たとえば「アル中患者」がよく口にする決まり文句がある。「これで最後の一杯だ」。しかしアル中患者にとって問題なのは、いったいどの一杯が本当に最後の一杯なのかということではない。その曖昧さが問題の核心なのではない。そうではなくて、「最後の一杯」という「評価」が自発的になされるということに重要性=問題性がある。
「評価」は常に自発的「先取り」を目指している。ここでいう「評価」はニーチェのいう「権力意志」としての「評価」と一致する。だから、「最後の一杯」は「最後の暴力」と置き換えてよい。それはとりもなおさず「最初の暴力」というものをあらかじめ含んでいる。したがって、暴力からなる系列全体がある、と言うべきだろう。ドゥルーズ&ガタリは次のように述べる。なお、「アレンジメント」は差し当たり「装置」と解しておくほうが理解しやすい。
「アル中患者が《最後の一杯》と呼ぶものは何だろう。アル中患者は自分がまだ大丈夫だというところを、主観的に評価している。大丈夫とされるのは、アル中患者によって、それ以下ならまた繰り返すことができる(休息や休止として)と見なされる限界のことである。しかしこの限界を超えれば閾が現われ、アレンジメントはそこで変更を余儀なくされる。アルコールの質、いつも飲みにいく場所や時間、もっと重症であれば、自殺的なアレンジメントとか、医療を必要とする入院生活というアレンジメント。アル中患者が、最後のものについての評価を誤るとか、『もうこれで止めよう』という最後のテーマをきわめて曖昧にしか使用しないということは重要ではない。大切なのは、限界という基準の存在、飲み干す『コップ』の系列全体の値を決定する限界の一杯に対する評価が自発的になされるということだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.181~182」河出文庫)
さて、一つ一つの暴力からなる暴力の系列全体は、だからといって、資本主義社会を終わらせる終局としては機能しない。むしろ資本主義の終局を新しい始まりとして開始させる新しい暴力として、終局を延々と先送りさせていく運動としてはたらく。その中で発生してくる「過剰人口」と「人手不足」との矛盾。そしてなぜ今なお「不景気」なのか。かつて宇野弘蔵はいった。「豊富の中の貧困」と。
「かくて過剰の資本と過剰の人口とは決して相容れないものではない。好況期の発展過程では貨幣は単に商品交換の手段にすぎないものとしてあらわれ、商品のみが真に価値あるものとして、しかも資本として労働者の剰余労働を獲得し得るものとして資本家の手にあった。ところが今や商品はより多くの価値を得る手段どころか、単なる商品としても販売し得ないものとなっている。貨幣のみが価値を有するものとなり、あらゆる商品はひたすらに貨幣への転化を求めつつある。資本もまた貸付資本としての貨幣形態にあるもののみが資本としてあるかのごとき観を呈してくる。元来は利潤の一部分を利子として分与せられるにすぎない貸付資本が、産業資本に代わって資本を代表するものとなるわけである。それはまったく資本家的生産方法に内在的なる矛盾の爆発の顛倒した表現にほかならない。商品ないし生産手段の形態にある巨額の資本が、その資本形態のゆえにその活動を渋滞し、それがためにかかる現象を呈するのである。資本の蓄積ばかりでなく、再生産過程自身が全体にわたって停滞することになり、労働者は失業するか、労働時間を減ぜられるか、賃金を切り下げられるかする。自ら生産した消費資料を購入すべき貨幣を手に入れることができなくなる。消費資料は有り余るほどにありながらこれを生産した労働者自身も消費することができないということになる。それは生産手段が有り余るほどありながら資本として労働力と結合せられないということと相対応した現象をなすわけである。
いうまでもなく労働者が生産過程に労働するということは、労働力なる商品の販売を通してのことであって、その販売に際して得る賃金は、自ら生産した消費資料を買戻して労働力の再生産に役立てる手段にすぎない。再生産過程が停滞して賃金が得られなくなれば、あるいは従来より少ない賃金しか得られなくなれば、資本の生産物としての消費資料が販売不能ということは明らかである。一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得るのである。労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段とともに一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない。それは人間が自然に働きかけて生活資料ないし生産手段を獲得するという一般的な基本的な経済過程を特殊な形式によって、資本に対して剰余価値を生産するという制限をもってなすものにほかならない。資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産することを予定されなければ、過去の生産の一部分を自己のものにすることもできない。労働力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有するものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである。
かくて資本家的生産は、その生産力を極度に発揮すると、与えられた一定の関係においてはその生産物を処理し得なくなるのであるが、それはいわゆる生産過剰とともに他方には単なる労働力の再生産に必要な程度の生活資料も得ることのできない多数の人間を擁することにほかならない。生産過剰は多数の人々の欲望に対して過剰であるというどころではない。極めて限られたる程度の欲望の満足をも与えられないで生活資料は過剰になる。その過剰は、労働者の欲望とはなんらの関係もない過剰である。いわゆる豊富の中の貧困ということになる。そればかりではない。労働者は自己の生活資料の生産をもその意思に反してもはや続けて行い得ない。生産手段も生産手段として役立て得ない。労働者は自らの消費資料とその消費資料の生産に必要な生産手段とを余りに多く生産したためにすでに生産した消費資料をも消費することができず、またそれによって再生産される労働力をもって生産手段の使用して新たに消費資料を生産し、生産手段を生産するということもできなくなる。いいかえれば生産物に対する需要は、まさに生産物が過剰に生産されたために減少し、それが常識的には金がないから買われないというように理解される。それはしかし単に需要に対して供給が超過するというようなものではない。商品は価格を低下しても販売されればよいというのではない。再生産過程自身が震撼されざるを得ないのである。一定の与えられたる資本家と労働者との関係をもってしては、再生産過程が継続されなくなっている。それは再生産過程の絶対的な行詰りではないが、資本にとっては自らの価値関係を破壊し、再編制することなくしては打開できない状態である。
資本家的生産が個々の資本において貸付資本をも利用して極度に拡大されてくるとーーーそれはすでに述べたように現実的には貸付資本を利用せざるを得ないものとしてであるがーーー資本はその一定の価値関係をもってしては処理することのできないほどの生産力を発揮する。商品は生産されながら販売されないということになる。商品価格は下落せざるを得ないのであるが、しかしその下落はここでは下落自身によって再び均衡のとれた再生産過程が開始されるというのではない。もともと恐慌期における商品の過剰は資本の過剰の一面にすぎないのであって、商品の過剰から資本の過剰が生じたのではない。全面的な商品過剰という現象もそのために生ずるのである。資本がその再生産過程を継続し得ないための商品過剰であるから、いわゆる信用の創造をなす銀行といえどもこれを救済することはできない。販売し得ない商品に対して金融を続け得ないのは、再生産自身が、継続され得ないからである。たとい金融によって継続されるとしても利子をも支払い得ない生産を支払い得るものに転化し得るものではない。もっとも実際上はすでにしばしば述べてきたように商人ないし商業資本の介入によって、単に産業資本自身が貸付資本を利用して投機的拡張をなすという場合よりも複雑な関係を展開するのであるが、基本的関係はそこでもまた産業資本がその再生産過程を有利に継続し得ないという点にある。商人的投機によって形成せられる商品滞貸はこの関係を隠蔽し、拡大するにすぎない。恐慌に際してあらわれる商品価格の下落は、単に一方の失うところを他方が得るというようなものではない。そういう関係も含むのであるが、それだけではすまない。再生産過程そのものの停滞と混乱とから生ずる資本価値の喪失である。商品価格の低落もその要因にほかならない。
かくて恐慌による資本価値の破壊は、単に再生産過程の不均衡からそれが撹乱され、商品の販売不能によってその価値を失うというだけではない。商品価格の低落とともに、商品ないし生産資本の形態にある資本自身が、再生産過程の停滞のためにもその価値を失うのである。再生産過程が停滞し、生産過程が部分的に、あるいは全面的に停滞することになると、生産手段はいうまでもなく、生産手段としては役立たない。再生産過程が順調に行われているときは、生産手段はその使用にしたがってその使用価値を新たなる使用価値の生産に役立てられ、その価値を新しい生産物に移転せられるのであって、単純に失われるわけではない。機械のような固定資本部分にしてもその使用価値としての面では新たなる使用価値の形成に役立てられるにしたがって、その価値を生産物に移転せられ、自らの使用価値はそれだけ減ずるともいえるのであるが、しかしまたなお使用を続けられる限りその使用価値を保存せられるのであって、資本は労働過程の内に無償でそういう利益をも得ているのである。再生産過程の中断は、そういう労働手段にも保存のための費用をかけない限り、その使用価値とともに価値を急速に失わしめることになる。機械のような労働手段ばかりでなく、原料品その他の流動資本部分にしても同様である。新しい生産物に生産されれば腐らずにすむものも、生産過程に使用されないと、使用価値を喪失せずにはいない。それはまったく資本自身を破壊するものである。労働者が失業するということは、資本にとってはそれ自身にはなんら失うところではないわけであるが、しかし資本は単にその価値を失わないということで資本たるものではない。現に生産過程の中断による労働者の失業ないし半失業は、上述のごとく資本価値を使用価値とともに破壊する。労働者の労働過程自身が資本の価値を維持するとともに増殖し、それによって資本を資本たらしめるのであって、資本は価値を増殖しない限り、その価値をも喪失するのである。
元来、資本は運動体としての価値であって、それは運動を中断されるときその使用価値とともに価値を喪失することを当然としなければならないのであるが、この運動自身が実は常に人間の労働によって媒介されているのである。資本の運動においても商品から貨幣、貨幣から商品への単なる変態過程ではなんらの価値をも新しく加えられないので、また加えられるとしても保管、運輸等のいわば付随的なものとしてにすぎないので、資本も単に商人資本的に理解されると、この点は見失われる。そうでなくても生産過程においても労働は労働力なる商品の消費として、いいかえれば他人の労働としてしか行われないために、この核心をなす点が忘れられがちになる。しかし恐慌はその点を明確に暴露するものといってよい。人間の労働による生産過程によって初めて資本はその価値を運動体として、自己増殖し得るのであるが、自己増殖はその価値の保存とともに行われるのである。商品、貨幣のいわゆる流通資本形態の運動もこの生産過程における労働によって間接的にではあるが媒介されている。労働過程が中断されれば、かかる流通過程の運動も停滞せざるを得ない。労働過程の中断はかくて一切の資本の、使用価値とともに価値を破壊せずにはいないのである。
もちろん、価格の低落による資本価値の破壊もあらゆる産業に一様に行われるわけではない。好況期のその価格の異常に騰貴した原料品、半製品等にあっては逆に異常な下落を見ることになる。また生産の拡張におくれたこれらの部門では、最好況期の価格の異常な騰貴によって初めてその生産の拡張を実現し、その生産量の急激な増加がその価格の低落を激化する傾向を有するのであって、恐慌期にはその資本価値をも強烈に破壊されることにならざるを得ない。しかし好況期の発展が、単にこれらの産業部門の生産物の価格の相違によって惹起させられたとはいえないのと同様に、恐慌期におけるこの異なる影響も、それ自身で資本の再生産過程を再び回復せしめるものではない。恐慌は、資本と労働との関係として、しかもそれは資本自身の内部的矛盾の発現としてあらわれたものであって、価格の単なる不均衡によるものではない。資本の過剰と人口の過剰とは一定の社会的生産力を基礎として生じたのである。それは資本が自らの生産力を従来の資本家と労働者との関係をもってしては処理し得ないほどに増進した結果にほかならない。いいかえれば資本は、その生産力によって生産手段と消費資料とをますます多く生産してきたのであるが、労働力の再生産に要する労働時間を変えることなくしては、再び利潤を得て再生産を拡張し得なくなったのである。恐慌期における種々なる産業部門間の事情の相違、また大資本と小資本、産業資本と銀行等の金融機関との関係等は一方に破産と他方には集中をもたらし、資本と資本との間には、その不均等なる発展に基づく均衡化をもたらすことにもなるのであるが、そしてそれはある程度まで再生産過程の回復の要因をなすのではあるが、しかしそれだけで資本家と労働者との関係が新しくなるというものではない。恐慌期に続く不況期は実にこの新たなる社会的関係を展開する準備過程としてあらわれるのである」(宇野弘蔵「恐慌論・P.153~162」岩波文庫)
ドゥルーズはいう。「言論の方向転換」と。創造のために。創造的生のために。
「だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います」(ドゥルーズ「記号と事件・P.352」河出文庫)
闘争が逃走と変わらなくなるのは、しかし一体どこからなのだろうか。むしろいったん「逃走線として」生きるということでなくてはならないのではないだろうか。
BGM
「評価」は常に自発的「先取り」を目指している。ここでいう「評価」はニーチェのいう「権力意志」としての「評価」と一致する。だから、「最後の一杯」は「最後の暴力」と置き換えてよい。それはとりもなおさず「最初の暴力」というものをあらかじめ含んでいる。したがって、暴力からなる系列全体がある、と言うべきだろう。ドゥルーズ&ガタリは次のように述べる。なお、「アレンジメント」は差し当たり「装置」と解しておくほうが理解しやすい。
「アル中患者が《最後の一杯》と呼ぶものは何だろう。アル中患者は自分がまだ大丈夫だというところを、主観的に評価している。大丈夫とされるのは、アル中患者によって、それ以下ならまた繰り返すことができる(休息や休止として)と見なされる限界のことである。しかしこの限界を超えれば閾が現われ、アレンジメントはそこで変更を余儀なくされる。アルコールの質、いつも飲みにいく場所や時間、もっと重症であれば、自殺的なアレンジメントとか、医療を必要とする入院生活というアレンジメント。アル中患者が、最後のものについての評価を誤るとか、『もうこれで止めよう』という最後のテーマをきわめて曖昧にしか使用しないということは重要ではない。大切なのは、限界という基準の存在、飲み干す『コップ』の系列全体の値を決定する限界の一杯に対する評価が自発的になされるということだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.181~182」河出文庫)
さて、一つ一つの暴力からなる暴力の系列全体は、だからといって、資本主義社会を終わらせる終局としては機能しない。むしろ資本主義の終局を新しい始まりとして開始させる新しい暴力として、終局を延々と先送りさせていく運動としてはたらく。その中で発生してくる「過剰人口」と「人手不足」との矛盾。そしてなぜ今なお「不景気」なのか。かつて宇野弘蔵はいった。「豊富の中の貧困」と。
「かくて過剰の資本と過剰の人口とは決して相容れないものではない。好況期の発展過程では貨幣は単に商品交換の手段にすぎないものとしてあらわれ、商品のみが真に価値あるものとして、しかも資本として労働者の剰余労働を獲得し得るものとして資本家の手にあった。ところが今や商品はより多くの価値を得る手段どころか、単なる商品としても販売し得ないものとなっている。貨幣のみが価値を有するものとなり、あらゆる商品はひたすらに貨幣への転化を求めつつある。資本もまた貸付資本としての貨幣形態にあるもののみが資本としてあるかのごとき観を呈してくる。元来は利潤の一部分を利子として分与せられるにすぎない貸付資本が、産業資本に代わって資本を代表するものとなるわけである。それはまったく資本家的生産方法に内在的なる矛盾の爆発の顛倒した表現にほかならない。商品ないし生産手段の形態にある巨額の資本が、その資本形態のゆえにその活動を渋滞し、それがためにかかる現象を呈するのである。資本の蓄積ばかりでなく、再生産過程自身が全体にわたって停滞することになり、労働者は失業するか、労働時間を減ぜられるか、賃金を切り下げられるかする。自ら生産した消費資料を購入すべき貨幣を手に入れることができなくなる。消費資料は有り余るほどにありながらこれを生産した労働者自身も消費することができないということになる。それは生産手段が有り余るほどありながら資本として労働力と結合せられないということと相対応した現象をなすわけである。
いうまでもなく労働者が生産過程に労働するということは、労働力なる商品の販売を通してのことであって、その販売に際して得る賃金は、自ら生産した消費資料を買戻して労働力の再生産に役立てる手段にすぎない。再生産過程が停滞して賃金が得られなくなれば、あるいは従来より少ない賃金しか得られなくなれば、資本の生産物としての消費資料が販売不能ということは明らかである。一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得るのである。労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段とともに一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない。それは人間が自然に働きかけて生活資料ないし生産手段を獲得するという一般的な基本的な経済過程を特殊な形式によって、資本に対して剰余価値を生産するという制限をもってなすものにほかならない。資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産することを予定されなければ、過去の生産の一部分を自己のものにすることもできない。労働力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有するものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである。
かくて資本家的生産は、その生産力を極度に発揮すると、与えられた一定の関係においてはその生産物を処理し得なくなるのであるが、それはいわゆる生産過剰とともに他方には単なる労働力の再生産に必要な程度の生活資料も得ることのできない多数の人間を擁することにほかならない。生産過剰は多数の人々の欲望に対して過剰であるというどころではない。極めて限られたる程度の欲望の満足をも与えられないで生活資料は過剰になる。その過剰は、労働者の欲望とはなんらの関係もない過剰である。いわゆる豊富の中の貧困ということになる。そればかりではない。労働者は自己の生活資料の生産をもその意思に反してもはや続けて行い得ない。生産手段も生産手段として役立て得ない。労働者は自らの消費資料とその消費資料の生産に必要な生産手段とを余りに多く生産したためにすでに生産した消費資料をも消費することができず、またそれによって再生産される労働力をもって生産手段の使用して新たに消費資料を生産し、生産手段を生産するということもできなくなる。いいかえれば生産物に対する需要は、まさに生産物が過剰に生産されたために減少し、それが常識的には金がないから買われないというように理解される。それはしかし単に需要に対して供給が超過するというようなものではない。商品は価格を低下しても販売されればよいというのではない。再生産過程自身が震撼されざるを得ないのである。一定の与えられたる資本家と労働者との関係をもってしては、再生産過程が継続されなくなっている。それは再生産過程の絶対的な行詰りではないが、資本にとっては自らの価値関係を破壊し、再編制することなくしては打開できない状態である。
資本家的生産が個々の資本において貸付資本をも利用して極度に拡大されてくるとーーーそれはすでに述べたように現実的には貸付資本を利用せざるを得ないものとしてであるがーーー資本はその一定の価値関係をもってしては処理することのできないほどの生産力を発揮する。商品は生産されながら販売されないということになる。商品価格は下落せざるを得ないのであるが、しかしその下落はここでは下落自身によって再び均衡のとれた再生産過程が開始されるというのではない。もともと恐慌期における商品の過剰は資本の過剰の一面にすぎないのであって、商品の過剰から資本の過剰が生じたのではない。全面的な商品過剰という現象もそのために生ずるのである。資本がその再生産過程を継続し得ないための商品過剰であるから、いわゆる信用の創造をなす銀行といえどもこれを救済することはできない。販売し得ない商品に対して金融を続け得ないのは、再生産自身が、継続され得ないからである。たとい金融によって継続されるとしても利子をも支払い得ない生産を支払い得るものに転化し得るものではない。もっとも実際上はすでにしばしば述べてきたように商人ないし商業資本の介入によって、単に産業資本自身が貸付資本を利用して投機的拡張をなすという場合よりも複雑な関係を展開するのであるが、基本的関係はそこでもまた産業資本がその再生産過程を有利に継続し得ないという点にある。商人的投機によって形成せられる商品滞貸はこの関係を隠蔽し、拡大するにすぎない。恐慌に際してあらわれる商品価格の下落は、単に一方の失うところを他方が得るというようなものではない。そういう関係も含むのであるが、それだけではすまない。再生産過程そのものの停滞と混乱とから生ずる資本価値の喪失である。商品価格の低落もその要因にほかならない。
かくて恐慌による資本価値の破壊は、単に再生産過程の不均衡からそれが撹乱され、商品の販売不能によってその価値を失うというだけではない。商品価格の低落とともに、商品ないし生産資本の形態にある資本自身が、再生産過程の停滞のためにもその価値を失うのである。再生産過程が停滞し、生産過程が部分的に、あるいは全面的に停滞することになると、生産手段はいうまでもなく、生産手段としては役立たない。再生産過程が順調に行われているときは、生産手段はその使用にしたがってその使用価値を新たなる使用価値の生産に役立てられ、その価値を新しい生産物に移転せられるのであって、単純に失われるわけではない。機械のような固定資本部分にしてもその使用価値としての面では新たなる使用価値の形成に役立てられるにしたがって、その価値を生産物に移転せられ、自らの使用価値はそれだけ減ずるともいえるのであるが、しかしまたなお使用を続けられる限りその使用価値を保存せられるのであって、資本は労働過程の内に無償でそういう利益をも得ているのである。再生産過程の中断は、そういう労働手段にも保存のための費用をかけない限り、その使用価値とともに価値を急速に失わしめることになる。機械のような労働手段ばかりでなく、原料品その他の流動資本部分にしても同様である。新しい生産物に生産されれば腐らずにすむものも、生産過程に使用されないと、使用価値を喪失せずにはいない。それはまったく資本自身を破壊するものである。労働者が失業するということは、資本にとってはそれ自身にはなんら失うところではないわけであるが、しかし資本は単にその価値を失わないということで資本たるものではない。現に生産過程の中断による労働者の失業ないし半失業は、上述のごとく資本価値を使用価値とともに破壊する。労働者の労働過程自身が資本の価値を維持するとともに増殖し、それによって資本を資本たらしめるのであって、資本は価値を増殖しない限り、その価値をも喪失するのである。
元来、資本は運動体としての価値であって、それは運動を中断されるときその使用価値とともに価値を喪失することを当然としなければならないのであるが、この運動自身が実は常に人間の労働によって媒介されているのである。資本の運動においても商品から貨幣、貨幣から商品への単なる変態過程ではなんらの価値をも新しく加えられないので、また加えられるとしても保管、運輸等のいわば付随的なものとしてにすぎないので、資本も単に商人資本的に理解されると、この点は見失われる。そうでなくても生産過程においても労働は労働力なる商品の消費として、いいかえれば他人の労働としてしか行われないために、この核心をなす点が忘れられがちになる。しかし恐慌はその点を明確に暴露するものといってよい。人間の労働による生産過程によって初めて資本はその価値を運動体として、自己増殖し得るのであるが、自己増殖はその価値の保存とともに行われるのである。商品、貨幣のいわゆる流通資本形態の運動もこの生産過程における労働によって間接的にではあるが媒介されている。労働過程が中断されれば、かかる流通過程の運動も停滞せざるを得ない。労働過程の中断はかくて一切の資本の、使用価値とともに価値を破壊せずにはいないのである。
もちろん、価格の低落による資本価値の破壊もあらゆる産業に一様に行われるわけではない。好況期のその価格の異常に騰貴した原料品、半製品等にあっては逆に異常な下落を見ることになる。また生産の拡張におくれたこれらの部門では、最好況期の価格の異常な騰貴によって初めてその生産の拡張を実現し、その生産量の急激な増加がその価格の低落を激化する傾向を有するのであって、恐慌期にはその資本価値をも強烈に破壊されることにならざるを得ない。しかし好況期の発展が、単にこれらの産業部門の生産物の価格の相違によって惹起させられたとはいえないのと同様に、恐慌期におけるこの異なる影響も、それ自身で資本の再生産過程を再び回復せしめるものではない。恐慌は、資本と労働との関係として、しかもそれは資本自身の内部的矛盾の発現としてあらわれたものであって、価格の単なる不均衡によるものではない。資本の過剰と人口の過剰とは一定の社会的生産力を基礎として生じたのである。それは資本が自らの生産力を従来の資本家と労働者との関係をもってしては処理し得ないほどに増進した結果にほかならない。いいかえれば資本は、その生産力によって生産手段と消費資料とをますます多く生産してきたのであるが、労働力の再生産に要する労働時間を変えることなくしては、再び利潤を得て再生産を拡張し得なくなったのである。恐慌期における種々なる産業部門間の事情の相違、また大資本と小資本、産業資本と銀行等の金融機関との関係等は一方に破産と他方には集中をもたらし、資本と資本との間には、その不均等なる発展に基づく均衡化をもたらすことにもなるのであるが、そしてそれはある程度まで再生産過程の回復の要因をなすのではあるが、しかしそれだけで資本家と労働者との関係が新しくなるというものではない。恐慌期に続く不況期は実にこの新たなる社会的関係を展開する準備過程としてあらわれるのである」(宇野弘蔵「恐慌論・P.153~162」岩波文庫)
ドゥルーズはいう。「言論の方向転換」と。創造のために。創造的生のために。
「だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います」(ドゥルーズ「記号と事件・P.352」河出文庫)
闘争が逃走と変わらなくなるのは、しかし一体どこからなのだろうか。むしろいったん「逃走線として」生きるということでなくてはならないのではないだろうか。
BGM