学生時代、大阪の長屋に一人暮らしの友達の家に遊びにいったことがある。
彼女は、高校時代も寮にひとり暮らしていたので、寮の部屋に遊びに行った部屋感と同じであった。
何もない部屋。飾りのない部屋。
冬だったので、炬燵が真ん中に置いてあったくらいで、あとは、本当に何もない部屋なのだった。
本と音楽関係のものくらい。
そういえば、小さなテレビがひとつおいてあった。
地元のネタ満載の探偵依頼番組が流れていた。
リサーチするのは面白かったらなんでもいいようだったが、友達はこれ面白いんでいつも見ているといっていた。
後に、ふちがみとふなとさんの百万円という歌を聞いてだれがうたっているのか知りたいというりさーち依頼の回をネットで拝見し、なかなかつぼであったので、友達のいうことは、聞いてみる価値はあると思った。
さいきんになって、あの百田氏?が放送作家していたと聞いて、正直、見方が変わった。
柔らかいが懐深い感が満載であった。
人はいろいろな面があるから複雑であり層が厚いのであり、おしゃれに飾ったわかったふうなステッカーをバラマキ、レッテル貼りをするだけでは、なにも解決しないし、ただのごまかしにしか見えないのである。
見ているものは見ている。
ステマや見せかけでは、ごまかせない実態があることを。
彼女と、二人で、炬燵に入りながら、今、彼女の関わっている演劇の話や最近聞いている音楽の話などをしたのを思い出す。
高校時代とは、お互い違う場所にいるが、彼女は彼女であり、孤独は孤独のまま、自力で、親にも友人にも頼らず、自分の好きなことをしていた。
そういうことができたことはしあわせであった。
今の生活はその先にあった実態である。
かなりへびいであるが、あの時の延長線上にはある。