(加山雄三作/夕映えの光進丸)
巨大ロックフェスの26日土曜、その日は親父の命日だったんだ。
出演者のスタンバイの間、オイラは親父のことを思い出した。
俺の親父は銀行員だった。
30半ばで地方の支店長になり尋常ではない出世スピードでその能力を発揮した。
部下に慕われ、よく部下と俺を連れてスキーに出かけた。
おそらく親父は長年の緊張が緩んだのか少しずつ少しずつ壊れていった。
仲が良かった家族の和に小さな亀裂ができ、やがて大きく裂けて、深い溝になっていった。
母は仕事を持ち、俺は就職活動をし、上の妹は既に上京しており、
下の小さな妹は高校受験だった。
家族がそれぞれの生活を営み始め、みんなそれを理由に親父から離れていった。
ある冬のはじめ単身赴任した親父の様子がおかしく、母と2人で赴任先の札幌へ飛んだ。
生活はすさんでいて、何も食べていない様子だった。
衰弱していて俺は近所の薬局にユンケルを買いに行った。
夜はたんまり時間があったが、話すこともなく行き先のない時間だけが流れた。
俺は親父とお袋の前で泣いた。
オイラが7歳のときスーパーで万引きしてその場を親父に見つかり力任せに殴られた。
そのとき以来始めて泣いた。
行き場のない、悔しく切ない嗚咽だったな。
親父のアパートを後にして、お袋と何も語らず千歳空港から帰った。
時が過ぎ、7月に親父は札幌から帰ってきた。
当時は電車賃の方が安く、電車を乗り継ぎ、青函連絡船に乗り、帰ってきたようだった。
途中、何度も気を失い、駅員に助けられ、這うようにして帰ってきたと聞いた。
親父はその足で二度と家に帰ることなく総合病院に直行した。
親父の移動中、そのやつれた姿にどこかの心ある人が杖を作ってくれた。
ただの白木の棒切れで、手に持つところだけ白いビニールテープが巻いてあった。
その折れそうな杖だけを頼りに帰ってきたのだった。
病室の隅にその白い杖が置いてあった。
親父の病室にはカレンダーがかけてあった。
俺や下の妹が行った日は看護婦に頼んで印をつけてもらっていた。
ある日、か細い声で、俺にこう言った。
『なあ、車何が欲しい?俺は赤いベンツがいいと思うんだよな。車は赤がいい。』
『ベンツいいね。買ってくれよ。』
それが最後の会話だった。父と息子がかわした会話だ。
とてもいい会話だ。
親父はベッドの上で体中に管を通されていたけど、
親父は永遠の青年のようで、赤いベンツにはそのナイスガイが乗る。
その夜オイラはたまたま泊まりで付き添う気になった。
オイラは親父の隣の空いたベッドで寝ていたけど、親父の異変にすぐに気付いた。
親父の呼吸が不規則になり小さくゼイゼイを始めたのだ。
家に戻りお袋と妹を連れて病院に戻った。
親父は尿毒症の症状が出始め、緑の胃液を吐き、細く開けた目は次第に溶け始めてきた。
看護婦があわただしく走り、医者は親父の背中の下に板を敷き心臓マッサージを始めた。
肋骨の折れる音が部屋に響いた。
お袋は、もういいです、と医者に伝えた。お願いだからもういいです、って。
親父が病院にやってきてから数週間での出来事だった。
俺はその場で親父の身体を拭き、髭を剃ってやった。
親父はとても美男子でいい男だった。その男の髭を最後に剃ってやった。
顔がにじんで見えなくてよく剃れなかったな。
しばらくして上の妹がやってきた。
親父に久しぶりに会うため、とてもニコニコしてやってきた。
当時は携帯電話はなかったから、妹は満面の笑みで病室に入ってきた。
とてもとても暑い夏の話だよ。
その白い杖は今でも俺の大事な親父の形見で、
車のルーフトランクにウエーブセイルと一緒に入っている。
ちょっと親父の供養になればいいと思ってここに書いてみた。
親父は横須賀出身で海が大好きだった。
26日、加山キャプテンが海その愛を唄ってくれたけど、
親父への鎮魂歌のような気がした。
まるで昭和の歌謡曲だと思っていたけど、
この曲を聴いて、オイラは茅ヶ崎に住んでいることとウインドサーフしていることを誇りに思った。
コテコテの曲かもしれないけどいいじゃん。オイラは気に入ったんだ。
男というのは所詮はずっと一人だけど、帰るところは海だよって唄ってる気がする。
望みは海にある。
今でもハッキリ覚えてるよ。パパさんが死んだ日、リビングにはIMAGINEが流れてた。何度もね。
今度その杖、見せてよね。
マンピーのG★スポットじゃなくてよかったな!(^^)!
暑い暑い夏だったなあ。
人生で一番暑い夏だったかもなあ。