カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

22JUL2010

2010-07-22 | エッセイ

時間軸の観念はあるベクトルをもったものとして捉えるのが人間世界では当たり前の事となっている。なぜなら人間がこの時間というものを考えだしたからだ。もし仮に、非常に難しいことではあるがこの、過去から未来へと流れる一定のベクトルをもった時間というものを、過去、現在、未来の分類をせず、ベクトルも無いものとして想定できるなら、そしてそれを現実世界や宇宙に当てはめて一瞬でも明確にイメージできる人間がいるなら例えばその宇宙などの様相はがらりと変えて見ることができるだろう。その様に見ないと見えてこないものがあると思うのだ。
 その感覚を他人に伝え、共有することが、相当な困難を伴うことは始めから想像されるし、第一そんなめんどくさい事嫌だよというのが一般的だ。
 しかし、もしかするとその捉え方の方がより正解に近いかもしれないということなのだ。
 物事を捉える時、ある要素に分けて捉えるということは方法論としてよくやることだ。この場合は時間というものを想定し、過去、現在、未来という要素に分類し、そこに容易には外すことのできないベクトルをもたせているわけだ。それを結果的に時間と名付けているとも言える。それが理解しやすいからだが、このように要素に分けて分類しそこに関連性をもたせるという方法をとった途端に、そこから大きくこぼれ落ちたり、見ることができなくなってしまう事が多くあると思うのだ。

 因果関係というものは日常の中に当然あるし、それを認めなければ困ってしまう事だらけなのだが、こと、宇宙の生成の話などになってくると人間の側の小さな知恵で分類、関連付けた方法論では捉えきれない事があることは始めから分かっている、と思うのだ。


話は飛ぶ。直ぐに飛ぶ。ほんの何年か前まで、ハリーポッターが大流行りだった。あのハリーポッターや例えば昔のインディ―ジョーンズというような映画が最近見られなくなったような気がする。なぜなのだろう。様々なグッズ売り場などをも巻き込んで流行っているというのも、聞かない。気のせいだろうか。


                                                         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先日、庭に咲いた花

2010-07-22 | エッセイ
                          
                                    少し日は経っているが、庭に咲いたユリとアジサイ


花の名をなかなか覚えられない。見た瞬間に名前やそれにまつわる歴史、花言葉などが次々と現れるらしく話の尽きない人も多くいる。花を庭などで育てている人などはきっとそうなのだろう。私は、花は見る対象として一度目を留めるとじっくり見る方だと思う。ただただ見る、という感じだ。どれもこれも不思議な形、色をしている、と思うのだ。しかし嬉々として長々と見るというほどではないのだ。花というものと名前の間にあまり関連性を感じないということも、ある人々からすると実にもったいないと言われてしまうようなことかもしれない。しかし、こういうことは人それぞれ、分野を異にすればよくあることだと思う。ところが、blogに花のフォトを載せるようになって花の名に少しだけ注意がいくようになったのだ。見る機会も増えた。blogが自分の関心を持つ世界を少し広げてくれたのである。見てくれる人がいる、ということもあるだろう。blogの効用だと思う。それに、花というのは撮ってみると他の対象物に較べ、色など見映えがするのである。blog映えもする。そんなことに最近気づいた。



                                           
                                           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする