明鏡   

鏡のごとく

「アフリカの日々」アイザック・ディネーセン 横山貞子訳 晶文社

2017-09-17 14:13:42 | 小説
以下抜粋

私はプーラン・シングの鍛冶場が好きだった。キクユ族の人たちは、二つの点でこの鍛冶場が気に入っていた。

まずひとつには、鉄という素材のなかでも最も魅力に富んだもののせいである。
鉄は人々の想像力を彼方まで導いてゆくものだ。

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第二に、土地の人々の自然に近い生き方を鍛冶場に惹きつけるのは、その音楽である。
鍛冶のかんだかく快活な、しかも単調で目覚ましいリズムは、神話のような力を持っている。
雄々しさに満ちたその音は、女たちの平衡を失わせ、心をとろけさせる。
その音は率直で気取りがなく真実を、ただ真実のみを語る。

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彼の鍛冶場のつち音は、聞く人の心にそのまま声を与えるかのように、それぞれの人が聞きたいと望む歌になる。
私にとっては、つち音は古代ギリシャの詩の一つを歌っていると聞こえるのだった。その詩を友達が訳してくれた。

「エロスの神は鍛冶さながらにつちを振りおろし
あらがう我が心を火花を散らせて打ち打つ
エロスは我が心を涙と嘆きもて冷やす
赤熱の鉄を流れにひたすごとく」


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オウム

デンマーク人の年老いた船主が、自分が若い頃の思い出にふけっていた。
16歳の時、シンガポールの売春宿で一夜を過ごしたことがあった。
父親の持船の船員たちと一緒に登楼し、そこで中国人の老女と話をしたのだった。
少年が遠い国から来たのだと聞くと、老女は自分の飼っている年取ったオウムを連れてきた。
昔々、私が若かったころ、やんごとない御生れのイギリス人の恋人がいて、このオウムをくれたのだよ、と、老女いった。
それなら、この鳥はもう百歳くらいだ、と少年は思った。
老女の昔の恋人は、このオウムを彼女に送り届ける前に、何かの文句を教え込んでいた。
その言葉だけは、どこの言葉なのか、どうしてもわからず、客たちの誰に尋ねてみても、意味のわかる人は一人もいなかった。
そこで、もう長年の間、女はたずねるのをあきらめてしまっていた。
だが、そんなに遠くから来たのなら、もしかして、これはお前さんのお国の言葉ではないかえ。
そうだったら、この文句の意味を説明してもらえまいかと思って。
そう言われて、少年は不思議な感動に心をゆすぶられた。
オウムを眺め、そのおそろしいくちばしからデンマーク語が洩れるところを想像すると、もう少しでその家から逃げ出しそうになった。
だが、その中国人の老女に親切をしてやりたいという気持ちが、かろうじて少年の足をふみとどまらせた。
ところが、老女がオウムに例の言葉を言わせるのを聞いてみると、それは古代ギリシャ語だった。
オウムはその言葉をとてもゆっくり唱えだし、少年にはそれがわかるくらいのギリシャ語のわきまえがあった。
それはサッフォーの詩だった。

「月は沈み スバルの星々は沈み
真夜中はすでに去り
かくて時はすぎ 時はすぎ
横たわる我は一人」

少年が詩句を訳すと、老女は舌を鳴らし、くぼんだ小さな眼を見張った。
もう一度繰り返してくれないかとたのみ、それを聞くと、ゆっくりと頷いた。

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キクユ族はもともと死者を埋葬せず、地上に置いたままにしてハイエナやハゲタカが食べるにまかせる。
私はこの習慣を好ましく思っていた。
太陽と星々の光にさらされて横たわり、短時間のうちにきれいさっぱりとたべられて消滅し、そして自然と一体になり、風景の一部と化すのは、楽しいことではないか。

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「嘆きの歌を変えよ
よろこびの調べに
われはあわれまんとてきたらず
楽しみを求めて来るならば」


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「死にあたり
火はわがむくろを犯せども
われ心にとめず
今はすべてのもの、
われにとりてよければ」

「アフリカの日々」アイザック・ディネーセン 横山貞子訳 晶文社

2017-08-28 23:33:15 | 小説
以下抜粋。

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ワシの影は平原を横切り
かなた、名もない空色の山々に向かう
ひとむれの若いしまうまの影は
ほそいひづめのあいだにしずまり
永い一日を動かずにいる
この影達は夕暮れを待つ
夕日が煉瓦色に染め上げる平原に
青く長く自らの形を延ばし
水場をさして歩いて行く時を待つ




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「さあ一緒に出かけて、生命を不必要な危険にさらしていただけないかしら。もしも生命になにかの価値があるとしたら、生命は無価値だということこそ、その価値なのね。自由に生きる人間は死ぬことができるという言葉があるでしょう。」

梅崎春生「黄色い日々」

2017-08-14 00:02:11 | 小説
(あいつは助かったんだな、あいつは)
それは麻痺性痴呆の病名をもって、A級戦犯の法廷から除外された男であった。この男がM病院に収容されていることは知っていたし、直線道路の彼方にその姿を見たとき、彼はすぐその男であることを直覚した。長身のその姿は、冷たい風のようなものを漂わせながら、近づいてきた。すれちがうまで彼ら三人は、しんと口をつぐんで歩いていた。
(どうしてあのときおれたちはしんとしてしまったのだろうな)

梅崎春生「黄色い日々」より抜粋


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なんとなく、梅崎春生「黄色い日々」を読んでいた。

「幻化」「桜島」なども読みつつ、戦争の後始末としての東京裁判についてふと思った。


誰が、生き残ったものを責めることができようか。などとおもいながら、これを繰り返し読み返していたのだ。

おそらく、梅崎の残した小説から鑑みると、上記の男は、大川周明のことであろうと思われるが。

東京裁判を生身で知っているものは、半ばあきらめのような、どうしようもない押し付けられた裁判を、生で、引き受けてきたのであるから、それを卑怯という単純な暴言を吐き捨てるだけでは、あまりにもそこが浅いようにも思われる。

たとえそれが、現人神、言ってみれば超A級戦犯的存在であったとしても、罪や罰というものを、他から受けつつ、生き残ったもの自らの中に課している様々な償いのようなものを見ようともしないのは、あまりにもそこが浅いと言わざるをえない。

『墓がない』

2016-02-10 23:21:53 | 小説
夢野久作の墓を見た。

博多にある一行寺に眠る、杉山家の墓。

入り口から入ってすぐの左側にあった大きな墓。

身体にあった大きさであったのだろうか。

巨体であった久作にあった、大きなそしてすこうし寂しい冬枯れた墓であった。

花を持ってくればよかった。

土から生えたばかりのうねったような花がいい。

死者の血肉を吸っているのかしらぬ存ぜぬと咲いた、するりと咲いた花がいい。

金文字で、杉山家の墓とわかるように彫ってあった。

久作は、玄洋社にも関わりのあった父親の杉山茂丸をはじめ、その一族の方々と、仄暗い墓の中、胎児の夢でも見ているのだろうか。


そういえば、ボルティモアの海の見える坂道を登って、丘の向こうにある教会の墓地に、ポーの墓はあった。


墓に辿り着く前に、夕方5時ごろの終わりがけの市場でクラブケーキと一緒に、ポーの顔の張り付いたラベルの瓶ビールをかっくらってきたばかりであった。

生牡蠣をしゃぶりつくしたかったが、夜遅くなるとここいらは意外と暗闇が深いということで、ポーの墓にたどり着くかどうか、わからないので、角打ちのように、たったまま、食らいつき、瓶ビールを空っぽにしたわけだ。


市場を出て、すぐの道でバスを待つ、米国の女学生に、ポーの墓はどこかと尋ねると、すぐそこよと、一人の赤毛の女学生が、道を挟んで建っている教会のような建物のある敷地を指差した。


入ってすぐに墓はあった。

一つは入り口のすぐ右に、もう一つは小道を逆L字型に辿った先の墓地の奥に。

墓地の奥から、入り口にうつされたと聞いたが、二つの墓に入ったものの、一度は掘り起こされた後、生き返ったわけでもなく、骨だけとなったポーは、壁からこぼれ落ちたものの気持ちを、現実においても味わったということにもなろう。

墓案内には、大鴉が、遠ざかる影のように、小さく張り付いていた。




作家とは、自分の書いたもののなかで生き続けるが、また、死に続けるものなのだ。

さしづめ、物語は、作家の墓標である。



ところで、私には、墓がない。

まだ、物語さえ、はじまっていないのだから。


こどもには、いつか何千度かわからぬか高温で焼かれるか、どろどろと地下深くねむり石化した私を吸い上げるなり、差し歯のように小さくなった私を形見あるいは二人それぞれに割ってもらって片身にして禍々しき魔除けのように持ち歩くなり、護身用に尖った石斧に加工するなりして欲しいと、言ってはいるが。

私には、墓がない。

入るべき墓がないのである。

10 億分の1秒だけの未来

2016-01-15 17:19:11 | 小説


「新幹線に乗って東京から博多まで1200キロを移動すると、10 億分の1秒だけ未来に行くことができます」

10 億分の1秒だけの未来。

方向さえ間違わなければいけるのだろうか。

ところで。

逆の方向に、つまり、博多から東京へ移動すると、10 億分の1秒だけ過去に行くということなのだろうか。

だとするならば。

地球の自転、公転、宇宙の広がりを与して、高速で移動していたら、未来にも、過去にも行けるということであろうか。

実際、飛行機にのっていると、国と国との時間の境界線を超えてしまうので、現実的には、未来にも、過去にも行っているという不可思議な体験を持つのであるから、その境界線を越えるというやつが、くせものであるのは間違いない。

宇宙の場合、探査機は、広がっているという原初の過去を写しているのか、(よくよく考えて見れば地球から見れば)未来を写しているともいえ、しかも、認識している時点では、現在をも写しているといえるので、その立ち位置に因って、意味は変わるとも言えなくもない。