今日(12月20日)は,先日,お話を伺った木慶子(タカキ ヨシコ)さんらの編著書「〈悲嘆〉と向き合い、ケアする社会を目指して JR西日本福知山線事故遺族の手記とグリーフケア」を読んでいました。
あの4月25日のことを書いた手記,家族が亡くなったことがわかるまでの経緯,私のような部外者が読んでいても結果がわかっていても辛いものでした。
しかし,木さんが言われるように,人は誰かを愛するがゆえに,その人との別れの際,苦しみ,悲しむのです。とすると,苦しみや悲しみが大きいほど,それだけ誰かを深く深く愛せたということで,それはそれで素晴らしいと考えることはできないでしょうか。
誰かの悲嘆とどう向き合うか,私自身の悲嘆をどう扱うか,永遠の課題かもしれません。
あの4月25日のことを書いた手記,家族が亡くなったことがわかるまでの経緯,私のような部外者が読んでいても結果がわかっていても辛いものでした。
しかし,木さんが言われるように,人は誰かを愛するがゆえに,その人との別れの際,苦しみ,悲しむのです。とすると,苦しみや悲しみが大きいほど,それだけ誰かを深く深く愛せたということで,それはそれで素晴らしいと考えることはできないでしょうか。
誰かの悲嘆とどう向き合うか,私自身の悲嘆をどう扱うか,永遠の課題かもしれません。