福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

ブロムシュテット&バンベルク響 名古屋公演

2016-11-03 09:03:14 | コンサート


わざわざ名古屋までブロムシュテット&バンベルク響を聴きに行った理由は単純である。

サントリーホール公演のある11月2日(水)、3日(木)に外せない予定があったからである。が、じつはそれだけでもない。名古屋駅在来線3・4番ホームの「きしめん」は置いておくとして、「運命」「田園」を一夜で聴けることもあるし、ブルックナー8を振った愛知県芸術劇場コンサートホールへの愛着もある。

「田園」は、本当に清らかな美に彩られたアプローチで、荒ぶるベートーヴェンの姿はここにない。ノン・ヴィブラートに徹した弦はどこまでも透明で、ピアニシモからメゾ・ピアノまでに無限の段階とニュアンスがあった。

結果、いかなるときにも木管群の動きが鮮明に浮き立つ。その美学は編成の大きなモダン・オーケストラによるベートーヴェンとしては、異例のことと言えるだろう。

ただ、プログラムの冒頭に置かれていたためか、楽器もプレイヤーの魂も十分に暖まっていたとは言えず、とくに前半ふたつの楽章は圧倒的な感銘とは至らなかった恨みは残る。第4楽章「嵐」にて強い音を奏でたことで、ようやくエンジンのかかった感があり、結果、同じピアニシモ~ピアノでも、第5楽章の感興の豊かさは前半の比ではなかったのである。「田園」がメインの日に聴くことかができれば、第1楽章からもっと大きな感動を受けることができたに違いない。

その点、「第5」は冒頭から完全に吹っ切れた文句なしの名演奏。ノン・ヴィブラートによる弦楽セクションに人々を圧するような大音量があるわけではない。あくまでも、音楽的な必然性と美しさ、そして、各セクションに命の灯を点すことで、見事なベートーヴェンを構築していたのである。迫真のフォルティシモあってのピアニシモの美も格別であった。

アンコール曲については、もしやという予感がかった。そう、あのブルックナー7番のプログラムから忽然と消えた曲である。「5番」のカーテンコールの最中、ピッコロが楽器の調整をしているのを、さらにホルン奏者2名が新たにステージに参戦(本来は2本だが)したのを見て、確信に変わったが、その「エグモント」序曲こそ、神品であった。

スペインの圧政に抵抗したがゆえ、斬首となったネーデンランドの英雄エグモントの悲劇、そして死後の勝利と栄光。

冒頭F音のユニゾン、強から弱へと至るディミヌエンドに、英雄エグモントの強靭な意志と悲劇の全てがあった。

血気盛んな友との対話、恋人の優しさと祈り、民衆の喘ぎ、そして鮮烈なまでの斬首と輝かしい勝利が目眩くように描かれていく。それはそれは気高く、美しいエグモント序曲であった。

この神憑った演奏が、ブルックナーの前プロとしてではなく、「運命」「田園」のアンコールとして演奏されたことは、必然であり、最高の配置であったと言えるだろう。

明日、大阪から東京オペラシティ・タケミツホールに直行し、ブルックナー7を聴きにゆくことは言うまでもない。






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