ちなみに言っておくと、マゾッホは今も俗世間で言われているような、「マゾヒズム的野獣」としての人間とは当然のように違っていた。簡単に例えるとすれば「啓蒙家」。とはいえマゾッホならではの特徴もある。ロシア・東欧に押し寄せる近代化の波を、より一層押し進めることだけがロシア・東欧といった様々な伝統や民族を抱える諸地域にとって一概に良いことだといえるのだろうか、という疑問を持っていた。その意味で理性を信じていたにもかかわらずただ単なる啓蒙主義者という枠組みに囚われない広い視野を有していたことが明らかになっている。単なる理想家ではない理性的啓蒙家だった。理性は常に科学的近代化を押し進めるばかりが最善であると考えがちだが、果たして必ずしもそうとばかりもいえないのではないか、という近代化への懐疑がマゾッホにはある。マゾッホはいたって「まとも」な理性の所有者だった。しかし「マゾヒズム」にはまた生と性にかかわる大変重要な「エコノミー」=「節約」という概念がある。この価値転倒の技術もまたマゾッホを語る上で欠かせない。
続くセンテンスは、世界中で報告されているような、いわゆる「猟友会」の中にしばしば混じり込んでいるただ単なる「模倣的殺人鬼」の言動とはまったく違っている。ドラゴミラには人間と動物との区別はない。あるにしてもそのあいだには何の優劣も設けていない。むしろそのどちらともと常に生死を賭けつつ生き生きと生きていきたいと望んでいる。ドラゴミラはいわば「自然児」だ。彼女にとって異端派であることは、ロマノフ王家やすべての銀行と一緒になったロシア正教会とは正反対の、ごく自然な〔自然とともに自然として生きる〕信仰的態度が「生の哲学」へ登りつめていく過程であった。
「『私はこの事件にとても興味があるんです。あなたのお仕事、つまり警察の活動というのは、あらゆる狩りのなかで一番興奮させる究極の狩り、すなわち人間狩りだと思うのです。私、狩猟と聞くともうじっとしていられないほどですので、私が事件に興味をもつこともわかっていただけるのではないかしら。馬に乗って、グレイハウンドを連れて、草原(ステップ)を走りまわり、野兎やら狐やらを狩るのが、私にとって最高の楽しみなのです。でも、どんなにすばらしく、わくわくするでしょうね。人間の足跡を捜し、狩りたて、罠に追い込むのは。あなたが満喫していらっしゃるこの悪魔的な楽しみに、私もぜひ参加させていただきたいわ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.382」中公文庫)
次の言葉はドストエフスキーが長編で問うている問いに近い。
「『ええ、そのとおりよ』。ドラゴミラは銃に新しい弾を込めながら答えた。『私が思うには、どんな人間にも神のようなところと悪魔のようなところとがあるのです。そのために私たちは、殺すことと滅ぼすことにも、何かを生み出すのとまったくおなじように、快感をおぼえるのよ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.413」中公文庫)
ドラゴミラはいう。「私は並の女ではありません。並の女は愛を求め、願いが妨げられると復讐心を燃やし、あらゆる手段を弄しますが、私は違」う、と。異端者として振舞っているのも、他の政治的宗教的社会的集団とはまったく異なる立場からであることがわかる。なかでも政治からはもっとも遠くに位置している。政治的なものを最劣等のものとして考えている。供犠は儀式の中の道具に過ぎない。そしてこの供犠はマゾヒズムのエコノミーにしたがって取り扱われる。以下、長い引用だが「時間の無駄」を省こうとするドラゴミラの言葉は、十九世紀東欧のキエフ周辺を舞台としていながらも、どこか意外なほど現代的でさえある。
「『あんたは復讐したいんだ。そうだろう』。タライェヴィッチが言い返した。
『私は並の女ではありません。並の女は愛を求め、願いが妨げられると復讐心を燃やし、あらゆる手段を弄しますが、私は違います。私は祭司であり全能の神に仕えているのです。なぜあなたは私の織り上げたもののなかに闖入(ちんにゅう)し、糸を切ったのですか。今やあなたはみずから私の網にかかったのです。私はあなたを生け贄にします。と言っても復讐するためではなく、もっぱら地上で罰することによって永遠の苦しみから救うためです。あなたは今日のうちにも死ぬでしょう』。
『助けてくれ!お情けを!』膝をつき、両手を挙げて、タライェヴィッチは哀願した。
ドラゴミラはそれにたいして、『立ちなさい』、と言った。『ついて来るのよ。あなたを待っている祭司に罪を悔いる告白をし、みずからを生け贄にすることによって、その罪を購いなさい』。
『おれのまわりにいる人間は、みんな頭がどうかしたのか』。タライェヴィッチはどなった。
『神の怒りを鎮めるつもりなら、私が示す道を選びなさい』。ドラゴミラはさらにつづけた。『あなたがどこまでも頑なで購うつもりがないなら、わたしがあなたの魂を救うことにします。そのときは力づくで祭壇の前へ引きずって行き、そこで生け贄にしてやります、かつてアブラハムがイサクを生け贄にしようとしたときのように』。
『いやだ、死にたくない』。わなわなと震えながら、タライェヴィッチはつぶやいた。『罪は贖うつもりだ。が、私の命を生け贄として捧げるのは嫌だ。そんなことを神が私に要求するはずがない。そんなのは狂気の沙汰だ』。
『まだあなたは自由です』、とドラゴミラが大声で言った。『選びなさい。永遠の光にいたる道はあなたの前に開けているのです』。
『いやだ、いやだ。おれは死にたくない』、とタライェヴィッチは叫んだ。
『では歩きなさい』、とドラゴミラが命令した。『もう時間を無駄にするわけにはいきません』。
カーロフが間髪入れず囚われの男に飛びかかり、信じられないほどの力で投げ飛ばすと、首筋を膝で押さえつけた。それで百姓女の服装をした二人の娘はいともたやすく震えている男を縛ることができた。両手両足を縛り上げると、彼女たちはタライェヴィッチを引きずって行き、ほかの者たちはそのあとからついて行った。着いたところは、松明があかあかと燃えている大広間で、祭司が待っていた。
不幸な男は祭司の前に横たえられた。祭司が訓戒の言葉を述べはじめたとき、彼はへりくだりと譲歩によってまだ自分の命を助けることができるのではないかという希望を抱いた。そこで申し分ない懺悔をして、そのあとで自分から、厳しい贖いと罰をあたえてくださいと言った。
『ではあたえよう』、と祭司は言った。『ドラゴミラ、そなたにまかせる』。
これを聞くとタライェヴィッチは、『あの女はやめてください』、懇願した。『あの女は私を殺してしまいます』。
『誰もおまえに危害は加えぬ』、とアポストルは答えた。『神ご自身に決めていただくのだ、おまえが彼方の世界に入る準備ができておるか、この世でさらに贖罪が必要かをな』。
ドラゴミラは百姓女の服装をした二人の娘に目配せした。すると二人はすぐさまタライェヴィッチのからだをつかみ、薄暗い通路を抜けて、もうひとつの大広間へ引っ立てて行った。そこは一方のは壁が頑丈な格子になっていた。娘たちがタライェヴィッチの縄を解いているあいだに、カーロフが格子の扉を開き、生け贄は四本の腕で完全な闇のなかへ押し込まれた。扉がふたたび閉められ、二本の松明が格子にくくりつけられた。その血のように赤い光のなかに、何頭もの美しい虎と豹の姿が浮かび上がった。大きな檻のなかのあちこちに腹這いになっていたのだ。
今やタライェヴィッチはその野獣たちの真ん中に立っていた。あの闘技場に引き出された古代ローマのキリスト教徒の殉教者のように、凶暴な獣たちはまだ静かにしていた。しかし、タライェヴィッチが大声で神の御名を呼び、慈悲を乞い始めると、獣たちはのっそりと立ち上がってしなやかな手足を伸ばし、不気味にらんらんと光る目を探るように彼に向けた。
『私、なかに入ります』。とドラゴミラがカーロフに言った。カーロフは引き留めようとしたが無駄だった。ドラゴミラは扉を開けさせ、片手にピストルを、もう一方の手に針金の鞭をもって、野獣たちの真ん中へと入っていった。そして、『眠っていないので、目を覚ますのよ、この獣たちめ。さあ立って、つとめを果たしなさい』、と力強い声で命令するなり、野獣たちの上に力いっぱい鞭を振り下ろした。最初野獣たちは恐れをなして後ずさりしたが、すぐに牙をむき、尾を丸め、しわがれた短い唸り声を挙げた。ドラゴミラはふたたび大きな虎を目がけて鞭を振った。虎の方はしかし、彼女に飛びかかるのではなく、王者のようなその目を恐れて、臆病な奴隷のように格子の方へ逃げ、それから、タライェヴィッチに襲いかかった。身の毛もよだつ悲鳴が挙がった。つづいてほかの野獣たちが虎を真似た。地面の上に広がった湯気の立つ血の池のなか、そのからだはずたずたになって転がり、人間の悲鳴と虎や豹の怒り狂った唸り声とが交り合った。その間もドラゴミラは、黒いビロードと毛皮の足首まで届く外套姿で、ピストルを手にして、復讐の女神さながらにそこに立っていた」(マゾッホ「魂を漁る女・P.438~441」中公文庫)
愛というものの過酷な真相が語られる。近代化されていない「生身の人間」の究極の愛とは何か。
「『本当にあなたとおなじですよ、ドラゴミラ』、と伯爵は繰り返した。『こんな滑稽な喜劇を演じるのはもうよしましょう。今では、あなたが私のことを知っているのとおなじように、私もあなたという人間を知っています。私とおなじように素直になってください。私とおなじくあなたのなかにも、暴君ネロの気質が、巨人(ティターン)のような衝動が、ひそんでいるのです。支配したい、屈服させたい、人間の首筋を踏みつけてやりたい、逆らう者は滅ぼしてやりたい、という衝動です。私たちの心臓はどちらも大理石でできているのです。ですから、正直に言うなら、あなたと同様に私も、愛することはできません。私があなたに愛の宣言をすることはありません、私があなたに感じているのは愛以上のものです。讃仰、血族、あるいは魂の和合、何と呼んでみても、私があなたに感じるものを言いあらわす言葉にはなりません。私はあなたのなかにおなじ血の流れている同志を発見したのです。私とおなじく神と世界に反逆する力をもつ天性を、永遠の復讐者の雷光に撃たれることを恐れずに手を天の星まで伸ばす天性を、見いだしたのです』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.451」中公文庫)
ところがそれもまた愛ではあってもその一つでしかない。「征服するか征服されるか」という闘争のうちに愛は閃光する。なお、A(征服する側)とB(征服される側)とに区別された両者が一連の闘争を通してさらに上位の次元へ上昇していく二元論的弁証法の読解については、ヘーゲル「精神現象学」を参照するのが最適。マゾッホが「啓蒙家」だったことを想起したい。ヘーゲルから啓蒙に関する部分を引いておこう。
「両者が本質的には同じものであり、純粋透見の信仰に対する関係も同じ場〔境位〕によって、同じ場〔境位〕において起る、というこの側面から言えば、透見の伝達は《直接的》なものであり、透見が与えたり受けとったりすることも、邪魔されずに流入し合うことになる。さらにそのほか、意識のなかにどんな杙(くい)が打ちこまれようとも、意識は《自体的》には単一なものであり、ここではすべてのものが解体され、忘れられ、拘束されないので、概念が端的に受けとられうるわけである。それゆえ純粋透見の伝達は、抵抗のない雰囲気のなかで、靄が静かに拡がり《流れて行く》のと比較できよう。この伝達は、伝染が侵入して行くようなもので、この無関心な場〔境位〕にこっそりと伝染して行っても、これまでは、反対のものだとは気づかれなかったので、防ぐこともできなかったのである。伝染が拡まったときになって初めて、それを気にも止めないで放っておいた《意識》は、それと《気がつく》ようになる。というのは、意識が自分に受けいれたものは、なるほどそれ自身でも意識にとっても、同一な単一なものであったけれども、同時に、自己に帰った《否定性》のもつ単一態であった。これは、後になると、その本性から言って、自分の反対としても展開し、そのため意識に、以前の姿を想い起させる。この単一態は、単一な知であるような概念であるが、この知は自己自身と自分の反対とを、同時に、知っている、けれどもこの反対が、自分のなかで廃棄されたものであることも、知っている。それゆえ、意識が純粋透見に気づいたときには、もう透見はひろまってしまっている。だから、透見と戦うことは、伝染がすでに起ってしまっていることを、もらしていることになる。戦いは遅すぎるのだ。どんな薬もこの病気を悪くするだけである。というのも、この病気は、精神的生命の骨の髄を、つまりその概念における意識を、その純粋本質そのものを、犯してしまっているからである。だからまた意識には、病気に打ち克つ力が何もないわけである。病気は、本質自身のなかに在るのだから、病気が一つ一つばらばらに現われてくるのは、圧えられるし、表に出た徴候はぼかされもする。これは、純粋透見から見れば一番都合のいいことである。なぜならば、そのとき透見は、必要もないのに力を浪費するわけでもないし、自分の本質にふさわしくない態度を、とることもないからである。つまりそれは、透見が徴候の形で、個々の発疹の形で、信仰の内容にさからい、信仰の外面的現実の連関にさからって、噴き出てくる場合のことである。ところが、透見は、眼には見えないし、気もつかれない精神であるから、意識されていない偶像の急所、急所をことごとくそっと通りぬけ、やがて内蔵や四肢のどれもこれもを、すっかり占領してしまう。そして『《ある晴れた朝》、透見はその仲間を肱でおしのける、するとがらがらと音をたてて、偶像は地に倒れてしまう』。ーーー《よく晴れた朝》というのは、昼になれば、伝染が精神的生命の全器官にしみ通ってしまうので、血は流れないからである。そのときには、思い出だけが、どういうふうにしてかはわからないが、消え去った歴史として、精神のかつての形態の、死んでしまった姿を、記憶に止めるわけである。こういうふうに、皺のよった皮を、痛みを感じもしないでぬぎ捨てて、知恵の蛇が新しい崇拝の対象に昇せられることになる。
だがこうして精神は、その実体の単一な内面において、その活動を隠したままで、沈黙のうちに機(はた)を織り続けるが、これは、純粋透見を実現する一つの側面にすぎないのである。透見の普及は、等しいものが等しいものと一緒になる点にだけ、在るのではない。それを実現することは、ただ単に対立もなしに拡げて行くことだけではない。そうではなく、否定的存在の行為も、やはり本質的には、自らのなかで自分を区別する運動が、展開したものであり、この運動は、意識的な行為であるから、そのいくつかの契機を、あらわれた一定の定在の形で掲げ、かしましい音をたて、対立したものそのものと、暴力的な戦いを挑まざるをえないのである。
それゆえ、《純粋透見》と《意図》とが、自分の前にあって自分に対立する他者に対し、どういう《否定的な》態度をとるかを、見なければならない。ーーーだが純粋透見と意図は、その概念が全実在であり、その外には何もないのであるから、否定的な態度をとるにしても、自己自身を否定するものでしかありえない。だからそれは透見として、純粋透見を否定するものとなる。純粋透見は非真理となり非理性となる。透見が意図となるときには、純粋意図を否定することになり、いつわりとなり、不純な目的となるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.133~136」平凡社ライブラリー)
またこの対立的構造を「見る側」(断定する側)と「見られる側」(断定される側)との関係に置き換えて述べたサルトル「存在と無」も大変参考になるに違いない。しかしここではとりあえず次に行きたい。
「彼女は彼を征服したいと思い、征服せずにはいられなかった。彼の妻になりたい、彼とともに罪を犯し、死にたい、と思った。しかしまずは伯爵を死の手に引き渡さねばならない」(マゾッホ「魂を漁る女・P.468」中公文庫)
ところで、「宗教的正気」とは一体何か。宗教の世界では「正気」に戻ろうとすると「正気」とは何かという問いに必ず出会う。キリスト教に限らず宗教はいつもこの種の問いにかかわっていかねばならないという永遠に終わらない自縛に囚われ続けていくほかない。しかしまったく何も考えないよりは、少しでも考えることにしたほうが次善の策だということはわかっている。三十ページほど読み進めると「真のキリスト教徒の卑下」という言葉が出てくる。人間の心など神の前の子羊の心情に過ぎない、というくらいの意味なのだが。しかしこの教義は或る種の特定の宗教の信者を一挙に狂信者化しファシスト化してしまう途方もなく危険な力を持つ。ドラゴミラは異端者の立場から宗教的教義が本来的に持つ底なしの怖さを大真面目な風貌を装いつつ逆に諧謔(パロディ)として用いてもいる点に着目しておきたい。しかしなぜマゾッホはキリスト教のパロディをこうも豪快にやってのけようと試みたのか。「卑下」という言葉にそのヒントがある。「卑下」はこの場合「自己卑下」以外に解釈のしようがない。そしてまた「自己卑下」は「自己弱化」=「自己病気化」することのほか何も意味してはいない。マゾッホの同時代人にニーチェがいることを忘れてはならない。
「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)
さらにフーコーによる補足が必要だろう。キリスト教徒に求められる「告白」とは何か。それはどのようなシステムに基づいて機能し、実際にはどのようなことを目指しているのか。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
こうしてキリスト教は「告白」という手法を利用して、ありもしない罪を出現させる。ありもしない罪を出現させ、それを根拠に罰の意識を叩き込む。人間は圧倒的優位な立場に立つ他の人間から「それを直視せよ」と命じられてしまうと、それまでは何も存在していなかった場所にさしあたり内面という言語的形式を作り出す。そしてそこに何か罪のようなもの(言語あるいは映像的言語様式)が出現して見えてくるという珍現象に襲われ包囲されてしまう危険な傾向を持っている。追い詰められた人間の精神はこのようにして「死の本能」へと急傾斜する。キリスト教の告白装置はまさしくそのような人間の遠近法的錯覚を利用した「罪と罰」の量産装置として機能してきた。日本では刑法における「自白」が有名だ。昨今ようやく「自白」に基づく捜査に対する疑問について、その欺瞞性が今まで以上に深く疑われるようになってきた。取り調べが可視化されていない以上、現今では「自白」には根拠などまったくないとしか言えない。動かしようのない物的証拠とそれに準ずる犯行意図の言語形式化された供述書が出てこない限り被告人はいつ釈放されてもよい。
少し余談になる。芸能人の薬物使用疑惑とテレビ・マスコミの共犯性。朝から晩まで各テレビ局は一芸能人のコカイン使用疑惑について延々と番組を流し続けていた。その間に何が起こっていただろうか。日本の首相にかけられている嫌疑(モリカケ問題)がものの見事に国民の目から隠蔽されてしまった。なぜこのタイミングだったのだろうか。件の芸能人を逮捕したのは警視庁である。なぜ「モリカケ問題」がまさに国会で追求されようとしているこのタイミングで、いきなり一芸能人のコカイン使用疑惑を大々的に発表し、また同時に、それを受けたテレビ・マスコミ各局は一斉に薬物疑惑のほうへばかり殺到することにしたのか。この一連の行為に「忖度」はあったのか。前に述べたように「忖度」は「以心伝心」という言語化不可能な過程の有無が焦点ともなるので「忖度」云々は言語的指示がない以上、問題とするには難がある。あるいはテレビ・マスコミ各局が「モリカケ問題」を放置し逆に薬物問題に関して一斉に同じ態度を取ることで事態の真相を反語的に伝えようとしたのかもしれないが。いずれにせよ、「モリカケ問題」関係者も警察もテレビ・マスコミも一様に頭から離れ去ってしまっている事情がありはしないだろうか。あるとすればそれは何か。社会的問題というものは、それが或る程度「成長する」ものでもあるということ、そしてまた成長したのちに、或る種の別のものへと「転化」し終わってからでしか歴史の表舞台から消えていくことはないというのっぴきならない消息である。
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.246~247」岩波文庫)
「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・P.248~249」岩波文庫)
さて、教義の名において迫られた「告白」。それこそ犯罪というものではないだろうか。そして国家=資本と合体した世界最大の宗教は今や世界最大の権力意志を現実のものとして集結させようとしている。ところが皮肉にも、トランプ米大統領という怪人の出現により、キリスト教は弱者を救うための宗教ではもともとないのではないかという疑問が世界中を駆け巡るようになった。かといって中国のような一党独裁などまっぴらだと世界はおもっている。問いが問いを呼ぶという問いの過剰と情報過剰が、そもそもIT社会を仕掛けた仕掛け人たち自身と会社そのものとその社員・家族らの生死をも左右するようになってきた。政財官界ならびに宗教界はいつも自分で自分自身たちのみが世界の最先端を行っているという幻想に囚われている。だから勇み足という傲慢不遜な態度からいっこうに抜けきれない。しかしその失敗のつけはいつも納税者・一般国民の側に回されてくるのだ。この理不尽の行方はもうすでにフランスなどでは噴出している。ーーー余談終了。
「男たちはソルテュクの両手を頭上で縛って、天井に取りつけてあった鉄の輪に吊り下げた。そのあとで暗闇のなかからドラゴミラとヘンリカが歩み出て、燃えている石炭のなかで真っ赤に焼けている鉄の棒をつかんだ。
『私のこと、怒らないでね』。ドラゴミラが、ソルテュクの汗に濡れた額から髪をやさしく掻き上げながら言った。『これはどうしてもしなければならないことなのよ。劫罰の苦しみをこの世で味わわせてあげるの。この世ではその苦しみはほんのわずかなあいだしかつづかないわ。それによって永遠につづく地獄の責め苦から逃れられるのよ。愛しているから、私はあなたを苦しい目に遇わせるの。愛しているからいっそう大きな苦痛をあたえてあげるのです。真のキリスト教徒の卑下があなたの心に生まれるまでよ』。
ヘンリカが、いつもはたいそう穏やかで夢見るようなその瞳に、今は悪魔のような喜びの色を浮かべながら、まず一度鉄棒で突いた。ついでドラゴミラの持っている鉄棒がジューという音を立てた。
こんな恐ろしい拷問にも、まだソルテュクの誇りは持ちこたえた。しかし、それももはや長くはつづかなかった。これほどまでに残酷な拷問を受けて、ついにソルテュクの胸の奥から嘆息が漏れ、それがやがて呻き声になり、最後に彼はとうとう大声でわめきだした」(マゾッホ「魂を漁る女・P.504~505」中公文庫)
残酷だろうか。しかし残酷さにもかかわらず、ドラゴミラらの土着の異端派はロマノフ王朝による帝国主義的資本主義に完敗した。ドラゴミラらの土着の異端派は当時ロシア・東欧各地に点在していた。ロマノフ家率いる帝国主義的資本主義国軍によって彼ら彼女らは次々と殲滅されていった。潰されそうになればなるほど異端派は過激化していった記録が残っている。そしてますます「生」への本当の憧れ、残された自然との融合を自分自身の身体で感じ取る戦慄的快楽を讃仰するようになったのである。異端派を駆逐したロマノフ王朝は、それから数十年のうちに今度はレーニン率いるボリシェヴィキによって抹殺されることになる。が、それはまた後日談だ。
次の文章はことのほか繊細におもえる。生とは一体なんなのか。生が喜びに震えるとき、それはいつも同じとはまったく限らない。そして生は喜びに震えれば震えるほど、その震えじたいからさらなる生のエネルギーを獲得する。戦慄とは何か。それは或る種の音楽のようなものだ。
「ドラゴミラは、ほんの少し前まではいっしょに幸福の限りなく甘い夢を見ていた男が、このように卑しめられ虐げられるのを見たとき、かすかに身震いした。とはいえ、憐れみが彼女の心を動かしたからではない。不可思議な刺激が神経の隅々まで走ったからだった。それは半ば歓喜であり、半ば戦慄であった。そしてこの感情がどこまでも人間を超越したものだったので、ソルテュクがふたたび牢獄に連れて行かれたあと、今度は彼女自身がアポストルの前にひざまずき、その足にキスした」(マゾッホ「魂を漁る女・P.508」中公文庫)
おそらくドラゴミラは自分が女性という身体に閉じ込められていることを知ったときから、この世が暗黒世界に見えるようになったのだ。このことはドラゴミラがたとえ男性であったとしても同じだったろう。身体への閉じ込めと身体を通してしか得られない快楽、というパラドクス。
「『時間なのか』ソルテュクが尋ねた。しばしの時が流れていた。
ドラゴミラはうなずいた。
『ひとつだけ約束してくれ』ふたたび彼女の足元にひざまずきながら、ソルテュクが頼んだ。『私をほかの者の手に渡さないでくれ。君の手で生け贄として殺すんだ』『約束しますわ』一種凶暴な気分に酔いしれて、ドラゴミラは答えた。『ほかにも約束することがあります。私はまだ使命を果たし終えていません。残りを完全にやり遂げたら、それはほんの二、三日で済むと思いますが、そうしたら私もあなたのあとを追います』『死ぬつもりなのか』『ええ。この悲惨と罪悪の世界を離れて光のなかへと昇って行くことに、私は憧れているのです。あなたは先にいらしてね。私はあとから行きます』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.524~525」中公文庫)
もう一度、供儀のエコノミーという主題について。物語の始めのほうに戻ってみる。こんな会話がある。
「『それで君は、生け贄と女祭司のどっちなんだい』
『両方かも知れないわ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.33」中公文庫)
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
各瞬間において唯一のものを生きるということ。常に運動=進行として生き抜くということ。昨今の日本で果たして誰にそれができているといえるだろうか。そもそもできるのだろうか。いつも「よらば大樹」という愚劣なイデオロギーにほとんど染まりきってしまっている日本国民に。ロマノフ王家とすべての銀行と全体主義的キリスト教会網という強大な権力機構としてロシア全土に聳え立つロシア正教会に対し、あえて「異端者」として自分の生を捧げることに決したドラゴミラはもういない。
BGM
続くセンテンスは、世界中で報告されているような、いわゆる「猟友会」の中にしばしば混じり込んでいるただ単なる「模倣的殺人鬼」の言動とはまったく違っている。ドラゴミラには人間と動物との区別はない。あるにしてもそのあいだには何の優劣も設けていない。むしろそのどちらともと常に生死を賭けつつ生き生きと生きていきたいと望んでいる。ドラゴミラはいわば「自然児」だ。彼女にとって異端派であることは、ロマノフ王家やすべての銀行と一緒になったロシア正教会とは正反対の、ごく自然な〔自然とともに自然として生きる〕信仰的態度が「生の哲学」へ登りつめていく過程であった。
「『私はこの事件にとても興味があるんです。あなたのお仕事、つまり警察の活動というのは、あらゆる狩りのなかで一番興奮させる究極の狩り、すなわち人間狩りだと思うのです。私、狩猟と聞くともうじっとしていられないほどですので、私が事件に興味をもつこともわかっていただけるのではないかしら。馬に乗って、グレイハウンドを連れて、草原(ステップ)を走りまわり、野兎やら狐やらを狩るのが、私にとって最高の楽しみなのです。でも、どんなにすばらしく、わくわくするでしょうね。人間の足跡を捜し、狩りたて、罠に追い込むのは。あなたが満喫していらっしゃるこの悪魔的な楽しみに、私もぜひ参加させていただきたいわ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.382」中公文庫)
次の言葉はドストエフスキーが長編で問うている問いに近い。
「『ええ、そのとおりよ』。ドラゴミラは銃に新しい弾を込めながら答えた。『私が思うには、どんな人間にも神のようなところと悪魔のようなところとがあるのです。そのために私たちは、殺すことと滅ぼすことにも、何かを生み出すのとまったくおなじように、快感をおぼえるのよ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.413」中公文庫)
ドラゴミラはいう。「私は並の女ではありません。並の女は愛を求め、願いが妨げられると復讐心を燃やし、あらゆる手段を弄しますが、私は違」う、と。異端者として振舞っているのも、他の政治的宗教的社会的集団とはまったく異なる立場からであることがわかる。なかでも政治からはもっとも遠くに位置している。政治的なものを最劣等のものとして考えている。供犠は儀式の中の道具に過ぎない。そしてこの供犠はマゾヒズムのエコノミーにしたがって取り扱われる。以下、長い引用だが「時間の無駄」を省こうとするドラゴミラの言葉は、十九世紀東欧のキエフ周辺を舞台としていながらも、どこか意外なほど現代的でさえある。
「『あんたは復讐したいんだ。そうだろう』。タライェヴィッチが言い返した。
『私は並の女ではありません。並の女は愛を求め、願いが妨げられると復讐心を燃やし、あらゆる手段を弄しますが、私は違います。私は祭司であり全能の神に仕えているのです。なぜあなたは私の織り上げたもののなかに闖入(ちんにゅう)し、糸を切ったのですか。今やあなたはみずから私の網にかかったのです。私はあなたを生け贄にします。と言っても復讐するためではなく、もっぱら地上で罰することによって永遠の苦しみから救うためです。あなたは今日のうちにも死ぬでしょう』。
『助けてくれ!お情けを!』膝をつき、両手を挙げて、タライェヴィッチは哀願した。
ドラゴミラはそれにたいして、『立ちなさい』、と言った。『ついて来るのよ。あなたを待っている祭司に罪を悔いる告白をし、みずからを生け贄にすることによって、その罪を購いなさい』。
『おれのまわりにいる人間は、みんな頭がどうかしたのか』。タライェヴィッチはどなった。
『神の怒りを鎮めるつもりなら、私が示す道を選びなさい』。ドラゴミラはさらにつづけた。『あなたがどこまでも頑なで購うつもりがないなら、わたしがあなたの魂を救うことにします。そのときは力づくで祭壇の前へ引きずって行き、そこで生け贄にしてやります、かつてアブラハムがイサクを生け贄にしようとしたときのように』。
『いやだ、死にたくない』。わなわなと震えながら、タライェヴィッチはつぶやいた。『罪は贖うつもりだ。が、私の命を生け贄として捧げるのは嫌だ。そんなことを神が私に要求するはずがない。そんなのは狂気の沙汰だ』。
『まだあなたは自由です』、とドラゴミラが大声で言った。『選びなさい。永遠の光にいたる道はあなたの前に開けているのです』。
『いやだ、いやだ。おれは死にたくない』、とタライェヴィッチは叫んだ。
『では歩きなさい』、とドラゴミラが命令した。『もう時間を無駄にするわけにはいきません』。
カーロフが間髪入れず囚われの男に飛びかかり、信じられないほどの力で投げ飛ばすと、首筋を膝で押さえつけた。それで百姓女の服装をした二人の娘はいともたやすく震えている男を縛ることができた。両手両足を縛り上げると、彼女たちはタライェヴィッチを引きずって行き、ほかの者たちはそのあとからついて行った。着いたところは、松明があかあかと燃えている大広間で、祭司が待っていた。
不幸な男は祭司の前に横たえられた。祭司が訓戒の言葉を述べはじめたとき、彼はへりくだりと譲歩によってまだ自分の命を助けることができるのではないかという希望を抱いた。そこで申し分ない懺悔をして、そのあとで自分から、厳しい贖いと罰をあたえてくださいと言った。
『ではあたえよう』、と祭司は言った。『ドラゴミラ、そなたにまかせる』。
これを聞くとタライェヴィッチは、『あの女はやめてください』、懇願した。『あの女は私を殺してしまいます』。
『誰もおまえに危害は加えぬ』、とアポストルは答えた。『神ご自身に決めていただくのだ、おまえが彼方の世界に入る準備ができておるか、この世でさらに贖罪が必要かをな』。
ドラゴミラは百姓女の服装をした二人の娘に目配せした。すると二人はすぐさまタライェヴィッチのからだをつかみ、薄暗い通路を抜けて、もうひとつの大広間へ引っ立てて行った。そこは一方のは壁が頑丈な格子になっていた。娘たちがタライェヴィッチの縄を解いているあいだに、カーロフが格子の扉を開き、生け贄は四本の腕で完全な闇のなかへ押し込まれた。扉がふたたび閉められ、二本の松明が格子にくくりつけられた。その血のように赤い光のなかに、何頭もの美しい虎と豹の姿が浮かび上がった。大きな檻のなかのあちこちに腹這いになっていたのだ。
今やタライェヴィッチはその野獣たちの真ん中に立っていた。あの闘技場に引き出された古代ローマのキリスト教徒の殉教者のように、凶暴な獣たちはまだ静かにしていた。しかし、タライェヴィッチが大声で神の御名を呼び、慈悲を乞い始めると、獣たちはのっそりと立ち上がってしなやかな手足を伸ばし、不気味にらんらんと光る目を探るように彼に向けた。
『私、なかに入ります』。とドラゴミラがカーロフに言った。カーロフは引き留めようとしたが無駄だった。ドラゴミラは扉を開けさせ、片手にピストルを、もう一方の手に針金の鞭をもって、野獣たちの真ん中へと入っていった。そして、『眠っていないので、目を覚ますのよ、この獣たちめ。さあ立って、つとめを果たしなさい』、と力強い声で命令するなり、野獣たちの上に力いっぱい鞭を振り下ろした。最初野獣たちは恐れをなして後ずさりしたが、すぐに牙をむき、尾を丸め、しわがれた短い唸り声を挙げた。ドラゴミラはふたたび大きな虎を目がけて鞭を振った。虎の方はしかし、彼女に飛びかかるのではなく、王者のようなその目を恐れて、臆病な奴隷のように格子の方へ逃げ、それから、タライェヴィッチに襲いかかった。身の毛もよだつ悲鳴が挙がった。つづいてほかの野獣たちが虎を真似た。地面の上に広がった湯気の立つ血の池のなか、そのからだはずたずたになって転がり、人間の悲鳴と虎や豹の怒り狂った唸り声とが交り合った。その間もドラゴミラは、黒いビロードと毛皮の足首まで届く外套姿で、ピストルを手にして、復讐の女神さながらにそこに立っていた」(マゾッホ「魂を漁る女・P.438~441」中公文庫)
愛というものの過酷な真相が語られる。近代化されていない「生身の人間」の究極の愛とは何か。
「『本当にあなたとおなじですよ、ドラゴミラ』、と伯爵は繰り返した。『こんな滑稽な喜劇を演じるのはもうよしましょう。今では、あなたが私のことを知っているのとおなじように、私もあなたという人間を知っています。私とおなじように素直になってください。私とおなじくあなたのなかにも、暴君ネロの気質が、巨人(ティターン)のような衝動が、ひそんでいるのです。支配したい、屈服させたい、人間の首筋を踏みつけてやりたい、逆らう者は滅ぼしてやりたい、という衝動です。私たちの心臓はどちらも大理石でできているのです。ですから、正直に言うなら、あなたと同様に私も、愛することはできません。私があなたに愛の宣言をすることはありません、私があなたに感じているのは愛以上のものです。讃仰、血族、あるいは魂の和合、何と呼んでみても、私があなたに感じるものを言いあらわす言葉にはなりません。私はあなたのなかにおなじ血の流れている同志を発見したのです。私とおなじく神と世界に反逆する力をもつ天性を、永遠の復讐者の雷光に撃たれることを恐れずに手を天の星まで伸ばす天性を、見いだしたのです』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.451」中公文庫)
ところがそれもまた愛ではあってもその一つでしかない。「征服するか征服されるか」という闘争のうちに愛は閃光する。なお、A(征服する側)とB(征服される側)とに区別された両者が一連の闘争を通してさらに上位の次元へ上昇していく二元論的弁証法の読解については、ヘーゲル「精神現象学」を参照するのが最適。マゾッホが「啓蒙家」だったことを想起したい。ヘーゲルから啓蒙に関する部分を引いておこう。
「両者が本質的には同じものであり、純粋透見の信仰に対する関係も同じ場〔境位〕によって、同じ場〔境位〕において起る、というこの側面から言えば、透見の伝達は《直接的》なものであり、透見が与えたり受けとったりすることも、邪魔されずに流入し合うことになる。さらにそのほか、意識のなかにどんな杙(くい)が打ちこまれようとも、意識は《自体的》には単一なものであり、ここではすべてのものが解体され、忘れられ、拘束されないので、概念が端的に受けとられうるわけである。それゆえ純粋透見の伝達は、抵抗のない雰囲気のなかで、靄が静かに拡がり《流れて行く》のと比較できよう。この伝達は、伝染が侵入して行くようなもので、この無関心な場〔境位〕にこっそりと伝染して行っても、これまでは、反対のものだとは気づかれなかったので、防ぐこともできなかったのである。伝染が拡まったときになって初めて、それを気にも止めないで放っておいた《意識》は、それと《気がつく》ようになる。というのは、意識が自分に受けいれたものは、なるほどそれ自身でも意識にとっても、同一な単一なものであったけれども、同時に、自己に帰った《否定性》のもつ単一態であった。これは、後になると、その本性から言って、自分の反対としても展開し、そのため意識に、以前の姿を想い起させる。この単一態は、単一な知であるような概念であるが、この知は自己自身と自分の反対とを、同時に、知っている、けれどもこの反対が、自分のなかで廃棄されたものであることも、知っている。それゆえ、意識が純粋透見に気づいたときには、もう透見はひろまってしまっている。だから、透見と戦うことは、伝染がすでに起ってしまっていることを、もらしていることになる。戦いは遅すぎるのだ。どんな薬もこの病気を悪くするだけである。というのも、この病気は、精神的生命の骨の髄を、つまりその概念における意識を、その純粋本質そのものを、犯してしまっているからである。だからまた意識には、病気に打ち克つ力が何もないわけである。病気は、本質自身のなかに在るのだから、病気が一つ一つばらばらに現われてくるのは、圧えられるし、表に出た徴候はぼかされもする。これは、純粋透見から見れば一番都合のいいことである。なぜならば、そのとき透見は、必要もないのに力を浪費するわけでもないし、自分の本質にふさわしくない態度を、とることもないからである。つまりそれは、透見が徴候の形で、個々の発疹の形で、信仰の内容にさからい、信仰の外面的現実の連関にさからって、噴き出てくる場合のことである。ところが、透見は、眼には見えないし、気もつかれない精神であるから、意識されていない偶像の急所、急所をことごとくそっと通りぬけ、やがて内蔵や四肢のどれもこれもを、すっかり占領してしまう。そして『《ある晴れた朝》、透見はその仲間を肱でおしのける、するとがらがらと音をたてて、偶像は地に倒れてしまう』。ーーー《よく晴れた朝》というのは、昼になれば、伝染が精神的生命の全器官にしみ通ってしまうので、血は流れないからである。そのときには、思い出だけが、どういうふうにしてかはわからないが、消え去った歴史として、精神のかつての形態の、死んでしまった姿を、記憶に止めるわけである。こういうふうに、皺のよった皮を、痛みを感じもしないでぬぎ捨てて、知恵の蛇が新しい崇拝の対象に昇せられることになる。
だがこうして精神は、その実体の単一な内面において、その活動を隠したままで、沈黙のうちに機(はた)を織り続けるが、これは、純粋透見を実現する一つの側面にすぎないのである。透見の普及は、等しいものが等しいものと一緒になる点にだけ、在るのではない。それを実現することは、ただ単に対立もなしに拡げて行くことだけではない。そうではなく、否定的存在の行為も、やはり本質的には、自らのなかで自分を区別する運動が、展開したものであり、この運動は、意識的な行為であるから、そのいくつかの契機を、あらわれた一定の定在の形で掲げ、かしましい音をたて、対立したものそのものと、暴力的な戦いを挑まざるをえないのである。
それゆえ、《純粋透見》と《意図》とが、自分の前にあって自分に対立する他者に対し、どういう《否定的な》態度をとるかを、見なければならない。ーーーだが純粋透見と意図は、その概念が全実在であり、その外には何もないのであるから、否定的な態度をとるにしても、自己自身を否定するものでしかありえない。だからそれは透見として、純粋透見を否定するものとなる。純粋透見は非真理となり非理性となる。透見が意図となるときには、純粋意図を否定することになり、いつわりとなり、不純な目的となるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.133~136」平凡社ライブラリー)
またこの対立的構造を「見る側」(断定する側)と「見られる側」(断定される側)との関係に置き換えて述べたサルトル「存在と無」も大変参考になるに違いない。しかしここではとりあえず次に行きたい。
「彼女は彼を征服したいと思い、征服せずにはいられなかった。彼の妻になりたい、彼とともに罪を犯し、死にたい、と思った。しかしまずは伯爵を死の手に引き渡さねばならない」(マゾッホ「魂を漁る女・P.468」中公文庫)
ところで、「宗教的正気」とは一体何か。宗教の世界では「正気」に戻ろうとすると「正気」とは何かという問いに必ず出会う。キリスト教に限らず宗教はいつもこの種の問いにかかわっていかねばならないという永遠に終わらない自縛に囚われ続けていくほかない。しかしまったく何も考えないよりは、少しでも考えることにしたほうが次善の策だということはわかっている。三十ページほど読み進めると「真のキリスト教徒の卑下」という言葉が出てくる。人間の心など神の前の子羊の心情に過ぎない、というくらいの意味なのだが。しかしこの教義は或る種の特定の宗教の信者を一挙に狂信者化しファシスト化してしまう途方もなく危険な力を持つ。ドラゴミラは異端者の立場から宗教的教義が本来的に持つ底なしの怖さを大真面目な風貌を装いつつ逆に諧謔(パロディ)として用いてもいる点に着目しておきたい。しかしなぜマゾッホはキリスト教のパロディをこうも豪快にやってのけようと試みたのか。「卑下」という言葉にそのヒントがある。「卑下」はこの場合「自己卑下」以外に解釈のしようがない。そしてまた「自己卑下」は「自己弱化」=「自己病気化」することのほか何も意味してはいない。マゾッホの同時代人にニーチェがいることを忘れてはならない。
「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)
さらにフーコーによる補足が必要だろう。キリスト教徒に求められる「告白」とは何か。それはどのようなシステムに基づいて機能し、実際にはどのようなことを目指しているのか。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
こうしてキリスト教は「告白」という手法を利用して、ありもしない罪を出現させる。ありもしない罪を出現させ、それを根拠に罰の意識を叩き込む。人間は圧倒的優位な立場に立つ他の人間から「それを直視せよ」と命じられてしまうと、それまでは何も存在していなかった場所にさしあたり内面という言語的形式を作り出す。そしてそこに何か罪のようなもの(言語あるいは映像的言語様式)が出現して見えてくるという珍現象に襲われ包囲されてしまう危険な傾向を持っている。追い詰められた人間の精神はこのようにして「死の本能」へと急傾斜する。キリスト教の告白装置はまさしくそのような人間の遠近法的錯覚を利用した「罪と罰」の量産装置として機能してきた。日本では刑法における「自白」が有名だ。昨今ようやく「自白」に基づく捜査に対する疑問について、その欺瞞性が今まで以上に深く疑われるようになってきた。取り調べが可視化されていない以上、現今では「自白」には根拠などまったくないとしか言えない。動かしようのない物的証拠とそれに準ずる犯行意図の言語形式化された供述書が出てこない限り被告人はいつ釈放されてもよい。
少し余談になる。芸能人の薬物使用疑惑とテレビ・マスコミの共犯性。朝から晩まで各テレビ局は一芸能人のコカイン使用疑惑について延々と番組を流し続けていた。その間に何が起こっていただろうか。日本の首相にかけられている嫌疑(モリカケ問題)がものの見事に国民の目から隠蔽されてしまった。なぜこのタイミングだったのだろうか。件の芸能人を逮捕したのは警視庁である。なぜ「モリカケ問題」がまさに国会で追求されようとしているこのタイミングで、いきなり一芸能人のコカイン使用疑惑を大々的に発表し、また同時に、それを受けたテレビ・マスコミ各局は一斉に薬物疑惑のほうへばかり殺到することにしたのか。この一連の行為に「忖度」はあったのか。前に述べたように「忖度」は「以心伝心」という言語化不可能な過程の有無が焦点ともなるので「忖度」云々は言語的指示がない以上、問題とするには難がある。あるいはテレビ・マスコミ各局が「モリカケ問題」を放置し逆に薬物問題に関して一斉に同じ態度を取ることで事態の真相を反語的に伝えようとしたのかもしれないが。いずれにせよ、「モリカケ問題」関係者も警察もテレビ・マスコミも一様に頭から離れ去ってしまっている事情がありはしないだろうか。あるとすればそれは何か。社会的問題というものは、それが或る程度「成長する」ものでもあるということ、そしてまた成長したのちに、或る種の別のものへと「転化」し終わってからでしか歴史の表舞台から消えていくことはないというのっぴきならない消息である。
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.246~247」岩波文庫)
「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・P.248~249」岩波文庫)
さて、教義の名において迫られた「告白」。それこそ犯罪というものではないだろうか。そして国家=資本と合体した世界最大の宗教は今や世界最大の権力意志を現実のものとして集結させようとしている。ところが皮肉にも、トランプ米大統領という怪人の出現により、キリスト教は弱者を救うための宗教ではもともとないのではないかという疑問が世界中を駆け巡るようになった。かといって中国のような一党独裁などまっぴらだと世界はおもっている。問いが問いを呼ぶという問いの過剰と情報過剰が、そもそもIT社会を仕掛けた仕掛け人たち自身と会社そのものとその社員・家族らの生死をも左右するようになってきた。政財官界ならびに宗教界はいつも自分で自分自身たちのみが世界の最先端を行っているという幻想に囚われている。だから勇み足という傲慢不遜な態度からいっこうに抜けきれない。しかしその失敗のつけはいつも納税者・一般国民の側に回されてくるのだ。この理不尽の行方はもうすでにフランスなどでは噴出している。ーーー余談終了。
「男たちはソルテュクの両手を頭上で縛って、天井に取りつけてあった鉄の輪に吊り下げた。そのあとで暗闇のなかからドラゴミラとヘンリカが歩み出て、燃えている石炭のなかで真っ赤に焼けている鉄の棒をつかんだ。
『私のこと、怒らないでね』。ドラゴミラが、ソルテュクの汗に濡れた額から髪をやさしく掻き上げながら言った。『これはどうしてもしなければならないことなのよ。劫罰の苦しみをこの世で味わわせてあげるの。この世ではその苦しみはほんのわずかなあいだしかつづかないわ。それによって永遠につづく地獄の責め苦から逃れられるのよ。愛しているから、私はあなたを苦しい目に遇わせるの。愛しているからいっそう大きな苦痛をあたえてあげるのです。真のキリスト教徒の卑下があなたの心に生まれるまでよ』。
ヘンリカが、いつもはたいそう穏やかで夢見るようなその瞳に、今は悪魔のような喜びの色を浮かべながら、まず一度鉄棒で突いた。ついでドラゴミラの持っている鉄棒がジューという音を立てた。
こんな恐ろしい拷問にも、まだソルテュクの誇りは持ちこたえた。しかし、それももはや長くはつづかなかった。これほどまでに残酷な拷問を受けて、ついにソルテュクの胸の奥から嘆息が漏れ、それがやがて呻き声になり、最後に彼はとうとう大声でわめきだした」(マゾッホ「魂を漁る女・P.504~505」中公文庫)
残酷だろうか。しかし残酷さにもかかわらず、ドラゴミラらの土着の異端派はロマノフ王朝による帝国主義的資本主義に完敗した。ドラゴミラらの土着の異端派は当時ロシア・東欧各地に点在していた。ロマノフ家率いる帝国主義的資本主義国軍によって彼ら彼女らは次々と殲滅されていった。潰されそうになればなるほど異端派は過激化していった記録が残っている。そしてますます「生」への本当の憧れ、残された自然との融合を自分自身の身体で感じ取る戦慄的快楽を讃仰するようになったのである。異端派を駆逐したロマノフ王朝は、それから数十年のうちに今度はレーニン率いるボリシェヴィキによって抹殺されることになる。が、それはまた後日談だ。
次の文章はことのほか繊細におもえる。生とは一体なんなのか。生が喜びに震えるとき、それはいつも同じとはまったく限らない。そして生は喜びに震えれば震えるほど、その震えじたいからさらなる生のエネルギーを獲得する。戦慄とは何か。それは或る種の音楽のようなものだ。
「ドラゴミラは、ほんの少し前まではいっしょに幸福の限りなく甘い夢を見ていた男が、このように卑しめられ虐げられるのを見たとき、かすかに身震いした。とはいえ、憐れみが彼女の心を動かしたからではない。不可思議な刺激が神経の隅々まで走ったからだった。それは半ば歓喜であり、半ば戦慄であった。そしてこの感情がどこまでも人間を超越したものだったので、ソルテュクがふたたび牢獄に連れて行かれたあと、今度は彼女自身がアポストルの前にひざまずき、その足にキスした」(マゾッホ「魂を漁る女・P.508」中公文庫)
おそらくドラゴミラは自分が女性という身体に閉じ込められていることを知ったときから、この世が暗黒世界に見えるようになったのだ。このことはドラゴミラがたとえ男性であったとしても同じだったろう。身体への閉じ込めと身体を通してしか得られない快楽、というパラドクス。
「『時間なのか』ソルテュクが尋ねた。しばしの時が流れていた。
ドラゴミラはうなずいた。
『ひとつだけ約束してくれ』ふたたび彼女の足元にひざまずきながら、ソルテュクが頼んだ。『私をほかの者の手に渡さないでくれ。君の手で生け贄として殺すんだ』『約束しますわ』一種凶暴な気分に酔いしれて、ドラゴミラは答えた。『ほかにも約束することがあります。私はまだ使命を果たし終えていません。残りを完全にやり遂げたら、それはほんの二、三日で済むと思いますが、そうしたら私もあなたのあとを追います』『死ぬつもりなのか』『ええ。この悲惨と罪悪の世界を離れて光のなかへと昇って行くことに、私は憧れているのです。あなたは先にいらしてね。私はあとから行きます』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.524~525」中公文庫)
もう一度、供儀のエコノミーという主題について。物語の始めのほうに戻ってみる。こんな会話がある。
「『それで君は、生け贄と女祭司のどっちなんだい』
『両方かも知れないわ』」(マゾッホ「魂を漁る女・P.33」中公文庫)
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
各瞬間において唯一のものを生きるということ。常に運動=進行として生き抜くということ。昨今の日本で果たして誰にそれができているといえるだろうか。そもそもできるのだろうか。いつも「よらば大樹」という愚劣なイデオロギーにほとんど染まりきってしまっている日本国民に。ロマノフ王家とすべての銀行と全体主義的キリスト教会網という強大な権力機構としてロシア全土に聳え立つロシア正教会に対し、あえて「異端者」として自分の生を捧げることに決したドラゴミラはもういない。
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