巡礼の旅に出ようと思っていた。
茅葺の職人の仕事は、言ってみれば、巡礼であった。
色々なところに残っている茅葺、杉皮葺の屋根を巡ることによって、自分の中のなんだかわからない、コロナ禍に似た、見えないようで見えている悪露のような渦のようなものの中にあって、その核にのっぺりと回ってはいるが回りきれずに一ところにあるものの本性を知りたかったのだ。
コロナ化されていくように、世界は回っていた。
二、三年は、渦の中で、そののっぺりとしたものの正体を見ようと、皆がテレビの中からがなりまくられる死を意識させられていた。
今日は、何人死亡しました。入院すらできない状態です。自宅で待機してください。救いの手が来るまで、誰にも会わないでください。大切なものを守るためです。
戦時中のプロパガンダ。のような。
第2次世界大戦の常套句。のような。
欲しがりません。勝つまでは。
お国のために。勝ってくるぞと勇ましく。
そうは言いながら、神州島国日本は八紘一宇を最初は望んでいたのではなかったのか。
少なくとも、それまでは、奴隷状態であった東洋の人々を平等に手をつないで、奴隷貿易で人を人とも思わなくなったものたちを、見返すつもりでいたのではなかったか。
途中から、いやもしかして、最初から、自分たちのルールを作り始める時点で、それを押し付けることになるのは、火を見るより明らかなこととなっていったが。
今も無言の圧力を溜めている。
見えない手は、大きなわたあめの芯を回しているのだ。わたあめをくるくると巻き取っては、わずかのザラメから空気を含んだ大きなふわふわとした、中身は、空っぽに限りなく近い、甘い甘い目の前で溶けていくのを、必死で見ないように、巻かれたものを、無言で喰らい続けないといけないように。
ああ、そうだった。そうだった。我らは語りを語る無だ。
といっていたのは、ペソアの分身である詩人のリカルド・クレイスであった。
私も、茅葺職人をしている時と、詩を書いている時は名前が変えている。人格が変わってしまったわけではないが。分身のような、ドッペルゲンガーのような、出会ってしまったら、分身に存在をすり替えられてしまうような、心持ちではあるのだ。
ああ、そうだった、そうだった。我らは語りを語る無だ。
ああ、そうだった、そうだった。
私は、つい数ヶ月前、中学生の前で、戦争体験を語ったのだった。
イランとイラクが戦争を始めた時に、父親の仕事の関係でイランに住んでいた時のことであった。今は、アメリカに殺されていない、フセインが戦争を始めたのだった。
コロナが収束しつつある今、今度は、ネタニヤフが戦争を始めるという。アメリカから来たブリンケン国務長官は「ユダヤ人」としてきた。と心も体も老いてしまった元新聞記者の小説家が語っていた。
アメリカのユダヤ人がイスラエルのユダヤ人に会いに来たと言ったというのだ。
それは、どういう意味なのだろうか。
割り箸の芯をくいくいと回して、台風の目のように一点に止まっていながら、静かに笑っているのは、一体、何なのだろうか。
子供の頃から、ずっと、考えていた。訳も分からずに、戦争が目の前で始まった時から、ずっと。
割り箸の芯を持っているものは、甘いわたあめを食べるまでは、しつこく、回し続けようとする。原料は砂糖であった時も、絹であった時も、金であった時も、石炭であった時も、石油であった時も、スパイスであった時も、人であった時もあるが、基本は、総なめしていくものが、最初にコマとなって、戦争を仕掛けた、その土地のものを、いうことを聞かなくなったら、殺すと言う、甘くはない結末まで付いてくるのだから、始末に負えない。
ロシアの民間軍事組織を担っていたものも、反旗をひるがえした途端に飛行機が落ちたと言って、死んでしまった。それを見ていたものたちは、もう、そこにいて、そこで殺し合う意味をなくしてしまっていることであろう。勝っても、負けても、殺されるのだから。殺し合うのは、無意味であるということ。
彼らのコマにならないということ。
自分の綿菓子は、自分で回すということ。
回らない魂と出会う巡礼の旅に出るということ。
長崎に行ってきた。大村でゆきこさんと会うために。
ゆきこさんは、大切な分身のような人と離れ離れになってしまった。突然の死。コロナワクチンを5回打ったそうである。関係あるのではないか。前日までピンピンしていた人が、寝ている間に、息をしていなかったという。彼女も、同じように5回打っているという。ゆきこさんが言った。
考えていた方がいいよ。
死の準備のことであろうか、それとも、生きる準備のことであろうか。
近所のおばあちゃんが、ニコニコしながら、今日、インフルエンザの予防注射を受けてきたよ。と言っていた。のを思い出していた。少なくとも、生きるために注射を打っているのだろうが、死の準備をしているようような。
インフルエンザの注射を打ちましょう。老人から。なんだったら、子供まで。
帯状疱疹のワクチンを接種しましょう。中高年対象。
子宮がんワクチンは、これから産もうとしている若い子中心。
コロナワクチンには、ウイルスと非常に異なる、スパイク蛋白質をどのように生成するかという情報が非常に異なっているので、ワクチン接種は危険であると。
MITで人ゲノム計画に参入し、人遺伝子の全配列決定を完成させた、全米最大の商用DNA配列決定会社のケビン・マッカナンが、そういう疑問を持っているのだと言う。
それを知らせないで、ワクチンを打たせ続けるというのは、おかしいと、誰もが思っているのだ。それを聞いたものは、少なくとも。
それを知らされず、テレビの中のラジオの中の、ワクチンを打ちましょうというワンフレーズを毎日刷り込まれ続けることに疑問を持つことで、その渦の正体が見えてくるのだということ。
インバウンドも然り。最初は小さなゾウが鎖に繋がれている絵を見せる税理士がいた。鎖に繋がれたまま大きくなっていくゾウは、インバウンドのルールそのものなのである。
税金というルールそのものが、本当は、割り箸を持ってクルクル回らせている手のものの、言ってみれば、打ち出の小槌なのであり、お札はすればするほど、無限に増え続けるもので、そのルールを作ったものは、本当は紙切れでしかない中身のない、空っぽのものを、さも自分達で、中身のない空っぽのものを支えているように見せかける罠、なのである。
税金でまかなえるようなもので、この世はできてはいないが、国民の借金に見立てて、なんとかごまかしているのが、政治屋というものである。自分たちの分け前は、税金以上に潤沢になるのだから、片腹痛いというものである。
銀行には、そういう無からお金をクルクル回しているように見せるカラクリが詰まっているが、アメリカの連邦準備銀行は、国の紙幣を刷っているのだから、規模が違う。
日本昔話に出てくる、葉っぱがお札になってドロンとタヌキにばかされるというものは、まったくもって、それらのお札のできる過程を皮肉ったもので、江戸時代から明治になって、欧米の真似事をしだした、政治屋たちへのアイロニーだと思わずにはおれないのだった。
そうして、それが、バレそうになると、どんぱちを始めたり、不審火をつけて回るのが、習わしなのだと。
潤沢な資金を刷ればできるシステムを習っているのは、どの国も同じである。
支配者と思い込んでいるものたちは、黙って、お札を作り続けている。
だから、お札を循環させることで、自分たちのルールに取り込むことで、何もしないで、人を奴隷にさせることを今現在もしているということである。
少なくとも、インバウンドも、税金もいらないのは、はっきりしている。
奴隷解放は、まずは、そこからである。
橋川文三の超国家主義の本の中に残されたテロリストのように抹殺された農本主義でもあった青年将校たちのやるせない気持ちを綴った文章を見ていると、そのお札のルールこそが、戦争に駆り立てる動機となっているようでもあり、今は、お札すら刷らなくてもいい、電子の世界を統べて行こうとしているものの電子マネーのカラクリをも見直す時期に来ている。
戦争が起こりにくくなる可能性を探る手立てになるための。
巡礼の旅。のような。
茅葺の職人の仕事は、言ってみれば、巡礼であった。
色々なところに残っている茅葺、杉皮葺の屋根を巡ることによって、自分の中のなんだかわからない、コロナ禍に似た、見えないようで見えている悪露のような渦のようなものの中にあって、その核にのっぺりと回ってはいるが回りきれずに一ところにあるものの本性を知りたかったのだ。
コロナ化されていくように、世界は回っていた。
二、三年は、渦の中で、そののっぺりとしたものの正体を見ようと、皆がテレビの中からがなりまくられる死を意識させられていた。
今日は、何人死亡しました。入院すらできない状態です。自宅で待機してください。救いの手が来るまで、誰にも会わないでください。大切なものを守るためです。
戦時中のプロパガンダ。のような。
第2次世界大戦の常套句。のような。
欲しがりません。勝つまでは。
お国のために。勝ってくるぞと勇ましく。
そうは言いながら、神州島国日本は八紘一宇を最初は望んでいたのではなかったのか。
少なくとも、それまでは、奴隷状態であった東洋の人々を平等に手をつないで、奴隷貿易で人を人とも思わなくなったものたちを、見返すつもりでいたのではなかったか。
途中から、いやもしかして、最初から、自分たちのルールを作り始める時点で、それを押し付けることになるのは、火を見るより明らかなこととなっていったが。
今も無言の圧力を溜めている。
見えない手は、大きなわたあめの芯を回しているのだ。わたあめをくるくると巻き取っては、わずかのザラメから空気を含んだ大きなふわふわとした、中身は、空っぽに限りなく近い、甘い甘い目の前で溶けていくのを、必死で見ないように、巻かれたものを、無言で喰らい続けないといけないように。
ああ、そうだった。そうだった。我らは語りを語る無だ。
といっていたのは、ペソアの分身である詩人のリカルド・クレイスであった。
私も、茅葺職人をしている時と、詩を書いている時は名前が変えている。人格が変わってしまったわけではないが。分身のような、ドッペルゲンガーのような、出会ってしまったら、分身に存在をすり替えられてしまうような、心持ちではあるのだ。
ああ、そうだった、そうだった。我らは語りを語る無だ。
ああ、そうだった、そうだった。
私は、つい数ヶ月前、中学生の前で、戦争体験を語ったのだった。
イランとイラクが戦争を始めた時に、父親の仕事の関係でイランに住んでいた時のことであった。今は、アメリカに殺されていない、フセインが戦争を始めたのだった。
コロナが収束しつつある今、今度は、ネタニヤフが戦争を始めるという。アメリカから来たブリンケン国務長官は「ユダヤ人」としてきた。と心も体も老いてしまった元新聞記者の小説家が語っていた。
アメリカのユダヤ人がイスラエルのユダヤ人に会いに来たと言ったというのだ。
それは、どういう意味なのだろうか。
割り箸の芯をくいくいと回して、台風の目のように一点に止まっていながら、静かに笑っているのは、一体、何なのだろうか。
子供の頃から、ずっと、考えていた。訳も分からずに、戦争が目の前で始まった時から、ずっと。
割り箸の芯を持っているものは、甘いわたあめを食べるまでは、しつこく、回し続けようとする。原料は砂糖であった時も、絹であった時も、金であった時も、石炭であった時も、石油であった時も、スパイスであった時も、人であった時もあるが、基本は、総なめしていくものが、最初にコマとなって、戦争を仕掛けた、その土地のものを、いうことを聞かなくなったら、殺すと言う、甘くはない結末まで付いてくるのだから、始末に負えない。
ロシアの民間軍事組織を担っていたものも、反旗をひるがえした途端に飛行機が落ちたと言って、死んでしまった。それを見ていたものたちは、もう、そこにいて、そこで殺し合う意味をなくしてしまっていることであろう。勝っても、負けても、殺されるのだから。殺し合うのは、無意味であるということ。
彼らのコマにならないということ。
自分の綿菓子は、自分で回すということ。
回らない魂と出会う巡礼の旅に出るということ。
長崎に行ってきた。大村でゆきこさんと会うために。
ゆきこさんは、大切な分身のような人と離れ離れになってしまった。突然の死。コロナワクチンを5回打ったそうである。関係あるのではないか。前日までピンピンしていた人が、寝ている間に、息をしていなかったという。彼女も、同じように5回打っているという。ゆきこさんが言った。
考えていた方がいいよ。
死の準備のことであろうか、それとも、生きる準備のことであろうか。
近所のおばあちゃんが、ニコニコしながら、今日、インフルエンザの予防注射を受けてきたよ。と言っていた。のを思い出していた。少なくとも、生きるために注射を打っているのだろうが、死の準備をしているようような。
インフルエンザの注射を打ちましょう。老人から。なんだったら、子供まで。
帯状疱疹のワクチンを接種しましょう。中高年対象。
子宮がんワクチンは、これから産もうとしている若い子中心。
コロナワクチンには、ウイルスと非常に異なる、スパイク蛋白質をどのように生成するかという情報が非常に異なっているので、ワクチン接種は危険であると。
MITで人ゲノム計画に参入し、人遺伝子の全配列決定を完成させた、全米最大の商用DNA配列決定会社のケビン・マッカナンが、そういう疑問を持っているのだと言う。
それを知らせないで、ワクチンを打たせ続けるというのは、おかしいと、誰もが思っているのだ。それを聞いたものは、少なくとも。
それを知らされず、テレビの中のラジオの中の、ワクチンを打ちましょうというワンフレーズを毎日刷り込まれ続けることに疑問を持つことで、その渦の正体が見えてくるのだということ。
インバウンドも然り。最初は小さなゾウが鎖に繋がれている絵を見せる税理士がいた。鎖に繋がれたまま大きくなっていくゾウは、インバウンドのルールそのものなのである。
税金というルールそのものが、本当は、割り箸を持ってクルクル回らせている手のものの、言ってみれば、打ち出の小槌なのであり、お札はすればするほど、無限に増え続けるもので、そのルールを作ったものは、本当は紙切れでしかない中身のない、空っぽのものを、さも自分達で、中身のない空っぽのものを支えているように見せかける罠、なのである。
税金でまかなえるようなもので、この世はできてはいないが、国民の借金に見立てて、なんとかごまかしているのが、政治屋というものである。自分たちの分け前は、税金以上に潤沢になるのだから、片腹痛いというものである。
銀行には、そういう無からお金をクルクル回しているように見せるカラクリが詰まっているが、アメリカの連邦準備銀行は、国の紙幣を刷っているのだから、規模が違う。
日本昔話に出てくる、葉っぱがお札になってドロンとタヌキにばかされるというものは、まったくもって、それらのお札のできる過程を皮肉ったもので、江戸時代から明治になって、欧米の真似事をしだした、政治屋たちへのアイロニーだと思わずにはおれないのだった。
そうして、それが、バレそうになると、どんぱちを始めたり、不審火をつけて回るのが、習わしなのだと。
潤沢な資金を刷ればできるシステムを習っているのは、どの国も同じである。
支配者と思い込んでいるものたちは、黙って、お札を作り続けている。
だから、お札を循環させることで、自分たちのルールに取り込むことで、何もしないで、人を奴隷にさせることを今現在もしているということである。
少なくとも、インバウンドも、税金もいらないのは、はっきりしている。
奴隷解放は、まずは、そこからである。
橋川文三の超国家主義の本の中に残されたテロリストのように抹殺された農本主義でもあった青年将校たちのやるせない気持ちを綴った文章を見ていると、そのお札のルールこそが、戦争に駆り立てる動機となっているようでもあり、今は、お札すら刷らなくてもいい、電子の世界を統べて行こうとしているものの電子マネーのカラクリをも見直す時期に来ている。
戦争が起こりにくくなる可能性を探る手立てになるための。
巡礼の旅。のような。