世田谷区のある女性が、富士国際旅行社の「南京・上海 近現代史探訪」に参加されたレポートのメールがありました。
管理人は下記のメールを送信しました。
>ウイキペディア『南京攻略戦』にある写真を見ますと、日本軍と南京市民が仲良くしているものばかりで、不思議でした。そのようなこともあったのでしょうが、南京大虐殺関係の写真が故意に外されているかとも思いました。<
武器を持たない一般市民が軍事占領した軍隊に対する対応は、万国共通のようですね。ナチス・ドイツに占領されたパリ市民も、日本も占領軍だったアメリカ兵に「ギブミーチョコレート」でした。中国では第二次国共合作が成立ばかりでしたので、南京市民も表向きは日本軍に友好的な態度だったと思われます。
小生が新宿区議会議員をリタイヤし、新宿区平和委員会の会長となった2000年7月7日に、新宿平和委員会主催「中国を訪ねる平和の旅」(旅行会社は富士国際旅行社)で中国人民抗日戦争記念館を訪問し、館長張承鈞氏と懇談をしました。館長は日本の侵略について次のように話ししてくれました。
①日本が侵略した時間が長い「100年」
②日本軍が死傷させた人数が多い「3500万人」
③広大な土地を占領した「中国の大半」
④中国の損害額が大きい「6000億ドル以上」
⑤日本軍の手段が残虐である「例えば関東軍第731部隊のように世界法規にも反する残虐さ」
1989年7月に、新宿区戸山の国立感染症研究所建設工事現場で発見された「人骨」問題と「遺棄毒ガス被害」問題の関連から、主に中国東北部へ行っていました。
中国人「慰安婦」裁判支援にも参加していました。
テーブルの上にあった中国人「慰安婦」裁判のチラシを見た母は「順一 お父さんも慰安所に行ったようだよ 入り口には白い暖簾がかかっていたそうだよ」と小さな声で話してくれました。母が80歳の頃だと記憶しています。母は3年前に99歳9ヶ月で亡くなりました。
父は第二次上海事変と関特演(関東軍特種演習)の二回、応召されて中国戦線に行っていますが慰安所に行ったのは何時なのか、何処だったのかを母に話していたかは判りません。
いずれにせよ亡父は「中国侵略の兵士」であったことは間違いありません。
これまで「父の罪業を謝罪する旅」を続けてきましたが、足腰が弱ってきましたので、それなりの活動をしている現在です。
参考サイト
*中国人戦争被害者の要求を支える会
*毒ガス問題ポータルサイト
*毒ガス問題を考える会(事務局長でした)
*人骨の会
亡父が第二次上海事変で第九師団金沢輜重兵聯隊特務二等兵として応召され、大阪港から出航するときの宿舎で、戦友と宿舎となった民家の方々との記念写真(30歳)
(亡父は真ん中で子供を抱いている)
日章旗の横には「天皇陛下・皇后陛下の御真影」が見えます
滿州牡丹江付近(中国・吉林省牡丹江市)から送ってきた写真(34歳)
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