と告げていなかっただろうか。「『お互いに一番悪いものを出し合うだけーーーわたくしたちは離れて生きていくべきだわ』」、と言ってはいなかったろうか。同一化を求める一方で、しかしなぜそういったのか。一般性としての「同一化」ではないのだ。彼女が求めているのは。似て非なるものだ。同一化ではけっしてなく、もっと互いに侵しがたいこと。融合することだ。まさしく宇宙論的な発想だというほかない。しかしボードレールはどうだったろうか。あるいはボードレールが見いだした格好になっているポーは。誰よりもヴァン・ゴッホは。超人的な人間。そのような人間は実にしばしば出現している。とはいっても、何も歴史上の有名人として考えてはならない。むしろ生きているうちは死んでいたと言ったほうが正しい人々であって、間違っても有名人とは縁もゆかりもないケースがほとんどである。ところが本当に次のセンテンスなどは実にポーめいているのである。レイチェルはいう。
「『テレンス、あなたは今まで感じたことがないの?全世界がいくつもの巨大な物質の塊りでできていて、その中で人間は光の断片でしかないってーーー』彼女は絨毯と壁に柔らかな陽射しが点々と揺らめいているのを見たーーー『あれみたいな、ね?』『ないな』とテレンス」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.184」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットの返事はつれない。「ないな」、と一言おいて、「ぼくは、がっちりしている」と答える。もう手遅れだ。取り戻せない致命的ミスだ。決定的な瞬間を逃した。だがしかし、決定的な瞬間もまた錯覚ではなかったか。レイチェルはいう。ヒューウェットが考えている「恋」について、それがもし「世間でいう恋」というものであるならば、自分がおもっていることは「恋」では「ない」と。求めていることは世間でいう「恋」などとはまったく違うのだと。通じ合えないということ。始めから、通じ合うことはないということ。後になればあるのか。そうではない。後になればなるほど、実は何一つ通じ合えてはいなかったとますます明白になる自分を自分自身に対して晒すばかりだ。レイチェルがもしポーだったとしよう。晩年のポーはアルコール依存症で全身を痛め付けて死んだ。酒場で死んだも同然だった。レイチェルは、と問う前に、なぜアルコールだったのかと問うてみよう。ボードレールは主にアルコールだ。マリファナとかアヘンとかも試してはいるが。ところがゴッホはどうだろう。これといって何もない。絵画があるだけだ。もりもりと盛り上げられた油絵の塊が今にも動きだしそうな異様な描き方で盛り上げられてあるだけだ。ニーチェはどうか。アヘンは集中力を鈍らせてしまうとして遠ざけた。そしてレイチェルを生んだウルフもアルコールに耽溺していない。逆にアルコールに耽溺した人々もまた多い。フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、カポーティなど、途切れることがなさそうな勢いを見せている。しかしこれらの小説家はアルコールの力を借りて書いたとばかりも言えない。アルコールに依存してしまったのはもうすでに晩年のことであり、だがその晩年において彼らの筆力は見る見る低下していることはいろいろな研究者がとっくの昔に研究し発表してしまった。レイチェル=ウルフというケースは、これら男性芸術家と比較して、壁の向こう側にいるといえる。男性芸術家を馬鹿にしているわけでは何らない。したいともおもわない。そういうことではなくて、レイチェルの言葉にもっと耳を傾けたいとおもう、というふうに感じさせるものがあると言うことしか許されていないような気がしないだろうか、としかいえない。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
「驚いた」とある。何に。「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に」。すべてはあらかじめ「分割済み」なのだ。彼女がこの世に生まれたときすでに世界はすべて「SOLD OUT 」と明示されていた。言語によって規則正しく分割されていた。しかし言語なしにレイチェルはない。文法なしに世界は成立しない。文法による支配に従う限りでレイチェル=ウルフは生きていることができる。レイチェルは望む。「世界が一つで分け難いものとなる時」を。全世界の融合を。別の意味で考えれば極めて危険な全体主義イデオロギーともなる禁じられた希望だ。けれども一つの個別的な身体ともう一つの個別的な身体とは一挙に融合できるわけがない。彼女にはそのことが痛いほどわかっている。だから余計に融合を望んだのかもしれない。「溶ける」ということはウルフ作品における大きなテーマだ。これがニーチェになるとディオニュソスという言語へ変換されるわけだが。そうできれば事態はもっと簡単になるだろう。とはいえ、ディオニュソスとして単純に片付けてしまうにはまだ遠く、違いを認めないわけにはいかない。
BGM
「エリザベス女王の時代以降その川を見た者はほとんどなく、エリザベス朝の航海者が目にした景色を変えるようなことはその後何も起こらなかった。エリザベス朝から現在までの時間は、水がこの両岸の間を流れ始めた時からの年月に比べれば一瞬のことにすぎず、至る所に緑の茂みがあり、小さな木々は、皺のよった孤独な大木となっていた。変化といえば太陽と雲の変化によるものだけで、波打つ広大な緑の山塊は次々に到来する世紀を迎えては送り、水は両岸の間をとぎれることなく流れ、時には大地、時には木々の枝を洗い流してきたが、同じ世界の別の所では、一つの町がもう一つの町の廃墟の上に建てられ、町の住民は時が経つにつれてより明確に自己を表現し、他人との違いを明らかにしてきた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.135~136」岩波文庫)
水としてのレイチェルはとても長いあいだほとんど変わらぬ光景を見せつつ光景としても物質としてもいずれにしても同時にそれとして流れてきた南米のジャングルの川だ。その周りを取り囲んでいるのはウルフの文章にある通りだったろう。ところがレイチェルらはイギリスからの異邦人に過ぎない。異邦の地で異邦人として彼女は意識せざるをえない。「別の所では、一つの町がもう一つの町の廃墟の上に建てられ、町の住民は時が経つにつれてより明確に自己を表現し、他人との違いを明らかにしてきた」し、今もしていると。どこかヘーゲルの匂いがしないだろうか。むしろヘーゲルなのだ。建設と破壊との交互作用を繰り返しながら、という点では。時間が導入されている。クロノス(時計時間)が。しかしレイチェルの望みはクロノス(時計時間)ではない。アイオーン(感性的時間あるいは永劫)に《なる》ことなのだ。ダブルバインドされたこのテーマはウルフを生涯捉えて離さない。ウルフもまた離れようとしない。
彼ら彼女らの一行はピクニックに出かける。そこでヒューウェットはおもう。
「不思議にも船がヒューウェットと一体になると、起き上がって船を操る意味が失われるのと同じで、もはや自分自身の抑えられない感情と争っても役に立たなかった。ヒューウェットは自分の知っていることすべてからどんどん引き離され、船が滑らかな川の水面を滑るように進むにつれ、ヒューウェット自身も防壁を越え、境界標を通過し、未知の水域に入っていった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.138~139」岩波文庫)
ヒューウェットもまた変身するわけだが、ここではいつもよりも少しばかり冒険してみる。「船」に《なる》。すると彼は「自分の知っていることすべてからどんどん引き離され」「防壁を越え、境界標を通過し、未知の水域に入ってい」く。「プラットフォーム」化していた「ミセス・バリーの客間」から切り離される。そこで、ヒューウェットが、ではなく、レイチェルが、著しく反応する。
「『恐ろしいーーー恐ろしいわ』再びの沈黙の後、レイチェルは呟いたが、そう言いながら、彼女は、自分自身の感情を思い返すよりも、絶え間なく聞こえてくる激しい水音のことを考えていた。荒々しく無分別に駆けめぐる水音が、遠くで、絶えることなく続いていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.148」岩波文庫)
レイチェルは自分で自分自身の内部を外部から受け取る。「荒々しく無分別に駆けめぐる水音」。それはなるほど「恐ろしい」。だがこれほど「身近な」ものもまたとないのだ。彼女は自分自身に触れているのだから。このようなとき、クロノス(時計時間)はほとんど息切れしている。アイオーン(感性的時間あるいは永劫)の支配下にあるほかない。「境界標を通過し」てしまった船は、通過と同時にアイオーンと合体・融合している。ところがこの船はほかの誰でもないヒューウェットなのだ。彼は突拍子もないことをいきなり口にしたりしもするが、基本的にのんきである。
「日中の暑さは収まり始め、お茶を飲む時にはフラッシング夫妻もよくしゃべるようになっていた。彼らが話すのを聞いていると、テレンスは、今や事物は二つの異なった層に分かれて進行するように思えた。一方ではフラッシング夫妻が、頭上の空中のどこか高い所で話している。一方自分とレイチェルは共に世界の底に落ちていた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.151」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットは確かに基本的にのんきなのだが、おもっているほど何も気づかないほどではない。或る意味、鋭い。彼ら一行はジャングルの中で「二つの異なった層に分かれて進行する」と、テレンス=ヒューウェットは感じ取っている。上と下とに分かれていることに気づく。フラッシング夫妻は上に、一方、テレンス=ヒューウェットとレイチェルは「共に世界の底に落ちてい」る。ウルフがどう考えていたにしろ、ここでの主題は無意識をおいて他にあるだろうか。そこから生命が誕生してくる暗黒世界だ。それは常に下層にある。ニーチェに言わせれば「机の上」にではなく「机の下」で起こっていることであり、俗にいう「下半身問題」である。そこには時間というものは始めから存在しない。フロイトはそれを「エス」(それ)と呼んだ。というのも、「それ」は「それ」としか言いようがなかったからだ。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
ここで実際の性交があったかなかったかは問題にならない。重要なのはこの「通過」だ。ここからようやく歴史性は始まる。ウルフの文章は大変丁寧で、ともすれば一読者の立場を忘れて好感を持ってしまいそうになる。もちろん、そうであっていいのだが。
「大いなる漆黒の世界が、彼らを取り囲んでいた。穏やかにその中に引きこまれていくにつれ、暗闇は測り知れない厚みと持続性を備えているように思えた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.177」岩波文庫)
というふうに。
だがレイチェルはヒューウェットの思う次元に留まってはいない。そしてテレンス=ヒューウェットは恋人であるレイチェルを咎める。
「『きみはぼくのことを完全に忘れていたね』テレンスは咎めるように言って、レイチェルの腕を取り、甲板を歩き出した。『ぼくは決してきみを忘れないよ』『ああ、違う』レイチェルは囁いた。忘れていたのではない。ただ星がーーー夜がーーー闇がーーー。『レイチェル、きみは巣でまどろんでいる小鳥みたい。きみは眠っている。眠りながら話しているんだ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.177~178」岩波文庫)
レイチェルは「巣でまどろんでいる小鳥」に《なる》。確かにそうだ。けれどもそれだけだろうか。レイチェルは船を自分の上に浮かべながらいずれは大西洋という大海原へ運び去っていく水ではなかったか。彼女は「小鳥」に「星」に「夜」に「闇」に《なる》。そしてもちろん「水」にも《なる》。そしていずれは《大西洋》にもなってどんどん変態を遂げていくのだ。この系列は奇妙に入り混じりながらいつも高速で移動している。彼女は停止ということをまったく知らない。むしろ世界を知ってしまっている。逆説的だが事情はこうだ。ベルクソンはいう。
「まず極限的にいえば、《瞬間的になりたつ》再認といったものが存在する。これはまったく身体だけで可能となる再認であって、そこには明示的な記憶がすこしも介入してこない。その再認は行動にあってなりたち、表象において成立するものではない」(ベルクソン「物質と記憶・P.183」岩波文庫)
何度も繰り返し訪れたことのある街路を前にして人は迷うということは稀にしか起こらない。むしろ無意識のうちにいつものコースあるいはあらかじめ頭の中で整頓しておいたコースを考えもせず散歩してまた元の位置に戻ってくることができる。それがベルクソンのいう「《瞬間的になりたつ》再認」というものの事例である。「慣れ」については前に述べた。その「慣れ」は身体が何度も同じことを反復=思考することで確かなものとして身体に定着する。だから慣れていない人は意識を固定することができず、定められたコースを「《瞬間的になりたつ》再認」という形で一挙に下描きすることはできない。ところがレイチェルにはそれができる。彼女は、判然とはしないが或る種の世界地図を持っている。それはあのランボーが持っていた地図と同様のものだ。ランボーは若い頃、実際の海を見たことがなかった。にもかかわらず彼は見事に「酔いどれ船」を一挙に書き上げてしまいはしなかっただろうか。抽象的なのではない。むしろ逆に現実的であり過ぎたためだ。或る出来事の経験から即座に無数の出来事を見抜き学び取ってしまう。驚くべき学習能力の高さと速さ。稀にでしかないが、この、ごくふつうの社会の中にも、そのような人間は生まれてくる。第一次世界大戦前後はそういうことが比較的多かったことは事実だろう。それよりももっと早くになるとまた急に数が少なくなっているように思われる。けれども、さしあたりマルクスの名を特記しておきたい。また謎なのは、異様ともいえる「学習能力」の高さと速さから生まれたマルクスとかランボーとかカフカとかヴァレリーとかウィトゲンシュタインらの出現にもかかわらず、彼ら彼女らに否定的な日本政府が推し進めている「生涯学習」とはこれからどのようなものになっていくのかという問いとともに、同時に何を創設=生産していくのかという問いが目の前に宙吊りにされており、極めて興味深いといえる。学問の場が果たして彼ら彼女らを上手く吸収できるだろうか。もし上手く吸収できない場合、あるいは彼ら彼女らを学問の場から閉め出してしまう場合、彼ら彼女らは路上へ放出される。すると今度は逆に彼ら彼女らは路上に《なる》。彼ら彼女らは路上だ。路上は通路だ。通路の諸系列と化した様々なネットワークを通じて世界と繋がる交通網。彼ら彼女らは世界だ。
それはそうと。では「《瞬間的になりたつ》再認」が存在するとして、その認識は、もし言い換えることができるとすれば、一体どのようなものとして捉えることができるのか。あるいはできないのか。答えは、できる、である。
「私の現在と呼ばれるものは、直接的な未来に対するじぶんの態勢であり、つまりは切迫している私の行動である。私の現在は、かくてまさに感覚ー運動的なものなのだ」(ベルクソン「物質と記憶・P.279」岩波文庫)
ベルクソンのいう「切迫している私の行動」。しかしこの「切迫性」をあえてさらに切迫させてしまってもいけない。それはそれでまた危険なのだ。
「生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけねばならない」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
次へ行こう。
「ほら、レイチェルはあそこで自分の音楽に熱中して身体を揺らし、ぼくのことは忘れているーーーしかしぼくは彼女のそんな資質が好きだ。それが彼女にもたらしている個人を超えた性格が好きだ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.181」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットはレイチェルの良き理解者だ。それも稀に見る良き理解者だろうとおもう。しかし理解者に留まる。レイチェルは「侵入禁止」と告げていなかっただろうか。「『お互いに一番悪いものを出し合うだけーーーわたくしたちは離れて生きていくべきだわ』」、と言ってはいなかったろうか。同一化を求める一方で、しかしなぜそういったのか。一般性としての「同一化」ではないのだ。彼女が求めているのは。似て非なるものだ。同一化ではけっしてなく、もっと互いに侵しがたいこと。融合することだ。まさしく宇宙論的な発想だというほかない。しかしボードレールはどうだったろうか。あるいはボードレールが見いだした格好になっているポーは。誰よりもヴァン・ゴッホは。超人的な人間。そのような人間は実にしばしば出現している。とはいっても、何も歴史上の有名人として考えてはならない。むしろ生きているうちは死んでいたと言ったほうが正しい人々であって、間違っても有名人とは縁もゆかりもないケースがほとんどである。ところが本当に次のセンテンスなどは実にポーめいているのである。レイチェルはいう。
「『テレンス、あなたは今まで感じたことがないの?全世界がいくつもの巨大な物質の塊りでできていて、その中で人間は光の断片でしかないってーーー』彼女は絨毯と壁に柔らかな陽射しが点々と揺らめいているのを見たーーー『あれみたいな、ね?』『ないな』とテレンス」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.184」岩波文庫)
テレンス=ヒューウェットの返事はつれない。「ないな」、と一言おいて、「ぼくは、がっちりしている」と答える。もう手遅れだ。取り戻せない致命的ミスだ。決定的な瞬間を逃した。だがしかし、決定的な瞬間もまた錯覚ではなかったか。レイチェルはいう。ヒューウェットが考えている「恋」について、それがもし「世間でいう恋」というものであるならば、自分がおもっていることは「恋」では「ない」と。求めていることは世間でいう「恋」などとはまったく違うのだと。通じ合えないということ。始めから、通じ合うことはないということ。後になればあるのか。そうではない。後になればなるほど、実は何一つ通じ合えてはいなかったとますます明白になる自分を自分自身に対して晒すばかりだ。レイチェルがもしポーだったとしよう。晩年のポーはアルコール依存症で全身を痛め付けて死んだ。酒場で死んだも同然だった。レイチェルは、と問う前に、なぜアルコールだったのかと問うてみよう。ボードレールは主にアルコールだ。マリファナとかアヘンとかも試してはいるが。ところがゴッホはどうだろう。これといって何もない。絵画があるだけだ。もりもりと盛り上げられた油絵の塊が今にも動きだしそうな異様な描き方で盛り上げられてあるだけだ。ニーチェはどうか。アヘンは集中力を鈍らせてしまうとして遠ざけた。そしてレイチェルを生んだウルフもアルコールに耽溺していない。逆にアルコールに耽溺した人々もまた多い。フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、カポーティなど、途切れることがなさそうな勢いを見せている。しかしこれらの小説家はアルコールの力を借りて書いたとばかりも言えない。アルコールに依存してしまったのはもうすでに晩年のことであり、だがその晩年において彼らの筆力は見る見る低下していることはいろいろな研究者がとっくの昔に研究し発表してしまった。レイチェル=ウルフというケースは、これら男性芸術家と比較して、壁の向こう側にいるといえる。男性芸術家を馬鹿にしているわけでは何らない。したいともおもわない。そういうことではなくて、レイチェルの言葉にもっと耳を傾けたいとおもう、というふうに感じさせるものがあると言うことしか許されていないような気がしないだろうか、としかいえない。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
「驚いた」とある。何に。「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に」。すべてはあらかじめ「分割済み」なのだ。彼女がこの世に生まれたときすでに世界はすべて「SOLD OUT 」と明示されていた。言語によって規則正しく分割されていた。しかし言語なしにレイチェルはない。文法なしに世界は成立しない。文法による支配に従う限りでレイチェル=ウルフは生きていることができる。レイチェルは望む。「世界が一つで分け難いものとなる時」を。全世界の融合を。別の意味で考えれば極めて危険な全体主義イデオロギーともなる禁じられた希望だ。けれども一つの個別的な身体ともう一つの個別的な身体とは一挙に融合できるわけがない。彼女にはそのことが痛いほどわかっている。だから余計に融合を望んだのかもしれない。「溶ける」ということはウルフ作品における大きなテーマだ。これがニーチェになるとディオニュソスという言語へ変換されるわけだが。そうできれば事態はもっと簡単になるだろう。とはいえ、ディオニュソスとして単純に片付けてしまうにはまだ遠く、違いを認めないわけにはいかない。
BGM