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マエタケ「共産党万歳」事件

2011年08月06日 | 絵画・音楽・文学・映画・演劇・テレビ

 テレビ草創期から放送作家、司会者として活躍し、毒気を含んだ話術で人気者となり「マエタケ」の愛称で親しまれたタレントの前田武彦さんが5日午前11時16分、肺炎のため死去したとテレビや新聞で報じられた。(享年82歳)

 68年から始まったフジテレビ系の音楽番組「夜のヒットスタジオ」では芳村真理と司会を務め人気を集めたが、1973年、参院選の共産党候補の当選に万歳のポーズをしたことに批判が集中し、一時は一線を退いた。

 管理人は自宅でテレビの第10回参議院選挙速報を見ていた。中々全国区の最終の開票結果が出ないのでNHKから「夜のヒットスタジオ」にチャンネルを切り替えて見ていた。そこへ補欠選挙  【大阪選挙区】で沓脱タケ子候補が当選したとテロップが流れたときに日頃から共産党ファンであるマエタケさんが思わず万歳をしたのを見て、思わず妻にこれはまずいことになるよと言ったことを記憶している。

 日本共産党議長(当時)野坂参三参議院議員が、1971年3月に新宿区市谷小学校での日本共産党演説会で、管理人は柳町公害問題で演説をした。4月の一斉地方選挙(新宿区議会議員選挙)で初当選をした。7月に行われた参議院選挙の東京選挙区で野坂さんは当選を果たし、全国区の5人と合わせ6人の当選だった。

 翌年72年の衆議院選挙では日本共産党は前回69年の当選者14人から、何と38人が当選したのである。そして73年の参議院選挙となるのである。選挙区では、北海道、東京、京都、大阪、兵庫で5人が、全国区8人が当選していた。71年の6人から13人と倍増以上だった。革新知事は東京、埼玉、神奈川、京都、大阪、沖縄と広がり、日本共産党も国会も地方議会も躍進の時代であった。

 共産党の躍進を政権与党は喜ぶはずも無い。財界、米国も驚いて反共策謀を練り始めたのである。第一弾が雑誌文芸春秋の「立花隆・共産党研究」であったが、東欧革命、ソ連崩壊、天安門事件と外国の共産党・労働党の影響も大きかった。

 次回の衆議院選挙では東京一区(3人区)で紺野与次郎さんが落選した後は、弁護士の平山知子さん、筆坂秀世さんが候補者となったが、それぞれ三回も落選した。そして小選挙区制が導入されたのである。

 「マエタエさんの万歳事件」から共産党躍進と後退の歴史を振返りこととなった。

 前田武彦さんに哀悼の意と心からのご冥福をお祈りします。

 

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