ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

在る と 無い③

2012-06-04 20:18:39 | ひとの幸福
よく死んだら無だ、とかいうのも聞くけど、

その人がそう考えるところの「無」は、どんなものなんだろう。

人は死を恐がるけど、「無いもの」だったら恐くもなんともないはずなのに、

「無いもの」があることが恐い・・・

無くなると恐いものって他に何かあるかな?

例えば家の鍵、なくなったら開けられない、閉められない、

すると泥棒に入られるかもしれない・・

家とか財産とか家族とか、無くなると恐い・・

無くなったら生活できない・・ので恐い・・

それと同じような心理で恐く思うのか?

実際に無くなってから恐がるというより、(なくなると思う)ので恐い・・

こういうことかな。

そうか、だから死の不安という言葉があるわけだ。

何をいまさら、と言われそう。

不安と恐怖はセットなので、

このままの生きている状態がなくなるのが恐い・・・

こういう姿で生きていることがずっと続いていればいいと思う・・・

こういう感じかと思う。固定を願っている。

生命の本質は流れていることだし、そういうのは無理なんだということを、

心底納得出来ないうちは不安に駆られるのか・・・

諦めが肝心ということになるのかな。

ホント、諦めが肝心。

まっ、いいか。この言葉はいいなぁ。

死ぬときに「まっ、いいか」って死ねるかなぁ!?








在る と 無い②

2012-06-04 19:23:15 | 本を読んで
ある に対し あらない という言葉は無い。

当たり前みたいに、ある の反対語は 無い というけど。

言う 言わない、いる いない、聞く 聞かない、

歩く 歩かない、 なんかと違って、

ある の反対は あらない とは言わない。

無い と言う。

生きる に対し 生きない ・・という言葉が無いのと同じなのかな。

生きる と 生きない(死ぬ?)

ある と あらない(無い?)

生きない も あらない も言葉として不自然に感じるのは、

通常使わない言葉だからだろうけど、

在るものは 在るということ以外ないから、

私たちの言葉、日本語もそうなのかもしれない・・なんて思う。

物質的に見ても、今この世に物として形ある在るものは、みな、

この地球が生まれた時から、在るものが変化して来たものなんだろうな。

宇宙人が持って来たのでなければ。

福岡伸一さんの「せいめいのはなし」のなかでも、

地球の原子の総量は変わらない。原子はグルグル回っている。

あるときは身体の一部で、あるときはテントウムシの分子、

あるときはそれが土の中でミミズになる。それが海の藻屑になったり、

鍾乳洞の岩の一部になったりする・・というのがあった。

「生きない」という言葉がないのは、

それが在り得ないこと、だからなんじゃないかな。

動かなくなって人の目には死んだかに見えても、

死んでも生きている、とも言っていいかな。

在る と 無い

2012-06-04 17:12:58 | ひとの幸福
1を半分に割ると2分の1になり、

それをまた半分にすると4分の1になり・・

それを又・・・8分の1になり・・

ずーーーっっと半分にし続けると・・・

永遠にそれをやっても分数でいう分子はゼロにはならない・・・!

1が0になることは無い。


ということは・・・在る ものは 無くなることが出来ない・・

・・・と言える。

偶然 の 意味

2012-06-04 15:34:44 | 本を読んで
歩行者の頭に瓦が落ちてくる場合のように、

ある方向に進む因果系列に対して、別の因果系列が交錯してくる場合。

一般に必然な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、

人間の認識の不完全さのために常に偶然的事件が起こる。

・・・そうそうこれだよ、と思った。

この文章は広辞苑の「偶然」を引いて見たもの。


「せいめいのはなし」の養老さんと福岡伸一さんの対談の中で出てくる話で、

「平衡が次にどのような平衡状態に遷移するのかは偶然に過ぎない。

ドミノ倒しのような因果律的思考は動的平衡の考え方の対極にある。」と、

福岡先生が言っている。


ドミノ倒し云々の話で言っているのは、

種を蒔いて芽が出たのは種を蒔いたことが原因とは言えない・・

土、光、水、空気。そのようないろいろな現象があったことで、

その時その時の動的平衡状態が(芽が出た)という平衡状態に繋がった。

・・・と、こういうような主旨の事を福岡先生は言っているんじゃないかと思う。

けれど、「平衡がどのような平衡状態に遷移するかは偶然に過ぎない」

・・これはどうなんだろう?というのが私にはある。

勿論言葉というものは認識に過ぎない、ということから、

彼が「偶然である」と認識しているのだろうというのはよくわかる。

それを否定する気なんてない。

ある日ある場所で種を蒔いた。いや、種が飛んで来た、でもいい。

土や日光の差し具合や雨、気温、湿度・・・

それぞれが全て繋がってそれぞれのある日ある時、種に作用した・・・

いろいろなそこに生じている現象のプロセスが交錯した。

交差しながら芽が出た。

どの瞬間も止まっていない。流れている。

原因も結果も止まっていない。

そこに偶然は一つもないんじゃないかなぁ。

どのようにそれぞれのプロセスが交錯したかは人間にはわからなくても。

「因果」という言葉も一つの原因が一つの結果を招いたというふうには

捉えてないけど、

偶然ではない・・ということをしつこく私は言っているんだね~

偶然と思う人がいたって、全然構わないのは勿論だからこそ、

こうして屁の河童で書いてるんだけど。


すきなこと・夢

2012-06-04 13:34:35 | 日々の暮らし・思い出
頼まれていた結構大きなトートバッグを縫った。

ミシンを出すのも面倒だし、ちくちく縫う手縫いなんだけど、

ファスナーも無いデザインなので、

芯地裏地と付けたけど割りとスムースに行った。

こんな感じと描いて、そうなるように作る。

昨日渡したところ、喜んでくれたみたい。

前に作って渡した時の表情と全然違ったので、よかったぁと思った。

久しぶりに縫い針を持ったんだけど、こうして作ると、

次に何かやりたくなる。

やりたい時にやる手芸は楽しい、面白い。

娘のセーター、冬が終わったのにまだ片袖が編み終えてない。

ゲージも計って編み始めても全体ではその通りの寸法になりそうもなく、

減らし目も増やし目も適当に計算しなおして、やり直し。

何度か編んではほどいたので、糸も少々疲れ気味かも。

あまり暑くならないうちに作り上げようと思ってる。

何かを作るというのは面白い。

けど、今、料理は・・・あまり面白いという感じにならない。

いやじゃないけど、出来ればどなたかが作ってくれたものを食べるのがいい。

中国は朝ご飯を屋台の店で食べるのが当たり前と聞いたことがあるけど、いいなぁ。

近くに安くて美味しい店とか、料理好きな人がどうぞと言ってくれれば、

食事はそこで頂くというのが夢。

ここの地は過疎化まっしぐらな僻地だし、そういう人も傍にいないし、

今のところ無理。

夢はかなえるもの・・・いつか叶うかな・・

でもその頃は料理するのが楽しみになったとか、

そんなことがないこともない・・・???

・・・でもなさそう・・・