「ひとがどう思うだろうか」・・これは自分が主体だけど、ひとも主体。
ひとがどう思うかを自分が思っている。
「ひとからどう思われるだろう」・・これは自分が受身。他者だけが主体。
自分がどう思われるか、を自分で思っているのだけれど。
この二つはだいぶ違う。正反対の気がする。
例えば誰かにプレゼントしたいと思って、アレコレ考える。
これにしようか、あれにしようか。
あの人はこういうのが好みなんじゃないかな・・・と
あの人がどう思うかを推測して、あの人にとってよいようにと考える。
こういうのは気持ちが不愉快・不安定にならない。
誰かにプレゼントしようとアレコレ考える。
これにしようか、あれにしようか。
こんなのあげたら、趣味悪いって思われるんじゃないか、
こんなのあげたら、ケチったって思われるんじゃないか・・・と
自分がどう思われるか、に気持ちの重さが傾いて、
プレゼントを受け取るのは相手なんだけど、その相手のことはあまり考えてない。
どう思われるか、というのは受身。
自分の意識の中で、主体が相手になってしまうということは、
本来、自分の意志は自分が主体のはずなのに相手が主体になるのは、
ストレス状態になって当たり前だ。
それが悪いと言ってるんじゃない。ただ疲れるし、不自然。
けれど、そんなふうにしたくてしてるんじゃない。
いつの間にかそうなっている・・・
ひとがどう思うかを自分が思っている。
「ひとからどう思われるだろう」・・これは自分が受身。他者だけが主体。
自分がどう思われるか、を自分で思っているのだけれど。
この二つはだいぶ違う。正反対の気がする。
例えば誰かにプレゼントしたいと思って、アレコレ考える。
これにしようか、あれにしようか。
あの人はこういうのが好みなんじゃないかな・・・と
あの人がどう思うかを推測して、あの人にとってよいようにと考える。
こういうのは気持ちが不愉快・不安定にならない。
誰かにプレゼントしようとアレコレ考える。
これにしようか、あれにしようか。
こんなのあげたら、趣味悪いって思われるんじゃないか、
こんなのあげたら、ケチったって思われるんじゃないか・・・と
自分がどう思われるか、に気持ちの重さが傾いて、
プレゼントを受け取るのは相手なんだけど、その相手のことはあまり考えてない。
どう思われるか、というのは受身。
自分の意識の中で、主体が相手になってしまうということは、
本来、自分の意志は自分が主体のはずなのに相手が主体になるのは、
ストレス状態になって当たり前だ。
それが悪いと言ってるんじゃない。ただ疲れるし、不自然。
けれど、そんなふうにしたくてしてるんじゃない。
いつの間にかそうなっている・・・