明鏡   

鏡のごとく

月にある光

2024-04-15 08:12:33 | 詩小説
月を見ていた。

言論統制が布かれている。
SNSでは、都合が悪いサイトを見せないようにされている。
制限がかかっている。

イスラエルがイランの大使館を攻撃しても、国連では何も問題提起しなかった。
ガザの虐殺もまた同じように殺戮は続いている。
大きな拒否権を勝手に持っていると思っている国が、いつも人人の平和を壊している。
誰もが平等だとうたうのならば、全部の国国が同じ一票の重みであるならば、まだ、国連は今よりもマシな機関となるかもしれないが。

この世は、国という名の、金を無から作るものたちの、優遇措置をされているものたちの世界ではないのだと。
月を見ていた。

月は暗かった。
丸い月ではなかった。
下弦の月のような、刃物のような、何かを断ち切る月。
何も聞こえない世界。
嘘を断ち切る。
長年の怨念を断ち切る。
きょうきを持ってきょうきをうつのだと。
武器よさらばと書いたものは、武器で自らを撃って逝った。
嘘を断ち切ったものは、嘘で自らを断ち切るのだろうか。
嘘で塗りかためた戦争をあおるものは、戦争で逝ってしまうのだろうか。
パンデミックで、世界を統制しようとするものは、パンデミックの渦に飲み込まれるのであろうか。

ユダヤの民であったあるものは、民族の心の奥にあるものを踏まえて、夢を分析しながら、精神分析を打ち立てた。
その学会は、自分たちの民族のものばかりで構成されていったが。
その中に、異端者が入り込み、夢と向き合っていったが、狭いとも言える、決めつけられた性的な病の解釈の束縛から、解放されるように性の病を超えようと生死の昇華の一つの形、創造するものを夢見たのだろうが。
異端者が、一つの夢を解釈するだけでなく、ただただ現していったのだとするならば、夢は死の病から解き放たれるのだとしたら。

月にある光は、太陽の光であったと、暗闇で思い出すようになるのだと。





健康保険の害悪

2023-10-26 00:59:39 | 詩小説
健康保険の害悪として、ワクチン接種の大罪を、まず政治屋が償うこと。
そもそも、健康なものから搾取することが目的であり、予防も何もできていない、結局は、あまりにも多い突然死のことを知らぬ存ぜぬにして責任を取っていない政治屋たちを、国民は不審に思っているにもかかわらず、健康保険だけ上げようとする、人を健康にしていないただの、害悪であるにも関わらず。
刷れば刷るだけお金は増えるので、国民は一銭たりとも払わなくてもいい筈の税金の仕組みと全く同じことである。
政治屋には機密費というものがあるということは、お金を作る仕組みは、実のところ、ブラックホールということでもあり、機密といえば、いくらでも金を作ることができる、打ち出の小槌を持っているものたちが、政治屋であり、厚労省であり、役人である。
国民にツケを払わすという前提の機密費で、ただの搾取する道具としか思っていない。
形だけのお札に形だけの電子マネーに、国民の声を聞くという形だけのアンケート。
何も考えていない。自分たちは、湯水のように、税金という名の無限の奴隷制のチケットを使うことを、何とも思っていないものたちのやることは、馬鹿としか言いようがない。
コロナワクチン接収を無理やり決めて、その上、コロナワクチンを受けたものだけ、旅行した時に補助を出すなどという、あまりにもコロナを打っていない国民を愚弄し馬鹿にしてきたのに、輪をかけて、そのばかげた政策のツケを、また、国民全体に払わせようとする、国民を全くもって、見くびった、愚策であり、奴隷制度でしかない。
それをごまかすために、上乗せしているだけの搾取である。
医療関係者が潤うだけの政策をすることは許されない。

これを、ごまかすために、どんぱちを始めるものたちは、必ず亡くなったものたちから呪われるであろう。

巡礼

2023-10-17 03:54:52 | 詩小説
巡礼の旅に出ようと思っていた。

茅葺の職人の仕事は、言ってみれば、巡礼であった。

色々なところに残っている茅葺、杉皮葺の屋根を巡ることによって、自分の中のなんだかわからない、コロナ禍に似た、見えないようで見えている悪露のような渦のようなものの中にあって、その核にのっぺりと回ってはいるが回りきれずに一ところにあるものの本性を知りたかったのだ。

コロナ化されていくように、世界は回っていた。
二、三年は、渦の中で、そののっぺりとしたものの正体を見ようと、皆がテレビの中からがなりまくられる死を意識させられていた。

今日は、何人死亡しました。入院すらできない状態です。自宅で待機してください。救いの手が来るまで、誰にも会わないでください。大切なものを守るためです。

戦時中のプロパガンダ。のような。
第2次世界大戦の常套句。のような。
欲しがりません。勝つまでは。
お国のために。勝ってくるぞと勇ましく。

そうは言いながら、神州島国日本は八紘一宇を最初は望んでいたのではなかったのか。
少なくとも、それまでは、奴隷状態であった東洋の人々を平等に手をつないで、奴隷貿易で人を人とも思わなくなったものたちを、見返すつもりでいたのではなかったか。
途中から、いやもしかして、最初から、自分たちのルールを作り始める時点で、それを押し付けることになるのは、火を見るより明らかなこととなっていったが。

今も無言の圧力を溜めている。
見えない手は、大きなわたあめの芯を回しているのだ。わたあめをくるくると巻き取っては、わずかのザラメから空気を含んだ大きなふわふわとした、中身は、空っぽに限りなく近い、甘い甘い目の前で溶けていくのを、必死で見ないように、巻かれたものを、無言で喰らい続けないといけないように。

ああ、そうだった。そうだった。我らは語りを語る無だ。

といっていたのは、ペソアの分身である詩人のリカルド・クレイスであった。

私も、茅葺職人をしている時と、詩を書いている時は名前が変えている。人格が変わってしまったわけではないが。分身のような、ドッペルゲンガーのような、出会ってしまったら、分身に存在をすり替えられてしまうような、心持ちではあるのだ。

ああ、そうだった、そうだった。我らは語りを語る無だ。

ああ、そうだった、そうだった。
私は、つい数ヶ月前、中学生の前で、戦争体験を語ったのだった。

イランとイラクが戦争を始めた時に、父親の仕事の関係でイランに住んでいた時のことであった。今は、アメリカに殺されていない、フセインが戦争を始めたのだった。

コロナが収束しつつある今、今度は、ネタニヤフが戦争を始めるという。アメリカから来たブリンケン国務長官は「ユダヤ人」としてきた。と心も体も老いてしまった元新聞記者の小説家が語っていた。

アメリカのユダヤ人がイスラエルのユダヤ人に会いに来たと言ったというのだ。

それは、どういう意味なのだろうか。

割り箸の芯をくいくいと回して、台風の目のように一点に止まっていながら、静かに笑っているのは、一体、何なのだろうか。

子供の頃から、ずっと、考えていた。訳も分からずに、戦争が目の前で始まった時から、ずっと。

割り箸の芯を持っているものは、甘いわたあめを食べるまでは、しつこく、回し続けようとする。原料は砂糖であった時も、絹であった時も、金であった時も、石炭であった時も、石油であった時も、スパイスであった時も、人であった時もあるが、基本は、総なめしていくものが、最初にコマとなって、戦争を仕掛けた、その土地のものを、いうことを聞かなくなったら、殺すと言う、甘くはない結末まで付いてくるのだから、始末に負えない。

ロシアの民間軍事組織を担っていたものも、反旗をひるがえした途端に飛行機が落ちたと言って、死んでしまった。それを見ていたものたちは、もう、そこにいて、そこで殺し合う意味をなくしてしまっていることであろう。勝っても、負けても、殺されるのだから。殺し合うのは、無意味であるということ。
彼らのコマにならないということ。

自分の綿菓子は、自分で回すということ。

回らない魂と出会う巡礼の旅に出るということ。


長崎に行ってきた。大村でゆきこさんと会うために。
ゆきこさんは、大切な分身のような人と離れ離れになってしまった。突然の死。コロナワクチンを5回打ったそうである。関係あるのではないか。前日までピンピンしていた人が、寝ている間に、息をしていなかったという。彼女も、同じように5回打っているという。ゆきこさんが言った。

考えていた方がいいよ。

死の準備のことであろうか、それとも、生きる準備のことであろうか。

近所のおばあちゃんが、ニコニコしながら、今日、インフルエンザの予防注射を受けてきたよ。と言っていた。のを思い出していた。少なくとも、生きるために注射を打っているのだろうが、死の準備をしているようような。

インフルエンザの注射を打ちましょう。老人から。なんだったら、子供まで。

帯状疱疹のワクチンを接種しましょう。中高年対象。

子宮がんワクチンは、これから産もうとしている若い子中心。

コロナワクチンには、ウイルスと非常に異なる、スパイク蛋白質をどのように生成するかという情報が非常に異なっているので、ワクチン接種は危険であると。
MITで人ゲノム計画に参入し、人遺伝子の全配列決定を完成させた、全米最大の商用DNA配列決定会社のケビン・マッカナンが、そういう疑問を持っているのだと言う。

それを知らせないで、ワクチンを打たせ続けるというのは、おかしいと、誰もが思っているのだ。それを聞いたものは、少なくとも。
それを知らされず、テレビの中のラジオの中の、ワクチンを打ちましょうというワンフレーズを毎日刷り込まれ続けることに疑問を持つことで、その渦の正体が見えてくるのだということ。


インバウンドも然り。最初は小さなゾウが鎖に繋がれている絵を見せる税理士がいた。鎖に繋がれたまま大きくなっていくゾウは、インバウンドのルールそのものなのである。

税金というルールそのものが、本当は、割り箸を持ってクルクル回らせている手のものの、言ってみれば、打ち出の小槌なのであり、お札はすればするほど、無限に増え続けるもので、そのルールを作ったものは、本当は紙切れでしかない中身のない、空っぽのものを、さも自分達で、中身のない空っぽのものを支えているように見せかける罠、なのである。

税金でまかなえるようなもので、この世はできてはいないが、国民の借金に見立てて、なんとかごまかしているのが、政治屋というものである。自分たちの分け前は、税金以上に潤沢になるのだから、片腹痛いというものである。

銀行には、そういう無からお金をクルクル回しているように見せるカラクリが詰まっているが、アメリカの連邦準備銀行は、国の紙幣を刷っているのだから、規模が違う。
日本昔話に出てくる、葉っぱがお札になってドロンとタヌキにばかされるというものは、まったくもって、それらのお札のできる過程を皮肉ったもので、江戸時代から明治になって、欧米の真似事をしだした、政治屋たちへのアイロニーだと思わずにはおれないのだった。

そうして、それが、バレそうになると、どんぱちを始めたり、不審火をつけて回るのが、習わしなのだと。

潤沢な資金を刷ればできるシステムを習っているのは、どの国も同じである。

支配者と思い込んでいるものたちは、黙って、お札を作り続けている。

だから、お札を循環させることで、自分たちのルールに取り込むことで、何もしないで、人を奴隷にさせることを今現在もしているということである。

少なくとも、インバウンドも、税金もいらないのは、はっきりしている。
奴隷解放は、まずは、そこからである。

橋川文三の超国家主義の本の中に残されたテロリストのように抹殺された農本主義でもあった青年将校たちのやるせない気持ちを綴った文章を見ていると、そのお札のルールこそが、戦争に駆り立てる動機となっているようでもあり、今は、お札すら刷らなくてもいい、電子の世界を統べて行こうとしているものの電子マネーのカラクリをも見直す時期に来ている。

戦争が起こりにくくなる可能性を探る手立てになるための。

巡礼の旅。のような。



保田与重郎と山下惣一の「農」と草屋根

2023-09-25 18:40:01 | 詩小説
 保田与重郎の本が、前にここに住んでいらした平山さんの奥さんが残しておいてくださった本棚にあったので読むことにした。 三島由紀夫にも少なからず影響を与えたということもあり、やっと、そこまで辿ることができたような気がしていた。
 戦前、戦中、戦後を通して、日本とは、何なのか。を考え続けた人でもあった。


〜民間私の祭祀祈願において、生産に携わる者の祭りと信仰と、直接生産にあたらず生産者の上に臨(のぞ)み、支配の生活に携わるものの祭りと信仰との間に、事実観念の両面で大差があることを思ひ、祭りといふことについての土俗の中に、如何なる形で神州不滅の信念が生活としてあるかを考えたいと思ふ〜(保田与重郎選集第五巻「鳥見のひかり」より抜粋)


 保田与重郎のいう祭りとは、生産に携わるものの身体の中から、魂の中から毎日育まれて生まれてくるものが根本にある。

 豊穣を祈りながら生産し、生産したもの(「農」作物〜稲等)を、祭りにおいて捧げ物として捧げながら、その捧げたものを、自らも食すことによって、捧げられたもの(神)と一体化しながら、その「年」の収穫に心より感謝するという行為であり、決して、生産しないものの支配のためのものではない、搾取されるために生産しているのではない。

 それは、大規模な、農薬を使わざるをえないような農業ではなく、農薬に頼らずに、大企業が推し進める遺伝子組み換えの作物の特許などで搾取されず、山下惣一の言う、家族が自分たちのためにも、いいものを作り、周りの生態系の環境をもいいものにしていくような、身近なところを大切にしながら耕し育む「農」いわゆる「小農」と、目指すものは大きなところにおいては同じように思う。

 保田与重郎のいう「神州」とは、小さいところから、微生物のような、見えないところから、土を肥沃に変えていくような、目には直接見えない神のような小さな小さな微生物が生きている農地で、祈るように地道に一人一人が生きて、何かを耕す毎日を過ごしている人々のいる国とも言える。

 微生物がいなくなると、土は死に、死米となる。
 生物もまた土地が死ぬことによって、死を迎えることとなるのは時間の問題である。

 見えないものこそ、すべての始まりであり、すべてを育んでいるのだ。
 
 草屋根も、見えない菌が育まれ、屋根になった茅や杉皮も朽ちながら土に帰っていく。

「農」と繋がって、草屋根も生きているのだということ。

 屋根を作ることもまた、田を耕すことにも通じる、お天道様のもとで行われる祈りの一つなのであると。

 伊勢神宮の屋根が式年遷宮において稲科の植物でもある茅が葺き替えられることも、祈りの形として、意味を持っていると言える根拠である。

 屋根を葺き替えることは毎年のようにはできないが、二十年ほどで葺き替える時期になるという自然の成り行きをも与した大きな祈りの形であると思われる。