なるほどそれは確かにいえることだ。というのはーーー。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
人間は始めから自由の何たるかを知った上で生まれてくるのではない。だとしたら、一体どのような状況の中に置かれたとき、自由の何たるかを知ることになるのか。カントから。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫)
「口実」「殺害」「偽証」「死刑」といった措置によって包囲され、さらにそれらが前提されているとき、そのとき始めて知ることのできる「自由」がある。何も今の日本の国会審議について当て付けていっているわけではまったくない。しかしカントの上げている文章の中の一語=「君主」は、誰のことを指して述べているのだろうか。
もっとも、その内容はそれぞれの国家形態によって異なってくる。たとえば、今の日本の国会審議内容であるとすれば、それは、その全貌をがらりと変えて出現することができる、ということは争う余地がないだろう。しかしこの場合、「君主」=「天皇」と考えることはできない。天皇は政治に介入することが許されていない。だとすれば、「君主」=「?」という非常に奇怪な問いが宙吊りになったままいたずらに公金=時間ばかりがあたかも湯水のごとくばんばん消費されていっていることになる。
それとも「?」=「?」のままで進む国会審議というものがあるのだろうか。あるとしたらそれはどのような審議なのか。それは審議と呼ぶに値するのだろうか。値するとしたら、「?」=「?」のままで進めてしまって果たしていいものなのだろうか。公金投入=審議時間であるというに。不可解というほかない。
思考というものは、そんなふうに、当初は予想もしていなかったのっぴきならない地点に立ち至った(ショックを受けた)瞬間、直前までは静かだった活火山の噴火のようにたちどころに生じてくることが少なくない。そして関係する各々がそれぞれ別々にではあっても、ただちに何か考えなければいけないということに気づく。ところがその途端、人間は、自分で自分自身の頭の中に珍妙この上ない矛盾の壁が立ちはだかっていることに気づかないわけにはいかない。
つい先日堂々となされた内閣法制局長官による嘲笑的政治的発言。選挙で選ばれた議員による政治的発言なら許されるのは当然のことだ。しかし、たとえ形骸化してしまっているとはいえ、内閣法制局という官僚機関の関係者にはあくまでも法的中立性が求められている。にもかかわらずなされた「嘲笑的政治的発言」。厳格な処罰が下されたとは到底おもえない。公式の場での政治的発言は選挙で選出された議員のみに認められている。それとも言いたいのだろうか。内閣法制局長官には天皇にさえ認められていない政治的発言が認められているばかりか実際に行使してみせることもできると。そしてそれは本当に行使された。
公式の場で資格もなしに発せられた「嘲笑的政治的発言」をどう考えるか。ちなみに、言葉遣いと「国の運命」との関係についてモンテーニュはこういっている。
「私は私の書物をわずかの人々のために、わずかの年月のために書いている。もしもこれがあとに永く残るような内容のものであったら、もっとしっかりした言語に託すべきであったろう。今日までわがフランス語につきまとった絶えざる変化を考えるならば、現在の形がこれから五十年後も通用すると誰が期待し得よう。フランス語は毎日われわれの手から流れ出てゆき、私が生きている間にもすでに半分も変わった。われわれは、いま、これを完全なものだ、と言う。それぞれの時代にその言葉についてこれと同じことを言っている。しかし、私は、それが現に見るように、たちまちに過ぎ去り、変形してゆく限り、そのとおりには信じられない。言葉を自らに固定するのはすぐれた有益な書物のすることであり、また、その言葉に対する信用はわが国の運命と歩みを共にするであろう」(モンテーニュ「エセー5・P.368」岩波文庫)
また、ナチス・ドイツ「強制労働所」の生き残りであるパウル・ツェランはこう述べている。
「もろもろの喪失のなかで、ただ『言葉』だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした」(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩文集・P.100〜101』白水社)
カントに戻ろう。カントならどのように考えるだろうか。あるいは考えないだろうか。たとえば次のように。
「正命題ー自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
反対命題ーおよそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(カント「純粋理性批判・中・P.125~126」岩波文庫)
このように捉えることで今の国会での議論は空転していると考えられる。平行線ともいうが。しかし公金が投入されることで始めて発生する審議時間である以上、空転は許されない。次の命題が加わる。
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)
そしてようやく、問われていることは、ほかでもない倫理に関わる命題以外の何ものでもないということに思い至る。倫理を伴わない議論に公金を注ぎ込む価値はあるのか、と。もしあるとすればそれはどのような議論なのか、と。
今のような手順を追って再び同じ疑問に回帰してしまう。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社)
この問いは、しかし、なぜ何度も繰り返し回帰してくるのだろうか。フロイトのいう「死の本能」のように。
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「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
人間は始めから自由の何たるかを知った上で生まれてくるのではない。だとしたら、一体どのような状況の中に置かれたとき、自由の何たるかを知ることになるのか。カントから。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫)
「口実」「殺害」「偽証」「死刑」といった措置によって包囲され、さらにそれらが前提されているとき、そのとき始めて知ることのできる「自由」がある。何も今の日本の国会審議について当て付けていっているわけではまったくない。しかしカントの上げている文章の中の一語=「君主」は、誰のことを指して述べているのだろうか。
もっとも、その内容はそれぞれの国家形態によって異なってくる。たとえば、今の日本の国会審議内容であるとすれば、それは、その全貌をがらりと変えて出現することができる、ということは争う余地がないだろう。しかしこの場合、「君主」=「天皇」と考えることはできない。天皇は政治に介入することが許されていない。だとすれば、「君主」=「?」という非常に奇怪な問いが宙吊りになったままいたずらに公金=時間ばかりがあたかも湯水のごとくばんばん消費されていっていることになる。
それとも「?」=「?」のままで進む国会審議というものがあるのだろうか。あるとしたらそれはどのような審議なのか。それは審議と呼ぶに値するのだろうか。値するとしたら、「?」=「?」のままで進めてしまって果たしていいものなのだろうか。公金投入=審議時間であるというに。不可解というほかない。
思考というものは、そんなふうに、当初は予想もしていなかったのっぴきならない地点に立ち至った(ショックを受けた)瞬間、直前までは静かだった活火山の噴火のようにたちどころに生じてくることが少なくない。そして関係する各々がそれぞれ別々にではあっても、ただちに何か考えなければいけないということに気づく。ところがその途端、人間は、自分で自分自身の頭の中に珍妙この上ない矛盾の壁が立ちはだかっていることに気づかないわけにはいかない。
つい先日堂々となされた内閣法制局長官による嘲笑的政治的発言。選挙で選ばれた議員による政治的発言なら許されるのは当然のことだ。しかし、たとえ形骸化してしまっているとはいえ、内閣法制局という官僚機関の関係者にはあくまでも法的中立性が求められている。にもかかわらずなされた「嘲笑的政治的発言」。厳格な処罰が下されたとは到底おもえない。公式の場での政治的発言は選挙で選出された議員のみに認められている。それとも言いたいのだろうか。内閣法制局長官には天皇にさえ認められていない政治的発言が認められているばかりか実際に行使してみせることもできると。そしてそれは本当に行使された。
公式の場で資格もなしに発せられた「嘲笑的政治的発言」をどう考えるか。ちなみに、言葉遣いと「国の運命」との関係についてモンテーニュはこういっている。
「私は私の書物をわずかの人々のために、わずかの年月のために書いている。もしもこれがあとに永く残るような内容のものであったら、もっとしっかりした言語に託すべきであったろう。今日までわがフランス語につきまとった絶えざる変化を考えるならば、現在の形がこれから五十年後も通用すると誰が期待し得よう。フランス語は毎日われわれの手から流れ出てゆき、私が生きている間にもすでに半分も変わった。われわれは、いま、これを完全なものだ、と言う。それぞれの時代にその言葉についてこれと同じことを言っている。しかし、私は、それが現に見るように、たちまちに過ぎ去り、変形してゆく限り、そのとおりには信じられない。言葉を自らに固定するのはすぐれた有益な書物のすることであり、また、その言葉に対する信用はわが国の運命と歩みを共にするであろう」(モンテーニュ「エセー5・P.368」岩波文庫)
また、ナチス・ドイツ「強制労働所」の生き残りであるパウル・ツェランはこう述べている。
「もろもろの喪失のなかで、ただ『言葉』だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした」(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩文集・P.100〜101』白水社)
カントに戻ろう。カントならどのように考えるだろうか。あるいは考えないだろうか。たとえば次のように。
「正命題ー自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
反対命題ーおよそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(カント「純粋理性批判・中・P.125~126」岩波文庫)
このように捉えることで今の国会での議論は空転していると考えられる。平行線ともいうが。しかし公金が投入されることで始めて発生する審議時間である以上、空転は許されない。次の命題が加わる。
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)
そしてようやく、問われていることは、ほかでもない倫理に関わる命題以外の何ものでもないということに思い至る。倫理を伴わない議論に公金を注ぎ込む価値はあるのか、と。もしあるとすればそれはどのような議論なのか、と。
今のような手順を追って再び同じ疑問に回帰してしまう。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社)
この問いは、しかし、なぜ何度も繰り返し回帰してくるのだろうか。フロイトのいう「死の本能」のように。
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