■時間軸の観念はあるベクトルをもったものとして捉えるのが人間世界では当たり前の事となっている。なぜなら人間がこの時間というものを考えだしたからだ。もし仮に、非常に難しいことではあるがこの、過去から未来へと流れる一定のベクトルをもった時間というものを、過去、現在、未来の分類をせず、ベクトルも無いものとして想定できるなら、そしてそれを現実世界や宇宙に当てはめて一瞬でも明確にイメージできる人間がいるなら例えばその宇宙などの様相はがらりと変えて見ることができるだろう。その様に見ないと見えてこないものがあると思うのだ。
その感覚を他人に伝え、共有することが、相当な困難を伴うことは始めから想像されるし、第一そんなめんどくさい事嫌だよというのが一般的だ。
しかし、もしかするとその捉え方の方がより正解に近いかもしれないということなのだ。
物事を捉える時、ある要素に分けて捉えるということは方法論としてよくやることだ。この場合は時間というものを想定し、過去、現在、未来という要素に分類し、そこに容易には外すことのできないベクトルをもたせているわけだ。それを結果的に時間と名付けているとも言える。それが理解しやすいからだが、このように要素に分けて分類しそこに関連性をもたせるという方法をとった途端に、そこから大きくこぼれ落ちたり、見ることができなくなってしまう事が多くあると思うのだ。
因果関係というものは日常の中に当然あるし、それを認めなければ困ってしまう事だらけなのだが、こと、宇宙の生成の話などになってくると人間の側の小さな知恵で分類、関連付けた方法論では捉えきれない事があることは始めから分かっている、と思うのだ。
■話は飛ぶ。直ぐに飛ぶ。ほんの何年か前まで、ハリーポッターが大流行りだった。あのハリーポッターや例えば昔のインディ―ジョーンズというような映画が最近見られなくなったような気がする。なぜなのだろう。様々なグッズ売り場などをも巻き込んで流行っているというのも、聞かない。気のせいだろうか。