多摩川に来ていた。
奥多摩の茅葺の家を探していたのだ。
川のほとりにある青梅の宮崎家の虎葺は三部屋の作りで、田の字で区切られている古民家の多い中、その形に収まる以前の農家の家の作りが残っているのだという。
昔の人は、小柄な方が多く、お台所の水周りも囲炉裏のある部屋にあり、床の高さから二、三寸程度高いだけで、お茶室にこしらえてあるのを拝見したことのある、ちょっとした洗い物ができるような作りであった。
土間には、小さなおくどさんがあった。
虎葺の屋根は、茅葺の一段葺きあげるその上に二枚ほど杉皮を並べていき、より、強度を増すためのやり方であるようであった。実際のところ、虎葺の茅の部分が溶けていくようになくなっていたが杉皮は残っていたという方もおられたので、デザインの面白さ
はもちろんであるが、経済的にも、手間においても、耐久性においても、その当時の農家の方の出来うることを極力生かした作りであったと思われた。
杉皮葺の蕎麦屋があるということもお聞きしたので、そこに行ってみた。
こじんまりとした屋根ではあったが、生活の場として、そこにあり続け、時代を超えてきた静かな佇まいでありながら時を重ねた重みのようなものが苔や杉皮や茅から醸し出されていた。
その家にはその家の味があるように、その家の菌があり、それが、その家の味噌や漬物、発酵されていく場となるのだ。菌とともにある、菌と共生してきたのが日本の家であったのだと改めて思い至るのであった。昨今のコロナウィルスであろうが、共生できる土壌が、古民家においては、ある意味、「発酵場」としての底力を秘めていると思われた。
鴨のつけ汁そばをいただいた。冷たい蕎麦に、熱い汁が鴨の脂と程よく絡みつき、箸が止まらないまま、一気に蕎麦をかきこんだ。ほっとしながら、上を見ると、色紙があり、その一つに、太宰治のものもあった。彼も箸が止まらないどころか、二枚三枚と笊を追加していったと書かれていた。おそらく、酒も進んだことであろうが、ことばで残されたその当時の太宰の腹一杯の余韻まで味わったようであった。
それから、街中に忽然と現れる吉野家に行った。そちらは、茅葺の古民家で、庄屋さんをしていたとオタクで、玄関も家の正面にあり、土間からも入ることができるが、勝手口もあるようで、家がより目的に応じて細分化されていったような作りになっていて、間取りも同じく、た人の出入りも多いような広さが確保されていた。
やはり、宮崎家のようなお茶室に誂えてあるような、囲炉裏の近くに水周りがあり、土間に大きなおくどさんがあった。
そこに住む人の名残である前に、そこに住み、生きることの有り難さを目の当たりにした気がした。
前日、多摩川の田園調布五丁目あたりをふらついていたのを思い出していた。
家がところ狭しと並んでいる中、多摩川のほとりは、野球をする人や、犬を走らせたり、自分が走っている人、我々のようにただただ歩いている人もいた。
高尾山に登って富士山の山肌がくっきりと見えたのも思い出していた。山は生きている。多摩川がとうとうと流れているように、生きている。そう感じていた。
友人と会い、蕎麦を一緒に食らうことの味わいもさることながら、共にいることの、その思いを共有できることの、生きていることを味わうためにここにきたような、なんとも言えないものが、こみ上げてきた。
水がどちらに流れているかわかるかわからないかの広々とした流れの中で、冷たい空気を感じながら、ゆっくりと沈む遠くでうすらぼんやりと暖かそうな夕陽を見ながら、静かに水に入っていった人を思っていたのだ。
導かれるように多摩川流域に
仕事が入ったのもあった。
偶然、西部邁の命日をお聞きし、その次の日が友人と会う約束をしていた日であったので、多摩川の左岸にどうしても行かずにはおれなかったのだ。
本当に、導かれるように多摩川に来ていたのだ。
多摩川の水は、それほど冷たくなく、夕陽が解けたように優しかった。
川面に映りこんでいる夕陽に救われた気がした。
この夕陽があれば、もしかして、魂のようなものがあるのだとしたら、寂しくないかもしれない。と。
そういえば、太宰治も、玉川上水で息絶えたのだっけ。
あんなに玉川の蕎麦屋で、たらふく食ったこともあるというのに、人は変われば変わるものである。が。
生きて死ぬことは、自分で決めるのだ。
ということを身を持って、さししめされたのはたしかなことである。
コロナのΟ株が流行り出したという。
病院に入院して、父親とも面会は出来ないと言いやがるご時世である。
もう老衰一歩手前で、死にそうなものが、会いたがっているものを合わせない理不尽もさることながら、死にそうなものにワクチンを打とうとする理不尽。
3度目を打って、どうするといのだ。死にそうなものにそれほどまでに打って売って、撃ちまくるというのだろうか。
全くもって、おかしな世の中である。
ワクチンを打っても打たなくても、はびこっているもの、隔離したところで、絶滅はしないのだ。生物というものは。
自由に生きて、死ぬことが、生物の運命なのだ。
ということを、思い出してみろ。と。亡くなったものから言われているような気がしてきた。
彼らは、世の中の流れに身をまかせることなく、溺れたのだ。
自分を堰止めて、流れに逆らうように、水のそこにいたのだ。
山の中から、川の流れをたどって行き着く先は、海なのだ。と。知っていながら。
奥多摩の茅葺の家を探していたのだ。
川のほとりにある青梅の宮崎家の虎葺は三部屋の作りで、田の字で区切られている古民家の多い中、その形に収まる以前の農家の家の作りが残っているのだという。
昔の人は、小柄な方が多く、お台所の水周りも囲炉裏のある部屋にあり、床の高さから二、三寸程度高いだけで、お茶室にこしらえてあるのを拝見したことのある、ちょっとした洗い物ができるような作りであった。
土間には、小さなおくどさんがあった。
虎葺の屋根は、茅葺の一段葺きあげるその上に二枚ほど杉皮を並べていき、より、強度を増すためのやり方であるようであった。実際のところ、虎葺の茅の部分が溶けていくようになくなっていたが杉皮は残っていたという方もおられたので、デザインの面白さ
はもちろんであるが、経済的にも、手間においても、耐久性においても、その当時の農家の方の出来うることを極力生かした作りであったと思われた。
杉皮葺の蕎麦屋があるということもお聞きしたので、そこに行ってみた。
こじんまりとした屋根ではあったが、生活の場として、そこにあり続け、時代を超えてきた静かな佇まいでありながら時を重ねた重みのようなものが苔や杉皮や茅から醸し出されていた。
その家にはその家の味があるように、その家の菌があり、それが、その家の味噌や漬物、発酵されていく場となるのだ。菌とともにある、菌と共生してきたのが日本の家であったのだと改めて思い至るのであった。昨今のコロナウィルスであろうが、共生できる土壌が、古民家においては、ある意味、「発酵場」としての底力を秘めていると思われた。
鴨のつけ汁そばをいただいた。冷たい蕎麦に、熱い汁が鴨の脂と程よく絡みつき、箸が止まらないまま、一気に蕎麦をかきこんだ。ほっとしながら、上を見ると、色紙があり、その一つに、太宰治のものもあった。彼も箸が止まらないどころか、二枚三枚と笊を追加していったと書かれていた。おそらく、酒も進んだことであろうが、ことばで残されたその当時の太宰の腹一杯の余韻まで味わったようであった。
それから、街中に忽然と現れる吉野家に行った。そちらは、茅葺の古民家で、庄屋さんをしていたとオタクで、玄関も家の正面にあり、土間からも入ることができるが、勝手口もあるようで、家がより目的に応じて細分化されていったような作りになっていて、間取りも同じく、た人の出入りも多いような広さが確保されていた。
やはり、宮崎家のようなお茶室に誂えてあるような、囲炉裏の近くに水周りがあり、土間に大きなおくどさんがあった。
そこに住む人の名残である前に、そこに住み、生きることの有り難さを目の当たりにした気がした。
前日、多摩川の田園調布五丁目あたりをふらついていたのを思い出していた。
家がところ狭しと並んでいる中、多摩川のほとりは、野球をする人や、犬を走らせたり、自分が走っている人、我々のようにただただ歩いている人もいた。
高尾山に登って富士山の山肌がくっきりと見えたのも思い出していた。山は生きている。多摩川がとうとうと流れているように、生きている。そう感じていた。
友人と会い、蕎麦を一緒に食らうことの味わいもさることながら、共にいることの、その思いを共有できることの、生きていることを味わうためにここにきたような、なんとも言えないものが、こみ上げてきた。
水がどちらに流れているかわかるかわからないかの広々とした流れの中で、冷たい空気を感じながら、ゆっくりと沈む遠くでうすらぼんやりと暖かそうな夕陽を見ながら、静かに水に入っていった人を思っていたのだ。
導かれるように多摩川流域に
仕事が入ったのもあった。
偶然、西部邁の命日をお聞きし、その次の日が友人と会う約束をしていた日であったので、多摩川の左岸にどうしても行かずにはおれなかったのだ。
本当に、導かれるように多摩川に来ていたのだ。
多摩川の水は、それほど冷たくなく、夕陽が解けたように優しかった。
川面に映りこんでいる夕陽に救われた気がした。
この夕陽があれば、もしかして、魂のようなものがあるのだとしたら、寂しくないかもしれない。と。
そういえば、太宰治も、玉川上水で息絶えたのだっけ。
あんなに玉川の蕎麦屋で、たらふく食ったこともあるというのに、人は変われば変わるものである。が。
生きて死ぬことは、自分で決めるのだ。
ということを身を持って、さししめされたのはたしかなことである。
コロナのΟ株が流行り出したという。
病院に入院して、父親とも面会は出来ないと言いやがるご時世である。
もう老衰一歩手前で、死にそうなものが、会いたがっているものを合わせない理不尽もさることながら、死にそうなものにワクチンを打とうとする理不尽。
3度目を打って、どうするといのだ。死にそうなものにそれほどまでに打って売って、撃ちまくるというのだろうか。
全くもって、おかしな世の中である。
ワクチンを打っても打たなくても、はびこっているもの、隔離したところで、絶滅はしないのだ。生物というものは。
自由に生きて、死ぬことが、生物の運命なのだ。
ということを、思い出してみろ。と。亡くなったものから言われているような気がしてきた。
彼らは、世の中の流れに身をまかせることなく、溺れたのだ。
自分を堰止めて、流れに逆らうように、水のそこにいたのだ。
山の中から、川の流れをたどって行き着く先は、海なのだ。と。知っていながら。