昔、10年ひと昔で言うと私が小中学校時代ですから5昔にはなるか、、、
遠足は春と秋の2回有り、運動会は秋の恒例行事でした。
校長先生の挨拶「この秋晴れの好き日に・・・」で始まったものです。
ついでに、、、小学校の運動会は勿論学校行事でしたが、その地区の行事でもあったので、学校の外の道にお祭りみたいにお店が何軒か出たし、運動場脇にはPTAのテントでバザーと言うか、パンと牛乳中心に店が出たものです、、、古いですネ。
そう言えばオリンピックも東京大会は10月10日スタートですから「体育の秋」「スポーツの秋」であった筈.
「天高く馬肥ゆる秋」が、天高くなく、食べ物も季節感が乏しくなって来て・・・
オリンピックは予算の飛躍的拡大とマスコミの放映権やらいろんな権利のと繋がった採算重視のせいか、開催時期が夏休みに変わって来てしまいました。
競技者の都合は無視して、観客の都合・強いて言えば興業者の採算の都合。
ワールドカップの6月だって、欧米の各国別レギュラーシーズンの隙間ですから、南半球だとか北半球だとかの季節的条件は無視。
ましてや日本などのシーズンの都合は全く考慮されていないので、Jリーグなどは4年に一度はコンディション大パニックイヤーがやって来ることになる。
確かに見る方の立場で言えば、開催国で観衆を動員することは勿論、実際に見るために開催国に行くのも、あるいはTV観戦するのも夏休みの方が都合が良い。
しかしこれはスポーツをする人にとって最適な環境では無い事は明らか。
マア、全てのスポーツが秋がベストではないにしても、夏は水泳を始め水に関するスポーツだけでしょうね、、、
そういう意味では過酷な条件で戦いを強いられる選手は大変、、、「皆同じ条件だから」などと言う事がまかり通るのですから、本当に可哀そうな気がする。
マラソンなどを夏にやるなどその最たるもので、「地獄の・・・」などと言いながらエアコンの効いた部屋でTV観戦。
全く競技の意味もレベルも違いますが、昔の運動会が秋開催だったのは条件的に当を得ていたのでしょう。
昨今は春の運動会のところもありますが、気分としては秋晴れの爽やかな空気が一番だと考えるので、昔通りに秋開催の学校を見るとそれだけで嬉しくなる。
ところで火曜日に通勤路にある小学校で運動会の準備をしていました。
毎朝、応援団の練習が行われている。
先生も熱心(かどうかはわかりませんが)に朝早くから指導しているのですから、ご苦労なことです。
その苦労は苦労として、でも実感は『馬鹿みたい』だと毎年思うのです。
紅白対抗戦形式なので当然応援団も紅白の応援団。
その敵味方の応援団が、同じ応援スタイルで旗も太鼓も同じだし人数も同じで、全く同じ歌を歌い、同じリードをする練習。
一緒に練習する様子は・・・確かに公平だし「教育的指導」には違いない。
何だか最近の教育らしいと言う感じ。
仮に紅白の指導教官が別々の先生が担当し、それぞれが別の場所で自分たちの工夫で練習したら面白いだろうに、、、全く同じ内容で応援合戦だなんてお仕着せ合戦と言うべきでしょう。
やはり最近の学校の規模が小さいし、先生も生徒の数も少ないのも原因でしょうか
そう言えば私の中学校時代の中学は2000人近くいたから競技は勿論応援合戦も迫力があった。
運動能力で運動会の日には教室とは別のヒーローもいたし、応援で「エッ!あの人にあんな芸があった?」なんていう応援も有りました。
マア、古い型の応援で言えば扇子を持って袴・高下駄(下駄は途中で穿き捨てるか)スタイルで3・3・7拍子(これは笛と太鼓で今でもやっている)。
これは1拍子から始まる・・・
これは応援団長の独壇場となる場面カナ
そう言えば今日の小学校でもこの応援を練習していた・・・しかし全く味が無い応援だったと感じました。
何が違うか。
応援の拍子ですから間合いが命なのに、その間に味が無い。
何だか事務的と言うか平坦と言うか・・・ゆっくり始まって徐々に早くなり強くなる盛り上げが違う。
別の言い方で言うと例えばゆっくりの時に単に間延びする時間があるのではなく、そこが粘って繋がっていく間合いと言うか・・・そういう味が感じられませんでした。
「小学校だからこれで良い」と割り切ればそういうものでしょうが、教えてる先生も良く分かっていないでしょうから、こういうのって単に形を教えているだけでは伝わって行かないだろうし、やっている応援の子供たちの自主的な工夫の入る余地も全くないだろう。
マア、工夫を考えているかどうかの疑問も有るけれど
考えて見れば「応援合戦」と言うのはかなり古い形式だと思うのですが、実際のところ形だけで内容が寂しいと感じるのは私だけでしょうか。
遠足は春と秋の2回有り、運動会は秋の恒例行事でした。
校長先生の挨拶「この秋晴れの好き日に・・・」で始まったものです。
ついでに、、、小学校の運動会は勿論学校行事でしたが、その地区の行事でもあったので、学校の外の道にお祭りみたいにお店が何軒か出たし、運動場脇にはPTAのテントでバザーと言うか、パンと牛乳中心に店が出たものです、、、古いですネ。
そう言えばオリンピックも東京大会は10月10日スタートですから「体育の秋」「スポーツの秋」であった筈.
「天高く馬肥ゆる秋」が、天高くなく、食べ物も季節感が乏しくなって来て・・・
オリンピックは予算の飛躍的拡大とマスコミの放映権やらいろんな権利のと繋がった採算重視のせいか、開催時期が夏休みに変わって来てしまいました。
競技者の都合は無視して、観客の都合・強いて言えば興業者の採算の都合。
ワールドカップの6月だって、欧米の各国別レギュラーシーズンの隙間ですから、南半球だとか北半球だとかの季節的条件は無視。
ましてや日本などのシーズンの都合は全く考慮されていないので、Jリーグなどは4年に一度はコンディション大パニックイヤーがやって来ることになる。
確かに見る方の立場で言えば、開催国で観衆を動員することは勿論、実際に見るために開催国に行くのも、あるいはTV観戦するのも夏休みの方が都合が良い。
しかしこれはスポーツをする人にとって最適な環境では無い事は明らか。
マア、全てのスポーツが秋がベストではないにしても、夏は水泳を始め水に関するスポーツだけでしょうね、、、
そういう意味では過酷な条件で戦いを強いられる選手は大変、、、「皆同じ条件だから」などと言う事がまかり通るのですから、本当に可哀そうな気がする。
マラソンなどを夏にやるなどその最たるもので、「地獄の・・・」などと言いながらエアコンの効いた部屋でTV観戦。
全く競技の意味もレベルも違いますが、昔の運動会が秋開催だったのは条件的に当を得ていたのでしょう。
昨今は春の運動会のところもありますが、気分としては秋晴れの爽やかな空気が一番だと考えるので、昔通りに秋開催の学校を見るとそれだけで嬉しくなる。
ところで火曜日に通勤路にある小学校で運動会の準備をしていました。
毎朝、応援団の練習が行われている。
先生も熱心(かどうかはわかりませんが)に朝早くから指導しているのですから、ご苦労なことです。
その苦労は苦労として、でも実感は『馬鹿みたい』だと毎年思うのです。
紅白対抗戦形式なので当然応援団も紅白の応援団。
その敵味方の応援団が、同じ応援スタイルで旗も太鼓も同じだし人数も同じで、全く同じ歌を歌い、同じリードをする練習。
一緒に練習する様子は・・・確かに公平だし「教育的指導」には違いない。
何だか最近の教育らしいと言う感じ。
仮に紅白の指導教官が別々の先生が担当し、それぞれが別の場所で自分たちの工夫で練習したら面白いだろうに、、、全く同じ内容で応援合戦だなんてお仕着せ合戦と言うべきでしょう。
やはり最近の学校の規模が小さいし、先生も生徒の数も少ないのも原因でしょうか
そう言えば私の中学校時代の中学は2000人近くいたから競技は勿論応援合戦も迫力があった。
運動能力で運動会の日には教室とは別のヒーローもいたし、応援で「エッ!あの人にあんな芸があった?」なんていう応援も有りました。
マア、古い型の応援で言えば扇子を持って袴・高下駄(下駄は途中で穿き捨てるか)スタイルで3・3・7拍子(これは笛と太鼓で今でもやっている)。
これは1拍子から始まる・・・
これは応援団長の独壇場となる場面カナ
そう言えば今日の小学校でもこの応援を練習していた・・・しかし全く味が無い応援だったと感じました。
何が違うか。
応援の拍子ですから間合いが命なのに、その間に味が無い。
何だか事務的と言うか平坦と言うか・・・ゆっくり始まって徐々に早くなり強くなる盛り上げが違う。
別の言い方で言うと例えばゆっくりの時に単に間延びする時間があるのではなく、そこが粘って繋がっていく間合いと言うか・・・そういう味が感じられませんでした。
「小学校だからこれで良い」と割り切ればそういうものでしょうが、教えてる先生も良く分かっていないでしょうから、こういうのって単に形を教えているだけでは伝わって行かないだろうし、やっている応援の子供たちの自主的な工夫の入る余地も全くないだろう。
マア、工夫を考えているかどうかの疑問も有るけれど
考えて見れば「応援合戦」と言うのはかなり古い形式だと思うのですが、実際のところ形だけで内容が寂しいと感じるのは私だけでしょうか。