久津媛・比佐津媛・ひむかひめ・卑弥呼・神功皇后が、同一人物ではないかということを考察しながら、物語っている「悲恋の女王 久津媛」福本英城著を拝読。
その後、暑い最中、日田に住みながら日田の歴史を紐解くことがなかったと思い至り、時間を作り、会所山(よそやま)にある久津媛神社まで登った。
鳥居の前に、社のような、茅葺か板葺かの屋根の江戸時代くらいに作られた石灯籠のようなものがあった。
よく見ると、ところどころ、古い石が積まれている。石垣と、石垣が崩れた跡と。
船型の水桶が、久津媛を祀っていると思われる小さな社を目指しているように置かれていた。
前書きによると。〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ひさつひめとは日田のひめという意味であるが、日田はかつては日向(ひむか)と呼ばれていたらしい。日向という字は、日高、そして日田と転化した。だからひさつひめはかつてはひむかひめと呼ばれていたに違いない。久津媛とは卑弥呼のことだという論拠の一つである。
ところが、卑弥呼と景行天皇とが同時代であろうはずがない。
卑弥呼神が「人と化為(な)って」というのは、卑弥呼神が「景行天皇の時代に、ある人物に乗り移って現れた」と解くべきだろう。
「景行天皇の時代」というのも、史実としては明らかではない。
ところで、日田の会所山(よそやま)に伝わる伝承には、神功皇后についての説話がほとんどで、あたかも久津媛とは神功皇后であるかのようだ。しかも、山中には、「皇后天皇の手洗いの泉」とか「皇后の腰掛椅子」などと呼ばれる遺跡が現存する。
神宮天皇といえば、日本古代史に燦たる女帝として、まさに卑弥呼神が「人と化為(な)って現れる」にふさわしい人物である。
しかし、この神功皇后についても、史実としては明らかではない。
特に、常識では、景行天皇と神功皇后との間には、二代にわたる時代差があることから、二人の取り合わせに異議を唱える人は多かろう。
ところが、拙著「記紀が伝える邪馬台国」で詳しく述べたが、景行天皇とその孫とされる神功皇后の夫、仲哀天皇とは実際には実の兄弟であったらしい形跡が見える。
そして、何よりも筆者が日本古代史の秘密を解く極め手となったのは、仁賢紀にある
「母(おも)にも兄(せ)、吾(あが)にも兄(せ)、吾が夫はや」
という絶妙なキーワードがある。
(「記紀が伝える邪馬台国」参照のこと)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
筑紫の『天津日継(あまつひつぎ)』の神事を務めていた当時の皇后は、会所山の社に篭って、神に仕えてさえいればよかったが、仁賢天皇が皇后に『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡を含めた神宝を携えて都に来るようにと促したと思われる。
日女大神すなわち天照大神が「この鏡は、もはらわが御魂として、わが前を拝(いつ)くがごと拝きまつれ」と後代に伝えた鏡が、金銀玉をちりばめて竜が絡み合った模様を掘り出した鏡で、『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡といわれ、この鏡が皇后と日田にある限り、『天津日継(あまつひつぎ)』の神事は、日田で行われていた。筑紫の天皇のために。
日田まで、出向いて『天津日継(あまつひつぎ)』の神事をすることがはばかられるようになったのは、筑紫から中央へとその当時の中央が動いたことが影響していると思われる。
日田の会所山(よそやま)は、もぬけの殻のように、ひっそりとし、誰もこない草深い小山は、その影を帯びているように見えた。
筑紫に渡来した民族の走りの物部氏は、その当時、筑紫のあちこちに勢力を築いていた。
「日の河」と呼ばれる筑紫大川の流域に広がる日向地方には、古来日の神信仰が普及しており、日の神を奉る霊山があり、その聖域は「いわくま」あるいは「いわい」と呼ばれる列石で囲まれていた。「奥津(おきつ)余曽」と言われる日田の会所山、「中津余曽」の朝倉の杷木山、「辺津余曽」と言われる高良山の神域にいれば「日の神」の加護が受けられ、同じ日の神を信奉する渡来系の物部に対する圧力ともなると思われたが。
こちらも渡来したと思われる日田のたしまの日鷹の娘が神宝が「奥津(おきつ)余曽」と言われる会所山(よそやま)を発とした時に、隠したものが、日田に残っており、その神事を本当の意味で受けるために筑紫の血を引く譽津別(ほむちわけ)皇子はわざわざ日田までやってきた。
一年中で一番太陽の力が弱くなる時、新しい帝が立つ時、この日の朝に、『天津日継(あまつひつぎ)』を受けるのが筑紫の天皇の習わしという。
丸太作りに茅葺の屋根。筵の壁。のような伊勢神宮にも反映されていると思われる当時の神殿で神事を行ったであろうが、二棟のうち一棟にある神殿の「真床おぶすま」で皇子は媛(皇后)を待ち、石座の「天の八道股」に一筋の光が差した瞬間に媛は羽織っていた襲(おすい)の前を光を見に受けるようにはだけ、その足で、神殿の皇子の待つ「真床おぶすま」に入るという。
この神事は、五穀豊穣を願いつつ、日の神の力をもっとも太陽の力が弱まった日の、次の朝に生まれ変わる太陽の再生を体現するかのようであるが。
ここにきて、ものがたりの中であれ、この国の、見えなかったものが、日のもとにさらされていくようで、今の状況も、当時とさほど変わらないことを何とはなしに思う。
そもそもそこにいたであろう、縄文を生きてきた人々はどうなっていたのかが、何より、知りたいことではある。
その後、暑い最中、日田に住みながら日田の歴史を紐解くことがなかったと思い至り、時間を作り、会所山(よそやま)にある久津媛神社まで登った。
鳥居の前に、社のような、茅葺か板葺かの屋根の江戸時代くらいに作られた石灯籠のようなものがあった。
よく見ると、ところどころ、古い石が積まれている。石垣と、石垣が崩れた跡と。
船型の水桶が、久津媛を祀っていると思われる小さな社を目指しているように置かれていた。
前書きによると。〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ひさつひめとは日田のひめという意味であるが、日田はかつては日向(ひむか)と呼ばれていたらしい。日向という字は、日高、そして日田と転化した。だからひさつひめはかつてはひむかひめと呼ばれていたに違いない。久津媛とは卑弥呼のことだという論拠の一つである。
ところが、卑弥呼と景行天皇とが同時代であろうはずがない。
卑弥呼神が「人と化為(な)って」というのは、卑弥呼神が「景行天皇の時代に、ある人物に乗り移って現れた」と解くべきだろう。
「景行天皇の時代」というのも、史実としては明らかではない。
ところで、日田の会所山(よそやま)に伝わる伝承には、神功皇后についての説話がほとんどで、あたかも久津媛とは神功皇后であるかのようだ。しかも、山中には、「皇后天皇の手洗いの泉」とか「皇后の腰掛椅子」などと呼ばれる遺跡が現存する。
神宮天皇といえば、日本古代史に燦たる女帝として、まさに卑弥呼神が「人と化為(な)って現れる」にふさわしい人物である。
しかし、この神功皇后についても、史実としては明らかではない。
特に、常識では、景行天皇と神功皇后との間には、二代にわたる時代差があることから、二人の取り合わせに異議を唱える人は多かろう。
ところが、拙著「記紀が伝える邪馬台国」で詳しく述べたが、景行天皇とその孫とされる神功皇后の夫、仲哀天皇とは実際には実の兄弟であったらしい形跡が見える。
そして、何よりも筆者が日本古代史の秘密を解く極め手となったのは、仁賢紀にある
「母(おも)にも兄(せ)、吾(あが)にも兄(せ)、吾が夫はや」
という絶妙なキーワードがある。
(「記紀が伝える邪馬台国」参照のこと)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
筑紫の『天津日継(あまつひつぎ)』の神事を務めていた当時の皇后は、会所山の社に篭って、神に仕えてさえいればよかったが、仁賢天皇が皇后に『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡を含めた神宝を携えて都に来るようにと促したと思われる。
日女大神すなわち天照大神が「この鏡は、もはらわが御魂として、わが前を拝(いつ)くがごと拝きまつれ」と後代に伝えた鏡が、金銀玉をちりばめて竜が絡み合った模様を掘り出した鏡で、『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡といわれ、この鏡が皇后と日田にある限り、『天津日継(あまつひつぎ)』の神事は、日田で行われていた。筑紫の天皇のために。
日田まで、出向いて『天津日継(あまつひつぎ)』の神事をすることがはばかられるようになったのは、筑紫から中央へとその当時の中央が動いたことが影響していると思われる。
日田の会所山(よそやま)は、もぬけの殻のように、ひっそりとし、誰もこない草深い小山は、その影を帯びているように見えた。
筑紫に渡来した民族の走りの物部氏は、その当時、筑紫のあちこちに勢力を築いていた。
「日の河」と呼ばれる筑紫大川の流域に広がる日向地方には、古来日の神信仰が普及しており、日の神を奉る霊山があり、その聖域は「いわくま」あるいは「いわい」と呼ばれる列石で囲まれていた。「奥津(おきつ)余曽」と言われる日田の会所山、「中津余曽」の朝倉の杷木山、「辺津余曽」と言われる高良山の神域にいれば「日の神」の加護が受けられ、同じ日の神を信奉する渡来系の物部に対する圧力ともなると思われたが。
こちらも渡来したと思われる日田のたしまの日鷹の娘が神宝が「奥津(おきつ)余曽」と言われる会所山(よそやま)を発とした時に、隠したものが、日田に残っており、その神事を本当の意味で受けるために筑紫の血を引く譽津別(ほむちわけ)皇子はわざわざ日田までやってきた。
一年中で一番太陽の力が弱くなる時、新しい帝が立つ時、この日の朝に、『天津日継(あまつひつぎ)』を受けるのが筑紫の天皇の習わしという。
丸太作りに茅葺の屋根。筵の壁。のような伊勢神宮にも反映されていると思われる当時の神殿で神事を行ったであろうが、二棟のうち一棟にある神殿の「真床おぶすま」で皇子は媛(皇后)を待ち、石座の「天の八道股」に一筋の光が差した瞬間に媛は羽織っていた襲(おすい)の前を光を見に受けるようにはだけ、その足で、神殿の皇子の待つ「真床おぶすま」に入るという。
この神事は、五穀豊穣を願いつつ、日の神の力をもっとも太陽の力が弱まった日の、次の朝に生まれ変わる太陽の再生を体現するかのようであるが。
ここにきて、ものがたりの中であれ、この国の、見えなかったものが、日のもとにさらされていくようで、今の状況も、当時とさほど変わらないことを何とはなしに思う。
そもそもそこにいたであろう、縄文を生きてきた人々はどうなっていたのかが、何より、知りたいことではある。