白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化8−2

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
「人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。ーーーもろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗あるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。ーーーこれでみると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる」(スピノザ「エチカ・第四部・序言・P.8~9」岩波文庫)

この文章については、スピノザとの関わりなしに、ニーチェが次のように述べている部分を参照しておこう。「一般的観念と一致するような型」とはどのような「型」なのか。「物」について人間は何を「認識」しているのか。

「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)

「すなわち、それは《間違った等置》なのである。言いかえれば、《総合的推論とは、非論理的なものなのである》。われわれがそれを用いるときには、われわれは、通俗的な形而上学を、つまり、結果を原因と見なすような形而上学を、前提しているのである。『鉛筆』という概念が、鉛筆という『事物』と混同されるのである。総合判断における『である』ということは、誤りであり、それは一つの転用を内包しており、元来等置などが起こり得ないような二つの異なった領域が、相互に並列しておかれるのである。われわれはもっぱら、《非論理的なものの》影響下に、無知と誤知との中に、生きて、思考しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.321」ちくま学芸文庫)

「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)

さて、プルーストは音楽について述べているが、音楽の何について述べているのか。音楽そのものというより、むしろ変奏ということについて述べているのではないだろうか。絵画もまたそうだ。

「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《ばら》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)

ここでは家系が《ばら》に《なる》。そして音楽へ行こう。

「音楽は、私が私自身の内部に降下して、そこに新しいものを発見することをたすけてくれる、すなわち、私が実人生や旅のなかに空しくさがし求めた多様なものを私自身の内部にあらたに発見することをたすけてくれるのだ。空しくさがし求めた多様なもの、しかしながら、いまやそれらの多様なものへのノスタルジーが、日に照らされた波がしらを私の足もとにくだけさせているこの音響の波によって、私のなかにもたらされているのであった。二重化された多様性である」(プルースト「失われた時を求めて8・P.273」ちくま文庫)

生成変化は変奏曲として、あるいは間奏曲として、捉えることができる。「一幅の絵画」と「一つの変奏曲としての音楽」とは置き換え可能でもある。

「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)

永劫回帰は、同一の場面が回帰することではなくて、同じものとしては二度と出現しないような生に対する絶対的肯定を述べたものだ。それはいつも微細な差異を伴っている。八つ裂きにされたディオニュソスが蘇ってくるわけだが、八つ裂きにされた諸部分はどうなったのか。それは八つ裂きに分裂し、八つ裂きのままで、分裂したそれぞれが変奏曲として変身=変態したのである。

「そうこうするうちに、ふたたびはじめられていた七重奏曲は、もうおわりに近づいていた、例の《ソナタ》の一楽節が何度もあれこれと立ちかえってくるのだが、しかしそのたびにリズムと伴奏とがちがっていて、それが変わったふうにきこえるのは、人生において何度も立ちかえる事物に似て、楽節はおなじでありながら、しかもちがっているからだった、それはたとえばつぎのような楽節の一つなのだった、すなわち、われわれにはよくわからない一種の親和力のようなものによって、ある作曲家の過去を自分の唯一の必然的な住みかと定められているような楽節、だからこそそれはその作曲家の作品のなかにしか見出されないが、そのかわりに、その作曲家の作品にはたえずきまったようにあらわれる、いわば彼の作品の森に住む仙女、森の女精であり、作品の内部をつかさどる神性であって、私は最初七重奏曲のなかにそれの二つか三つを認め、それが私に《ソナタ》を思いださせることになったのであった。やがて私は《ソナタ》のまたべつのもう一つの楽節が、立ちのぼる薄むらさきの霧のなかにひたされているのを認めたーーーヴァントゥイユの作品の最終段階ではとりわけそんな霧がよく立ちのぼるので、彼がそこに部分的に何かダンスのリズムのようなものをとりいれるときでも、そのリズムは一種のオパールの色のなかにとじこめられてしまうのであったーーー認めたといっても、その楽節はまだずっと遠くのほうにとどまっていて、はっきりそれとは見わけられないほどであった、それはためらいながら近づいた、と思うとおびえたように姿を消した、ついでふたたび立ちもどった、立ちもどると他の楽節に(あとで私が知ったところでは他の作品からやってきたらしい他の楽節に)からみつき、またべつの楽節を呼びよせた、そのべつの楽節は、ひとたびそこになじむと、こんどはまた他をひきつけ、他をおびきよせるものになるのだった、そんなふうにして、それらの楽節は聖なるロンドのなかにはいっていった、聖なるロンドといっても、聴衆にの大部分には、そのロンドはまだはっきりと見わけられないままで、彼らの目のまえには、ただぼんやりしたヴェールがかかっているだけだった、それを通してその先は何も見えず、彼らはいまにも死にそうに思われるやりきれなさのつづくなかで、ひとり勝手な感嘆のさけびをぽつりぽつりともらしていた。ついでそれらの楽節は遠ざかった、ただ一つだけ五回か六回ほど行きつもどりつするのを私が見た楽節をのぞいては、といっても私はその楽節の顔つきを見ることができたわけではなかった、しかしそれはこれまでにどんな女が私にかきたてた欲望からもかけはなれた、いかにもやさしく愛撫してくれるようなーーースワンにとって《ソナタ》の小楽節がたぶんそうであったろうと思われるようなーーーそんな存在なのだ、したがってその楽節こそはおそらくーーーつかむだけの十分な価値をもったある幸福をやさしい声で私にさしだしていた、その楽節こそはおそらくーーーその顔も私には見えず、その言葉も私には通じないのに、その気持が私にはじつによく理解される女であり、これまでにどこかで出会う機会があたえられていたにちがいない唯一の《未知の女》なのであろう」(プルースト「失われた時を求めて8・P.453~455」ちくま文庫)

ドゥルーズ&ガタリから。

「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)

少しばかり補足しておこう。「抽象線」とある。たとえばドゥルーズが受けている「抽象的」という非難。ここでも「抽象」という言語が使用されている。文章の難解さは確かにあるとはいえ、「抽象」という言語使用自体も、またそういう非難に晒される要因かもしれない。頭の中で考えただけに過ぎない抽象的表現だと映ってしまうのだろう。けれども、たとえば頭の中で「3+2=5」と暗算したとしよう。その行為は抽象的だろうか。「3+2=5」は頭の中だけで考えた暗算に過ぎないのだが、しかし誰も抽象的だと言って非難したりはしない。むしろ現実的だ。にもかかわらずなぜドゥルーズの文章になると途端にイメージの世界に過ぎないなどとレッテル貼りされてしまうのか。不可解ではある。そうしたわけで今しがた上げたドゥルーズ&ガタリの言葉をニーチェに置き換えると随分わかりやすくなりはしないだろうか、とおもう。

ニーチェはいう。考え過ぎていると何もできない。ときどきは忘却=睡眠することが大事だと。新しく「開始する」ために。

「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)

なお、「エチカ」は一六七七年出版。日本でいう延宝五年。フランスによるオランダ侵略戦争。ホーエンツォレルン家フリードリヒ二世による絶対王政。清朝=康煕帝時代。大老酒井忠清政権から徳川綱吉の文治政治へ。ジャガタラお春。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化8−1

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
「ひとが内部で自分自身に話しかけるとするなら、それはどういうことなのか。ーーーそこで何が起るのか。わたくしはそれをどのように説明したらいいのか。そう、あなたが誰かに『自分自身に話しかける』という表現の意味を教えてやれるようにしか〔説明できない〕。そして、子供のとき、われわれはまさにその意味を学ぶのである。ーーーただ、その意味をわれわれに教えてくれるひとが、<そこで起っていること>をわれわれに言ってくれるなどとは、誰も言わないだろう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三六一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.226~227』大修館書店)

あえて問わなければならない。「<そこで起っていること>」とは何なのか。何が「起こりつつ」あるのか、と。「神の技」とでも言うべき事態が進行しているのだろうか。とすれば、「神の技」とは一体なんなのか。それこそが問われるべき事態であるにほかならない。だとしても、或る条件が必要だ。手続上のことに過ぎないが。「神」とは何か。少なくとも「人格神」ではない。もし仮に「人格神」であろうとすれば、その人間はいったん人間から始めなくてはならず、したがって、規則・文法に服従することになる。教わる立場に立たなければならない。果たして「神」は服従するだろうか。それでもなお服従しなくてはならないのが「人格神」であり、そうである以上、「神」であるにもかかわらず規則・文法といった極めて構造的な学問に習熟していなくてはならず、教えるのではなく逆に教わる=学ぶ立場に立つことがなくてはならず、もしそれができなければ語ることはできず、語ることができない限り、「神」は何をどのように思考しようとも一般には何一つ伝えることはできないという様々に限定された諸事情が立ちはだかる。しかし、あるいはスピノザのいうように汎神論の立場を取るとすればどのように考えることができるだろうか。スピノザのいう汎神論とは簡単にいえば「神=世界そのもの」あるいは「神=自然そのもの」というものだ。なるほどマルクスの時代はその範囲でよかったのだろう。しかし人間はもはや地球だけでなく今や宇宙をも同時に取り扱うようになってきている。したがってスピノザの汎神論も「神=宇宙そのもの」と捉えて考えることができなくてはならないが、スピノザ哲学の射程が人間世界から決して離れることがない限り、それはできるしむしろ開始しなくてはならないだろう。早くもドゥルーズなどは明らかにそう捉えていると考えられる。だがまず、スピノザの哲学から重要と思われる箇所を書き出してみなければ始まらない。以下、「神」とある部分は現代社会に対応する形で「神=宇宙そのもの」として考えることにしたい。この大地というときの大地と同じ意味で用いる。だからこの場合の宇宙は夢の中にありもしない幽霊が出てくる宇宙ではなく、実際に人工衛星が飛び交い、たとえば月の地上に国旗が立っていたりする現実の宇宙を指す。

「《神》とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義六・P.38」岩波文庫)

「実体」と述べたところで既に濃厚な唯物論の匂いが漂うわけだが。

「神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する」(スピノザ「エチカ・第一部・定理一一・P.47」岩波文庫)

複数性について述べている。「多く」の「属性から成っている」と。

「個物は神の属性の変状である。あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二五・系・P.70」岩波文庫)

「属性」「変状」「様態」など、「神=自然そのもの」と捉えるスピノザならでは、というべきだろう。

「人間は思惟する<あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る>」(スピノザ「エチカ・第二部・公理二・P.95」岩波文庫)

早い部分で人間が登場する。そして人間は登場するや否や「思惟する」存在だと規定される。ただ「思惟する」とはいえ、スピノザの場合、頭の中で考えるだけ、というわけではないところが単なる哲学ではないと予感させる。

「我々はある物体〔身体〕が多様の仕方で刺激されるのを感ずる」(スピノザ「エチカ・第二部・公理四・P.95」岩波文庫)

スピノザの真骨頂である「身体」の強調。「多様な仕方」という訳語もまた有名になった、というか、定着して久しい。

「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一・P.95」岩波文庫)

自然界は各々の仕方で多様に思惟するわけだ。昨今の動植物研究では遺伝子レベルで実に様々な形態を取っていることがわかってきた。

「延長は神の属性である。あるいは延長した物である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二・P.96」岩波文庫)

唯物論として攻撃されたのもわかろうという部分だが、次の部分は観念的な秩序は物の秩序に従っていると読めてしまう。この、目に見えない秩序というものをめぐって、スピノザは、両者は少なくとも同一だと述べている。

「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理七・P.99」岩波文庫)

次のセンテンスはより一層細かな部分にも言及している。同一の物体としてあるものは、立場の違いや物の見方次第でどのようにも見えるものであって、要するにそれだけのことであって観念に重きを置くか身体に重きを置くかによって身体の見え方もそれぞれ変わってくるとスピノザはいう。

「無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体なのであって、それが時には《この》属性のもとにまた時には《かの》属性のもとに解される」(スピノザ「エチカ・第二部・定理七・備考・P.100」岩波文庫)

自然以外の何ものも対象として表象することはできないということ。自然そのもののほかに神は存在しないと。

「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一三・P.108」岩波文庫)

「人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体ーーーそのおのおのがまたきわめて複雑な組織のーーーから組織されている」(スピノザ「エチカ・第二部・要請一・P.117」岩波文庫)

さらに次に続く部分はドゥルーズが好きそうな記述だ。自然の諸力の流動と強度と速度と諸変化といった運動状態をおもわせる。

「人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い」(スピノザ「エチカ・第二部・要請二・P.117」岩波文庫)

「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される」(スピノザ「エチカ・第二部・要請三・P.117」岩波文庫)

「人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される」(スピノザ「エチカ・第二部・要請四・P.117」岩波文庫)

記憶は「痕跡」の「刻印」と切り離せない。

「人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当たるように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する」(スピノザ「エチカ・第二部・要請五・P.117」岩波文庫)

「人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる」(スピノザ「エチカ・第二部・要請六・P.117」岩波文庫)

とても微妙な記述。フロイトによる記憶の概念をおもわせる。

「もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。ーーーなぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されている間は、人間精神は身体のこの刺激を観想するであろう。言いかえれば、精神は現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外部の物体の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。したがって精神は、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想するであろう。ーーー人間精神をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ーーー人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神はふたたび認識するであろう。言いかえれば精神はふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体のこうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一七・P.119~200」岩波文庫)

「我々は例えばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの身体の状態を《より》多く示しており、したがってパウロの身体のこの状態が維持する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとって現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一六・P.121」岩波文庫)

「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)

過去の記憶あるいは過去の物体・対象が再び表象されうるのは、過去に刻印された「痕跡」との類似性から引き出されてくるということ。脳内記憶装置=シナプスと脳内伝達物質の諸関係。

「精神がある物体を表象するのは人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)

頭だけが思惟するのではなく、むしろ、身体全体が自然の中で自然そのものとして思惟するのだとスピノザは考えているようにおもう。

「身体の観念と身体とは、言いかえれば精神と身体とは同一個体であって、それがある時は思惟のもとで、ある時は延長の属性のもとで考えられるのである」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二一・備考・P.126」岩波文庫)

認識の限界について。

「人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二四・P.128」岩波文庫)

「人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二五・P.128~129」岩波文庫)

人々は認識しようとするとき、一体何をどのようにして、認識するのではなく、逆に誤解するのかということ。

「虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。ーーー観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない。しかし虚偽は<認識の>絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。ーーー例を挙げよう。例えば人間が自らを自由であると思っているのは、<すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは>誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すんわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。ーーー同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上(✻当時の通説)も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである」(スピノザ「エチカ・第二部・定理三五・P.135~136」岩波文庫)

次の文章はフッサールの括弧入れをおもわせる。

「『ある人が判断を控える』と我々が言う時、それは『彼が物を妥当に知覚しないことに自ら気づいている』と言うのにほかならない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理四九・備考・P.160」岩波文庫)

再び身体の強調。

「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである。この結果として、物の秩序ないし連結は、自然が《この》属性のもとで考えられようと《かの》属性のもとで考えられようとただ一つだけであり、したがって我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時であるということになる。ーーー事情はかくのごとくであってこれについてはもはや何ら疑う理由が残っていないにもかかわらず、もしこのことを私が経験によって確証しない限りは、人々にこれを冷静に熟慮するようにさせることはまずできない相談であろう。それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいるーーー身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技能にのみ依存している、と。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである。言いかえれば、身体が、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみによって何をなしうるか、また精神から決定されなくては何をなしえないかを、これまで誰も経験によって確定しなかったからである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.170~171」岩波文庫)

「衝動」と出てくるが、「欲望」とはあえて別に定義されている箇所。また人間は何を「善」と考えるかという問いに答えている。「善」というものが先に存在しているわけではまったくない、事情は逆だ、と。

「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。ーーー精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている。したがって精神は妥当な観念を有する限りにおいても非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。ところで精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神は自己の努力を意識している。ーーーこの努力が精神だけに関係する時には《意志》と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には《衝動》と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、ーーー自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに《欲望とは意識を伴った衝動である》と定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.178~179」岩波文庫)

またさらに記憶について。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

感情というものの、のっぴきならない性質について。また同時に「類似」ということが持つ重要な作用について。

「おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。ーーー精神が同時に二つの感情に、すなわち一つは精神の活動能力を増大も減少もしないもの、他の一つはそれを増大あるいは減少するものに刺激されると仮定しよう。前定理から次のことが明白である。すなわち精神があとでそれ自体では精神の思惟能力を増大も減少もしない第一の感情の真の原因によってその第一の感情に刺激される場合、精神はただちに、自己の思惟能力を増大しあるいは減少する第二の感情に、言いかえれば喜びあるいは悲しみに、刺激されるであろう。したがってかの〔第一の感情の原因となった〕物はそれ自体によってではなく偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう。またこの同じ経路でそうした物が偶然によって欲望の原因となりうることを容易に示すことができる。ーーー我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。ーーーなぜなら、このことだけからして、精神はあとでこの物を表象する時喜びあるいは悲しみの感情に刺激されるということになる。言いかえれば精神ならびに身体の能力が増大あるいは減少させられるなどなどのことになる。したがってまた精神がその物を表象することを好みあるいは厭うことになる。言いかえれば精神はその物を愛し、あるいは憎むことになる。ーーーこれによって我々は、その原因を知らずにただいわゆる《同感》〔先入的好感〕および《反感》だけからある物を愛したり憎んだりするということがどうして起こりうるかを理解する。我々を喜びあるいは悲しみの感情に刺激するのを常とする対象に多少類似しているという理由だけで、我々を喜びあるいは悲しみに刺激するような対象もまたこうしたものの中に入れられる」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一五・P.184~185」岩波文庫)

「ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。ーーーその物がその対象に類似する点を我々は対象自身において喜びあるいは悲しみの感情をもって観想した。したがって精神はこの類似点の表象像によって刺激される場合ただちに喜びあるいは悲しみの感情にも刺激されるであろう。したがってまたこの類似点をもつと我々が知覚する物は、偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう。そこでその物が対象に類似している点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はやはりその物を愛しあるいは憎むであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一六・P.185~186」岩波文庫)

力としての意志とその変容について。

「我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう。ーーーなぜならこの物はそれ自体によって悲しみの原因である。そして我々がこの物を悲しみの感情をもって表象する限り我々はそれを憎む。さらにまたそれが我々を等しい大いさの喜びの感情に刺激するのを常とする他の物に多少類似することを我々が表象する限り、我々はそれを等しい大いさの喜びの緊張をもって愛するであろう。したがって我々はそれを憎みかつ同時に愛するであろう。ーーー《二つの相反する感情から生ずるこの精神状態》は《心情の動揺》と呼ばれる。したがってその感情に対する関係は、疑惑の表象に対する関係と同様である。そして心情の動揺と疑惑との相違は、ただその度合の強弱という点にのみ存するのである。しかしここに注意しなければならぬのはーーー私は前定理においてこの心情の動揺を、それ自身によってある感情の原因であり・偶然によって他の感情の原因であるような原因から導き出したが、それはそうした方がこの動揺を《より》容易に前の諸定理から導き出しうるからであって、何も心情の動揺が、多くの場合、二つの感情の起成原因〔直接原因〕であるような一対象から生ずることを否定しているわけではないということである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの個体から組織されており、したがって人間身体は同一物体からきわめて多くの異なった仕方で刺激されることができる。また逆に、同一事物が多くの仕方で刺激されうるからには、同一事物がまた多くの異なった仕方で人間身体の同一部分を刺激することができるであろう。すなわちこれらのことからして我々は同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解することができるのである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一七・P.186~187」岩波文庫)

「人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。ーーー人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない。だから物の表象像は、単にそれ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。言いかえれば身体の状態あるいは感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。ーーー私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるいは見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害したかあるいは害するであろう──などなどの限りにおいて、私はその物を過去のものあるいは未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はその物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激されない。したがって身体はその物の表象像によってあたかもその物自身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される。ではあるがしかし、数々の経験をもつ人々は、物を未来あるいは過去のものとして観想する間は、大抵動揺して、その物の結果について多くは疑惑を有するから、したがって事物のこの種の表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものではなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱されることになる。ーーー今しがた述べたことからことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち《希望》とは《我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜び》にほかならない。これに反して《恐怖》とは《同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみ》である。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は《安堵》となり、恐怖は《絶望》となる。すなわちそれは《我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみ》である。次に《歓喜》とは《我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜び》である。最後に《落胆》とは《歓喜に対立する悲しみ》である」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一八・P.187~189」岩波文庫)

力はいかにして増減するのか。力の諸変態についての哲学。

「自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。ーーー自由であると我々の表象する物は、他のものなしにそれ自身によって知覚されなければならぬ。ゆえにもし我々がこうした物を喜びあるいは悲しみの原因であると表彰するなら、まさにそのことによって我々はそれを愛しあるいは憎むであろう。しかも与えられた感情から生じうる最大の愛あるいは憎しみをもって愛しあるいは憎むであろう。これに反してもしこの感情の原因たる物を必然的なものとして表象するなら、我々はそれが単独にでなく他の物と合同してこの感情の原因であることを表象するであろう。したがってその物に対する愛および憎しみは《より》小であろう。ーーーこの帰結として出てくるのは、人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対してよりも相互に対して《より》大なる愛あるいは憎しみをいだき合う、ということである。なおこれに感情の模倣ということが加わる」(スピノザ「エチカ・第三部・定理四九・P.219」岩波文庫)

そして次に「他者」とは何かについて述べている箇所。

「各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている」(スピノザ「エチカ・第三部・定理五七・P.231」岩波文庫)

一方の個人が他者と異なっているのは両者が同一の「言語ゲーム」にいないことを前提する。だが他方で、個人にとって、他者が他者であることを知っているためには同一の「言語ゲーム」を共有することができていなくては、わからないということすらわからない。両者は「言語ゲームA」と「言語ゲームB」とが接触する地点で始めて、他者について何らかのことを知ることができる。そして「言語ゲーム」の同一性は「生活様式」の同一性にかかっている。

始めはこんなところでいいのではと思う。あとの解釈は「解釈の解釈の解釈のーーー」と続いていってしまうことがよくある。無限の解釈は無意味だ。どこでどのように決定するか。決定権は自分自身にある。それが大切だろうと思う。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化7

2019年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
特定の「言語ゲーム」は絶対的なものではない。むしろ複数の他者を「言語ゲーム」として持つ。従って「教える/学ぶ」という不均衡な関係は、両者が入れ替わり立ち替わりしながら、維持されたまま存続する。しかし次のようなケースはどうだろうか。

「そうすると、私は『命令』の何たるか、『規則』の何たるかを『規則性』によって説明しているのか。ーーーどのようにしてわたくしは他の人に『規則的』『同形』『同じ』ということの意味を説明するのか。ーーーたとえばフランス語しか話せないひとにはわたくしはこれらの語をそれに対応しているフランス語によって説明するだろう。しかし、そのような《概念》をまだもっていないひとには、わたくしはそのことばを《例》を介し、また《練習》を介して使うことを教えるだろう。ーーーそして、その際、わたくしはかれに自分自身の知っていること以上のことを伝えているわけではないのである。それゆえ、こうした授業にあっては、わたくしはかれに同じ色、同じ長さ、同じ形を示し、かれにそれらを発見させ、作り出させる等々のことをするであろう。たとえば連続模様を命令があれば<同様>に継続していくよう、指導するであろう。ーーーあるいはまた、級数を継続していくように。それゆえ、たとえば・ ・・ ・・・ とあれば、・・・・ ・・・・・ ・・・・・・ と続けていくように。わたくしがそれをあらかじめかれにやってみせ、かれがわたくしのあとでやってみる。そして、わたくしは同意や拒絶や期待や励ましの表現を通してかれに影響を与える。わたくしはかれにまかせたり、かれをひきとめたりする、等。あなたがそのような授業の証人であったと思え。そこではいかなる語もそれ自体を用いて説明されず、いかなる論理的循環も起らないとする。また『等々』とか『等々、無限に続く』とかの表現も、この授業の中で説明されるであろう。そのためにはまた、とりわけ身ぶりが役立つことがある。『同じように続けて!』とか、『等々』とかを意味する身ぶりには、ある対象やある場所を指示する機能に比較できるような機能がある。書きかたの省略である『等々』と、そうでない『等々』とは区別される。『等々、無限に続く』というのは、『けっして』書きかたの省略ではない。われわれがπのあらゆる桁数を書き出せないということは、数学者が時おり信じているような、人間の欠陥ではないのである。提示された諸例から離れないようにしている授業は、それらを<《越え出ていく》>授業から区別される」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.165~166』大修館書店)

一定の文脈に従っている授業が「提示された諸例から離れないようにしている授業」、ということになる。ではそれらと区別される「それらを<《越え出ていく》>授業」とは一体どのような授業なのだろうか。それは授業と呼ばれるべきなのか。呼ばれるべきでないなら、それは授業ではないのか。だがそれにしても、授業が一定の文脈を《越え出ていく》とき、人々はそれを感知することができるのか。一定の文脈を《越え出てい》ると、なぜわかるのか。それともあるいは一定の文脈を《越え出てい》るとはわからない思考状態(思考の混乱)に陥ることで始めて、人々は、その授業について一定の文脈を《越え出てい》ると気づくのだろうか。おそらくそうだろう。しかし、《越え出ていく》とは、実際どのような状態なのか。

リルケに次のような詩がある。

「ちょうど張りつめた弦(げん)に堪えぬいた矢が力をあつめて飛びたつとき 矢《以上》のものとなるように。まことに定住はいずこにもないのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.11」岩波文庫)

ものはいつもそれ以上か以下かでしかない。動的な変容を免れることはできない。人間にとって「定住」もまた厳密には「ない」と言える。しかしリルケが言おうとしていることはもっと緻密で微細なことだ。

「もとよりただならぬことである 地上の宿(やど)りをはや捨てて、学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく、バラの花、さてはその他の希望(のぞみ)多いさまざまの物に、人の世の未来の意義をあたえぬことは。かぎりなくこまやかな配慮の手にいたわられることも もはやなく、おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去ることは。この世の望みを望みつづけることも絶え、たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行くのを見ることは」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.12~13」岩波文庫)

この部分には様々な事態が詰め込まれている。「学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく」「おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去る」「たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行く」、とリルケはいう。個々の事態は様々なのだが一般的な言葉でいえば「統合失調症」の症状に典型的な自己解体感覚だということができるだろうと思う。それまで統一を保っていた精神と身体とがばらばらになっていく感覚。リルケの文章からはそのときの心細さがよく読み取れるかと思う。

「けれどわれわれ人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐(は)く息とともに 消滅し無に帰するのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.16」岩波文庫)

「気化」する。あるいは「気化」するかのように「書く」ことは可能だろうか。

「恋するものたちよ、そのときおんみらはなおも永遠の持続を感知するおんみらで《あり》つづけるのか。おんみらがたがいの口へと 爪先(つまさ)き立ち、面(おもて)をあわせて一口(ひとくち)一口とすするとき ああ、いかにそのとき奇怪にも、すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆくことか」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.20~21」岩波文庫)

「すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆく」と、リルケはいう。存在する身体は「すする」という「行為」そのものへ転化する。

「と突然、このたどたどしい『どこでもない場所』のなかに、突然、言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少(かしょう)が 解(かい)しがたく変容してーーーあの空無の 夥多(かた)へと急変する」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第五・P.44」岩波文庫)

これら「変容/急変」は、気づかないだけのことであって、人々はときどき「変容/急変」しないだろうか。しないとすれば本当にそうか。

「すべての眼で生きものたちは 開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが いわば反対の方向をさしている。そしいて罠(わな)として、生きものたちを、かれらの自由な出口を、十重二十重(とえはたえ)にかこんでいる。その出口のそとに《ある》ものをわれらは 動物のおももちから知るばかりだ、おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる。動物の眼に あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.60」岩波文庫)

「おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる」。形態の外について、「わたしたち」は一体何をそんなにも脅えているのだろうか、とリルケは問いかける。

「いつのとき、いかなる場合にも観(み)る者であるわれわれは、すべてのものに向きあっていて、けっしてひろいかなたに出ることはない! それらはわれわれをいっぱいに満たす。われわれはそれらを整理する。それらは崩れる。ふたたびわれわれは整理する、と、われわれ自身が崩れ去る」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.65」岩波文庫)

リルケが「崩れる」というとき、何が崩れていくのか。要するに、規則・文法は絶対的なものではない、ときどき崩れ去っているのだと語りかけているのではなかろうか。リルケの態度は余りにおずおずとし過ぎている傾向があるものの、かといって言っていることはとても重要なことに違いない。

リルケの繊弱さとは裏腹にワイルドはもっと大胆で皮肉を効かせる。

「『人間というやつは、もっともひどい悪習を失った場合でも、後悔する。いや、もっともひどい悪習にたいしてこそ、もっとも烈しい後悔の念を禁じえないのかもしれない。それほどまでに悪習は人格の欠くべからざる一部となっているのだ』」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.399」新潮文庫)

ヘンリー卿のせりふだが、ドリアンとヘンリー卿と画家との三人が織りなす同性愛関係はもうすでに明らかと言わねばならない。

さて、プルーストについてはまだまだ残っている。ドゥルーズ&ガタリから一節だけ引いておこう。

「ある種の女性は何でも洗いざらい話すし、語るにあたって高度の技巧をこらす。にもかかわらず、話が終わった時点で、話が始まる前よりも多くのことがわかるわけではないのだ。彼女たちは迅速さと透明性によってすべてを隠したのである。女性には秘密がない。自身が一個の秘密と化したからだ。このような女性は私たちよりも政治的だろうか?イピゲネイア。《先験的に無罪である》ーーーこれが、男性によって声高に叫ばれる『先験的に有罪である』という審判にあらがいつつ、少女が求めていることなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.271」河出文庫)

プルーストから。ランダムに引き出してみよう。

「一体その二人のなかで、アルベルチーヌとアンドレとのけじめはどうなっていたのか?それを知るためには、あの小さな一団のあなたたちを不動化する必要があるだろう、あなたたちがたえず他者に移りかわるという期待をいつもあなたたちにもちつづけて生きることをやめる必要があるだろう、あなたたちを定着するためには、あなたたちを愛することをやめなくてはならないだろう、つねに面くらわせながらたえずつぎからつぎへとやってくるあなたたちをもう目にとめないことにしなくてはならないだろう、おお、乙女たちよ、おお、渦巻のなかにつぎつぎにさしこむ光線よ、その渦巻のなかで、われわれは、目もくらむ光の速度にあなたたちの姿をたちまち見失いながらいつまたその出現が見られるかと胸をどきどきさせるのだ。もしもわれわれをひきつけるセックスの力が、あなたたちのほうにわれわれを駆けよらせなかったら、そんな光の速度をわれわれは知らずに過ごすかもしれず、すべてはわれわれに不動化して見えることだろう、あなたたち、つねにわれわれの期待を越え、つねに同一の形をもたぬ黄金のしずくよ。一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものになるので(その姿は、われわれがそれを認めたかと思うと、それまで自分がもちつづけた回想と、いま自分にひきだしつつある欲望とを、粉々にうちくだいてしまうので)、われわれがその少女にもたせようとしている性格の安定は、虚構でしかなく、言葉の便宜にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.105~106」ちくま文庫)

「一人の少女の姿」を「言語の便宜」によって固定しようとするが、それはいつも「虚構でしかなく」なる。むしろ「一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものにな」り、「それまで自分がもちつづけた回想」《と》、「いま自分にひきだしつつある欲望」《と》「を、粉々にうちくだいてしまう」わけだが、「粉々に」《なる》そのあと、「粉々に」なったそれぞれのものとしてはもう変わってしまっている。変態を遂げて別のものへと変わっている。

「私は否定するわけではない、そんなばら色の光にかがやく少女たちにも、截然と区別される性格をわれわれがその各自に割りあてるであろう日がやってくることを。しかし性格がはっきりするということは彼女らがわれわれの興味をひかなくなってしまうからであり、彼女らの登場がかつてわれわれの心を転倒させたような出現ではもはやなくなるからであって、われわれの心はかつては彼女らの出現がいつも異なるさまを展開することを期待していたのであり、そのたびごとに新しい化肉に接してわれわれの心は転倒させられたのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.108」ちくま文庫)

かつて「われわれの心は転倒させられた」わけだが、もはや個々の「性格がはっきりするということ」によって「われわれの興味をひかなくなってしまう」。なるほどそう言えるかもしれない。そしてそれはまた事実でもある。けれども、事実のすべてではまったくない。小説の結末でプルーストはあらゆる過去を、「失われた時を」取り戻したと確信している。しかしそれこそ実は記憶という言葉が誘惑して止まない「罠」と言うべきものではないのか。事実はどうか知らないが、問題になっているのは事実ではなく、結局は記憶の誘惑に屈してしまったラストの不毛性なのだ。逆にいえば、「失われた時を」取り戻さずに未完のまま一応、叙述し終えるということも可能ではあった。がプルーストはそうしていない。なぜだろう。プルーストはフロイトの誘惑に敗北したと言える。過去の手紙は常に宛名に届くか、という問題。常にそうだとラカンは述べた(「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」)。精神分析は常に的に当たらなくてはならないという強迫観念がラカンにはある。また逆に、そうではなく、必ず宛名に届くとは限らない、どこかへ行方不明になってしまう可能性がいつもある、とデリダは述べた(東浩紀のいう「郵便的」)。そして「郵便的」である限りで、常に優勢且つ暴力的で大手スポンサーの操り人形でしかない世論に対する否定性を発信することが可能だった。ところが郵便的=誤配可能的であったはずの「手紙」は昨今危機に瀕している。メールにしてもネット上のほんのちょっとした「つぶやき」にしても、行方不明になるどころか、逆にその逃走線を突き止められて実際の訴訟(常に権力者の側が勝訴するようにできている訴訟)すら勃発するに至った。ネットはもはや管理社会の内部に組み込まれてしまったのだ。ネット空間でのささやかな抵抗として「郵便的」な形態が幾ばくかの否定性と地政を持った時代は終わった。

「とにかくわれわれの女の友人たちは、期待の目まぐるしいはやさのなかで、毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれたので、そのとまらない疾走のあいだに、彼女らに分類を設けたりランクをつけたりすることはとうていわれわれには不可能だったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.109」ちくま文庫)

そもそも少女は「ランク」をつけるという行為の暴力性を受け付けない。「期待」する側は同一物の復帰を望むのだろうが、少女というものはもともと、「毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれ」つつ常に「とまらない疾走」として変身している、だけでなく、ますます変身していく。

「記憶のなかに貨幣の肖像のように変わらずに保存されているあの肖像、しかしそれをふたたび見出すとき、われわれはそれがいまの知人とは似ても似つかぬことにおどろく、われわれは習慣が日に日にどんな肉づけ工作をおこなったかを思い知らされる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.111」ちくま文庫)

「習慣」による「肉づけ工作」とは何か。ニーチェが様々なところで批判している。参照してほしい。

次のセンテンスは比較的わかりやすいと思う。アルベルチーヌは「植物」に《なる》。描写もとりわけ単純だ。だからといって、いつでも単純であればよいというわけではないけれども。

「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)

アルベルチーヌは次に、というより、ときどき「鳥」に《なる》。「玉虫色」の「つばさ」を持った「鳥」に。ところが、そのような魅力は「囚われの身になると」ともに「ことごとく失」われてしまう。

「ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失う」(プルースト「失われた時を求めて8・P.298」ちくま文庫)

しかし、私物化されたために「大きな価値」を失くしてしまったアルベルチーヌではあっても、価値は変化しないものだろうか、と問うことはできる。そして実際考え直してみると、アルベルチーヌは「囚われの身にな」って価値下落を起こしたことでかえって変態可能性をまたもや示したわけであり、さらに彼女あるいは彼とも決定付けられないまま「水陸両棲」類に《なる》ことを証明してもいる。

「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)

だからといって、事実上の蛙になるわけではない。両棲類への生成変化が問題なのであり、常に一元化を狙う国家装置からの《脱領土化=逃走線》として生きること〔速度化すること〕が大切なのだ。ここでいう速度は、速い場合もあれば遅い場合もある。とはいえ何も、何かを、はぐらかそうなどとしているわけではまったくない。他人の期待に添えなかったからといって一体どこの誰が刑罰を受けねばならないのか。むしろ問題なのは、蛙の子は蛙の子なのであり、蛙の子のまま生成変化(欲望のプロセス)するのであり、間違ってもオタマジャクシにはならないということでなくてはならない。

「ときとして、アルベルチーヌの目のなかに、また彼女の顔色の突然の紅潮のなかに、私は感じるのだった、一筋の灼熱の閃光のようなものが、私には空よりも近づきがたい地帯を、ちらっと走りすぎてゆくのを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.682」ちくま文庫)

アルベルチーヌはもはや手の届かないところへ行く。手ではなく目である。ここでは目になることが大事だ。いずれにしても重要なのは身体だ。また、世論はどのようにして成り立っているかを知らないか知ろうとしなくても済まされている人々にとって、次の一節は痛切に響くかもしれない。

「なるほど私は、アルベルチーヌをひざにだきあげ、彼女の頭を両手でかかえることもできる、彼女を愛撫し、彼女のからだの上に両手を長くさまよわせることもできる、しかし、私が感じるのは、あたかも太古の大洋の塩分を含有する石かそれともまたある星の光線かをもてあそぶように、内部から無限のものに接している一個の存在のとじられた被膜に自分がふれているということでしかなかった。自然がわれわれを陥れたそんな立場になんと私は苦しんだことだろう、自然は忘れてしまったのだ、われわれ各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にすることを!そのようにして私は理解するのだった、アルベルチーヌは私にとっては(たとえ彼女の肉体は私の肉体の権力に屈していても、彼女の思考は私の思考の拘束から脱しているのだから)、すばらしいとりこでもなんでもなかったということを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.683」ちくま文庫)

自分自身が思い込んでいたようではまったくなく、アルベルチーヌは「すばらしいとりこでもなんでもなかった」。所有不可能なのだという認識には達している。しかしそのような認識へ到達するまでにプルーストは途方もない時間をかけている。このことは決して馬鹿にできない。「各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にする」とある。プルーストはそう祈念することができた。プルーストが時として危険な小説家であるのは次のような場合だ。たとえば、厳格な掟に従って構造化されているブルジョアとプロレタリアの階級関係。もし両者(二人)の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きた場合を想定した読者が多くいたということ。さらにしばしば登場する「海」である。「海水浴」はとてつもない危険行為になる。場所は隔てられていたとしても海は繋がっている。「海水浴」している間、水の流通を介してブルジョアとプロレタリアの階級関係はまったく暴力的なまでに混在を余儀なくされている。両者はひどく絡み付き合ってしまうばかりでなく、両者の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きることはもはやすでに不可避的に考えられうる。

なお、リルケ「ドゥイノの悲歌」の中でも注目すべき第一・第二の部分が書かれたのは一九一二年。日本でいう明治四十五年・大正元年のこと。夏目漱石「彼岸過迄」連載開始。中国清朝滅亡。レナ虐殺事件。夕張炭鉱爆発事件(四月)。初代「通天閣」完成。乃木希典殉死。第一次バルカン戦争勃発。大杉栄「近代思想」刊行。夏目漱石「行人」連載開始。夕張炭鉱爆発事件(十二月)。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化6

2019年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
混乱に陥る「言語ゲーム」は果たして「言語ゲーム」なのだろうか。それとも混乱に問題があるのか。

「この国の人たちが通常の人間的な諸活動を行ない、その際に文節言語と思われるものを用いている、と想像してみよう。かれらの行動を見ていると、理解できるし、われわれにとっては<論理的>であるように見える。ところが、われわれがかれらの言語を学習しようとすると、そのようなことは不可能であることが判明する。すなわち、かれらの場合には話されたこと、〔すなわち〕音声と、行動との間に規則正しい連環が成り立っていないのである。しかし、それにもかかわらず、それらの音声は余分なものではない。なぜなら、たとえばこの人たちのひとりに猿ぐつわをはめたりすると、それがわれわれの場合と同じ効果をもたらすからである。その音声がないと、かれらの行動は混乱におちいるーーーとわたくしは表現したい。われわれは、この人たちが言語をもっている、つまり命令やら報告やらを行なっている、と言うべきであろうか。われわれが『言語』と呼んでいるものには規則性がたりない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇七」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.164~165』大修館書店)

もっと多数の規則が、ではなく、「規則性」がたりない、ということ。もし仮に「規則性」がたりている場合、言語Aの使用者と言語Bの使用者との間では問題なく理解し合えることになるのだろうか。理解し合うことが可能だと理解できれば、その場合、両者は互いに互いの言語の「規則性」を習熟したと言うことができるのだろうか。だとすると、規則ではなく、「規則性」について習熟したというわけなのか。ならば、両者は互いの規則についてではなくて、「規則性」について思い及ぶべきだったのだろうか。しかしそれは一方が教える側に立ち、他方が学ぶ側に立つ、という契約が成立して始めて解決への方向性を探ることができる関係ではないだろうか。言語の規則と「規則性」との違いは、「教える/学ぶ」という不均等な関係の下で、「規則性がたりない」という要求として始めて発見されるような違いなのではないだろうか。

言語なしに人間はコミュニケーション不可能だ。しかしコミュニケーションには完全なコミュニケーションというものはなく、いつもすでにコミュニケーションは不完全でしかない。だからこそ、言語を必要とする。もし仮に完全なコミュニケーションというものが本当にあるとすれば、そのとき、言語は必要なくなるだろうからだ。言語が必要とされる限り、人間同士のコミュニケーションは常に、最もスムーズな場合でも、不完全性を免れることはできない。そういう事情を常に抱えている人間社会であるからこそ、「ノマド」という概念を発明するに至ったともいえる。

「ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.310」河出文庫)

そして「変身=分身」について語られるようになったのもまた当然だった。生成変化はニーチェから来た用語だ。そしてニーチェが「主体」という考え方に疑問を持ったように、ドゥルーズもまた「主体」という考え方に対して常に疑問を持っているのだが、後者ではより一層「主体」の変容=変態ということに重点が置かれているばかりか、むしろ「主体」は消えてしまって変化過程が凝視されているように見える。変化=変態は、人間がただ単なる「有機体」であることを疑問に付す。だからといって、「男」が「狼男」になるためには実在する「男性」と動物の「狼」の合体が必要になるわけでは決してない。そのようなことを言っているわけではまったくない。むしろ、実在する「男性」はその「識別不可能性のゾーン」に流れ込むことで「狼男」に《なる》のであって、何も人と動物の合体物としての「狼男」が実在すると言っているわけではない。ドゥルーズ&ガタリはもっと身近な例を上げて述べる。人間は一般的に生命力を持った人間の身体として生まれてくるが、性は、強調するとすれば、変身=分身への意志として生成変化する力としても生まれてくる。

「ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ。ここで問われるべきなのは、大がかりな二元的機械の内側で男性と女性を対立させる有機体や歴史や言表行為の主体ではない。というか、それだけが問題になっているのではない。ここではまず身体が、つまり二元的に対立する有機体を製造するためにわれわれから《盗まれる》身体が問題なのだ。ところが、まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよーーー。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の例を見せつけられ、欲望の対象として少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押しつけられる。つまり少女は最初の犠牲者でありながら、もう一方では模範と罠の役割を果たさなければならないということだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.242~243」河出文庫)

プルーストから引用したい。

「そして私の内部に相ついで刻々立ちあらわれる想像のアルベルチーヌの無限の系列」(プルースト「失われた時を求めて3・P.285」ちくま文庫)

次の文章では「欲望や想像力」が言語によって素早く加工され、魅力を失ってしまうことについて書かれている。

「こちらの名が紹介者の唇にのせられるとき、とりわけ紹介者が、エルスチーヌのやったように、こちらの名を賛辞をまじえた説明でつつむときーーーそんな秘蹟にもひとしい瞬間には、仙女物語で妖精がある人物に向かって突然他の人物になることを命じるあの瞬間のように──われわれが近づこうと望んだかつての相手の女は消えうせてしまう。まず第一に、どうして彼女が以前のままの彼女自身であることができよう?なぜならーーーその女が、こんどはわれわれの名前にたいして注意をはらわなくてはならず、われわれの身分にたいして心遣を示さなくてはならなくなったためにーーーきのうまで無限の距離に遠ざかっていたその女の目のなかに(そしてわれわれの目のほうは、あてどなくさまよい、乱れ、絶望し、焦点を失っていて、永久に交しあうこともあるまいと思われていたその女の目のなかに)、われわれ自身の像が、奇蹟的に、きわめて簡単に、あかるい鏡の奥に映るように、ぴたりとおさまって、これまでわれわれが相手に向かってさぐっていた一方的な視線とか通じあわない思考とかを追いだしてしまったからである。この上もなくわれわれから異なるように思われたものへの、そんなわれわれ自身の化肉は、われわれが紹介された直接の相手の人物を、著しく変えてしまうとしても、相手の形は、まだそのときは漠然としたままであって、その人物が、神になるのか、テーブルになるのか、それとも洗面器になるのか、よくわからないといぶかることもわれわれにはある。しかし、やがて未知の女がわれわれに向かっていう挨拶の数語は、見ている目のまえで五分のうちに胸像をつくりあげる蠟細工師のように、手早く、その女の形を明確にし、前夜までわれわれの欲望や想像力が寄りかかっていた仮定をことごとく排除してしまうほどの決定的な何物かを、その未知の女の上に加えるであろう」(プルースト「失われた時を求めて3・P.309~310」ちくま文庫)

ところが。

「それにまた、そんな言葉をつかって、一挙に現実化したからといって、アルベルチーヌが、もうこの最初の変身ののち、私にとってたびたび変化することはなくなる、というわけではない」(プルースト「失われた時を求めて3・P.311」ちくま文庫)

そしてそれは「それ自身で変化してい」く。

「いろいろ模索しながら、われわれは最初の視覚的錯誤を認めたのちに、はじめてある人の正確な認識に達することができるのであろう、ただし、そうした認識がはたして可能であるとすればである。しかしあいにくそれがなかなかそうは行かない、なぜなら、われわれがその人についてもつ視像が、つぎつぎと訂正されてゆくあいだに、その人は無生物ではないから、それ自身で変化してゆき、われわれがふたたびとらえたかと思うと、その人はもうつぎの点に移動し、こんどこそはより明瞭にその姿を見たと思っても、それはわれわれが以前につかんだ古い映像にすぎず、明瞭化に成功したと思われるものも、もはやその人を示すものではないからだ」(プルースト「失われた時を求めて3・P.312」ちくま文庫)

「私にたいする彼女らのありかたは、私がこうと思っていたものに一致したためしはまったくなく、次回の会合への期待は前回のときの期待に似るというよりも、むしろ今回の会話のなまなましく残るその回想に似ることになり、そんなふうに予想を許さない彼女らのありかたは、私の心にはげしい動揺を呼びさますのであって、そうなると、どんな散歩も、私が考えていた計画とはがらりと変わってしまうし、しかもそれは、私が部屋の孤独のなかで静かに頭に描くことができた方向ではまったくない、ということになるのがわかるだろう。そのように頭のなかで考えられていた方向は、私の心をかき乱していつまでも心のなかにひびいている会話の印象のためにまるで蜂の巣のように震動しながら私が帰ってくるときは、もう忘れられ、すてさられているのだ。どんな存在も、われわれがそれを見なくなれば、いったん滅びる、つぎにそれがふたたびあらわれるときは、それは新しい創造で、それまでのすべての創造とはちがっていないまでも、すくなくともその直前のものとはちがっている。ということは、そうした何回もの創造を支配しうる最小限の変化も、一元化ではなくて、二つにわかれるからである」(プルースト「失われた時を求めて3・P.384~385」ちくま文庫)

こうして「二つにわかれ」た瞬間、その一つ一つは別々のものへ生成変化している。「伸縮自在」でもある。それが語り手の欲望をさらに引っ張り出してくるわけだ。

「彼女らの顔は動くが、その動くうちにも、目鼻立が比較的固定しはじめて、そこから、貨幣にうちだされた肖像のようなものが、輪郭をぼかした、伸縮自在の大きさであらわれてくるようになって、私の欲望は、ますます官能を増しながら、彼女らのあいだをさまようのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.430」ちくま文庫)

アルベルチーヌは実に様々で、「無数に変わる」。「その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがってい」るのでなくてはならない。

「そうしたさまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)

次のセンテンスでアルベルチーヌは「多様な海」に《なる》。

「そのときの私次第で、私のまえにけっして同一の姿をあらわさなかったそのアルベルチーヌの一人一人を、ちがったふうにとりあげなくてはならなかっただろう、そんなさまざまのアルベルチーヌは、あの多様な海ーーー便宜上私は単数で海と呼んでいるのだが、じつはつぎつぎに変わってゆくあの多様な海ーーーに似ていたのであって、そんな多様な海のまえに、ほかでもないニンフのアルベルチーヌが、浮きだしているのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.435」ちくま文庫)

さらに今度は増殖するアルベルチーヌ。ここでアルベルチーヌは「いくつもの顔をもった女神」に《なる》。

「私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌなのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった」(プルースト「失われた時を求めて5・P.98」ちくま文庫)

だいたいわかってきたかも知れない。ところでここ数ヶ月世間を騒がせているジェンダーをめぐる一連の差別発言(行為)について。もっときめ細かな議論があってよいと思っている。ないがしろにされてしまっている感が拭い切れない。三十年前はこうではなかった。むしろもっと丁寧であるべきはずだったし議論もその方向で進んでいくものだと考えていたのだが。なぜか昨今は逆にはなはだ残念な事態に陥っていると考えざるを得ない。少なくともここではプルーストの引用から引き出せるものを引き出しておく必要があると思われる。同性愛に関してなのだが、といっても、最もポピュラーなカテゴリーについてプルーストが述べている部分。第一に倒錯一般について。第二に男性の同性愛について。第三に女性の同性愛の様相について。

「すくなくともこの当時彼らの生活の矛盾から私が頭に描いた最初の理論によれば、そして、彼らのそんな矛盾が彼らのいまの生活の目先の幻影そのものによって彼らの視野から見えなくされていなかったとしたら、私の理論から出てくるものは何よりも強く彼らを悲嘆に陥れただろうーーー彼らは愛しながらも、その愛の可能性がほとんどとざされている恋人たちなのだ。ただその愛にかける希望によって、あのように多くの危険と孤独とに堪える力があたえられるが、愛の可能性はほとんどとざされている。というのも、女の要素をすこしももたないであろう男、倒錯者ではないであろう男、したがって彼らを愛することはありえないまさにそのような男に、彼らは強くひかれるのであるから。だから、彼らの欲望は永久に満たされないだろう、ーーー金銭によって真の男を手に入れないかぎりは、また、そのようにして買われた相手の倒錯者を、想像力によって真の男だと思いこむようになってしまわないかぎりは。彼らの名誉も、罪が発覚するまでの、はかない夢でしかなく、自由もかりそめのもの、地位も不安定なものでしかないことは、たとえば、前日ロンドンのすべての劇場で喝采され、すべてのサロンで歓迎されたのに、翌日はどこの家具つきの部屋からも追いたてられ、頭を休めるべき枕さえ見出すことができず、サムソンのように獄舎のなかで労役の臼をひき、またサムソンのように、男女二つの性は別々に死ぬだろう、とつぶやく詩人の場合と同一であるが、そのようにして彼らは、大きな不幸の日々、たとえばユダヤ人がドレフェスのまわりに集まったように、大部分の人々が犠牲者のまわりに集まる大きな不幸の日々を除けば、彼らの仲間の人々の同情からーーーときとしてはその社会からーーー除外さえされるのであって、鏡のなかに写しだされた彼らのありのままの姿を見るような嫌悪感を、そうした仲間の人々にあたえるのであり、この鏡は、もはや彼らを実物以上に見せないばかりか、彼らが自分たちのなかに認めたくなかったような欠点をもことごとく暴露し、彼らが自分たちの愛と呼んでいたものは(これまで詩、絵画、音楽、騎士道、苦行などが愛につけくわえてきたあらゆる社会的な意味を、彼らは言葉の洒落を弄して、自分たちの愛につけくわえていた)、彼らが選んだ美の理想から発しているのではなくて、なおらない一つの病気から出ているものであることを、彼らにさとらせるのである。そのようにして彼らは、さらにまたユダヤ人のように(ユダヤ人といっても、自分たちの種族の人間としか往来せず、つねに定式の用語や公認の冗談しか口にしない人たちを除いて)、たがいに同類者を避け、自分たちとはもっとも反対の、むしろ自分たちを好まない人々を求め、そんな人々の荒々しい排斥に腹を立てず、お世辞でもいわれると有頂天になってしまうことがある。しかしまた、急にはげしくなったオストラシスムのためにたがいに同類でもって集まりながら、その身に受けた汚辱が、イスラエルの迫害にも似た迫害によって、ついに一種族の肉体的、精神的性格をーーーときには美しいがしばしば醜悪な性格をーーーおびるにいたり、同類者とのそのような往来のなかに一種のくつろぎを見出し(反対の種族にもっと深くまじりあい、もっとよく同化し、ほとんど倒錯を脱したかに見える人間が、まだそれの強く残っている人間に浴びせかけるさまざまな嘲笑にもかかわらず)、またそのような生きかたのなかに一つのささえをさえ見出すにいたるのであって、その結果、彼らは、自分たちがある種族(その種族の名をいわれることは最大の侮辱なのだ)であることを否認しながらも、自分がその種族であることをうまくかくしている人々の仮面を、好んでひっぺがすのである。それはその人々を傷つけるためであるよりはーーー傷つけることもきらいではないがーーーむしろ自己弁護のためであり、そのようにして彼らは、医者が盲腸の疾患をさぐりあてるように、歴史のなかにまで倒錯者をさがし求めながら、同性愛が正常であった時代には異常者はいなかったこと、キリスト以前には反キリスト教徒はいなかったこと、汚辱だけが罪をつくりだすことを考えあわせないで、たとえばイスラエル人たちがキリストのことをユダヤ人であったといって得々とするように、ソクラテスが倒錯者の一人であったことに注意を喚起して、快楽を味わうのである。それというのも、同性愛は、一種独特の先天的な素質のために、どんな説教にも、どんな模範にも、どんな罰にもさからって生きる人間だけを存続させてきたからであって、そのような素質は、それとはちがった、たとえばぬすみとか、残忍性とか、不誠実とかいったほかの悪徳よりも以上に、他の人々には嫌悪される(もっとも、そのような素質が高い道徳性を伴うこともありうるのだが)、それにくらべて、ぬすみ、残忍性、不誠実などの悪徳のほうは、一般の人々によってよく理解され、したがって大目に見られてゆるされることが多い。そのようにして、そんな素質をもった彼らは、一つの秘密結社を形づくるのであるが、それはあのロージュと呼ばれる秘密集会所をもつフリーメースン団よりも、もっと広汎で、もっと能率的で、もっとあやしまれることがない、というのは、その結社は、もともと嗜好、欲求、習慣、危険、習練、知識、取引、語彙などの同一性にもとづいてつくられるものであるから、その会員たちは、たがいに知りあうことをねがわなくても、自然なまたは暗黙の合図、無意志的なまたは有意の合図で、ただちにそれと認めあうのであって、乞食が大貴族の車の扉をしめるときその大貴族のなかに自分の同類の一人を認めたり、娘の父親がその娘の婚約者のなかに自分の同類を認めたりするのも、自分の病気をなおしたい、告解をしたい、弁護してもらいたいと思った人間が、たのみに行った医者のなかに、司祭のなかに、弁護士のなかに、自分の同類を認めたりするのも、そんな合図によるのであり、そのようにして彼らはそれぞれ自分の秘密を守らなくてはならないが、しかしほかの人々があやしまないような相手のある秘密をさっと自分に感じとってしまう結果、まったく真実とは思われないような恋の波瀾を織りこんだ小説も、彼らには真実であるように思われる。というのは、そのような時代がかった、猟奇的な生活にあっては、大使が徒刑囚の友人であったり、大公が、公爵夫人のもとを辞したその足で、貴族の教育が身についた人間のーーーびくびく者の小ブルジョワにはまねのできないーーー闊達なあゆみをはこびながら、さかり場へ無頼漢とひざをまじえに出かけていったりするからであるが、そうした彼らは、人間集団にあって、神に見はなされた一部分であっても、けっして見すごすわけには行かない部分であって、意外にもそれは存在しないように思われるところに存在し、まさかと思われるところに、罰せられずに、大胆に、のさばりかえっている。そのようにしていたるところに、民衆のなかに、軍隊のなかに、神殿のなかに、徒刑場のなかに、王座のなかに、その加盟者を擁しているのであって、そうした彼らは、要するに、すくなくともその大部分は、他の種族の人たちと、なれなれしい、危険な親睦のなかに生きながら、その人たちに挑発的なことを言い、その人たちをつかまえて、自分の悪徳を、あたかもそれが自分のものではないかのようにたわむれに話すのだが、そのたわむれは、話相手の盲目または頬かぶりによって、たやすく受けいれられてしまい、破廉恥が発覚して、その危険な調教師が猛獣に食われて身を滅ぼす日まで、数年にわたってつづけられることもある。そしてそれまでのあいだ、彼らは、その生活をかくさなくてはならず、自分たちが目をすえたいところから目をそらし、目をそらしたいところに目をすえなくてはならず、つかう語彙のなかで多くの形容詞の性を変えなくてはならない。そういう社会的拘束は、しかし外的なもので、彼らの悪徳ーーー不適当にもそう呼ばれるものーーーが、重い力でもって、他の人たちにでなく彼ら自身に加えている内的な拘束にくらべると、まだしも軽いものであって、軽いものであるから、彼らには一つの悪徳とは見えないのである」(プルースト「失われた時を求めて6・P.31~35」ちくま文庫)

「くらげ!蘭!たとえば私は、自分の本能にしたがうだけで何も深く知らなかったあいだは、バルベックの海岸で見かけるくらげが、ただ気味わるいだけであった。しかし、ミシュレのように、博物学や美学の見地からくらげをながめることを知るようになると、まるでコバルト・ブルーのまわり花火のようになんともいえない美しさに見えた。透明なビロードの花びらをそなえて、くらげは、まるでモーヴ色の海の蘭ではないか?動植物界の多くの生きもののように、またヴァニラ・エッセンスを分泌する植物のように、シャルリュス氏という人は特異な人種であった。といってもこのヴァニラという植物は、その花の内部で、雄の器官が雌の器官から一つの子房の仕切でへだてられているので、蜂鳥か小さな蜂の類が花粉をはこんで異株交配してくれるか、人間が人工的に受精させるかしないと、受精しないのだが、シャルリュス氏は(この人の場合、受精という語は、精神的な意味にとられなくてはならない、なぜなら、肉体的な意味では、雄と雄との合体は、受胎にいたらないのだから、しかし、ある人間が、自分に味わいうる唯一の快楽に出会うことができるという点、そして『この世ではどんな存在も』、誰かに『おのれの音楽、情炎、または芳香を』あたえることができるという点は、等閑(なおざり)にすべき問題ではないのである)、そんなシャルリュス氏は、異例と呼ばれるにふさわしい人間の一人であった。というのも、性的欲求の満足が、他の人間にあっては、それがいくら多人数であっても、きわめて容易であるのにひきかえ、彼のような人間にあっては、あまりにも多くの条件の偶然の一致にかかっていて、しかもその偶然に出会うのがあまりにも困難だからだ。相互の愛というものは、一般の人たちにあってさえ非常に大きな、ときには越えがたいほどの困難に出会うのだから、ましてやシャルリュス氏のような人たちにとっては(快楽の欲求を不承不承にあきらめることによって強いられる妥協がこれからあとに徐々に目に立ってくるだろうし、それはすでにわれわれが気づいたことでもあるが、そういう妥協をしばらく保留するとしても)、相互の愛は、きわめて特殊な困難を増してくるので、普通の人間に平生きわめてまれならば、彼のような人たちにたいしては、ほとんど不可能に近いということになる。したがって、もしほんとうにめぐまれた幸運な出会が実現するか、または自然がその出会をそんなふうに幸運に見えるようにするとき、彼らの幸福は、正常な恋人の幸福よりもはるかにすぐれた、何か非凡なもの、選ばれたもの、必然性に深く根ざしたものになるのである。カピュレット家とモンタギュー家とのにくしみなどは、元チョッキ仕立の職人が、おとなしく自分のつとめ先へ出かけようとして、腹が突きでた五十男にばったり出会い、眩惑され、よろめくという機会がくるまでに、克服されたあらゆる種類の障害や、愛を招来するたぐいまれな偶然をさらに自然がふるいにかけた特殊選考の難関にくらべれば、物の数ではなかったのである。だからこのロミオとジュリエットとは、二人の愛が一時の気まぐれではないことを、当然信じてうたがいえず、また自分たちの愛は、二人の気質の調和によって予定されていた真の救霊であって、それは単に自分たち自身の気質によって予定されていただけではなく、自分たちの先祖の気質によって、さらには自分たちのもっと遠くにさかのぼる遺伝によって予定されていたのであって、二人を合体する要素は、出生以前から二人に属していたのであり、われわれの前世が過ごされてきたもろもろの世界を動かしている力とおなじようなある力によって、二人をひきつけてきたことを、信じてうたがいえないのである。これより先に、すでにシャルリュス氏は、一種の奇蹟とも呼ぶことができるほど起こりそうにない偶然のおかげでしかもたらされる機会のなかった、あんなに長く待たされた花粉を、蘭の花にはこんできたのは、まるはな蜂であったかどうかを見とどける注意を、私からそらせてしまった。しかし、私がいましがたその場に立ちあった事柄もまた一つの奇蹟であった。ほとんどおなじ種類の、まさるとも劣らない、ふしぎな奇蹟であった。そんな見地から二人の出会を考えるようになったとたんに、すべては私にとって美の刻印を打たれているように思われた」(プルースト「失われた時を求めて6・P.51~53」ちくま文庫)

「レアの名が私を嫉妬深くさせ、カジノで二人の若い娘のそばにいるアルベルチーヌの映像を私に思いうかべさせてしまったのだ。というのも、私は記憶のなかに、幾組かのアルベルチーヌを、たがいに切りはなされた不完全なままでしか所有していず、それはばらばらな横顔であったり、スナップであったりしたからであった、だから、私の嫉妬も、逃げさりやすくもあり固定されてもいる連続性のない表情と、そんな表情をアルベルチーヌの顔立にもたらした相手の人間たちとにかぎられていたのである。私は思いだすのだった、バルベックで、彼女がその二人の若い娘やその種の女たちから適度にじろじろながめられていたときの顔を、ーーー私は思いだすのだった、その顔が、まるでクロッキーを描こうとする画家の視線のように活溌に動く視線でなでまわされているのを見ながら、私が感じた苦しみを、その顔は、そんな視線によってすっぽりと被われていたのに、たぶん私がその場にいたからであろう、その視線に気づいているようすは見せずに、おそらく内心はひそかに受身の官能を味わいながら、そのまま視線の接触を受けているのであった。彼女がすぐ気をとりなおして私に話しかけるその寸前に、つぎのような一瞬があった、彼女はそのあいだじっと動かず、空(くう)を見てほほえんでいるのである。そのようすは、あたかも人が自分の写真をとらせているとき、またはカメラのまえでもっと颯爽としたポーズをとるために、自然らしく見せかけ、快感をかくす、あのようすであった、ーーードンシエールで私たちがサン=ルーといっしょに散歩をしていたときに、彼女がとったポーズもちょうどそれであって、にこにこ笑いながら、彼女はその唇を舌でなめ、犬をからかっているようなそぶりをしていた。たしかに、それらの場合における彼女は、通りがかりの娘たちに興味をひかれるときの彼女とは、まるで同一人ではなかった。通りがかりの女に興味をひかれる場合は、逆に、張りつめた、ビロードの感触をもった、彼女の視線が、その通りかかった女の上に固定され、貼りつくのであって、あまりにぴったりとくっつき、あまりに食い入るので、その視線をひきはなすときに、皮膚までもぎとってゆくだろうと思われるほどだった。しかもそんなとき、すくなくとも彼女に何か真剣なようすをあたえ、内心苦しんでいることをあらわすそんな視線のほうが、例の二人の若い娘のそばに彼女がいるときの無表情で安堵したような視線にくらべて、かえって私には抵抗なくおだやかに受けとれたのであって、そういう私には、相手に欲望をかきたてたときに彼女が浮かべているにこやかな表情よりも、彼女がときどき感じるらしい欲望を内にひそめた暗い表情のほうが、むしろ好ましかったであろう。相手に欲望をかきたてているという意識を被いかくそうとしても、彼女には徒労であって、その意識は、おぼろげに、官能的に、彼女をひたし、彼女をつつんで、彼女の顔をすっぽりばら色に見せるのだ。しかし、そのようなときに、彼女が内心で食いとめていても、彼女の顔のまわりをぽっと染めていて、私をひどく気がかりにする、そういうすべてのものを、私がその場にいないところでも、彼女はかくしつづけるかどうか、二人の若い娘に言いよられれば、私がそばについていないいまは、彼女は大胆に応じるのではなかろうか?たしかに、右に述べたような回想は、私に大きな苦痛をひきおこすのであった、それらの回想は、アルベルチーヌのかくされた好みを全部告げているし、彼女の不実さをすっかりさらけだしているともいえるのであって、そういうものにくらべると、私が進んで信じようとしていたアルベルチーヌの個々の誓や、私の不完全な調査の否定的な結果や、もしかするとアルベルチーヌとなれあいでなされたかもしれぬアンドレの保証などは、なんの値打もないだろう。アルベルチーヌは、彼女の個々のうらぎりをいくら私に否定しても、反対の申立以上に有力なうっかりもらす不用意な言葉から、また個々の事実以上に雄弁な例の視線からだけでも、かくしたがっていること、是認するよりはむしろ殺されたいと思っていること、すなわち彼女の内的傾向を、もらしていたのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.255~257」ちくま文庫)

これら三箇所から引き出せる事象は今なお大変多いだろうと思われる。もし気づかなかったとしても直ちに読者として安易ということにはならないと思うけれども、だがしかし、何もわざわざ本から学ばなければならないという法律があるわけではなく、逆にもし仮に法律があったからといってもその法律が何をどのように教えてくれるかなどてんでわからない。おそらく、法以前の「自然」ということを考えなくてはいけないだろう。感じられるようでなければなかなか理解しにくいかも知れない。人間はもともと「多形倒錯型」だとフロイトは見抜き公言してもいた。倒錯している状態がむしろ常態なのであり、十九〜二十世紀頃には正常とされて疑われなくなっていた状態こそ逆に異常なのだ、と。相対的にヘテロ・セクシャルが多いという数の大小によって淘汰の圧力が掛かり続けた結果、性的様態のありかたが、ヘテロ・セクシャルが「多い」=ヘテロ・セクシャルが「正しい」とされたのだろう。ヘーゲルのいう「量から質への転化」が起こったのかも知れない。しかし知っている人は難しく考えなくても知っている。では人々はどうして様々な愛の形態あるいは変容=変態について知っている場合があるのか。言語によってか。あるいは他のコミュニケーションによってか。また自分自身がそうであるのか。ウィトゲンシュタインに戻ってきてしまったが、「学ぶ」とはどういうことなのだろうか。

なお、「失われた時を求めて」は一九一三〜一九二七年発表。日本でいう大正二〜昭和二年。第一次世界大戦。ロシア革命。ヴェルサイユ条約調印。戦後恐慌始まる。国際連盟第一回総会。日本各地で大規模労働争議。山県有朋没。全国創立大会。平塚雷鳥・市川房枝ら新婦人協会結成。丸ビル竣工。有島武郎自殺。大杉栄殺害事件。虎ノ門事件。レーニン没。孫文没。京都学連事件で治安維持法適用。大阪松島遊郭移転関連疑獄事件。朴烈事件。芥川龍之介自殺。

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「言語ゲーム」と生成変化5

2019年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
ウィトゲンシュタインの問いは続く。だがすでに理解不可能な次元においてではない。規則・文法というものの支配下においてのみ、コミュニケーションは不完全ながらも、可能だということ。そして同一規則・同一文法は、それが特定の共同体で共有されている場合に限り、いつも有効だということ。しかし条件付きであることには変わりがない。異種の「言語ゲーム」は常に複数あるからだ。そのようなケースではいつも何らかの齟齬が生じてくるということ。異なる「言語ゲーム」=他者は、もう一方の他者に対して常に不均衡且つ不安定な立場でしか関係することができないということ。「言語ゲーム」は常に揺れ動く動的なものだ。変化をこうむる。変化は緩やかなこともあるし逆に急速なこともある。歴史はそのどちらも経験している。しかし長いあいだ通用してきた特定のコミュニケーション共同体は、共同体自身が或る種の「理想」を持ってしまっており、またそれをほとんど疑っていないという致命的な欠陥も持つにいたる。

「理想というものは、われわれの考えでは、揺るぎなく固定している。きみはそれから抜け出すことができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。ーーーこうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一〇三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.96』大修館書店)

「われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」、という欠陥だ。習慣化された凡庸な物の見方はこのような怠惰から生じてくる。そのようなコミュケーション共同体の内部でしか生きていないのでは何ら新しいものを創造することはできない。そして人々はときどき創造していないことには余りにも濃厚な同一コミュニケーションの中で、さらに濃厚化していくばかりの同一コミュニケーションによって、急速に窒息へと接近するほかない。そのような事態を回避するためには、他者との《あいだ》で生じる《力》、あるいは《摩擦》といったものが必要且つ不可欠な創造の条件として、増殖するばかりのコミュニケーションの《隙間》へと上手く挿入されていなくてはならないのだ。しかし他方、「或る程度」習慣化されていなくては、何らのコミュニケーションもままならない。ここにパラドックスがある。

そして次のことはごく一般的な事実として押さえておきたい。

「正しかったり、誤ったりするのは、人間の《言っている》ことだ。そして、《言語》において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二四一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.176』大修館書店)

「生活様式の一致」。外見のことを指して言われているわけではない。生活に力点が置かれているように見えはするが、むしろ生活の「様式」に着目したいと思う。その意味で特定の生活様式を日々反復させている言語共同体の内部では、言語において、人間は「一致」している。言語とその機能が一致しているところではどこでも、生活様式もまた一致するし、一致せざるを得ない。

ところで、マスコミ言語について。普遍的な概念というものはない。概念は「さまざまな特異性」を寄せ集めつつ、「集合」という形式を取る。全体的な概念が先行するのではなく、逆に、切片化した「特異性」が先にあるのだ。

「普遍概念はなく、あるのはただ特異性だけ。概念は普遍ではなく、さまざまな特異性を集め、ひとつひとつの特異性が別の特異性の近傍にまで延びていくようにした、ひとつの集合なのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)

「さまざまな特異性が相互に延長しあい、ひとつにまとまると、この集合がそのままひとつの概念となり、ひとつの<事件>をあらわすようになります」(ドゥルーズ「記号と事件・P.297」河出文庫)

という過程を経て始めて<事件>について述べることができる。

そしてようやく変身=分身について。しかしなぜ、ようやくなのか。言語による変身、言語への変身、言語なしの〔媒介物(言語・貨幣)なしの〕変身、ーーー様々なケースが想定されているからだが。

「ドリアン自身でさえも、自分の落ちつき払った態度を不思議に思わずには居られず、一瞬のあいだ、二重生活の身の毛もよだつ愉悦を強く感じたほどだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.332」新潮文庫)

「生活」は「二重」に分裂可能だ。しかしもっと多重に錯綜しつつ分裂可能だ。

「翌日、かれは一歩も外へ出ず、大部分の時間を自室で費した。死にたいする恐怖にさいなまれながらも、生そのものへの関心もなかった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.377」新潮文庫)

死と生とのあいだで宙吊りになっているドリアン。この《あいだ》のことを指して一体なんと言えばよいのか。ただ単なる「デカダンス」では語り尽くせない、或る領域が存在する。この領域は始めからア・プリオリに存在しているものではない。たとえばドリアンのような人間がこの《あいだ》に場を占めるや否や発生し、この場を辞するとともにたちどころに消滅するような《あいだ》なのだ。地理的な位置ではなく、あえて言えば「立場」に似ている。

さて、フィッツジェラルドへ。ドゥルーズは取り上げていないのだが、興味深いという点で、次のような奇妙な変身について語っている部分を見ておこう。

「とつぜん彼女は気づいた。彼は酒を求めているのではなかった。彼が見つめているのは、昨夜酒壜を投げつけた片隅だった。彼女は彼の弱々しい、反抗するような、整った顔を見つめたーーー半ば顔を向けることさえ恐ろしかった。彼が見つめている片隅には死があることを知っていたからだった。彼女は死というものを知ったーーーそれまで死のことを耳にしたり、まぎれもない死の匂いを嗅いだことはあったが、人間に入りこむ前の死を見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見ているのを知った。死はそこに立って、弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめているのだ。ひも飾りは、光っていたーーー彼の最後の動作の証拠として、しばらくの間きらきら輝いていた」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)

もし仮に「解離」という精神医学用語が意味を持つとすれば、これこそその実際に当てはまると言わざるを得ない。事実、何度か見たことがある。がしかし、実際に見たことがあるかないかはここでは関係がない。こういうものだということがわかればそれでいいと思われる。さらに、フィッツジェラルドが記述しているのは「アルコール依存症」のケースだが、もっと他の症候でもこのような解離現象が「症状」として出現する場合も少なくない。たとえば、スキゾフレニー(統合失調症)の場合は多彩な諸現象に日々襲われていることが多いけれども、脳神経細胞の動き(脳内分泌物質の動き)をコントロールする有効な薬が開発されてから、そのような多彩な症状の出現というのは余り見られなくなってきたようだ。それに解離は何もスキゾフレニーに特有の症状だというわけではない。スキゾはもっと錯綜しており、多彩であり、脱線が多く、変身ばかりしていることもある。だが、与えられたベッドからほぼ「動かない」。動いても割り当てられた病室内か、病棟内での食事時か、寛解期(回復期とも考えられる)に入った場合でもともすれば自室に閉じこもりがちであって、むしろ周囲の社会環境に習熟していくのが苦手なのだ。しかし、だからといって「解離のみ」という傾向の病者がまったくいなくなったというわけではなく、解離している人が解離状態にあると自分自身で認識しているような場合も当然ある。医学から離れて言えば、そのような時間を生きるそのような人間や生きもの(単なるものの循環環境=分解生成過程も含めて)は、「解離」の反復によって、別のもの(名前すら別の)へと変身=変態していくものであるといえるかもしれない。

ドゥルーズが取り上げるスキゾは、実際に病気にならなければならないということではない。そうではなくて、死や自殺や病気とは別の仕方で逃走線を引いていくことの大切さだ。フィッツジェラルドあるいは「崩壊」過程としての「生涯」。それでもなお、実在のフィッツジェラルドのことは時々忘れてしまっておくほうが肝要だ。でないと、意味の過剰化が起こるか逆に無意味になり過ぎてしまう。テキストとしてのフィッツジェラルドのほうが霞んでしまう。意味の過剰な増殖を回避するためには意味を制限するほかなく、意味を制限するためにはテキストに忠実でなくてはならない。

「もちろん生涯はひとつの崩壊の過程であるが、そこでドラマチックな役割を果たす打撃ならーーー外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃ならーーー覚えていて文句を言ったり、気弱になったときに友達に言えるような打撃なら、被害の深刻さは一度に現われることはない。ところが内側からの打撃もあるーーー気がついてみると何もかも手遅れだし、自分はもう二度とまともな人間になれないと、決定的に悟らせてしまうような打撃である。第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶーーー第二のものだと、起ってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.184』荒地出版社)

「人生には別の破壊があるという本題に戻るわけだが、壊れたと悟るのは打撃をうけたのと同時ではなくて、小康状態に入ってからである」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.185~186』荒地出版社)

「ーーーそして、それを知ったときには、古い皿のように壊れていた」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.186』荒地出版社)

「古い皿」への変身。一つの自己破壊として。しかし破壊は、破壊の瞬間に変態をともなう。複数の断片への諸変態だ。そのとき、壊れた諸断片は、その一つ一つが別々の変態を遂げたものとして既に別々のものになっているはずなのだ。

「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192』荒地出版社)

そして。

「ぼくの自己犠牲ぶりは底なしだった」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)

徹底的な自己破壊。ほとんど融けそうになっているが、フィッツジェラルドは、融けるというより裂けるのである。ドゥルーズ&ガタリに倣えば、「硬い切断の線」「柔軟な亀裂の線」「逃走あるいは断絶の線」という三つの区別が要求されうる。

「ぼくはただ完全に静かなところで考えぬいてみたかった。なぜぼくは悲しみに対しては悲しい姿勢、憂鬱に対しては憂鬱な姿勢、悲劇に対しては悲劇的な姿勢をとるようになったのか。《恐怖や同情の対象と自己との区別が、なぜつかなくなってしまったのか》と。こんなことはどうでもいい区別と思うかもしれないが、そうではない。こういう区別を見失うことは、何ひとつできなくなってしまうようなものだ。気狂いが仕事ができなくなるのはこういう問題だ。レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.196~197』荒地出版社)

書かれているような「区別」がなくなると書き手とその対象の境界線は実に曖昧になる。融合してしまう。対象との安易な同一化は記述者にとって致命的だと言えるだろう。

「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)

フィッツジェラルドはいう。「生き残る」ためには「脱出」が必要だ、と。そしてそれは正解だろう。しかし子供と違って大人にとってはなぜか極めて困難だ。こんなふうに。

「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.280」河出文庫)

次のセンテンスで「犬になるつもり」だと語っている。しかし人間が馴致された犬でしかなくなるということはどういうことだろう。ただ単なる後退ではないだろうか。変身という《逃走線》にはこのような危険がいつもつきまとっている。

「過去においてぼく自身の幸福はしばしば恍惚状態に近づき、最も親しい人たちと分ちあうこともできず、静かな街や小道を歩いて発散しなければならず、そのうちのわずかな断片が本のごく一部となって結晶したにすぎないーーーぼくの幸福自己欺瞞の才能でも、何でもかまわない例外だと思っている。それは自然ではなくて不自然なものーーー好景気と同じように不自然だった。ぼくのその後の経験は、好景気がすんだときに国民をのみこんだ絶望の波と同じだった。この事実を見きわめるのに数ヶ月をかけているけれどもぼくはこの新しい運命の中で何とか生きてゆくことだろう。アメリカの黒人たちは快活な禁欲主義によってたえがたい生存条件に耐えることができたが、真実への感覚を失ったようにーーーぼくの場合も代償を支払わなければならない。もうぼくは郵便屋や八百屋や編集者や従妹の夫に好意を持ったりしない。好意を持てば、彼らはぼくを嫌うだろうしそうなると人生はもうそんなに楽しくはなくなるだろう。ぼくのドアの上には『猛犬注意』の看板がいつもかかっていることになる。ぼくは正真正銘の犬になるつもりだけれども、もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.200』荒地出版社)

次の部分でドゥルーズ&ガタリはこう述べる。ここで「戦争機械」というのは、国家装置に回収されることから逃走し続ける遊牧民(ノマド)としての運動のことだ。国家装置の「非=実現」として働く「戦争機械」。そしてノマドは、前に述べたが、ほとんど「動かない」。動かずに移動=生成変化を遂げていく。

「重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~248」河出文庫)

こうある。「動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していく」、と。「共通性=野獣」。言い換えれば、いつでも誰でも時々やっていることだ、ということになるのだが。

なお、「崩壊」発表は一九三六年。日本でいう昭和十一年。美濃部達吉襲撃事件。二.二六事件。阿部定事件。スペイン内戦勃発。ベルリン・オリンピック開催。日独防共協定締結。「モダン・タイムス」公開。日本で芝犬が天然記念物に指定される。

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