明鏡   

鏡のごとく

「介護日記」

2016-12-31 20:51:07 | 詩小説
母のベットを居間に動かした。

それから、眠りやすいようにおろしたての電気毛布を敷いて。

新年を迎えるにあたって、ぬくぬくした寝床を整える。

これで、暖房をつけても、意外と床冷えする寒い部屋も過ごしやすくなることであろう。

我々ができることはそれぐらいであるが、できることを、やるだけである。

古新聞や次々出てくるゴミをまとめて、来年には捨てさることができるように。

その間、子供たちが、父と久しぶりに遊歩という介護用のカートを使って、散歩に出かけていた。

子供たちと交互に代わって、歩いたり、カートをゆるゆると動かしたりしていた。

いつになく、上機嫌である。

孫の底力を見せつけられつつ。

しばらくは、父母の人生の断捨離が続きそうである。

我が家には、ものがあまりないので、意外と簡単な片付けですみ、ほとんどいつも通りなのだが、ものを際限なく持っているものには、断捨離はしんどい作業であるようで。

迷いのある断捨離の手伝いをすることで、父母の人生も、すっきりしたものになりますように。


それから、来年は、皆にとって、良い年になりますように。と願う。



「ポーの手紙」

2016-12-30 23:50:37 | 詩小説
ポーの手紙を読んでいた。

養父への手紙。

幼い頃、可愛がられた養父へ無心する、駄々っ子のような手紙。

死ぬときは、鞄にちょっとしたものと書類だけだったというポーの生涯。

講演会で訪れたボルティモアでの急死の果てにたどりついた墓。

去年、ボルティモアで見た、ポーの墓は二つあった。

一つは教会の入り口近くに人を迎え入れるための表の墓。

もう一つは、彫られた大カラスに見守られている、ひっそりと暗闇で眠りについたような裏手の墓。

彼の生まれた家族と養われた家族と二つの家があったように、死後の家である墓もまた二つあったのだった。

彼は、金に困った生家から、金には困らない養父母の家へ養子に出された。

養父母は、よくポーを可愛がった。

膝に乗って甘えることもあった、暴君のように、なんでも買い与えられていたともいう。

親元を離れて、学生時代にお金のかかる生活を送らなければならないジレンマから、自暴自棄になり、賭博にはまり、身を持ち崩した末に、陸軍に入ったという。

その都度、金の無心をしていたポーは、常に詩を書くことをやめず、小説を書くことを諦めず、死んでいった。

からっぽの封筒を陳情の手紙で満足しながらも、愛情のある手に満足するわけではなく。

ポーの墓からはボルティモアの丘の上から見た海は見えなかったが。

クラブケーキを食べながら飲んだ、ポーの肖像の貼られた瓶ビールの泡のように苦く冴えたものとなって、何度もそこを訪れたものの胃袋と記憶に飲み込まれることとなるのであろうが。



昨日、兄からの手紙が届いていた。

ポーからの手紙が届いたように。

無心したり、されたりしたわけではなかったが、封を開けると、手心が加えられた手紙と少しばかりの金が入っていた。

子供の頃に宗像大社のもので、確か赤と白の、式神のような人型の紙に、吹きかけてその年の厄を払っていたように。

ふうっと息を吹きかけ、封筒を開いて中身をのぞくと、死に損なったものたちの空洞が、そこにあるような。

あるいは、死んでしまった魂が、そこにあるような。

見えない空洞の、そこのそこを見たような気がした。