京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

カール・ポパーの反証可能性とは?

2020年12月22日 | 文化

カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年- 1994年)

  •   1902年 オーストリア・ウィーンに生まれる
  •   1922年 ウィーン大学卒業
  •   1934年『科学的発見の論理』
  •   1937年 ニュージーランドへ亡命
  •   1945年『開かれた社会とその論敵』
  •   1946年 イギリスに移住
  •   1949年 ロンドン大学論理学科学方法論教授
  •   1969年 ロンドン大学名誉教授
  •   1976年 イギリス王立協会会員
  •   1992年 京都賞受賞
  •   1994年 死去
  •  

  カール・ポパーは、20世紀の開かれた精神を象徴する偉大な科学哲学者であった。ポパーの認識論は自己矛盾に陥いり易い「論理実証主義」を批判し、科学的思考の特徴は「反証可能性」にあるとして、「批判的合理主義」(critical rationalism)を主張した。

   ポパーによると、科学と非科学の違いは経験(実験や観察)による反証可能性の有無である。一つの理論あるいは命題が科学的なものであるためには、経験によって反駁・反証される可能性がなければならない。「神が地上に生命を創造した」は、いかなる観察や実験によっても反証できない。それゆえに、この命題は科学の対象にはなりえない。一方、「化学進化によって原始生命が発生した」は、実験によって反証できる可能性(あくまで可能性だが)があるので科学が扱うことができる。

 ある理論が経験により反証されると、理論の再構成(ポパーは廃棄ではないと言う)が必要となり、それにより新理論が提出される。そしてそれを反証する営為が繰り返される。反証されなければ、それは当面、未反証の理論として保存される。くぐり抜けた反証が多いほど、その理論は確度の高いものとして信頼され、少ないものは若い仮説として扱われる。いずれにせよ、いかなる理論も真理ではなく、永続的に反証を待つ仮説と言ってよい。「立証可能性」とせずに「反証可能性」とした理由はここにある。

 大事な事はポパーの唱える反証は、批判する側の主体の”姿勢”(attitude)であって、定説 (thesis)でもなく、命題(proposition)でもなく、理論(theory)でもないという事だ。ポパーはこういった姿勢を”批判的合理主義”と名ずけたのである。

この”姿勢”は科学的知識の成長や発見の契機に直接関わるものではないが(トーマス・クーンはそれを批判した)、それを保証する背景になるものである。科学界に提示されるあらゆる、説、理論、仮説、意見ー国際学会での発表から修士論文の発表までーを、いわば批判的かつ合理的に統括するシステムと言ってよい。これがあるからこそ、科学界が似非科学の集団と区別することができる

 たまたま、ある経験ができて反証的な姿勢が生ずるのではなく、まず個人とシムテムに理論や仮説に反証的な姿勢があり、それが契機となって経験(実験・観察)が続く。批判的合理主義は、いわば、学会発表の会場の最前列に陣取っている古参の学者のようなものである。これらの老学者達は、若手が新規な説を発表すると、必ず手をあげてクレームを付ける。その発言内容が、たとえ訳の分からない適切でなかったとしても、若手の新説はそれによって強化され成長するのである。ただ反証可能性をテーゼとする批判的合理主義は、ある学説を唱えたAとそれに反対するBとの論争におけるプロトコールではなく、科学界という総体のシステムがとる姿勢である。それ故に、めったにありえない事だが、A自身が自ら反証を試みる事もありうるのだ。

 多くの科学雑誌の査読制度は、この反証可能性を前提とする批判的合理主義の思想を基にしていると思える。査読者は、投稿論文の内容について、大抵自ら反証する実験・体験をする時間も手段もないが、その替わり新たな追加実験、追試あるいは詳しい条件の記述を要求するのである。こういった査読制度は、Nature誌に掲載されたスタップ細胞事件でも明らかになったように、100%機能するわけではないが、これがなければ科学雑誌は”科学”の雑誌ではなくなってしまう。

カントの「純粋理性批判」、ヘーゲルの弁証法との関係、さらにポパー自身の「自由社会の論敵とその論敵」へと通ずる社会思想との関連についての考察は今後の問題である。

 

参考文献

K. Kamino (1994) On Sir Karl Popper’s rationalism. The Annals of Japan Association for Philosophy of Science.  Vol.8 211-220.

第8回京都賞記念講演会パンフレット 1992 (稲盛財団)

村上陽一郎編『現代科学論の名著』中公新書 1989

吉田謙二 「ポパー哲学にせまるー批判的合理主義とは」 京都新聞1992年12月13日(朝刊15面)

松永俊男 「カール・ポパーの進化論」生物科学 35 , 89-96

小河原誠 『ポパー』講談社 199

 

追記(2020/03/11)

『未来は開かれている』(思索社 1986)でポパーはカントは純粋ではあったが、「純粋理性批判」で解決不能な問題を提議し、誰にも理解出来ない本を書いたとしてしている。これによってドイツでは「理解しにくさと深い事は同じ」という歴史的な誤解を招き、ヘーゲルはそれを利用した。ポパーによるとヘーゲルは不誠実で、真理を求める哲学者ではなく、感銘を与えようとした俗人であるとこきおろしている。

 

 

ポッパー『自由社会の哲学とその論敵』(武田弘道訳、世界思想社 1973年)

表紙に記入されたカール・ポパーの手書きサイン(1992年京都国際会議場にて)

 


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