ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

町医者先生

2012-06-30 19:43:04 | テレビを見て
朝の連ドラ「梅ちゃん先生」の梅ちゃん先生は、

人を助けたいと思って医師になろうと決めて、医師になったようだ。

それを聞いた世良公則がやってる町医者がこう言った。

「医者はただそこに居るだけでいい」。

・・そういう感じでやっているらしい。

そういう感じ・・と今書いたけど、どういう感じ・・・?

そのドクターは戦地での経験からそういう感じになったらしい。

どういう経験だったのか、いま、よく憶えていない。真面目に見ていなかった。


医者に限らず、誰でもその場で、

ただそこに居ればいいという存在になれたら・・すごいなぁと思う。

「ただそこに居ればいい」これが難しい。

患者を目の前にして、何の行為もせず、呼吸しているだけじゃ、そうは言わないだろう。

ただそこに居ればいい・・・どんな居方なのか・・・

「ただ、そこに居ればいい」と「そこに居ればいい」の違いを考えるといいかもしれない。

“ただ”があるか、ないかで受け取るニュアンスが違う。

「ただあなたのことを思っているだけなんです」

「あなたのことを思っているだけなんです」・・どう違うか?(これは関係ないけど)

広辞苑で調べてみた。「ただ」とは漢字であらわすと、

『徒 常 只 唯』 とあった。へぇー、そうなのか・・・

意味の中でこれに近いかなと思ったのは、

①何ともないこと。取りたてて言うこともないさま。

③特別な人・事・物でないこと。ふつう。なみ。

自分的には・・一度使ってみたかったこの言葉・・で、考えると・・

ただそこに居ればいい・・というのは

この人を助けようと、特別に顕在意識で思わなくても、

自然と何かしたく“なってしまう”意識の状態で、何かをしてしまう、

そういうだけの存在で居ること・・なんじゃないだろうか。

特別にではなく、自然に。

だから、なんの無理もない。ストレスを感じることもない。

どういう感じ、そういう感じ・・するよ。

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TOTOのトイレのコマーシャル

2012-06-30 18:16:47 | テレビを見て
以前にTOTOのトイレのコマーシャルのことを書いた。(3/28 3/31 burogu)

今はそのコマーシャルを見ることはない。放映されなくなったみたい。

新しいのが出て来た。パパ、ダンディ~♪ ママ、ナントカ~♪とかいう歌詞の歌を

子供が歌ってる。

けど、この歌は短調のちょっと物悲しいメロディのよう。

登場人物も嬉しくも悲しくもない、どっちかというと無表情だ。

こういうのが流行りなんだろうか。

こういう表情にしよう、と決めるんだろうな。

何か考えがあって。・・・どんな考えなんだろう。

こんなにいい製品です(^^)/ ♪と、

ストレートに表現するのはかっこ悪いみたいなのがあるんだろうか・・

わからないけれど・・・

あーいうのを好む人もいるんだろうな。ひとはいろいろだから。

私も好きなコマーシャルがある。

口を開けてるマネキンの男と女と笑っている男児がいろいろ喋る奴。

なんだかアレ大好き。ずーっと見ていたい。

あーいうの好きじゃないという人もきっといるんだろうな。





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「be」フロントライナー ②

2012-06-30 15:45:18 | 新聞を読んで
佐野眞一さんは広津和郎さんの言葉を受けて、こう言っている。

散文精神で書かれる作品は「動詞と名詞だけで書かれる文芸」とも言いかえられる。

形容詞や副詞はほとんど必要ない。

動詞と名詞は時代が変わっても、決して腐らないからなんです。

・・以上。

ノンフィクションに形容詞と副詞は必要ないというのはよくわかる。

散文というのがノンフィクションという作品と

イコールなわけではないのかもしれないけど、

佐野さんがこういうことを引用してるということは、

広津流散文精神がノンフィクションを書くのに役立っている、

ということなのかもしれない。

けど、動詞は腐らないんだろうか・・!?

「走った」という動詞は昔でも現代でも、

人間の身体の動きを表わす動詞だから腐らないと言える。

走った は 走った で、食べた は 食べた だ。

走った は 食べた じゃない。

心を表わす動詞はどうなんだろう・・・

例えば「嫉妬した」「後悔した」「反省した」「蔑んだ」・・

こういう動詞の言葉の意味はその言葉が誕生したときから、変わらないし、

変わらないからこそ使えるわけなんだけど・・・


私は走った Aさんは走った どちらもその事実は見た通りかと思うけど、

私は反省した  Aさんは反省した  これは微妙だ。

「私は反省した」そう表現することは出来るけれども、

実際にその言葉通りかは正確には私しかわからない。

「Aさんは反省した」これも同じことかと思う。

Aさんは反省しているように見えた、反省しているのかと窺えた、

Aさんでない人はこのようにしか表現できないはず。

すると、ノンフィクションでのこういう動詞の使い方としては、

反省したのではないかと自分には見える、ということになるのかな。

勿論、そう表現できるからにはかなりの観察がなければ出来ないことだとは思う。

でも、そうなると、それはノンフィクションではなくなるんだろうか・・?

いや、やはりノンフィクションか・・?



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「be」フロントライナー

2012-06-30 15:38:28 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞の「be」というのの「フロントライナー」に、

佐野眞一さんという人が載っていた。

前にここで引用したことがある「別海から来た女」というのを書いた人。

今朝の記事の中で興味深い文章をみつけた。

作家の広津和郎の「散文精神について」という講演の中の言葉。

どこまでも忍耐強く、執念深く、ただただ淡々と物事を見るべきだというのがその論旨で・・というもの。


(物事を見る)ということは散文を書く為だけにあるんじゃないのは当たり前なんだけど、

散文を書くのは表現の一つで、

そして、表現は文学や絵画や音楽や映画なんかだけじゃなくて、

日常私たちが話し、行為し、行動するのも全部表現だ。

表現とは表に現れるもの。

何が表に出るかって、ひとが物事を見る、その見方が顔や言葉や行為に現われるんじゃないかな。

淡々と物事を見る、それが広津流 散文精神ということになる・・・

淡々とではなく物事を見る、それが・・・なんになる・・・
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