(株)富士国際旅行社が発行している「いい旅 いい仲間」VOL.75号に、ジャーリスト上丸雄一氏が寄稿していましたので、朝日新聞出版刊「南京事件と新聞報道 記者たちは何を書き、何を書かなかったか」を購入しました。
「あとがき」には「この本を書くために、本格的に資料集めを始めたのは2020年2月だった。その月に私は65歳に到達し、それまで42年間勤めた朝日新聞社を退社してフリーになった。以来、三年半にわたって、私は、くる日もくる日も『南京』と向き合ってきた。(略)準備作業に一応の区切りをつけて原稿の執筆に取りかかったのは2021年5月だった。」と、あるように元新聞記者ならではの「南京事件」への執念が感じられます。
管理人は「あとがき」中の「祖父のこと」を読んで驚きました。「上丸大吉は戸籍上、私の祖父であるが、実の祖父ではない」そうですが、戸籍上の祖父である上丸大吉は、父と同じ金沢第九師団に所属し輜重兵だったことです。岐阜県は、名古屋第三師団と金沢第九師団に別れていました。高山市出身なので金沢第九師団山砲兵第九聯隊でした。
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(略)
祖父のこと
最後に私事にふれることをお許しいただきたい。
私の祖父、上丸大吉は、1914(大正3)年、現在の岐阜県高山市に生まれた。23歳のとき、金沢山砲兵第九連隊第一大隊の輪重兵として中国にわたり、南京戦に従軍した。
輜重兵は食料などを運ぶのが任務で、通常は銃を持たなかった。このため「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」と揶揄され、兵士のなかで一段、低くみられていた。
大吉が所属する第一大隊の隊長は比土平隆男。本書では、カメラマンの佐藤振寿ら毎日新聞の取材班が南京陥落直後、国民政府の庁舎に日の丸を掲げる場面で比土平の名をみることができる。
大吉が戦地から郷里に送った手紙やはがきが幾つか私の実家に残されている。そのうちのーつは、便筆に「南京陥落紀念 上海 12 12.17 野戦郵便局」のスタンプが押されている。三本の日の丸がはためく図案は、野戦郵便長、佐々木元勝の著書『野戦郵便旗』(73年刊)に載っているスタンプのそれと同じだ。
大吉が陥落直後の南京に足を踏み入れたことはまちがいない。しかし、南京で、また南京への途上で何を見たか、手紙は一切ふれていない。
大吉が所属する山砲兵第九連隊は37年12月13日から24日まで「南京城内の掃蕩及び警備」にあたり、28日に移駐のため南京を出発。38年の元日は丹陽郊外で迎えた(山砲兵第九連隊記念写真帖編纂委員編「支那事変記念写真帖」40年刊)。
その後の大吉の足跡はほとんどわかっていない。ただーつわかっているのは、44年2月6日、中部太平洋マーシャル諸島のクェゼリン島(現在はクワジェリン島と表記)で 戦死したことだ。享年29。
日本軍はこのとき、米軍の攻撃の前に全滅した。
そのクワジェリン島に私が飛行機で立ち寄ったのは2014年2月、ビキニ事件60年の取材でマーシャル諸島共和国の首都マジュロを訪れる途次だった。立ち寄ったといっても、クワジェリン島には米軍基地がおかれており、飛行機の外に出ることは許されなかった。
そこは、大日本帝国が太平洋に拡げた版図のほぼ東端にあたっていた。
山深い飛騨の地で、大吉は、母の手ひとつで育てられた。10歳の時に、母と死別。当時、義務教育だった尋常小学校六年を終えると愛知県内の印刷所にいわゆる丁稚奉公に出たと聞く。
その青年が── 遥けくも来つるものかな、なぜこの南の島で、絶望的な飢餓に苦しみながら死んでいかねばならなかったのか。
戦後に生まれた私は、大吉を知らない。しかし、大吉と無縁とはいえない。
そうである以上、「南京」は、単にーつの歴史事実として私の外にあるのではなかった。
私の内に「南京」はあった。
三年半にわたって調査と執筆にあわただしい日々をすごした末に、私はようやくそのことに気づいた。
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(略)
注 2 上丸大吉は戸籍上、私の祖父であるが、実の祖父ではない。 日中戦争が全面化してまもない37年9月、出征する。
3 ネット上の情報では1982年に「山砲兵第九連隊 一銭五厘の兵隊の記」という本が出版されているようだ。著者、出版者は「中瀬武」。山砲兵第九連隊は上丸大吉が所属した部隊だ。ぜひ目を通したいのだが、国会図書館などの蔵書や、ネット上の古書店を検索してもヒットせず、未見である。
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帝國軍備配備圖
岐阜県部分の拡大図
熊本第六師団が攻落した「中華門」
城壁に残る砲弾の跡
(了)