メキシコ女王の宝伝説』忘備録。
前回のつづきです。関連として2006年分となります。
よろしかったら。
↓
メキシコ女王の宝伝説 / 2006-04-08
『島の浦(延岡市の北東部にある島)の鰹釣りの漁師が漁の帰り
大きな木製の棺を見つけたそうでございます。なんだろうと
思って中を開けるとミイラ化した女性の遺体と共に目もくら
むような黄金の装飾品が入っていたそうでございます。
驚いた漁師達は黄金に目もくれることなくたたりを恐れ、人
に知られないように隠し、その隠し場所は一生、決して口外
しなかったそうです。』
宮崎県延岡市に伝わる伝説です。
いろいろな話があるので、かきそえてみましょうか。
『江戸時代末期の嘉永4(1851)年、島野浦の1漁船が漁
を終え、港に帰る途中、海藻が巻きついた立派な材質の丈夫
な木箱が浮かんでいた。
舟に引き上げ、開けてみると見たこともない横文字の書いた
品々の下から金髪の頭が見えた。よく見ると、顔面蒼白な異
国の女性の遺体であった。
船頭は後難を恐れ、船員全員に口外を厳禁し、そのまま蓋を
し、ひそかに島の南にある小さな無人島に埋めた。』
もうひとつ。
『江戸時代も末の嘉永4年(1851年)島野浦島の1漁船が
漁を終え、港へ帰りをいそいでいた。港を目前にしてときな
らぬ船頭の声にみんないっしょに船べりをのぞいてみると、
海草がまきつきはっきりわからないが、りっぱな材質の頑丈
な四角の木箱がうかんでいる。
舟にひきあげて厳重にとざしたふたをあけてみると、みたこ
ともない横文字のかかれた品がいっぱいつまっていた。それ
らをとりのぞくと驚いたことに金髪の頭がみえ、さらによく
みると顔面蒼白なすでに息たえた異国の女性がすわっている。
びっくりした船頭は後難をおそれて乗組員全員に口外するこ
とを厳禁しひそかに島の南にある無人の沖の小島にうずめた。』
話がだんだん詳細に、そして箱にはいっていた女性に関する記述
が、より詳細になってます。まだ↑の話とは別の文章もあります。
『江戸末期、島野浦(延岡市)の漁師がカツオ漁に出かけ、そ
の帰港の途中、波間に漂う大きな木箱を見つけた。漁師たちは
好奇心にかられて拾い上げた。海藻や貝が付着していた木箱を
手おので開けると、中には白骨死体があり、金髪の頭部に、赤
や青の宝石をちりばめた黄金の冠が光り輝いていた。
漁師の間ではその冠を取り出そうという意見も出たが、後のた
たりを恐れ、小島にそのまま埋めることにした。そして、この
ことはどんなことがあっても決して他言はしない、二度とこの
島に上陸はしないと誓い合った。』
このはなしでは、女性の頭部にあったという冠がでてきます。
と、こういった話それぞれが、地元でしられる『メキシコ女王の
宝伝説』 です。
ツッコミどころ満載の話でおもしろいのですが、なぜに読めない
字なのに、メキシコ関連の棺と確定されているのがおもしろいの
ですが、これはですね 、後の時代の人[学者の調査とかで]が、
どうも こじつけたらしい。
そのご この話には
『そのころメキシコで内乱があり、 島の人々はこの白骨死体を
メキシコ女王と信じた。今も、海に流した女王のひつぎが潮流
に乗って流れ着いたのだと言い伝えている。』
とか
『スペイン人によって滅ぼされたアステカの文献に、追い詰めら
れたアステカの人々が亡くなった王女の棺に黄金を詰めて、太
平洋に埋葬した記録が残っていることと、海流に乗った棺が、
オーストラリア近辺を回り、黒潮に乗って、日本に接近した可
能性は非常に高く、年代も一致する』
といったような、まことしやかな話がくわわってきます。
アステカ人をはじめとする当時のメキシコ人ってば金髪なの?っ
ておもっちゃいますが、まあ、そんな方もいたのかもしれません。
また どこの学者が・いつ調査をしたのか というはなしも気に
なりますが、この件についての詳細な話は、自分は きいたこと
がありません。
ただ、これらの話に共通することから考えて、
■ 江戸末期に
■ 現・延岡市島野浦の海で
■ カツオ漁船が漂流する大型の木製木箱を発見
■ 中には女性の遺体がはいっていた
■ そのご箱ごと島浦近辺の小島に埋めた
といった出来事があったというのは、本当の話と思われます。な
んといっても当時延岡藩を収めていたのは、たいへんな “メモ魔”
であった内藤家が書き記していること。前回にもありましたが、
延岡藩関係資料に、1846年7月24日、島野浦のカツオ釣
り漁船の乗組員が島の沖で漂流していた長さ約2メートルの木
箱を船に引き揚げた。箱の中には頭部の骨や三つ編みの長い髪、
靴、青い布切れ、ボタンがあり、近くの小島に埋葬した
とあることから、この記述は 信用できるものであると思います。
ただ、口外するなとの船頭の話とは裏腹に記録に残っているとい
うのが、これがまたおもしろいですよね~。
それにしてもの1846年。
1839年:清の林則徐がアヘンを焼く。
1840年:アヘン戦争が起こる(~42年)。
1841(天保12)年:水野忠邦が天保改革令をだす。
1841(天保12)年:高島秋帆が江戸・徳丸原で洋式銃隊の訓練を行う。
1842(天保13)年:外国船打ち払い令をゆるめ、薪水・食料の給与を許す。
1842年:清とイギリスの間で南京条約が結ばれ、五港の開港と香港の割譲が決まる。
1843(天保14)年:幕府が人返し法・江戸や大阪十里四方の上知令を出す。
1843(天保14)年:老中水野忠邦が罷免される。
1844(弘化1)年:オランダの軍艦が長崎に来て開国を勧める国書を届ける。
1844年:清がアメリカ・フランスと通商条約を結ぶ。
1845(弘化2)年:漂流民を浦賀に送ってきたアメリカ船を鎖国を理由に帰らせる。
1846(弘化3)年2月:伊豆韮山の代官・江川英竜が伊豆7島を巡視し、海防に関する意見書を出す。
1846(弘化3)年4月:イギリス船・フランス軍艦が琉球に来る。
1846(弘化3)年5月:アメリカ東インド艦隊司令長官ピッドルが浦賀に来て国交を求める。
1846(弘化3)年:孝明天皇即位。
1846年:アメリカとメキシコの間で戦争が起こる(~48年)。
1847(弘化4)年6月:オランダが再び開国を勧める。
1848年:カリフォルニアで金鉱が発見される。
1848年:マルクスが『共産党宣言』を著す。
1848年:パリで二月革命が起こる。
1849(嘉永2)年4月:イギリス測量船が浦賀に来航し、江戸湾を測量する。
1850(嘉永3)年10月:佐賀藩が反射炉を作る。
1850(嘉永3)年12月:江川英竜が韮山に反射炉を作る。
1850年:清で太平天国の乱が起こる。
1851(嘉永4)年1月:土佐の漁師・中浜万次郎がアメリカ船に送られて琉球に来る。
1851(嘉永4)年8月:島津斉彬が鹿児島に製錬所を作る。
1852(嘉永5)年8月:オランダ商館長が明年アメリカが来航して開国を要求することを伝える。
1852年:フランスに帝政が復活し、ナポレオンが皇帝になる。
1853(嘉永6)年6月:アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来る。
1853(嘉永6)年7月:幕府がアメリカの国書を諸大名に見せ意見を聞く。
1853(嘉永6)年7月:ロシア艦隊司令長官プチャーチンが軍艦四隻を率いて長崎に来る。
1853年:トルコとロシアの間でクリミア戦争が起こる(~56年)。
1854(安政1)年1月:ペリーが軍艦七隻を率いて再び浦賀沖に来る。
1854(安政1)年3月:ペリーと日米和親条約を結び、下田・箱館の2港を開く。
1854(安政1)年3月:吉田松陰がアメリカへの密航を企てて捕らえられる。
1854(安政1)年7月:日章旗を日本国総船印に定める。
1854(安政1)年8月:日英和親条約を結ぶ。
1854(安政1)年12月:日露和親条約を結ぶ。
1855(安政2)年7月:長崎に海軍伝習所をつくる。
1855(安政2)年10月:江戸で大地震がおこる(安政大地震)。
1855(安政2)年10月:日仏和親条約を結ぶ。
1855(安政2)年12月:日蘭和親条約を結ぶ。
といったような、天下泰平といったイメージの強い鎖国の夢が覚
めようというべき大事件がつぎつぎとおこっている大変な時代だ
ったんだなあ・・と感嘆ものです。
つづく。