福岡伸一さんの「せいめいのはなし」の最後に、
世界をどう見るかでは、大きく言うと二通りあると彼は言っている。
ひとつは世界の成り立ち、宇宙の原則、生命の仕組みの裏には
非常に美しい隠れた秩序があって、明確な摂理や因果関係があるというもの。
アインシュタインや湯川博士はきっとこの立場だったのだろうと思う。
もう一つは世界は止まっておらず、動的なもので、
常に運動しているものだという見方。
秩序に近づくこともあるし、遠ざかることもある。
その運動の中にこそ美しさはあり、
世界の成り立ちの面白さもあるという動的な立場。
彼は後者の立場をとるという。
私はこの二つとも両立するんじゃないのかなぁ、なんて思う。
彼は幾何学的な構造が物事の背後にあるという考え方に純粋化すると、
その生命のずれとか、生物が本来的に持っているという遊びとか、
サボリとか許し、寛容さというものを見失ってしまうのではないかと思うとあった。
「秩序」とか「明確な摂理」とかに対する彼の解釈が、
彼にこんなふうに思わせるのかと生意気にも思ってしまった。
動いているそのこと、寛容さそのこと、許しそのことが、
秩序であり摂理なんじゃないのかなぁと思う。
それはこの上なく優しく美しい柔軟なシステムなんじゃないかな。
人間には見い出されていない理は無数にあるだろうと思う。
システム、仕組みを完全に人間がわかることはないのかと思う。
けれど、生命の動的な多元的なプロセスのひとつひとつはそれなりの必然の動きと思う。
どういう必然なのか何故そうなのか、人間にわからないけど、
たまたまや偶然でどんなことも起こらないと思う。
今の人間から見て、偶然としか思えないだけの話だ。
許しやサボリも偶然では起こらない。
わからないことを偶然と決めてしまってはいけない。
わからないことは無数にあり、それはわかる日が来ないかもしれないけど、
わかっていないということを知っていたら、
偶然だと切り捨てて、それで終わりにする事も出来ないし、
傲慢にも、偏屈にもなれないんじゃないかなぁと思う。
世界をどう見るかでは、大きく言うと二通りあると彼は言っている。
ひとつは世界の成り立ち、宇宙の原則、生命の仕組みの裏には
非常に美しい隠れた秩序があって、明確な摂理や因果関係があるというもの。
アインシュタインや湯川博士はきっとこの立場だったのだろうと思う。
もう一つは世界は止まっておらず、動的なもので、
常に運動しているものだという見方。
秩序に近づくこともあるし、遠ざかることもある。
その運動の中にこそ美しさはあり、
世界の成り立ちの面白さもあるという動的な立場。
彼は後者の立場をとるという。
私はこの二つとも両立するんじゃないのかなぁ、なんて思う。
彼は幾何学的な構造が物事の背後にあるという考え方に純粋化すると、
その生命のずれとか、生物が本来的に持っているという遊びとか、
サボリとか許し、寛容さというものを見失ってしまうのではないかと思うとあった。
「秩序」とか「明確な摂理」とかに対する彼の解釈が、
彼にこんなふうに思わせるのかと生意気にも思ってしまった。
動いているそのこと、寛容さそのこと、許しそのことが、
秩序であり摂理なんじゃないのかなぁと思う。
それはこの上なく優しく美しい柔軟なシステムなんじゃないかな。
人間には見い出されていない理は無数にあるだろうと思う。
システム、仕組みを完全に人間がわかることはないのかと思う。
けれど、生命の動的な多元的なプロセスのひとつひとつはそれなりの必然の動きと思う。
どういう必然なのか何故そうなのか、人間にわからないけど、
たまたまや偶然でどんなことも起こらないと思う。
今の人間から見て、偶然としか思えないだけの話だ。
許しやサボリも偶然では起こらない。
わからないことを偶然と決めてしまってはいけない。
わからないことは無数にあり、それはわかる日が来ないかもしれないけど、
わかっていないということを知っていたら、
偶然だと切り捨てて、それで終わりにする事も出来ないし、
傲慢にも、偏屈にもなれないんじゃないかなぁと思う。