福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

第2ラウンド ケント・ナガノのブルックナー9番

2019-06-24 02:04:27 | コンサート
エッシェンバッハ&エルプフィルの終演が13時半頃。ケント・ナガノ&ハンブルク・フィル開演まで2時間半、何をしよう? 



まずは運河沿いのベンチに座ってノンビリ釣人を眺める。風が気持ちよく、このまま15時くらいまでノンビリ過ごしても良かったのだが、ハンブルク響終演後、タクシー乗り場に行列が出来ていたときのため、バス停まで下見に行くことにした。Googleマップによると950メートル、徒歩14分とある。もし道に迷ったりしたら命取りだ。





しかし、これが心楽しい散歩だった。運河そのものも美しいし、こんな橋を渡るのだって嬉しい。





ひとりの幸せ。もし誰か知人に声を掛けられ、現実に引き戻されたら台無しだ。万一、知ってる顔を見掛けたら、物影に隠れて過ぎるのを待つか、急いで人混みに紛れることにしよう。





バス停までは普通に歩いて10分、急げば1~2分詰められるかな? 途中、ニコライ教会にも挨拶できて良かった。

さて、エルプフィルハーモニーに戻ると、入口からホールロビーまで、スマホで動画撮影。このblogには動画が直に貼れない仕組みになっているので、興味のある方はFacebookを覗いて欲しい。







小腹が空いていたので、エルプフィル内のカフェで地元のケーキから林檎ケーキを選んで食べる。余分な味付けのないシンプルさを舌が喜び、十分に昼食変わりになるサイズでお腹も満足。



と、前置きを長々と書いているのには理由がある。

演奏が良くなかったのだ。
否、前半のメシアン「世の終わりのための四重奏曲」(ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノのための)は、瞑想的な美に貫かれ、素晴らしかった。チェロがヴィブラートに頼り過ぎなければなお良かったけど、60分弱という長丁場、4人の奏者は時間と空間を完全に支配、まったく緊張の糸の切れる瞬間はなかったのである。ただ、クラリネットの最弱音によるモノローグの最中に、平戸間客のスマホの呼び出し音の鳴ってしまったのは残念だったが・・。



なお、わたしの座席はサントリーホールで言えば、RAブロックのかなりP席寄りであったが、特に内田光子が選定したというスタインウェイが玉のように美しく響いてきた。サントリーホールのこの位置では考えられないほど、明晰で、生命力があったのである。ここで、誰かのピアノリサイタルを聴いてみたいと思わせたものである。



休憩後、目を付けていた平戸間後方の空席に移り、ケント・ナガノの登場を待った。

聴く前には、「ブルックナーはいくら聴いても疲れない」と豪語していたわたしも、ケント・ナガノのブルックナーにはお手上げだった。

まず、その音楽づくり、というかケント・ナガノの指揮が神経質なこと。さらには、オケの自発性を尊重するよりは従わせるタイプの指揮で音楽が生きていないこと。テューバやティンパニを筆頭にフォルテが下品なほどにうるさい。さらに、ブルックナーの命であるゲネラル・パウゼで何も感じないまま、先を急いでしまう、等々。

指揮そのものにも疑問があった。第1楽章後半、2つ振りか、4つ振りか、迷った場面でアンサンブルが崩壊しかけたことなど、それはただの事故だからよいけれど、フォルテのたびに見せるケント・ナガノの尋常でない力みが、オーケストラに悪影響を与えてしまっているのは根源的な問題だ。

大好きなブルックナーなのに、最初から最後まで、ただの1小節も美しいと感じる場面がなかったのだから恐れ入る。エッシェンバッハの思い出で終わりにしておけばよかった、と言っても後の祭。それも実際に聴いてみなければ、分からなかったことだと自らを慰めているところ。



最後のホルンの響きが消えるや否や、拍手は省略してタクシー乗り場に直行。果たして、ハンブルク響の開演に間に合うのか?

第1ラウンド エッシェンバッハの「ロマンティック」再び

2019-06-23 23:10:02 | コンサート


ほぼ諦めていた本日のエッシェンバッハ&エルプフィルのブルックナー「ロマンティック」のチケットが正規ルートで手に入った! 暇さえあれば、スマホでチェックしていたところ、昨夜10時過ぎにヒットしたのである。何事も諦めてはいけない。

というわけで、2019年6月23日(日)は、演奏会のトリプルヘッダーということになった。我ながら濃い1日であったなぁ。

第1ラウンド
11:00 エルプフィルハーモニー
エッシェンバッハ&NDRエルプフィル 
ショスタコーヴィチ: チェロ協奏曲第1番 
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

第2ラウンド
16:00 エルプフィルハーモニー
ケント・ナガノ& ハンブルク・フィル
メシアン: 世の終わりのための四重奏曲
ブルックナー: 交響曲第9番

第3ラウンド
19:00 ライスハレ
カンブルラン指揮 ハンブルク響
ヴェーベルン: パッサカリア
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
マルタ・アルゲリッチ pf
チャイコフスキー: 交響曲第5番

ケント・ナガノの終演予定は18時35分でハンブルク響の開演まで僅か25分。間に合わない可能性もありヒヤヒヤしたが、タクシー乗り場で横入りしようとするご婦人二人組より先にドアノブを掴んで乗り込み、ギリギリセーフとなった(笑)。気迫の勝利。当地では、タクシー乗り場であろうとドリンクカウンターであろうと、真面目に並んでいると、どんどん順番を抜かれるので、ある程度、強硬突破しなくてはならないことを覚えたのである(平時なら、少々お譲りしますが、本日ばかりはご容赦あれ)。



本日の座席は写真のご婦人が座ろうとしている右隣である。15階Kブロック3列目5番ということになる。クルレンツィスを聴いたのが同じブロックの2列目28番ということで、このブロックの最も上手寄り(ステージに向かって右)、しかも、やや屋根の被っていたところなので、本日の方が好条件であった。さらには、2列目までは前方の柵が視界の邪魔になるので、3列目はベストかも知れない。



エッシェンバッハ指揮NDRエルプフィルの演奏については先日絶讃したばかりだが、本日も大いに感動した。とにかくブルックナーの音楽にどっぷり浸れる至福、これに勝るものはないのだ。

平戸間の前から2列目と実質4階席では、当然ながら聴こえ方は違う。前者では、弦の囁きが美しかった。さらに、どんなに金管群が咆哮しているときでも第1ヴァイオリンの音型がすべて聴きとれる稀有の歓びをも味わったが、後者では細かな音型は音の塊となってしまう。その見返りとして、全体のバランスの美しさ、木管および金管群の存在感が増し、響きの法悦感が倍増する。

特に印象に残ったのはホルン。
前半のショスタコーヴィチでも、その驚異的なソロを披露したクラクディア・シュトレンカートの音をどうお伝えしたらよいのか?
その音の分厚さ、深さ、輝き、歌心など、いくら誉めても、まったく足りそうにない。恐るべきホルン奏者であり、その凄さを思い知らされたのは本日の座席である。



ただひとつだけ残念だったのは、わたしの左の方向から、補聴器のハウリングする音が絶えず漏れていたことである。休憩後に少しは止むことを期待したが、ブルックナーの前半は絶好調だったようで、その持続する電子音を意識から遠ざけるには相当なエネルギーが必要だった。音響の良いホールだけに、客席のノイズもよく響いてしまうのだ。

因みに、エルプフィルハーモニーでは、開演前にスマホの電源を落とせ等のアナウンスは全くない・・。

と書いて、いま思い出した!

ショスタコーヴィチをはじめるべくエッシェンバッハがタクトを掲げようとしたとき、16階の左サイドよりスマホの着信音が盛大に鳴り響いた。怪訝な顔をして振り向くマエストロ。とそのとき、ピッコロ氏がその音型を真似て吹いてみせた。なんたる妙技! 満場の拍手喝采に、殺伐としかけたホールの空気が緩んだ。ふと心和む瞬間であった。






クルレンツィス 狂熱の「レニングラード」@エルプフィルハーモニー

2019-06-21 23:20:01 | コンサート


二夜つづけてのエルプフィルハーモニー詣でとなった。



今宵の演目は、ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」。テオドール・クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団による来演である。しかし、これがはじめてのエルプフィルハーモニー公演ではなく、少なくとも昨年12月にも公演はあった。なぜそれを知っているかというと、誤って昨年12月のチケットを予約してしまって、お金も切符もふいにしてしまったという苦い記憶があるからだ。



今宵の座席は、15階のKというブロックの前から二列目。もちろん、ホールそのものが15階席まであるわけではない。昨夜聴いた平戸間が12階、つまり、このビルそのものの階が客席にも採用されている、ということに今日気付いた次第。

実質4階席で聴くこのホールの音響は、やはり素晴らしいものがあった。バランスだけをとれば、平戸間前方を凌駕していたと言ってよいだろう。



上から見下ろしながら感じたことは、このホールはまるでベーゼンドルファーだなぁ、ということ。つまり、エルプフィルハーモニーのステージ床と壁が、あたかも、ベーゼンドルファーの共鳴板と木枠のような役割を果たし、ステージ上の演奏を深く、そして暖かく包んでいたのである。オーケストラがどんなに大音量になっても飽和せず、混濁もしない懐の深さはこのホールの大きな魅力と言えるだろう。



クルレンツィスは、紛うことなき天才である。今年のはじめ、ムジカエテルナを率いての来日公演では賛否が分かれたものだが、今宵の演奏はもっと好みを超えた普遍性のあるものだと思う。

ひとつには、オーケストラが南西ドイツ放送交響楽団であること。ムジカエテルナのサークル的、同人的な在り方に較べ、南西ドイツ放響は、オーケストラとしてのポテンシャルが比較にならないくらい高いところにある。

ドイツのオーケストラらしい重厚な響きと揺るぎないアンサンブルの上で、クルレンツィスの狂気が展開されるのであるから、それはそれは凄まじい世界が現れるのだ。

第1楽章、スネアドラムに始まる展開部冒頭の究極の弱音は、ムジカエテルナとのチャイコフスキーを思い出させたが、緊張の持続、精神の高揚、そしてあらゆる抑圧から解放されんとしたとき、それまで座して演奏していた全プレイヤーが立奏に移って聴衆の度胆を抜いた(もちろん、チェロ、テューバなどは除く)。その只ならぬ高揚は祭における群衆の、例えば火を囲んで何かに憑かれたように踊り狂う人々の熱狂すら思い出させた。
その後も音楽に応じ、木管だけが立つ場面、金管だけが立つ場面、あるソロ楽器のみが立つ場合、そして全員が立つ場面が様々に組み合わされてゆくのだが、これが視覚的にも、音楽的にも抜群の効果を上げる。

即ち、立奏するプレイヤー全員がコンチェルトのソリストのように大きな身体の動きや表現の幅を見せるばかりでなく、音の発する位置が高くなるので、明らかにその楽器やセクションの音色が変わるのである。まるで、オルガンのストップを替えるような効果は目眩くばかり。かといって、表現に溺れた造型の崩れなどは一昨年なく、実に堂々としたショスタコーヴィチであった。決して、際物と呼ぶべきものではない。



終演後の聴衆の熱狂も桁外れ。録画して皆さんにお見せしたかったくらい。

わたし自身は、ショスタコーヴィチの15の交響曲を眼前に積み上げられてもなお、ブルックナーの0番を選ぶブルックナー人間ゆえ、感動の大きさは昨夜のエッシェンバッハにあったが、クルレンツィスが本物であることを確認することができたことは喜びたい。



ただ、クルレンツィスのような狂熱の演奏こそ、直接音やプレイヤーの息遣いの聴こえる平戸間で聴き、その直中に1人の当事者として身を置くべきだったかも知れない。チケットを取れただけでも御の字、座席を選ぶ余裕などまるでなかったから、仕方のないことなのだけれど。

奇跡の音響! エルプフィルハーモニー エッシェンバッハの「ロマンティック」を聴く

2019-06-21 10:56:07 | コンサート


カウフマンの歌っている最中、ひとりのご婦人が「声が全然聞こえない」と叫び、怒ってホールから退席した事件を筆頭に、なにかと噂のハンブルク・エルプフィルハーモニー。

音楽に興味のない観光客がドッと押し寄せ、演奏中も話し声やノイズが絶えないなど、良からぬ噂も耳にするなか、「何事も自分で体験せねば!」ということで、出掛けてきたのは、クリストフ・エッシェンバッハ指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団による定期演奏会(2019年6月20日 20:00開演)。



演目は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番とブルックナー: 交響曲第4番「ロマンティック」(第2稿)
前半のチェロ独奏は、ニコラ・アルトシュテットである。



ショスタコーヴィチも渾身の名演であったが、ソロ・アンコールで弾かれたハイドンの交響曲第13番よりアダージョ・カンタービレが絶美であった。指揮者なしの弾き振り、というより弦のみ4-4-2-2-1との親密な室内楽で、その弓の上げ下げと息遣いだけで紡がれる夢のような世界!

わたしの座席は平戸間中央2列目やや左寄り、ちょうど目の前が第1ヴァイオリンの第2プルトというところ。ステージはとても低く、最前列から身体を乗り出せば奏者に触れることも出来そうなほど、身近な感じである。

わが第一印象は、「心落ち着くリスニングルームで、最上級のオーディオ・システムによって超優秀録音の音源を再生した音のようだ」
というもの。
コンサートホールの音響を形容するには不謹慎な表現と思われるかも知れないが、これは最大の讃辞である。ほぼ満点に近い、というより他のホールとは次元が異なる。

上手く調整されたオーディオ・システムでは、二本のスピーカーのド真ん中にひとりの歌手や奏者がキッチリ像を結び、あたかも、自分の目の前1メートルのところに、フィッシャー=ディースカウが立ち歌い、アンドレ・ナヴァラが弓を動かすのが見えることがある。これはオーディオならではのマジックであり、仮想の音楽空間であると、昨夜までは思っていたが、それがエルプフィルハーモニーというホールで、実際の生演奏で実現されたのである。これは驚異的と言わねばならない。



メインのブルックナーでも最上級の時間はつづいた。冒頭のブルックナー開始、弦のさざ波は、あたかも風に揺れる森の木々の囁きのようであり、また、清らかな泉の湧き出ずる音のようであり、どこまでも清廉でありながら、立体的なのだ。

我が座席の位置から、第2ヴァイオリンが少し遠いとか、管楽器が見えず、やや音がマスクされる、などの傾向があるのは、どのホールでも同じことだが、この場所でこれほど音楽を堪能できるのは驚異的。すべてを超えて現出する奇跡の音の柱には、ただただ唖然とするばかり。

その理由のひとつは、ステージの床にある。まるで、高級スピーカーのエンクロージャーのように、ステージ上のオーケストラの音にまろやかに共鳴しつつ、しかも混濁のないクリアな音を演出する。壁の素材や形状にも由来していることだろう。少なくともわたしの目の届く範囲のプレイヤー全員の息遣いや弓遣いを客席で共有できるとは、こんな至福はないのである。

まるで修道僧のようなエッシェンバッハの指揮は、ティーレマンのような煽りもなく、バレンボイムのような誇大な表現もなく、ただただブルックナーの音楽をありのままに響かせてくれた。第1楽章冒頭、金管によるブルックナー・リズム出現の直前の第1ヴァイオリンを、カラヤンの流儀で改訂版のようにオクターヴ上げさせていた場面も、全体の美から突出したものとならなかったのは流石である。



ところで、今回、気になってカウフマン事件の記事を再読してみたのだが、件の演目がマーラー「大地の歌」であった由()。なんだ! この記事が正しく、演目が「大地の歌」であったのなら、ムジークフェラインであろうと、コンセルトヘボウであろうと、サントリーホールであろうと、テノールの声が聴こえることはないではないか! 
記者は、面白おかしく書きたいのだろうが、エルプフィルハーモニーへの名誉毀損も甚だしい案件と言えそうだ(ただし、ほかの座席でどう聴こえるかは分からない)。

因みに心配された聴衆のマナーも、ここへきて落ち着いた模様。何人か退屈そうは顔も見受けられたが、静寂は保たれており、たいていの日本国内の演奏会よりよかった。なにやり鈴の音や飴の包み紙の音の心配がない(笑)。



本公演は、23日(日)に再演されるので、駆けつけたいところだが、チケットは発売と同時にソールドアウト。転売サイト経由では、ベルリン・フィル来日公演以上の高値となるため、購入を思い切れないでいる。当日、会場入り口で手に入ればラッキーというところか。



なお、今宵は同じエルプフィルハーモニーにて、クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団によるショスタコーヴィチ「レニングラード」を聴く予定。今回は日本でいう3階席センターなので、音響の比較も含めて大いに楽しみなところである。


アニヤ・カンペのトリスタンに平伏す 

2019-06-16 00:12:53 | コンサート


本日は、ベルリン国立歌劇場ウンター・デン・リンデンにて、バレンボイム指揮による「トリスタンとイゾルデ」のプレミエ。

トリスタン :アンドレアス・シャーガー
マルケ王:ルネ・パーぺ
イゾルデ: アニヤ・カンペ 
クルヴェナール:ボアズ・ダニエル 
ブランゲーネ: ヴィオレッタ・ウルマーナ etc.

贅沢なキャストを眺めただけで、興奮してくるが、本日の声の饗宴には、ただただ圧倒され通しであった。

アンドレアス・シャーガーといえば、東京春祭でのジークフリートの破天荒さが記憶に新しいが、本公演でも一体どこから沸いてくるのか? という無尽蔵の声には呆れるばかり。ジークフリートの記憶が強烈すぎて、トリスタンを歌っているのに「恐れを知らない男」に見えてきてしまうのが難点といえば難点か(笑)。

ヴィオレッタ・ウルマーナも深々とした情感でもってブランゲーネの憂愁を歌いきり、ボアズ・ダニエルのクルヴェナール、ルネ・パーぺのマルケ王にも一分の隙もない。

そして、何と言っても素晴らしかったのが、アニヤ・カンペによるイゾルデ。オーケストラを軽々と超える力強く、伸びやかな声。気高い精神性を湛えた存在感。

ただただ、平伏すのみ。



バレンボイムの指揮も素晴らしいものだった。7年前にウィーンで聴いたブルックナー「8番」は、どこか巨匠ぶった指揮と意味もなく立派な音楽づくりに辟易したものだが、今宵のオーケストラは雄弁にして繊細。バレンボイム特有のオイリーで粘りある弦の歌に、ホルンやバス・クラリネットの思い切った強奏が効果的。愛の躊躇い、不安、歓喜など、トリスタンとイゾルデの心の移ろいが見事に音にされていた。



演出については、愚痴や不満ばかりになるので、多くは語らないでおこう。第1幕で、トリスタンを運ぶ船が、まるで豪華なクルーズ船のようである、という一事をもって興醒めも甚だしい。ワーグナーのサウンドにマッチしていないことに気付かないのだろうか?



なお、この歌劇場の音響は素晴らしく、内装も含め建物としての魅力も大。ベルリン・ドイツ・オペラの遥か上をいくものであると感じた。 









アンドラーシュ・シフ ベルリン・コンツェルトハウス管

2019-06-14 16:38:04 | コンサート


今宵は、ベルリン・コンツェルトハウスに初見参。アンドラーシュ・シフとコンツェルトハウス管の演奏会を聴いた。

プログラムは、前半にバッハ: イタリア協奏曲、ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第1番。休憩を挟んだ後半は、バルトーク: 管弦楽のための協奏曲

つまり、シフによる独奏~弾き振り~指揮という流れになるわけだ。

オーケストラを着席させたまま弾いたイタリア協奏曲こそ些か求道的に過ぎて、シフならではの閃きに欠けた気もしたが、次のベートーヴェンは生き生きとした生気とに溢れた超一流の至芸を見せた。まさに自由闊達。ユーモアあり、悲哀あり、憧れあり、なんとも美しいベートーヴェン。

オーケストラのコントロールも抜群で、力づくの場面は外務省。柔らかな響きを主体に千変万化の彩りの移ろいを聴かせたのである。

アンコールは、シフの独奏で、バッハ:パルティータ第1番よりメヌエットⅠ&Ⅱとジーグ。まさに天衣無縫。イタリア協奏曲とは別人のような冴えを聴かせた。



さて、ここで、後半のバルトークの話をしなくてはならないのだが、休憩時間より不意に襲われた睡魔によって、演奏については殆ど記憶がない。ただ、シフの虚飾のない真っ直ぐな指揮姿が、どこか高田三郎先生に似ていたなぁ、という朧気な印象のみ。

そもそも、バルトークの音楽を聴いて幸せを感じたことのない人間なので、意識があっても、楽しめたか否かは定かでない(バルトーク・ファンの皆さま申し分ありません)。

なお、コンツェルトハウスのアコースティックは素晴らしく、全体に昔ながらのコンサート会場という趣があって落ち着いた。いつか指揮台に立ってみたいものである。



Konzerthausorchester Berlin,
Sir András Schiff

Artist in Residence

KONZERTHAUSORCHESTER BERLINSIR
ANDRÁS SCHIFF Piano

Johann Sebastian Bach
„Concerto nach italienischem Gusto“ F-Dur BWV 971

Ludwig van Beethoven
Konzert für Klavier und Orchester Nr. 1 C-Dur op. 15

PAUSE

Béla Bartók
Konzert für Orchester


マスネ「ドンキ・ショット」に酔う ベルリン・ドイツ・オペラ

2019-06-14 09:34:24 | コンサート


昨夜は、再びベルリン・ドイツ・オペラへ。マスネ「ドン・キショット(ドン・キホーテ)」を観る。

座席は、日本風でいう3階席から壁沿いに舞台に向かって降りていくところ、その左サイド。随分高さがあって、高所恐怖症のわたしは一瞬怯んだが、東京文化会館の4階ほどの恐ろしさはなく、何とか落ち着いて座ることができた。

フランス・オペラに明るくないわたしにとって、この作品を聴くのも観るのもはじめての体験であったが、マスネ熟達の創作による音楽は、佳きスペイン趣味に彩られ、メロディもリズムも楽しく、味わいがあって大いに魅了された。何度でもリフレインしたくなる傑作であることに気付いた次第。

歌手では、ドン・キショットの恋い焦がれる女性、ドゥルシネ役のクレメンティーヌ・マルゲーヌ(メゾ・ソプラノ)が出色の出来映え。妖艶でありながら深みと憂いを湛えたその声と華のある舞台姿は、彼女が秀でたカルメン歌いであることを彷彿とさせた。

ドン・キショット役のアレックス・エスポジート、サンチョ・パンサ役のセス・カリコによる低声コンビも、声、演技ともに、滑稽、悲哀、真剣な愛を描いて見事であったが、ドン・キショットの役作りが老人というよりはバリバリの働き盛りのようであったのは、演出上致し方ないところか。それにしても、伝説の名歌手シャリアピンのために書かれたという作品だけに、更なる貫禄、存在感があれば、なお良かっただろう。

指揮はエマニュエル・ヴィヨーム。N響にも来演記録があるスキンヘッドの指揮者。わが座席からは、指揮姿が僅かにしか見えなかったのであるが、随分エネルギッシュな指揮ぶりで音楽を盛り立てていた。

"Jules Massenet: DON QUICHOTTE [Audience Reactions]" を YouTube で見る



演出については、門外漢ゆえ多くは語れないが、たとえば、ドン・キショットがドゥルシネの頭上から赤の花びらを浴びせると、ドゥルシネの衣裳が白から赤に早変わりするなど、とにかくお洒落。古典的で余りに常識的(奇抜よりは百倍よいが)であった前夜の「マノン・レスコー」よりも遥かに精彩があった。もっとも、本公演がプレミエから数えて4公演目ということで、その初心が保たれていたこともあるだろう。

しかし、よいことばかりでもなく・・。昨夜は日本でいう2階席、3階席正面が学生たちに埋め尽くされていたのだが、彼らの騒々しいこと夥しく、オケのチューニングが終わっも、自習時間の教室のような騒がしさ。開幕してピアニシモの場面でも、ヒソヒソ声や物音が絶えず、再三にわたり鑑賞を阻害されたのは残念であった。カーテンコールでのバカ騒ぎは、歓声や口笛が鳴り響き、さながはアイドル歌手かロックコンサートの乗り。なんだか憂さ晴らしのようにしか聞こえなかったが、クラシック音楽ファンの減少が危惧されるなか、彼らのうちの何人かでも、オペラに興味を持ってくれる可能性があるとするなら、これも受け入れざるを得ないのか?

なお、音響は、平戸間に較べ桁違いに良かった。これならオペラの醍醐味を味わえるというもので、「マノン・レスコー」もこの座席で聴いたなら、もっと感動できていただろう。
ステージ上方の字幕も見やすく、価格も平戸間の半額となれば、こちらを選ばない手はない。


サイモン・ラトルの「マノン・レスコー」

2019-06-13 00:28:40 | コンサート


ベルリンに着いてからというもの、機内に閉じ込められたり、空港に荷物を取りに行っても袖にされたり、衣料品や食料品を購入に街へ出掛けたり、およそ観光らしきことをしていないが、まあ、美術館巡りや名所の梯子ばかりが観光でもあるまい。地元の方と同じ衣料品店で、同じ下着や靴下を買い、同じスーパーマーケットで、パン、牛乳、ハム、チーズなどを買うのも、ベルリンを味わっていることになろう、と自らを慰めている。



夜は、ベルリン・ドイツ・オペラ初訪問。前回と前々回の滞在では、建物の外観だけ眺めるに留まったが、今夜はようやく内部に潜入することがてきた。

今宵の出しものは、プッチーニ「マノン・レスコー」。指揮はサイモン・ラトル。同劇場2004年12月のプレミエ以来、33回目の公演とのこと。

マリア・ホセ・シーリのマノンは、前半の2幕こそ、ピッチに不安があったものの尻上がりに調子を上げ、終幕の「ひとりさびしく」の絶唱は見事なものであった。
ホルヘ・デ・レオンのデ・グリューは、これぞテノールという輝かしい声、トーマス・レーマンのサージェントはじめ、他の歌手陣も充実した舞台であったと思う。

ラトルは、良く言えば精気のある指揮ぶり。ただ、音楽を少し引っ掻き回し過ぎるかなぁ? という印象も残る。そんなに煽らなくても美しいのに、と言う場面がなくもなかったが、彼のモーツァルトやブルックナーを聴いたときほどの違和感はなかった。

終演後の聴衆は熱狂的。
この大きな喝采の中で、わたしが最初に思ったことは、

「ああ、この人たちに、新国立劇場の《蝶々夫人》を観せたい」

ということ。

今宵の公演も、レパートリー公演として優れたものであったとは思うが、演出にしろ、舞台にしろ、歌手の役作りにしろ、新国立劇場の「蝶々夫人」ほど磨き上げられ、極められたものではなかったからである(もちろん、それは止むを得ないことだけれど)。それほどまでに佐藤康子の蝶々さんも、山下牧子のスズキは美しかった。

なお、戦後再建された旧西ベルリン唯一の歌劇団も、内装の劣化は隠せない。椅子のクッションは昭和の映画館ほどではないにしても快適には遠く、クロスもところどころ綻びている。

なお、わたしの座席は、平戸間10列目中央であったが、少なくともこの座席での音響はよろしくない。「ピットの音が上に昇っては降りてくる」という類のオペラハウスの醍醐味とは無縁、残響の乏しい乾いた音。もう少しアコースティックがよければ、さらに感動できていただろう。

それにしても、開演前に頂いたレモネードは美味かったなぁ。



















美しさの極み「蝶々夫人」新国立劇場

2019-06-10 12:18:34 | コンサート


6月9日(日)は、新国立劇場に於ける「蝶々夫人」千秋楽へ。

何しろこのオペラは、学生時代より、セラフィン指揮のテバルディ盤とバルビローリ指揮のレナータ・スコット盤で何度聴いたか分からないというほど好きな作品。プッチーニならではの陶酔感。サロメとは全く別の種類のエクスタシーが堪らないのだ。

旅行の延期が決まったとき、千秋楽のチケットを譲りたいという人と出会ってしまえば、さらにその座席が平戸間最前列というのであれば、もう断る理由はなかった。

いやあ、美しかった。
まさに、日本発のオペラ。
もちろん、プッチーニの描く日本は、敢えて事実に拠らない幻想のものだけれど、その舞台があたかも本当の日本のように思えるほど、自然に消化され、磨きあげられていた。
日本ならではの型の美しさ。婚礼の場面に於ける親族たちの所作、たとえばお辞儀ひとつとっても、あの腰の高さ、上半身を傾ける角度、これは、西洋の人になかなか真似できるものではない美しさである。

初日に不調の伝えられた佐藤康子の蝶々さん。この日も絶好調ではなかったのかもしれないけれど、ピンカートンを想い、待ちつづける蝶々さんの純真さがひしひしと伝わってきて魅せられた。

一方、山下牧子のスズキは天下一品。
深々と魂を揺さぶる声の素晴らしさはもちろん、ひとつひとつの所作や表情が蝶々さんの心を映す鏡のような一心同体ぶり。その背中の演技の凄まじさには身震いすら覚えた。

コステロのピンカートンこそ、やや線が細く、もっとバリバリの声を聴かせて欲しかったけれど、須藤慎吾のシャープレス、晴雅彦のゴロー、星野淳のヤマドリは、歌も芝居も絶好調。

ことに、ゴローの太鼓持ち的な役作りは、古典落語、時代劇などを肌で知らない西洋の演出家や歌手には思いも及ばないことであろう。

それにしても、好きな男の生首を銀の皿に乗せて唇を奪っては恍惚に浸る女の話(サロメ)をゲネプロ含めて3日も続けて観た翌日に、信じる男を3年間待ちつづける純真な蝶々さんを観る、というのも、なかなか稀少な体験であった。。

指揮:ドナート・レンツェッティ
演出:栗山民也
美術:島 次郎
衣裳:前田文子
照明:勝柴次朗
再演:演出澤田康子
舞台監督:髙橋尚史

蝶々夫人:佐藤康子
ピンカートン:スティーヴン・コステロ
シャープレス:須藤慎吾
スズキ:山下牧子
ゴロー:晴 雅彦
ボンゾ:島村武男
ヤマドリ:星野 淳
ケート:佐藤路子

合唱指揮:冨平恭平
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

恐るべしデュトワ&メルベートのサロメ

2019-06-08 17:32:32 | コンサート


デュトワ&大フィルの「サロメ」。

凄まじかった。

正直、前半には、いくつか注文はあった。しかし、終わってみれば、すべてを忘れるほどの興奮だけが残った。

特に「7つのヴェールの踊り」から凄絶な幕切れまでは、息をもつかせぬ緊迫感。
デュトワの棒のもと、渦巻く官能を描く大フィル、その16型の全力の大音量を、ものともせず乗り越えてくるメルベートの声と倒錯した愛のエクスタシーに、幾度となく我が脳天から背中に電気が走った。まさにオペラでしか味わえない麻薬。彼女のエレクトラも聴きたいなぁ。

日本人歌手では、とりわけ加納悦子さんのヘロディアスが素晴らしかった。歌とか演技というよりヘロディアスそのもの。

ダフニス、幻想の名演につづいて、大フィルも見事! 再びデュトワさんに来て欲しいと願うのは、わたしだけではあるまい。

追伸 
ドイツへの出国が6日から11日に延期となったのは、これを聴け、との天の声であると確信した次第。燻っていた無念の想いもすっかり吹き飛んだ!