ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

部分と全体

2012-06-28 17:04:06 | ひとの幸福
「まだ、わからないので・・」で書いた、リンゴという現象。

リンゴの花が咲き、それが実り、出荷され、

買われ、冷蔵庫に入れられ、酸化が進み、一部腐り、ごみ焼却場に行き・・・

あるいは食べられ、人体の一部になり・・・

というような流れているリンゴ現象のプロセスに在る一時期のリンゴ現象を、

「このリンゴ」と呼んでいる。

リンゴ現象なんて普通言わない。そのリンゴは止まっているように見えるから。

そう、人間は(このリンゴ)として止まっていると見えるものを見ている。

人間の目ではなく、電子顕微鏡という目で見たら動いているけど、

人間の視力では無理。どう見たって止まってる。

野球のバッターが時速150キロの速さで来た玉を打てるのは、

私なんかよりずっと動体視力がいいということらしい。

そういう視覚能力の問題もあるし、

リンゴ現象というリンゴの変化(種から・花・・実になり・・店屋・・冷蔵庫・・)という動きを、

今という瞬間に捉えないから、(このリンゴ)と言う。

(リンゴ現象の一時期のたった今のリンゴ現象)なんて、言わない。

そう、時間に表わされる動き、流れの1部分しか私たちは今、ここで見られない。

時間的にも空間的にも部分的なものを観ている。

でも、それがわかっていれば、部分だけを見て、

それをあーだこーだ言うことは減るのかもしれない。

どうなんだろう・・・









まだわからない ③

2012-06-28 16:41:05 | 本を読んで
情報は止まっているので、本を読む、ということが出来る。

その本を読む度に言葉が変わってしまっていたら、

読んでわかるということにならない。わけがわからない。

困ってしまう。読めない。小説にも論文にもならない。

養老先生の対談での発言がどういうことなのか、わからない・・という現象が

わたしに起こると、

わかりたいと思って、何度も読んだり、他のページを読んだりする。

いつ開いても141ページは141ページだし、

同じ活字が並んでいるし、情報は止まっているので、

それを読み、考えられる。

本の活字と違って話し言葉はすぐに消えてしまう。

話した当人ですら忘れてしまうこともある。

話す方も聞く方も動いている最中なので瞬時に言葉は消える。

聞いた方も確か相手はそう言ったなぁ・・程度なのかもしれない。

テレビのバラエティなんか見ていると、発言にだいたいはすぐ反応している感じ。

相手が何を云っているのか、を聞くより早く反応しているみたい。

ネットで養老先生はめちゃくちゃ言われてると福岡先生が本で言ってたけど、

養老先生の言葉は私なんかにはすぐにわからないものも多い。

すぐごっくんと飲み込めない文章が多い。

何を云っているのだろう?とじっくり読まなきゃ読めない。

その言葉がわかるという感じで読めるのは、さっきも書いたけど、

書いた人のその意識の在りようを在りのまま受け取ることだ。

その言葉を発した時の著者になるくらいの意識になったときに、

あ、そうなのかとわかるのかと思う。

言葉は意識だから。

ネットでめちゃくちゃ言われているそうだけど、

何をそんなに言われるのだろう?と不思議に思う。

会っての感想なのかしらん。

本自体はひどく非難されるような文章は無いと感じる。

いろいろ言う人は本当に読んでいるのかなぁ。

顔が気にいらないとか、そんなのもあるのかな。


そうそう、話し言葉のことを書いていたんだっけ。

話し言葉はすぐに消えてしまう。

意識は流れだから、川のようにどんどん流れて行く。

意識は止まったものしかとらえられない、と養老先生が言ったけど、

話し言葉に関しては、止まらず流れているから、

パッパッと反応してしまうだけのことが多いのかもしれない。

それに止まった文章なら、その言葉の前後や本の全体からも読み取るのに必要な情報はある。

前のページに戻ったり、後ろのページに何度も行ったりして、

全体が見える。そういう発言になったプロセスも感じられたりする。

謂わば低速思考で読もうと思えば本は読める。

止まらないで流れている話し言葉は、

その瞬間をまるで止まっているもののように、

スローモーションで見られるような意識、観察力があれば、

反応ではなく、(聴くこと)が出来るのかもしれない。

その在りのままをわかりたいとなっていて、聴くなら、

自分が口を挟む暇なんかないのかもしれない。

ひとの意識は一瞬という時に二つのことは出来ないのだから。

すぐ反応する、ということは聴いてない・・ということなんだな。

まだわからない…② 

2012-06-28 14:57:32 | 本を読んで
「視覚というのは基本的に時間を止めてしまいます。

写真を思い浮かべればわかりやすい。

でも、聴覚は運動の一種だからそうじゃない。」・・・養老先生。

・・141ページの続きにこれがある。


この続きも非常に面白い。

昨日のテレビ、「ためしてガッテン」と同じことを云っているんじゃないかな。

目からの情報は大脳に入り、耳からの情報は小脳に直接入る。

リズムで子供は跳び箱を跳べるようになった。

リズムという流れ、タンタンタン、トッヒュッ というリズムの流れ、

動きという現象をキャッチしているのか・・小脳は。

止まったものは大脳がとらえ、

動いている音、リズムは小脳が捉える。

養老先生は「唯脳論」を書いた。読んだけど、内容はすっかり忘れた。

池田晶子さんの文章の中で、

(唯脳論と、養老先生は脳と表現しているけど、

あれは「意識」と読めばいいのか・・)みたいなのがあったような記憶がある。

意識というものを物理的動きへと変換する装置が脳なのかと私は思っているんだけど、

そういう意味で、大脳と小脳の働きの違いという知識は、

五感と意識の関係を明らかにするのに、役立つものなんだろうと思った。

えーっと・・

養老先生の発言の一部がいくらかはわかったんだろうか・・・わたし。

人の言葉を読むというのは、その人になるくらいまで意識が行かないと、

読んだとはいえないのかもしれない。

あの青い本も意識が山岸さんになるくらいまで読まないと、わかることはないんだろうな。


まだわからないので・・・

2012-06-28 14:20:50 | 本を読んで
「せいめいのはなし」の中の141ページ、養老先生の発言の、

「どうして脳が秩序を持ちたがるのか前から不思議に思っていました。

しつこいんだけど、どうして意識は止まった物(ここでは漢字の“物”になっている)しか扱わないんだろうか。

情報のことを問題にし始めた以来いつも思うことです。

意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。

ランダムでも秩序的でもいいんですが、

世界があって意識はそれをとらえる。

そのとらえ方として、止まっているもの(ここではひらがなの“もの”になっている)しか扱えないから、

動的平衡の平衡状態を拾うようになっている。

進化的にいえば、そのほうが合理的です。

平衡状態になったらすぐに意識が拾う。

でも、平衡にしてしまうと時間の問題が消えちゃうんですよね。」

そしてそれに福岡先生は「そうなんです。そこなんです。」と返している。


養老先生もしつこいんだろうけど、私もしつこいな。

いや、ここで何を云っているのか、超知りたいのでどうしてもそうなる。

「意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。」

・・このことは、現象としての世界・起こっている現象のとらえ方として、

意識は、それを止まっているものとして捉えている・・ということだろうか?

・・・・・

リンゴの花が咲き、それが実り、出荷され、

買われ、冷蔵庫に入れられ、酸化が進み、一部腐り、ごみ焼却場に行き・・・

あるいは食べられ、人体の一部になり・・・

というような流れているリンゴ現象のプロセスに在る一時期のリンゴ現象を、

口に入れ、意識が「腐ったリンゴ」とそれを(止まったもの)にしている、

その意識のことを「意識は起こっている現象自体を扱えない」と表現しているんだろうか・・???

起こっている現象の“その時の状態”謂わば通過地点を人は捉え、言葉にする、

それは止まっている・・・

そういうことか・・・!

目の前にある一つのリンゴをリンゴ現象、起こっている現象の1地点、

なんて思う人は日常居ないと思う。

ひとは自分を産んでくれたらしい人を「お母さん」と呼んでいる。

それはそう捉えているということだ。

お母さん自体は生物学的には常に変化し続けているけど、

意識は止まったものしか扱えないので、

いつも同じ「お母さん」という言葉を使うことになる。

いちいち「生まれて54才5ヵ月23日経ってる人であるお母さん」とか、

翌日には「54才5ヵ月24日目のお母さん」なんて意識しない。

「昨日とは別人のお母さん」なんて意識しない・・・

意識しないというより意識できない。そうと扱えない。

そう、養老先生は云っているんだろうか?

こんな話はおかしいか???

続く・・・