(高原の水芭蕉)
GW中盤。
オイラは東北へ旅をしてきた。
みちのくグル~リ、峠を越え、深い山に入り、田舎街に行き、田畑を通り、
そして30年オーバーのつきあいの友人達と酒を酌み交わした。
友人の一人は、小学校時代オイラと一緒にランドセルを背負って、
地蜘蛛を民家の庭に取りに行った奴だ。
民家の住人見つかり怒鳴られ、逃げる途中、オイラは肥溜めに落ちてしまった。
そのオイラを『エンガチョ』と言ってオイラを捨てて逃げていった奴だ。
中学、高校と一緒で、そいつはやがて8浪の年月を経て精神科医になった。
奴は精神病で朽ち果てていく患者を多く診ている。
患者は、その肉体は自分のものではなくなる。
やがて、自分の脳ですら自分のものではなくなる。
『だからオレはそういうのを知っているので今をちゃんと生きる』
飲みながら奴はつくづく言った。
お姉ちゃんたちと仲良くするのだ、と言った。
『まったくその通りだ』とオイラも言った。
もう一人の友人は、大学時代のバイト先で知り合った仲だ。
お互い学校にはまともに通わず、おもしろおかしく学生の時間を共にした。
当然のことだが女性のケツに対する興味がお互いの人生の80%くらいあって、
それでいながら恋の悩みや、将来の不安や、そんなことを語り合ったものだ。
奴は転職しながら印税収入の仕事をしたり、年収1千万を軽く超える事業もした。
しかし、結局のところそれは幸せにはつながらず、いまだに悩みを抱える男である。
この友人達とそれぞれの夜を飲んだ。朝まで飲んだ。
ホテルに帰るとそれはとんでもない時間で、
なにもホテルに泊まる必要などなかったくらいだ。
目が覚めると正午を過ぎていて、チェックアウト後の延長料金を払い、
痛い頭を抱えながら東北の青空と澄んだ空気の中を次の土地へ向けて走った。
オイラは今回、助手席に連れを座らせて旅をした。
帰路についたとき、
あなたの友達はとても愛せる人たちだ、と連れはしみじみ言った。
なぜだ?と聞いた。
意外な言葉が返ってきた。
人間のセンスがある。趣味や服装ではなく、
内面のセンスがにじみ出ている人たちだね』
彼女は続けた。
『センスって生き方や考え方ではないのよ。
ある生き方や考え方に遭遇したときの対処の仕方なのよ。
それに惑わされないで、そう先に進んでいくか、その姿勢かな』
『オレは君自身がそういうセンスの持ち主だと思うぜ』
『それは違う。私もそういうセンスのいい友人を持っているから、影響されただけね。
とにかく、田舎でも茅ヶ崎でもそういう友達を持っているあなたは素敵ね』
『へええ。じゃあもっと褒めてくれよ』
『じゃあ、2800円になります』
今あることの再認識や、発見は人の手を借りると助かる。
オイラは会話が成立する関係が大切だと常々考えている。
男女間ではなおさらだ。
『会話が成立するとは、会話がないときにその関係が成立しているという逆説も含める』
というオイラの意見に彼女は賛成してくれた。
オイラはさらに付け加えた。
『という会話の成立が重要なんだと思うよ』、と言ったら、
『それは今私が言おうとしていたことよ』、というセンスのよさだ。