なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

”因果”は巡る

2009-11-13 01:33:19 | Weblog
 息子を叱る時にいつも思うのだけれど、私自身は父親に叱られた記憶が無いことです。
私が叱るのが下手なのはそういう経験値からきているかもしれません。
 小学校時代には母親からはよく小言を言われたものですが、それも本気で叱っているのかどうか子供でも分かるような事でしたので、親の思いを真剣に突きつけられたような叱られ方は無い。
 例えば成績に関して「お前はやればできる筈なのに・・・」みたいな言い方では「またか・・・」くらいにしか感じないので、頭の上を小言が通り過ぎるのを堪えている程度でした。
  今にして思えば、両親にだいぶ甘やかされて育ったことが・・・良かったかどうか思いだされるのですが・・・今や幸か不幸か立場が変わって私が親の立場です。
 叱られることも褒められることも自分自身の経験値が低いので両方とも全くの苦手です。
 褒める方は、褒める前に自分が照れてしまうので二の足を踏むし、叱る方は感情が先だって怒りになりそうなのでこれも躊躇してしまいます。

 最近考えるのですが、息子からはオヤジの欠点・性格はよく見える筈です。
  多分悪いところはかなり拡大されて見えている筈ですから、何かを叱る時は非常に難しい。
 マア叱ると言っても一応成人しているので叱ること自体が難しいのですが。
  ともかく自分のことは棚に上げて、正論的立場で真っ向から叱ることも時には必要だとは思うのですが、それは多分本人も感じている事・傷に塩を塗る事もあるかもしれないので、これは必要ではあるけれど量が問題のようで、使い方が難しい劇薬かもしれません。
 搦め手から叱るのもかなり有効だと言うことに気がついたのですが・・・
  それは、オヤジと言う存在・目標と言うか反面教師的な存在と言う事を利用して「オヤジの悪いところだけ似るな」とオヤジ本人から言う事のようです。
 勿論自分で言うのも変ですが「オヤジにも良いところがあるのに」と言う前提で話す事と、「母親に甘えてばかりいないで」という意味が入っている。

 「オヤジに反発していても結局はオヤジに似て来ているゾ!」と言われるのには弱いらしいことに気がつきました。
 これは結構有効なようです。
  いずれにしても、私の父親が抱いたであろう気持ちを今私がバトンタッチされています・・・古い言葉で言えば「因果応報」かも。