ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「頭いいでしょ」

2012-06-19 16:53:41 | 日々の暮らし・思い出
さっき、台所に夫が来て、「あれっ?!・・なんだ・?・・わざとこうしてるのか」

と、声を上げた。何を言ってるのかと振り返ったら、

(ほの甘い梅漬け)の瓶が斜めになっているのを見ていたのだった。

梅酒を漬けるような広口瓶に漬けているんだけど、

焼酎の量が梅酒よりずっと少ないので梅全部がまだ浸かってなく、

瓶の中に青いまんまの梅がまだ幾つもあるので、

瓶を斜めにして食器棚に寄りかからせていた。

すると青い梅がその液に浸かるのでそうしていたのだった。

夫は何らかの理由でわざとではなく事故的に斜めになっているのじゃないか・・

と思ったよう。

「そう。頭いいでしょ♪」と私。

それに対して夫は、頭がいいかどうかそれはわからないけど、いいアイディアだ・・

というような事を言っていた。

「頭いいでしょ」なんて言葉は自慢のように聞こえがち。けど、

その時の自分を観ても、優越感に浸っているという感じはない。

ひとに対しても「あったまいいね~」なんて言葉を私はよく吐く。

私じゃ考え付かないような発想してることを見ると、

そんなふうによく言う。

ひとに言うのも、自分に言うのも同じ感じ。

夫に考え付かないことを私が考え付いた。

私が考え付かないことを夫が考え付く事もよくある。

いいアイディアを生み出す頭は悪くない、誰の頭のことでも一緒だ。

そんな感じなんだけど。


「頭いいでしょ♪」 という言葉を聞いて、

なんじゃ!というような反発反応とか、

えーっ?そんな自慢しちゃって・・という反応とか、

その成り立ちは???

その(考えついた考え)をその人個人のものと捉えているからなんじゃないかな・・

誰でも人間なら考える、というのをするけど、

浮かんだ考えも考え付いた考えも、

それが生まれた成り立ちを観ると、無数の情報やら、たくさんの人の考えやら、

学校での教育やら、そういうのと自分の受け取りとの共鳴現象なんじゃないか。

事実は合作なんじゃないか。


なんじゃ!と反発するのは、自分の頭がよくないと言われているように

解釈するからなんじゃないかな。

自分の頭の方がいいんだぞ・・・っていう内心が見える。

えーっ!?そんな自慢しちゃって・・というのは

自分のことをいいように言ってはいけない、というシツケを受けてるから、

そのルールに反することしちゃっていいの・・みたいな感じかな。

そんなふうに見えるけどどうかな・・・



ガラス瓶の紫陽花 

2012-06-19 13:18:27 | ひとの幸福
テーブルに飾ってあったアジサイがしぼんで来たので、

さっき庭から違うのを切って来て、それを又ガラス瓶に挿した。

しぼんで来たアジサイが在る。

それを、あぁ、しぼんで来たなぁと受容する。

「なんでしぼんだんだよー」と文句つける人はあまり居ないだろう。

花は時間が経つとしぼむというプロセスが在ることを知っているからだろう。

それを知らない小さな子供は「なんでしぼんじゃったの?」と思うこともあるかもしれない。


「在るがままでいい」の「在るがまま」という言葉は、

存在がプロセスを経て今そうなっている状態 のことを言うのかと思う。

そのしぼんだアジサイは在るがまま。

しぼんでないアジサイも在るがまま。

庭に咲いてるアジサイも在るがまま。


「在るがままでいい」という言葉は、

その事実、存在の状態についての認識を表わしている言葉と思う。

境地。認識の状態を表わしているのかと思う。

この、「いい」とは善悪の「良い」という判断ではなく、

事実=認識・・みたいなニュアンスなんだろうか。

うん、そうなんだね・・みたいな・・

受け入れる、受容する、そんな感じか・・

対象を「在るがままでいいよ」と捉える境地は、

対象がどのような状態だろうと変わらない。

対象である存在、アジサイは開いたり、しぼんだり、汚く色あせたり、そういう状態になるもの。

止まっていないもの。動き続けているもの。

どの瞬間も在るがままでいいよ。

言葉として「そのままでいいよ」という似たようなものがあるけど、

「そのまま」というと止まっているもののようなニュアンスも感じるので、やはり

境地を表現するには「在るがままでいいよ」という言葉の方が相応しいのかと思う。

在る とは 存在のことで、

どんな存在も止まっているということはないからね~

目には止まっているように見えるこのテーブルも動き続けている。

母に買ってもらってからもう10年以上経つけど、

ずいぶん傷も付いたし、いつかは朽ちてしまうだろうし。


動き続けるものである意識も在るがまま。

そうなるプロセスが在るのでそうなるのはアジサイと一緒だ。

在るがままのものを在るがままと見るのは当たり前・・

嘘をつきたくなる、誤魔化したくなる、のも在るがまま。

否定しても始まらない。

在るものを否定するのは無理がある。




嘘つき?

2012-06-19 11:25:21 | ひとの幸福
子供が宿題してないのに、「宿題もうやったよ」と嘘をつくのは、

嘘を言って親を困らせようとか、

その子が既に嘘つきな不正直な子供だからじゃない。

その日その場で嘘をつきたくなるようになっただけ。そう思う。

「なった」という表現は本当に凄いと思ってしまう。

なったのはそうなるようなプロセスが在ったから。

勿論いろんな場合があるだろう。

親にいくら宿題をしてないと、ど突かれても、屁の河童で居る子供も世の中には居る。

それはその子供が努力してそうしているわけじゃない。

自然とそうしてしまうのだろう。

ど突かれるのがイヤで嘘をついてしまうのも、同じく自然としてしまうのだろう。

努力しないで屁の河童で居られる子供のそうなったプロセスは、

その子がこの世に存在する以前のプロセスも大いに関係あるのかと思う。

謂わば、生まれつきというようなものも。

ど突かれて嘘をついてしまうというのも、生まれつきが全然ないとは言えないのか・・

嘘つきという生まれつきじゃなく、

怒られ、責められて不愉快になるのがイヤだと思う、その尺度が高い、という生まれつき・・とか・・・

・・考え付くままに考えて書いたけど、

ようするに、今までの全部の時空のプロセスを経て、そうなった・・ということなんじゃないかと、

まぁ、思っているわけで。

物も事も何もかもが誰のものでもない。

物・事の成り立ちを観てみるとそういうことになるのではないかと・・・

黙殺?? ⑤

2012-06-19 10:42:25 | 新聞を読んで
昨日の朝日新聞の記事についての奴で、

こういうのは善意的過ぎるというような感想もあるのかもしれないなぁと思った。

実際、文科省の次長の、公表すればよかったと今は思うのですが・・

・・その発想がその時なかった・・

という発言や原発保安院の言葉を、記者は(黙殺)と捉えたんだろうけど、

実際、黙殺であったのか、そうじゃなかったのか、はどうでもいい。

例えば、その次長が公表しないことにしよう、黙殺しよう、

と去年の3月のその時点で思ったとして、

嘘を言おうと決めた、その意識の状態がその人のその時の在るがままの意識状態だ。

嘘を言いたくなる、ということが起こるのは、

それ以前の無数の経験を経て、その人に瞬時に現われる平衡状態と言える。

嘘を言いたいその事をしたくて言うんじゃない、と思う。

こう言った方が自分が痛めつけられないで済む・・・

それを実現したくて瞬時にそう言ってしまう、ということかと思う。

この感情は当たり前と思う。

それまでの時空全体でそうなって来ている、嘘を言いたくなる、その気持ちが、

自分一人で創って来たものではない、

と心の奥深くでひとは知っている。

共に創って来たんだ、一部である自分だけ責めないでくれ・・・

そんな悲鳴のようなものが嘘をつくという現象に現われているんだと思う。

謂わば、その行為は誰のものでもない。

その人も含め人類の時空全体で共に創った行為だ。

まぁ、全ての現象がそうなんだけど、

そのようになっている現象を、どう捉えるのか、

それがそれ以後の展開に繋がる。

(黙殺)と捉え、その個人、組織を犯人扱いし、とっちめる。

それも一つの方法ではあると思う。

今までそうしてこの世界を創って来た私たちだ。

身体の一部が不調になり、それを犯人扱いして取り除くという今の医学と同じだ。

(捉え)という意識がそのような行動を起こすのだから、

いろいろな場面で同じような現象が生まれるのは当然。

その現象をどう捉えるのかで、現象は変わって来る。

全ての現象に言えること。