認識できるものなら何でも認識してきたしこれからも認識し続けていけるに違いないと錯覚しながら生きていくことはいつも「幸せ」なことなのだろうか。それとも「いつも」そうとは限らないのだろうか。もちろん「いつも」そうとは限らない。錯覚によってしか構成されない世界の中で生を終えるということは。だからといって、しかし、「生そのもの」の認識を適時適切に「現行犯」で捉えるということは果たして可能なことなのか。つかむことはできるかもしれない。だがつかんだと思い、その手を広げてみるともうそこには何もない。一陣の風が吹き抜けていく感覚ばかりを後に残して。認識の限界としてはその地点が決定的だ。ところが少なくともその困難に挑んだ小説家は何人かいたーーー。
「私たちがここで関わっているのは、《物》ではなく、《進行》なのだ」(ベルクソン「時間と自由・P.134」岩波文庫)
常に既に「進行」しているものを「現行犯」で捉える。さしあたり言語を用いるほかない。
「ヘレンはもう一度レイチェルに目をやった。ああ、やはり確かだ!心は揺れ動き、感情的で、何か話しかけたところでその効果は、水の表面を棒で突っつくようなもので長続きしないだろう。若い女の子はまったく掴みどころがないーーー確実さ、永続性に欠け、手ごたえがない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.25」岩波文庫)
ウルフの「船出」。この小説をただ単なる成長物語、それも挫折した悲劇的ロマンとして捉えるばかりでは今後も何らアクチュアルな読みをもたらさないだろう。ウルフが女性の精神的自立を提唱したことは有名だしまた小説家として成功したほうだというのも事実だろう。しかしドゥルーズ&ガタリが画家パウル・クレーを引用して借りてきた言葉をさらに借りるとすれば、ウルフ「船出」にとって、そのための「民衆」がいない。簡単にいえば読者がいないという程度の話なのだが。絵画と違って小説は持続を要する。これといった大事件が勃発するわけでもない。エンターテイメントのように絶えず読者を興奮のるつぼに叩き込みまくるというわけでもない。地味といえばそうだというしかない。しかしそもそも純文学とはそういうものだ。しかもいわゆる古典に属する。そう考えただけでも何だか退屈そうな気配が漂ってくる。にもかかわらず、それがわかっていてなおかつ最後まで読む読者がいるのはなぜなのか。ほんの一握りに過ぎないとはいえ、なぜ「船出」を読む人々がいるのか。「ダロウェイ夫人」で大胆に見せた「分身」というテーマ。そしてなぜ「分身」でなくてはならないのかという問い。ウルフ独特の死生観。それらは事実上のデビュー作「船出」において既によく見られる。といってみても関心のない人々は関心がない。先へ進もう。なお、前提として「船出」は、先に移動というテーマが先取りされていることを頭に入れておきたい。イギリスからブラジルの川沿いの街へ移動するところから始まる。イギリス=規則的脱コード化。移動=脱コード化・解体。南米の街=非規則的脱コード化。と、考えておこう。それにしても、もうすでにレイチェルの分身は始まっている。
彼女は「揺れ動き」「効果は」「表面を棒で突っつくようなもので長続きしない」「掴みどころがない」「確実さ、永続性に欠け」「手ごたえがない」。ヘレンにとってレイチェルは早くも「水」の本性を露わにしている。ところがレイチェルにとってヘレン(伯母)たちの「暮らし方全体」はもっと奇妙なものに見えるのだ。ヘレンたち「自体」が「理由もなくあちこちに置き捨てにされた椅子や傘のように」見えるとレイチェルはおもう。
「なんておかしいんでしょう!なんともいえないくらいおかしいわ!だがわからなかった、なぜ伯母が話している時に、突然伯母たちの暮らし方全体が、まったく見慣れない、説明のつかないものとして目の前に現れるのか、伯母たち自体が、理由もなくあちこちに置き捨てにされた椅子や傘のように見えるのか」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.51」岩波文庫)
しかしレイチェルは変わり者でもある。ただ単に「若い」というだけで年長者から見て理解できない部分を持つというよくあるケースとはまた異なっている。だからこそ主人公に抜擢されているわけだが。少なくとも二十世紀初頭の文学には主人公というものが存在できたことは確かだ。探してみれば実在するレイチェルのような女性を見つけることも可能だった。それはそうと登場人物としてのレイチェルは文学よりも絵画よりも音楽に芸術的特権性を見出す性質である。
「誰も本当に思っていることは口にしないし、感じたことを語らないらしい、しかしそういうことのためにこそ、音楽はあるのだ。現実は見るもの感じさせるもの、しかし語りはしないものの中にあるのだから、ほかの人たちを満足させる形でそこらじゅうに展開している物事の体系を、うわべは変だと感じることがあっても、あれこれ考えることもなく受け入れることができる。こうして彼女は自分の音楽に熱中し、定められた境遇を満足して受け入れ、二週間に一度くらいは激しく憤ることがあっても、いまそうであるように心が静まるのだった。夢のような混迷の中に、ほどけ難く巻き込まれた彼女の魂は、霊的な交わりに入り、喜びと共に広がり、白みがかった甲板の霊とも、海の霊とも、ベートーヴェンの作品百十一番の霊とも、さらにはオールニーの哀れなウィリアム・クーパー(詩人)の霊とさえも結ばれるように思われた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.53」岩波文庫)
「霊的な交わり」とある。いわゆる超常現象とは何の関係もない。キリスト教国ではこういう言い方をするというくらいのものであり、あえてたとえるとすれば「ベートーベンの精神」「海の神=ポセイドン」「ウィリアム・クーパー(詩人)の陶酔」といった感じか。
「ダロウェイ夫人が席を立つところだった。『あたくし、信仰はカブト虫の採集に似ているっていつも思ってますの』と夫人はヘレンと階段を上りながら、今までの話をまとめようとしていた。『黒いカブト虫に夢中の人もいれば、そうでない人もいる。それを議論しても無駄ですわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.91」岩波文庫)
ここで登場している「ダロウェイ夫人」は後の作品「ダロウェイ夫人」の主人公クラリッサ・ダロウェイである。この作品については先日述べたのでここでは省略したい。ただ、「信仰はカブト虫の採集に似ている」と思っており「議論しても無駄」とする考え方はなるほどとおもわせる。宗教的信条はどこの国へ行っても頑固であり要するに「セクト主義的」なものになってしまうと考えている。実際、「ダロウェイ夫人」でクラリッサはキリスト教の教義をめちゃくちゃに罵っている。女性の精神的自立を目指したウルフにとってキリスト教の教義は逆に女性を家庭内に縛り付けるだけでなく「母性」というものを持ち出してきて何かにつけて男尊女卑的社会の再生産を促進するものでしかなかった。
「話はとぎれたが、レイチェルは話すことがないから黙っていたのではなかった。例によって言いたいことが言えず、話せる時間がおそらくもうあまりないことでいっそう困惑していた。愚かな混乱した考えに取り付かれていたーーーそうだ、もしもはるか昔まで戻れば、何もかもお互いに理解でき、何もかもがお互いに共通するのかもしれない、リッチモンド大通りの原っぱで草を食んでいたマンモスたちが、敷石とリボンがいっぱいの箱と伯母たちに変わってしまったのだ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.112」岩波文庫)
ここでのレイチェルは幻想を満開にして楽しんでいる。歴史を遡及するとすれば「リッチモンド大通りの原っぱで草を食んでいたマンモスたち」と「敷石とリボンがいっぱいの箱と伯母たち」とは交換可能である。両者は等価だ。しかしなぜレイチェルはそう思いたがるのか。彼女は争いが嫌いなのだ。闘争が怖いからではなく、むしろ闘争すればするほど闘争自体がどこか馬鹿馬鹿しいものに変容していくことに年齢の早い段階から気づいていた。これは言い換えれば子どもの目線である。しかし大人は意味のない闘争を少しでも減少させることに成功しているだろうか。むしろ増殖させてはいないだろうか、とレイチェルは問うのである。
「ちょうどお茶の時間に、床が足元で盛り上がったかと思うと、低く沈み、夕食の時には、船はまるでむちで打たれているかのように、身体をねじって唸り声をあげた。それまでの船は、背中の広い大きな荷馬のようで、お尻の上でピエロが何人もワルツを踊ることができたが、いまは野原の子馬になった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.117」岩波文庫)
この文章には或る種の独特の読み方が求められるだろう。こんなふうに。
「船はまるでむちで打たれているかのように、身体をねじって唸り声をあげた」=船は「子馬」だ。それまでは「荷馬」であって甲板の上で「ピエロが何人もワルツを踊ることができた」けれども、「いまは」子馬が船だ、と。そして子馬になった船に乗っているレイチェルは「大西洋の疾風にさらされる萎びた老木と」《なる》。
「レイチェルは、風吹きすさぶ、雹(ひょう)に襲われ、身にまとう毛皮のコートもかき乱されて、荒野たたずむロバのよう、と思う間もなくたちまちに、塩辛い大西洋の疾風にさらされる萎びた老木となった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.118~119」岩波文庫)
そして。
「二人はよろめきながらはしごを登って行った。風に息を詰まらせながらも、灰色の乱雲の縁に薄く金色の一点が現れるのを見ると気分は一気に高まった。すぐに世界が一つの形をとり、二人はもはや虚空を漂う原子ではなく、嵐に打ち勝ち、海の背に乗って船を走らせる戦士だった。風も空間も追い払われ、世界は桶の中のりんごのように浮かび、ともづなを切られていた人間の精神は、再び古い信条と結ばれた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.121」岩波文庫)
風が止む。金色の晴れ間が見える。すると「すぐに世界が一つの形をとり」、レイチェルらは「もはや虚空を漂う原子ではなく」、「ともづなを切られていた人間の精神は、再び古い信条と結ばれ」る。要するに、文法が復活したということだ。しかしレイチェルにとって、さらにはウルフにとっての問題は、時として「ともづな」は「切られ」るものだというまったく新しい認識である。いつも確実に繋がっているわけではけっしてなく、むしろ「虚空を漂う原子」として身体細胞の隅々までばらばらに微分化=差異化されているのが両義的人間性ではないかという不安が根底にある。根底は何ら安定していない。風が止むことで「再び古い信条と結ばれ」て安心するけれども、だからといってウルフはただ単なる保守的人間だったか。そうではない。保守的女性は「新しい小説」など書かない。書こうとも考えない。「書く」とは痕跡を刻み込むことだ。端的な暴力であって本来的にはそれまで男性のみに許されていた行為である。男性にのみ許されていた理由は単純なことで、社会は、「書く」という行為が端的な暴力にほかならないとよくわかっていたからだ。それは身体を用いる。からだ全体で、からだ全体の細胞が高速で一挙に成し遂げていく行為である。それ以前の宗教的政治的商業的権力者層がそれほど簡単なことに気づかなかったわけはない。ではなぜウルフらにはそれが見えたのか。「神は死んだ」とニーチェは言ったが、それと置き換えられて、もっと巨大な神=国家・資本が立ち上がったからである。それは明白に誰の目にも見え手で触れもするものだった。さらにそれら新しい神=国家・資本はとてもわかりやすかった。利子、地代、税金、など。これほどわかりやすいものもまたとなかったろう。十九世紀に一気に広がった書物という「魔物」は全世界の女性の中に何か正体のわからない「力」を孕ませた。男だけではない。女も「書く」という事態が出現した。
BGM
「私たちがここで関わっているのは、《物》ではなく、《進行》なのだ」(ベルクソン「時間と自由・P.134」岩波文庫)
常に既に「進行」しているものを「現行犯」で捉える。さしあたり言語を用いるほかない。
「ヘレンはもう一度レイチェルに目をやった。ああ、やはり確かだ!心は揺れ動き、感情的で、何か話しかけたところでその効果は、水の表面を棒で突っつくようなもので長続きしないだろう。若い女の子はまったく掴みどころがないーーー確実さ、永続性に欠け、手ごたえがない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.25」岩波文庫)
ウルフの「船出」。この小説をただ単なる成長物語、それも挫折した悲劇的ロマンとして捉えるばかりでは今後も何らアクチュアルな読みをもたらさないだろう。ウルフが女性の精神的自立を提唱したことは有名だしまた小説家として成功したほうだというのも事実だろう。しかしドゥルーズ&ガタリが画家パウル・クレーを引用して借りてきた言葉をさらに借りるとすれば、ウルフ「船出」にとって、そのための「民衆」がいない。簡単にいえば読者がいないという程度の話なのだが。絵画と違って小説は持続を要する。これといった大事件が勃発するわけでもない。エンターテイメントのように絶えず読者を興奮のるつぼに叩き込みまくるというわけでもない。地味といえばそうだというしかない。しかしそもそも純文学とはそういうものだ。しかもいわゆる古典に属する。そう考えただけでも何だか退屈そうな気配が漂ってくる。にもかかわらず、それがわかっていてなおかつ最後まで読む読者がいるのはなぜなのか。ほんの一握りに過ぎないとはいえ、なぜ「船出」を読む人々がいるのか。「ダロウェイ夫人」で大胆に見せた「分身」というテーマ。そしてなぜ「分身」でなくてはならないのかという問い。ウルフ独特の死生観。それらは事実上のデビュー作「船出」において既によく見られる。といってみても関心のない人々は関心がない。先へ進もう。なお、前提として「船出」は、先に移動というテーマが先取りされていることを頭に入れておきたい。イギリスからブラジルの川沿いの街へ移動するところから始まる。イギリス=規則的脱コード化。移動=脱コード化・解体。南米の街=非規則的脱コード化。と、考えておこう。それにしても、もうすでにレイチェルの分身は始まっている。
彼女は「揺れ動き」「効果は」「表面を棒で突っつくようなもので長続きしない」「掴みどころがない」「確実さ、永続性に欠け」「手ごたえがない」。ヘレンにとってレイチェルは早くも「水」の本性を露わにしている。ところがレイチェルにとってヘレン(伯母)たちの「暮らし方全体」はもっと奇妙なものに見えるのだ。ヘレンたち「自体」が「理由もなくあちこちに置き捨てにされた椅子や傘のように」見えるとレイチェルはおもう。
「なんておかしいんでしょう!なんともいえないくらいおかしいわ!だがわからなかった、なぜ伯母が話している時に、突然伯母たちの暮らし方全体が、まったく見慣れない、説明のつかないものとして目の前に現れるのか、伯母たち自体が、理由もなくあちこちに置き捨てにされた椅子や傘のように見えるのか」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.51」岩波文庫)
しかしレイチェルは変わり者でもある。ただ単に「若い」というだけで年長者から見て理解できない部分を持つというよくあるケースとはまた異なっている。だからこそ主人公に抜擢されているわけだが。少なくとも二十世紀初頭の文学には主人公というものが存在できたことは確かだ。探してみれば実在するレイチェルのような女性を見つけることも可能だった。それはそうと登場人物としてのレイチェルは文学よりも絵画よりも音楽に芸術的特権性を見出す性質である。
「誰も本当に思っていることは口にしないし、感じたことを語らないらしい、しかしそういうことのためにこそ、音楽はあるのだ。現実は見るもの感じさせるもの、しかし語りはしないものの中にあるのだから、ほかの人たちを満足させる形でそこらじゅうに展開している物事の体系を、うわべは変だと感じることがあっても、あれこれ考えることもなく受け入れることができる。こうして彼女は自分の音楽に熱中し、定められた境遇を満足して受け入れ、二週間に一度くらいは激しく憤ることがあっても、いまそうであるように心が静まるのだった。夢のような混迷の中に、ほどけ難く巻き込まれた彼女の魂は、霊的な交わりに入り、喜びと共に広がり、白みがかった甲板の霊とも、海の霊とも、ベートーヴェンの作品百十一番の霊とも、さらにはオールニーの哀れなウィリアム・クーパー(詩人)の霊とさえも結ばれるように思われた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.53」岩波文庫)
「霊的な交わり」とある。いわゆる超常現象とは何の関係もない。キリスト教国ではこういう言い方をするというくらいのものであり、あえてたとえるとすれば「ベートーベンの精神」「海の神=ポセイドン」「ウィリアム・クーパー(詩人)の陶酔」といった感じか。
「ダロウェイ夫人が席を立つところだった。『あたくし、信仰はカブト虫の採集に似ているっていつも思ってますの』と夫人はヘレンと階段を上りながら、今までの話をまとめようとしていた。『黒いカブト虫に夢中の人もいれば、そうでない人もいる。それを議論しても無駄ですわ』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.91」岩波文庫)
ここで登場している「ダロウェイ夫人」は後の作品「ダロウェイ夫人」の主人公クラリッサ・ダロウェイである。この作品については先日述べたのでここでは省略したい。ただ、「信仰はカブト虫の採集に似ている」と思っており「議論しても無駄」とする考え方はなるほどとおもわせる。宗教的信条はどこの国へ行っても頑固であり要するに「セクト主義的」なものになってしまうと考えている。実際、「ダロウェイ夫人」でクラリッサはキリスト教の教義をめちゃくちゃに罵っている。女性の精神的自立を目指したウルフにとってキリスト教の教義は逆に女性を家庭内に縛り付けるだけでなく「母性」というものを持ち出してきて何かにつけて男尊女卑的社会の再生産を促進するものでしかなかった。
「話はとぎれたが、レイチェルは話すことがないから黙っていたのではなかった。例によって言いたいことが言えず、話せる時間がおそらくもうあまりないことでいっそう困惑していた。愚かな混乱した考えに取り付かれていたーーーそうだ、もしもはるか昔まで戻れば、何もかもお互いに理解でき、何もかもがお互いに共通するのかもしれない、リッチモンド大通りの原っぱで草を食んでいたマンモスたちが、敷石とリボンがいっぱいの箱と伯母たちに変わってしまったのだ」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.112」岩波文庫)
ここでのレイチェルは幻想を満開にして楽しんでいる。歴史を遡及するとすれば「リッチモンド大通りの原っぱで草を食んでいたマンモスたち」と「敷石とリボンがいっぱいの箱と伯母たち」とは交換可能である。両者は等価だ。しかしなぜレイチェルはそう思いたがるのか。彼女は争いが嫌いなのだ。闘争が怖いからではなく、むしろ闘争すればするほど闘争自体がどこか馬鹿馬鹿しいものに変容していくことに年齢の早い段階から気づいていた。これは言い換えれば子どもの目線である。しかし大人は意味のない闘争を少しでも減少させることに成功しているだろうか。むしろ増殖させてはいないだろうか、とレイチェルは問うのである。
「ちょうどお茶の時間に、床が足元で盛り上がったかと思うと、低く沈み、夕食の時には、船はまるでむちで打たれているかのように、身体をねじって唸り声をあげた。それまでの船は、背中の広い大きな荷馬のようで、お尻の上でピエロが何人もワルツを踊ることができたが、いまは野原の子馬になった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.117」岩波文庫)
この文章には或る種の独特の読み方が求められるだろう。こんなふうに。
「船はまるでむちで打たれているかのように、身体をねじって唸り声をあげた」=船は「子馬」だ。それまでは「荷馬」であって甲板の上で「ピエロが何人もワルツを踊ることができた」けれども、「いまは」子馬が船だ、と。そして子馬になった船に乗っているレイチェルは「大西洋の疾風にさらされる萎びた老木と」《なる》。
「レイチェルは、風吹きすさぶ、雹(ひょう)に襲われ、身にまとう毛皮のコートもかき乱されて、荒野たたずむロバのよう、と思う間もなくたちまちに、塩辛い大西洋の疾風にさらされる萎びた老木となった」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.118~119」岩波文庫)
そして。
「二人はよろめきながらはしごを登って行った。風に息を詰まらせながらも、灰色の乱雲の縁に薄く金色の一点が現れるのを見ると気分は一気に高まった。すぐに世界が一つの形をとり、二人はもはや虚空を漂う原子ではなく、嵐に打ち勝ち、海の背に乗って船を走らせる戦士だった。風も空間も追い払われ、世界は桶の中のりんごのように浮かび、ともづなを切られていた人間の精神は、再び古い信条と結ばれた」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.121」岩波文庫)
風が止む。金色の晴れ間が見える。すると「すぐに世界が一つの形をとり」、レイチェルらは「もはや虚空を漂う原子ではなく」、「ともづなを切られていた人間の精神は、再び古い信条と結ばれ」る。要するに、文法が復活したということだ。しかしレイチェルにとって、さらにはウルフにとっての問題は、時として「ともづな」は「切られ」るものだというまったく新しい認識である。いつも確実に繋がっているわけではけっしてなく、むしろ「虚空を漂う原子」として身体細胞の隅々までばらばらに微分化=差異化されているのが両義的人間性ではないかという不安が根底にある。根底は何ら安定していない。風が止むことで「再び古い信条と結ばれ」て安心するけれども、だからといってウルフはただ単なる保守的人間だったか。そうではない。保守的女性は「新しい小説」など書かない。書こうとも考えない。「書く」とは痕跡を刻み込むことだ。端的な暴力であって本来的にはそれまで男性のみに許されていた行為である。男性にのみ許されていた理由は単純なことで、社会は、「書く」という行為が端的な暴力にほかならないとよくわかっていたからだ。それは身体を用いる。からだ全体で、からだ全体の細胞が高速で一挙に成し遂げていく行為である。それ以前の宗教的政治的商業的権力者層がそれほど簡単なことに気づかなかったわけはない。ではなぜウルフらにはそれが見えたのか。「神は死んだ」とニーチェは言ったが、それと置き換えられて、もっと巨大な神=国家・資本が立ち上がったからである。それは明白に誰の目にも見え手で触れもするものだった。さらにそれら新しい神=国家・資本はとてもわかりやすかった。利子、地代、税金、など。これほどわかりやすいものもまたとなかったろう。十九世紀に一気に広がった書物という「魔物」は全世界の女性の中に何か正体のわからない「力」を孕ませた。男だけではない。女も「書く」という事態が出現した。
BGM