白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

道元と煩悩のパラドクス

2019年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
煩悩はまず何より言語という形を取って問いかけられる。そして煩悩に関する問いは即座にパラドクスに陥る。

「煩悩を断除すれば重ねて病(やまい)を増す。ーーー病を断ち除こうとするまさにその時、その智の作用は煩悩である。このように断除と煩悩とは同時であり、また同時でない。煩悩とはかならずそれを除こうとする煩悩を伴っている」(道元「現代語訳 正法眼蔵1・第一四・空華・P.243~244」河出文庫)

ニーチェはそのようなパラドクスについて思考し、次のようなアフォリズム形式で、大変多くの言葉を残している。ランダムに拾っていこうとおもう。

「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)

思考するためには思考するための道具が必要だ。それは言語なのだが、その言語にしてからが、始めから疑わしいとニーチェはいう。というのは、人間は差し当たって持ち合わせている言語で、そしてその限りにおいてしか、何ものをも思考することはできないから、という理由による。

「《われわれの心に浮かんでいる言葉》ーーーわれわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たないのである」(ニーチェ「曙光・二五七・P.279」ちくま学芸文庫)

人間の認識にとってのパラドクスは人間自身とその言語とである、ということ。また、無意識的な隠蔽行為というのは、それが本当に無意識的に行われるような場合、次のような状況下で発生する。

「《人間と物》。ーーーなぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである」(ニーチェ「曙光・四三八・P.372」ちくま学芸文庫)

原因と結果の転倒について。

「《原因と結果》。ーーーひとは、結果以前には、結果以後のとは別な原因を信じているものだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二一七・P.265」ちくま学芸文庫)

だから失敗はいつも成功に同伴している。さらにいえば、成功《と》失敗のあいだには或る種の裂け目がある。たとえば、或る質問に対して或る答えが与えられるとき、質問する側も答える側も同時にこの種の錯覚に陥っていなければ不可能なコミュニケーションというものが存在する。そしてコミュニケーションとは常にそのような両者の共犯関係という連関を取って互いが互いを支え合っていて始めて成り立つ。

「彼は、おのれの深淵に用心するように警告されたが《ゆえに》、おのれの深淵のうちへと走り込む」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七九二・P.462」ちくま学芸文庫)

実をいえば、「煩悩」に注意せよと「警告され」るや否や、人々はまさしくおのれの「煩悩」の「うちへと走り込む」のだ。そのとき始めて、そして瞬時に、そこに新しい「煩悩」が発生する。

人間はたった一人でいるときと複数でいるときとは、また別種の人間であることが少なくない、ということ。危険を伴う。可能性もまた伴う。

「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八二五・P.470」ちくま学芸文庫)

次のセンテンスは道元が最初にいっている煩悩のパラドクスと大変よく似た構造について述べられたもの。

「賢者たちの危険は、愚行に夢中になることだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一四八・P.95」ちくま学芸文庫)

ところで、哲学者は、自分自身の認識能力に疑問を持つところまで達することはできた。が、疑うほかないという事実を理解したはずの理性が再び自分自身の認識能力を持ち出してきて、さらに今度も「認識論への意志」を開始するのはいかにも「喜劇的」だと述べる。

「私たちの哲学者たちが、哲学は《認識能力》のなんらかの批判を開始しなくてはならないと要求しているのは、ほとんど喜劇的である。認識のこれまでの諸成果に関して不信の念がいだかれたのなら、認識の機関がおのれ自身を『批判する』ことができるなどということは、きわめてありそうにもないことではなかろうか?哲学を『認識論への意志』に《還元すること》は、喜劇的である。あたかもそうすれば《確実さ》が見いだされうるかのように!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一七一・P.101」ちくま学芸文庫)

次に、人間の失策と自然の非-失策性との比較。

「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)

もはや笑うしかない、というほかない。それでも人間は真剣であり、そしてその真剣さは時として余りにも可憐である。ところが、その真剣さには何かが欠けている。規則・文法レベルという根本的次元から根こそぎ疑問に伏してみるという厳格さが欠けている。規則・文法による世界の支配。そのことで成り立っている「規則・文法による安全保障」という共犯的態度から脱却することができていない。真面目で可憐ではあるが余りにも弱過ぎる。その弱さを逆に「規則・文法による安全保障」という共犯的態度はすっぽり覆い隠してしまう。この種の真面目さは実にしばしば安直極まりない「思い込み」への底なしのはまり込みへ誘惑されていくばかりなのだ。次のように。

「私たちは一つの《名称》』を考案すると、その名称に何か《新しいもの》が対応すると思い込む」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八二六・P.414」ちくま学芸文庫)

そしてそこに意味内容など何らなかったとしても、人々は、そこに何かきっと《名称》に対応する妥当な《新しいもの》があるに違いないと思い込んで探し求める。そしてずっと探し求め続ける。何もなくても、である。

しかし、煩悩について何か語ろうとするとき、人々はどのように語ることができるだろうか。なるほど、いかようにも語ることはできる。だがその語りあるいは対話を本当に意義あるものにしようとして、人間は、時々凄まじい深みにまではまり込んでしまう。その覚悟はあるだろうか。あるとしよう。そうであるなら、どのような事例が適切なものとして上げられるだろうか。たとえばドストエフスキーは次のような場面を設定して語った。あえて例えるなら「知識と身体の弁証法」とでも呼んでみたい場面だ。

「お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起し、お前とたたかって、勝利をおさめる。そして人間どもはみな、《この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!》と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡智と科学との口をかりて、《犯罪はないし、したがって罪もない。あるのは飢えた者だけだ》と公言するようになるだろう。《食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!》お前に向ってひるがえす旗にはこんな文句が書かれ、その旗でお前の教会は破壊されるのだ。お前の教会の跡には新しい建物が作られる。ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえるのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.486」新潮文庫)

「なぜなら、食を与える者こそ塔を完成できるのだし、食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ。お前のためにな。いや、お前のためにと、われわれは嘘をつくのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.487」新潮文庫)

「もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか?かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる?それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか?」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.487」新潮文庫)

「パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンよりも明白なものはないからな。しかし、その一方、もしだれかがお前に関係なく人間の良心を支配したなら、そう、そのときには人間はお前のパンすら投げ棄てて、自己の良心をくすぐってくれる者についてゆくことだろう。この点ではお前は正しかった。なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか!それともお前は、人間にとっては安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを忘れてしまったのか?人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれども、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧(あいまい)なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.489~490」新潮文庫)

「人間は奇蹟をしりぞけるやいなや、ただちに神をもしりぞけてしまうことを、お前は知らなかった。なぜなら、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めているからなのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.491~492」新潮文庫)

「誓ってもいい。人間というのはお前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・上・P.492」新潮文庫)

どちらが正しいとか正しくないとかいう価値観を基準にして測れるものではない。むしろ逆に各々の個人が持っている様々な諸価値をいつも疑問に伏してしまうような叙述なのだ。二つに分裂した煩悩があるのではない。ただ瞬間瞬間に変容=変態していく欲望の脱コード化の流れだけがあるのだ。

「いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、(他の機械を動かし、他の機械に動かされる)機械の機械なのである。<源泉機械>には、<器官機械>がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る)を決めかねているのだ。だから、ひとはすべて何でも器用にこなす存在なのである。各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があることは、常に流れと切断とがあることである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.13」河出書房新社)

BGM